トーキング・マイノリティ

読書、歴史、映画の話を主に書き綴る電子随想

連休中の更新休止のお知らせ

2013-04-30 21:10:20 | 私的関連

 GWとなりました。今日は全国的に雨天でしたが、GWの後半は好天に恵まれるようです。連休を皆様方はいかが過ごされるのでしょうか?

 2~3週間前だったか、昼時のNHKラジオ第一放送で郷ひろみの歌『花とみつばち』がかけられていました。本当に懐かしかった。この曲がリリースされた1974年3月当時、私はまだ小学生でした。郷ひろみは私にとって初のアイドルであり、初めて買ったシングルレコードも彼の『愛への出発(スタート)』だったと思います。当時の私は郷ひろみに夢中、彼のポスターをハレパネに張り付けて部屋に飾り、彼の笑顔を見ては満足していたほど。『花とみつばち』の歌詞を紹介しているサイトもあり、歌詞の1番だけを挙げると…

どうでもいいけど 帰るのいるの 夜明けだよ まぶしいのは裸の胸さ
どうでもいいけど そばへおいでよ 今夜まで 憶えておこう 赤い唇
君と僕のふたりが 覚えたての蜜の味 指を固く絡ませ 背中に口づけ
僕達ふたりは 春咲く花とみつばちさ 肩の上にとまっていたい

 この歌を私は学校でも歌っていました。まだ小学生だった当時でも、“裸の胸”の歌詞からちょっとHなところがあるのは分かりましたが、男女2人が夜明けまで共に過ごして何をしているか、分かるはずもありません。このような歌を校内で歌っていたのだから、真に無邪気でした。



 この歌に限らず70年代のアイドルの歌謡曲には、今にしてみれば結構過激な内容もありました。同年夏のヒット曲『ひと夏の体験』など、「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」で始まり、「誰でも1度だけ体験するのよ、誘惑の甘い罠」で終わる。PТAが問題にしたのは当然でしょう。
“女の子の一番大切なもの”が何を意味するのか、これまた分からず、従姉とそれについて話したことがあります。女の子の一番大切なものとは心だろう…という結論になりましたが、今なら中学生でも性的意味合いが濃いのを見抜いたはず。70年代の十代はまだ純情だったのです。



 半世紀近くも生きていると、子供時代に親しんだ歌を久しぶりに耳にすると、当時をとても懐かしく思うようになります。まだ無垢で性的なニュアンスなどまるで知らなかった頃。現実はユーミンの歌「あの日にかえりたい」とはいかず、昔を懐かしむのが関の山。



 ただ、昔の映像が見られ、青春時代に人気を集めたミュージシャンのファン同士のオフ会の知らせもあるのはネットの便利さです。連休になるとオフ会を行うグループもあり、私も参加を考えたこともあります。ネットが縁でファン同士が交流できるのも、70年代なら考えられなかったことでしょう。これも文明の利器ゆえです。

 明日5月1~6日までの6日間、こちらのブログ更新を休ませて頂きます。その間、まず来ないと思われますが、コメントやTBへの返信は遅れますので、何卒よろしくお願い致します。5月7日からまたブログを再開する予定なので、今後ともご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

 どうぞ、健やかでよき連休をお過ごし下さい。連休後、またお会いしましょう!

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8 コメント

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仙台の異景 (のらくろ)
2013-05-05 23:07:19
4月30日~5月2日休暇を貰いまして、4月26日名古屋に帰省。以後ずっと名古屋で過ごして、昨夜名古屋発の夜行バスにて今朝仙台に戻って参りました。

そういうわけで、クルマが手に入ってからの仙台はまだ10日足らずなのですが、クルマが使えなかった頃からの仙台にやってきてからの「違和感」を並べ立てたいと思います。

まずは、仙台市営バス。「仙台駅前」と案内しておきながら、着地は駅前といえるような場所ではない。私は借家の関係で、駅には西側からアプローチすることになるが、極端な例は「仙台駅」と言っておきながら、降車地点はJRセンセキ線(仙石線-仙台石巻線)のあおば通駅前だったりする。もう少し仙台駅の近くまで寄ってもらえないのか。仙台人はよく我慢しているなと感心する。

次も仙台市営バスの話。最新型車両では見かけないが、少し年季の入った車両は最後列の真ん中になぜか固定式の肘掛(アームレスト)がある。これは明らかに最後列の5人目の着席を妨げるシロモノで、みすみす座席定員を1人減らすとはどういう神経なのか。そのくせ「バスが止まってから席をお立ちください」だ。

とはいっても、こんな話はこれから述べる、タイトルの「異景」に比べれば大した話ではない。ブログ主様御用達の岡田屋南吉成(正確には中山)店のすぐ西に、巨大な観音像がおわす。すでにランドマークにもなっていて、「仙台大観音」というらしい。

私が最初に見たのは、夜の岡田屋中山店に出向いたときだが、この店、店舗棟が3棟に分かれるという「岡田屋」でも珍しい配置をしており、私が最初に訪れた棟は食品売り場がなく、同売場のある棟へ移動しようとしてふと見つけたのが航空障害灯がチカチカする巨大観音像だった。wikiによれば、「身の丈92m、台座を含めると地上100mであるが、100という数字は1989年(平成元年)4月1日に政令指定都市に移行した仙台市が同時に市制100周年を迎えたことに因んでいる。また、21世紀の繁栄を願って、地下方向にも21mの深さにまで掘られている」のだとか。

しかし、この手の観音像(立位)が山や丘の上にましますという光景は、いくつかの転勤先やそこへの経路で見たことはあるが、ここ仙台では住宅密集地、しかもロードサイド店の密集する幹線道路のすぐ近くに立っているのがどう考えても「異」様な光「景」。アナログ放送時代は電波障害も引き起こしたそうで、建立当時はそこそ集客もあったそうだが、現在は往時ほどではなく、年に数回のイベント時にしか集客はないとのこと。

岡田屋中山店の周辺は、21時まで営業のホームセンター「ホーマック」や、家電量販店の「ヤマダ」に「K’s」
、カー用品店の「自動後退」や「黄帽子」など、私にとって贔屓にしたい店が軒を連ねているので、山一つ越えて広瀬川の向こうからちょくちょく訪れているのだが、そのたびにこの巨大観音像がいやでも視界に入ってきてげんなりしているところ。地元民はどういうお考えなのか伺いたいところである。
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ダニエル・イノウエ (室長)
2013-05-06 09:33:14
こんにちは、
 実は最近、偶然に、ダニエル・イノウエ関連で非常に網羅的に、ハワイの日系人の歴史、その意義、などに関して書かれた論文を見つけました。
 そこで、小生が先に書いた「物故者への哀悼」というブログ記事に、昨日追記欄を最後に追加して、この論文ブログアドレスを紹介しておきました。
 もし、お暇があれば、お読みください。
http://79909040.at.webry.info/201301/article_4.html

引退者の小生には関係ないけど、いよいよ連休も終わり、mugiさんには、忙しい日々が始まることでしょう。ご自愛ください。
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RE:仙台の異景 (mugi)
2013-05-06 11:47:33
>のらくろ さん、

 昨日朝に名古屋から仙台に戻られましたか。昔は寝台列車がありましたが、今は夜行バスで便利になりました。

 実は仙台市営バスへの「違和感」、貴方と同じく仙台市民も感じています。「仙台駅前」と銘打っていて、遥か前に停車する。これでは「駅前」とは呼べない。宮城交通バスは市営バスよりも駅前に近く停車しますが、赤字だし本数が不足している!市営バスも市の補助金で成り立っている有様。不満が出ていても、とかく市営は殿様商売なのです。

 私行きつけの「岡田屋中山店」は店舗棟が3棟に分かれていますが、やはり岡田屋では珍しい配置でしたか。同じ宮城県でも他の岡田屋ではショッピングモール式に店舗棟は統一されています。2年ほど前だったか、岡田屋中山店の店舗棟が2棟で、これまた別れた構造でした。現代の3棟目のライフ館はかつてホームセンターのあった所で、岡田屋が買収したのです。

 地元民も実は仙台の“異景”には閉口しています。「金儲け観音」「成金趣味」等とかく悪評。これを建てた業者は左前になり、夜逃げしたという噂までありますし、集客もないため御利益がなかったのは確か。
 岡田屋中山店に行く際だけでなく、私の家の2階からも常に巨大観音像が見えるため、私もうんざりしてます。仙台の何処からもこの悪趣味な観音像が見えるし、げんなりしている地元民も多いはず。
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RE:ダニエル・イノウエ (mugi)
2013-05-06 11:48:22
>こんにちは、室長さん。

 紹介された記事「物故者への哀悼」ですが、既に見ており2013/01/13付でコメントをしています。

 ついに連休最終日となりました。悠々自適世代の室長さんでも、健康は第一ですので、どうぞご自愛ください。
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別人の記事です (室長)
2013-05-07 13:16:18
こんにちは、
 小生の記事ではなく、別人の記事をご紹介したのです。
小生の記事への、追記としても紹介したのですが、その記事は下記でご覧いただけます。

http://www.kasumigasekikai.or.jp/zuisou.html
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RE:別人の記事です (mugi)
2013-05-07 22:04:06
>こんばんは、室長さん。

 先にリンクされたのは室長さん自身の記事「物故者への哀悼」でしたが、改めて見たら5月5日付で追記がありましたね。見逃してしまい、失礼致しました。霞関会という一般社団法人名も初耳ですが、実に興味深い内容でした。

 同じ日系人でもハワイ出身と米本土ではお互い仲は良くなかった上、喧嘩になると決まって前者が勝ったとは。また戦前のハワイの日系人数は、20万人まで増加したことを初めて知りました。
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日系人人口 (室長)
2013-05-08 08:40:54
こんにちは、
 小生、古い記事でも、気が付くと、時折「追記」する方式で改訂しています。

 ハワイの戦前の日系人人口が20万人で、地元住民の5割を超えていたと言います。米軍、FBIなども、ハワイでの労働力を確保するためには、働き者の日系人の協力が欠かせず、FBI(時にはCIAも)にレクルートした当時の日系人の若者を通じて、日本人、日系人を監視しながら、利用することとしました。80年代初頭州知事だったジョージ・アリヨシも、戦争中にFBI要員として活躍し、その功績で戦後本土の大学で勉強できたのです。ハワイ州最高裁判所裁判長だった人(名前は忘れた)も、FBI要員として、日系人を細かく観察し、FBIに報告していたと、自ら言っていました。同人も、FBIへの功績で、戦後本土の大学に勉学できました。

 戦後は、あまり日系人の人数は伸びず(おそらく2世、3世の米国本土への移住も多かったから)、小生が滞在した1980年代初頭で23万人程度だったと思う。ハワイ人口に占める比率でも、日系人は2割程度に低下して、中国系、韓国系、ベトナム人なども増えていたし、サモア人なども増えていました。
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RE:日系人人口 (mugi)
2013-05-09 21:23:40
>こんばんは、室長さん。

 先にリンクされた「ダニエル・イノウエ米陸軍大尉とその仲間たち」の中でも、カラカウア王が訪日時にサトウキビ農場の労働力不足解消のため日本人をハワイに大量に移住させる提案を行ったことが載っていました。日本政府とハワイ政府との間に移民に関する協定が締結され、「官約」に基づいて1885年から10年間で約3万人の「選ばれた」日本人がハワイに移住したとか。これでは戦前までに人口20万人に増加したのは当然でしょう。

 私が興味深いと感じたのは、本土の強制収容所に送られた約1800名のハワイの日系人の殆どが、仏教や神道などの宗教関係者だったという点です。これがクリスチャンならば、まず大丈夫だったばす。やはり異教徒は信用しない。宗派はともかく出世したハワイの日系人で、FBIやCIAに協力しない者はいないかも。
 ダニエル・イノウエのインタビューも重いものがあります。「上院でスピーチをしたときのことだ。私が話し出すと、誰かが足で床を踏み鳴らすんだ…」

 米国のために片腕を失っても、米国の人権意識など所詮この程度とは…悪く言えば「忠犬」でなければ、米国に居場所はない。
 それにしても、ハワイにサモア人も増えてきたのですか?サモア人についてはよく知りませんが、中韓系やベトナム系移民はハワイでどう振る舞うのでしょう。
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