よく日本は個を認めない社会と言われる。確かに島国という地政学的な環境もあり、皆に歩調を合わせるという横並び志向が日本人に異様に強いのは否めず、スタンドプレーよりも控え目が求められる。その点では確かに日本は「個を認めない社会」だが、これは日本に特異なものだろうか。そもそも、個を認める社会など世界全般からすれば、欧米のごく一部に過ぎないのではないか?
日本社会の集団性や没個性を非難する文化人は、殆どと言ってよいほど比較対象は欧米、殊に後者なのだ。日米比較文化論を試みるのは結構だが、アメリカは歴史の極めて浅い移民国家であり、伝統社会のしがらみも薄いという、むしろ世界では稀なケースである。しかも、キリスト教国家で、根本的に国家原理も違う。比較対象として取り上げるなら、欧州の方が相応しいと私は思う。
欧州でも西欧と東欧、北欧と南欧では、同じ白人のキリスト教国とは思えないほど社会や文化面も異なっており、欧州全体が個を認める社会なのか、疑問も湧いてくる。欧米生活皆無の私だが、あの自己主張の強そうなイタリア人もイタリア映画を見る限り、結構家父長制でコネ社会に感じられる。
平成11(1999)4月、イタリア在住の作家・塩野七生氏は読者との夕食会で、実に面白いことを語っていたので、一部紹介したい。
-女の子が「恋愛すると自分の個性が失われるからイヤ」というでしょう。私は男と恋愛して失われるような個性だったら、個性じゃないと思います。「死んで生きる」という言葉がありますが、男女関係もそうです。ほんと言うと、私はセックスの冥利というのはこれじゃないかと思っています。女性が個性を大切にすると言い続ける限り、個性は貧弱になるばかり。ちょっと喋りすぎたかしら(笑)。
昨年、拙ブログに「どこでも村社会」のタイトルでのコメントがあり、海外生活の長いブロガー「ブルガリア研究室」氏は欧米の個人主義を次のように述べられている。このようなことはネットをしてなければ、日本在住の田舎モノには分かりえなかった。
-「欧米は個人主義と言うが、それは逆に言えば、個人対個人として、濃厚につきあっていなければ、ただの他人であり、なんら好意を示してはもらえない」と言うことなので、「社交、つきあい」を軽視してはいけない。それに欧米の方が、個人的なコネが効果を発揮することが、日本社会より多い、ということ。
キリスト教の宗派も重要で、どの教会・会派に所属していて、教会の福祉活動にもどの程度参加しているか、などまでが上司によってチェックされている場合もある…
その「ブルガリア研究室」に先日、海外在住を自称する人から興味深いコメントがあり、以下はその一部引用。
-「自分で考えたり、意見を発表するのを禁じられて育った」と感じています。また自己表現をすると、村八分になっていじめられるので、極力kyにならないよう、常に迎合姿勢を保たなければならない、というのが生育過程でも実際の社会生活でも求められて来たと感じています。羊の群れに埋没して生きるよう育てられているので…
件のコメンターがどのような生い立ちをしてきたのか不明なので憶測になるが、これは周囲の環境だけでなく、当人の性格もかなり反映されていると私には思える。村八分への恐怖から周囲への迎合姿勢を続け、それが社会生活への強迫観念として根付いてしまったような。常に迎合姿勢を保ったり、羊の群れに埋没して生きるのもまたある種の“個”でもあるが、それを選んだのは本人なのだ。組織において必ずしも常に迎合しない者もいるし、面従腹背する人もいる。
日本社会は若者を型にはめ過ぎる、型にはまらない者を排除すると言う人もいる。しかし、若者を勝手に放任させていたり、或いは手厚く面倒を見る国など、まずないのではないか。改革者や宗教の開祖も従来の型から外れた者だが、彼らもまた苦難や迫害は避けられない。羊の群れを率いる者は極めて一部であり、大半の凡人は群れの一部に過ぎないのだ。
かつて進歩的文化人達が挙って讃えた共産圏が、いかに個を認めない社会だったのか、現代ではとうに分かっている。インド、中東世界は自己主張が衣を着て歩いている社会だが、同時にカーストや血族・部族絶対社会であり、己の属する集団から離れた自由な意見や行動をすることは極めて難しい。日本の言論人の間で何故か評判のよい米国大統領ケネディは、就任演説で国民にこう語っている。「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい…」。つまり、国に期待せず、国に貢献せよと呼びかけていたのだ。
気のせいか、日本社会は個を認めないと批判する者ほど、個性が薄いように思える。周囲に己の“個”を提示して、認めさせる尽力もせず、その気概もない者による、周囲への責任転嫁の口実か、と書けば意地悪か。
◆関連記事:「村社会」
「日本以外の村八分」
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日本社会の集団性や没個性を非難する文化人は、殆どと言ってよいほど比較対象は欧米、殊に後者なのだ。日米比較文化論を試みるのは結構だが、アメリカは歴史の極めて浅い移民国家であり、伝統社会のしがらみも薄いという、むしろ世界では稀なケースである。しかも、キリスト教国家で、根本的に国家原理も違う。比較対象として取り上げるなら、欧州の方が相応しいと私は思う。
欧州でも西欧と東欧、北欧と南欧では、同じ白人のキリスト教国とは思えないほど社会や文化面も異なっており、欧州全体が個を認める社会なのか、疑問も湧いてくる。欧米生活皆無の私だが、あの自己主張の強そうなイタリア人もイタリア映画を見る限り、結構家父長制でコネ社会に感じられる。
平成11(1999)4月、イタリア在住の作家・塩野七生氏は読者との夕食会で、実に面白いことを語っていたので、一部紹介したい。
-女の子が「恋愛すると自分の個性が失われるからイヤ」というでしょう。私は男と恋愛して失われるような個性だったら、個性じゃないと思います。「死んで生きる」という言葉がありますが、男女関係もそうです。ほんと言うと、私はセックスの冥利というのはこれじゃないかと思っています。女性が個性を大切にすると言い続ける限り、個性は貧弱になるばかり。ちょっと喋りすぎたかしら(笑)。
昨年、拙ブログに「どこでも村社会」のタイトルでのコメントがあり、海外生活の長いブロガー「ブルガリア研究室」氏は欧米の個人主義を次のように述べられている。このようなことはネットをしてなければ、日本在住の田舎モノには分かりえなかった。
-「欧米は個人主義と言うが、それは逆に言えば、個人対個人として、濃厚につきあっていなければ、ただの他人であり、なんら好意を示してはもらえない」と言うことなので、「社交、つきあい」を軽視してはいけない。それに欧米の方が、個人的なコネが効果を発揮することが、日本社会より多い、ということ。
キリスト教の宗派も重要で、どの教会・会派に所属していて、教会の福祉活動にもどの程度参加しているか、などまでが上司によってチェックされている場合もある…
その「ブルガリア研究室」に先日、海外在住を自称する人から興味深いコメントがあり、以下はその一部引用。
-「自分で考えたり、意見を発表するのを禁じられて育った」と感じています。また自己表現をすると、村八分になっていじめられるので、極力kyにならないよう、常に迎合姿勢を保たなければならない、というのが生育過程でも実際の社会生活でも求められて来たと感じています。羊の群れに埋没して生きるよう育てられているので…
件のコメンターがどのような生い立ちをしてきたのか不明なので憶測になるが、これは周囲の環境だけでなく、当人の性格もかなり反映されていると私には思える。村八分への恐怖から周囲への迎合姿勢を続け、それが社会生活への強迫観念として根付いてしまったような。常に迎合姿勢を保ったり、羊の群れに埋没して生きるのもまたある種の“個”でもあるが、それを選んだのは本人なのだ。組織において必ずしも常に迎合しない者もいるし、面従腹背する人もいる。
日本社会は若者を型にはめ過ぎる、型にはまらない者を排除すると言う人もいる。しかし、若者を勝手に放任させていたり、或いは手厚く面倒を見る国など、まずないのではないか。改革者や宗教の開祖も従来の型から外れた者だが、彼らもまた苦難や迫害は避けられない。羊の群れを率いる者は極めて一部であり、大半の凡人は群れの一部に過ぎないのだ。
かつて進歩的文化人達が挙って讃えた共産圏が、いかに個を認めない社会だったのか、現代ではとうに分かっている。インド、中東世界は自己主張が衣を着て歩いている社会だが、同時にカーストや血族・部族絶対社会であり、己の属する集団から離れた自由な意見や行動をすることは極めて難しい。日本の言論人の間で何故か評判のよい米国大統領ケネディは、就任演説で国民にこう語っている。「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい…」。つまり、国に期待せず、国に貢献せよと呼びかけていたのだ。
気のせいか、日本社会は個を認めないと批判する者ほど、個性が薄いように思える。周囲に己の“個”を提示して、認めさせる尽力もせず、その気概もない者による、周囲への責任転嫁の口実か、と書けば意地悪か。
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私も戦後高度成長期生まれ、サヨクの影響は大分受けてるはずです。それでも十人十色なので、意見が違うのは当り前。そして、女性が専業主婦になるか働くかはその人自身が決めることであり、他人がとやかく言うべきではない。市川房江が典型ですが、一部のワーキング・ウーマンには専業主婦を眼の敵にする女もいますが、この類くらい嫌味な女はいない。女は外に出て働くべきだ!と主張する者は、女は家に篭もっていろと言うイスラム原理主義者と基本的に同じです。
>>日本で居場所がみつけられないなら、海外に目を向けるという選択肢があるということをいうのは僭越ですか?
あなたが言わずとも、同じことを昔から主張している文化人はいました。「留学ビジネス」の回し者が正体だし、胡散臭い意図があることも確かです。「室長」さんも、海外在住日本人にも怪しい者がいる、と以前コメントされてました。あなたも海外でのトラブルをまるで触れずスルーしていましたね。あなたもブロガーなので、己のサイトで自説を開陳してください。拙ブログでやるのは迷惑です。
社交辞令抜きで言わせて頂きますが、私はアメリカ事情など殆ど関心がないし、在米日本人の暮らしも興味がありません。バルカン情勢はとても面白いですが、あなたのアメリカ報告は関心も湧きませんでした。そもそも私のように第三世界に関心のある者は、欧米をひややかに見る傾向があり、アメリカ称賛も、So What? に尽きます。あなたは在米体験が長いのだから、同じ者同士で意見を交換されたら如何でしょう。
私のレスが不満でしたら、どうぞ優しい海外ニートさんのブログで思う存分書き綴って下さい。私には一向に差し支えないし、日本在住サラリーマンや主婦は実に健全な考えの持ち主なので、彼らからのコメントは有難いし参考になる。他のブロガーと同じ対応を求める姿勢には全く好感を感じません。
かなり長くなりましたので、この記事でのあなたのコメントは今回で打ち切りにしたいと思います。ここはブログコメント欄であり、掲示板ではありません。レスがあっても、今後は返信はしませんのでご了承を。
意見する人は叩かれます
ただ、あまりにも萎縮しすぎてなにも言えなくなってしまうというのは悲しいですね
「嫌われてでも」っていう勇気はなかなかむずかしいと思います
再び元気付けて下さり、ありがとうございます。
mugi さん
>市川房江は専業主婦を「ゴキブリのように台所にいる…」と表現したことがあったそうですよ。名指しこそ避けましたが、彼女のことを作家・池波正太郎はかなり辛辣に書いていました。
これは全く知りませんでした。生半可で生意気な口をきいて失礼致しました。
>今や日本も恵まれた家庭ほど専業主婦の傾向だそうです。
そういう恵まれた人の邪魔をする気は全然ないです。しかし全ての女性がそのようにカイショのある男性にめぐり合う幸運はありませんし、何かの時に夫に頼れなくなる不幸に見舞われる人もあるし、私のように生計を立てる手段を他人に100%任せるなどというリスクは怖くて取る気がしないというヘソ曲がりもいるのです。そういう時に、女性が働ける場所が極めて限られているのが問題だと思っています。これは女性だけの問題ではなくて、父親を失った子供が貧困層に陥ることも含みます。こういう人が生活保護等、福祉のようなものだけが頼りというより、女性や母親が一人前に働けて子供を育てることができ、仕事を通じて社会に貢献し、自尊心を持って生活できる方が良いと思うのです。
私は戦後高度成長期生まれで、サヨクの影響は大分受けてると思います。それが全部悪いとも思っていません。お花畑脳でもありました。
外国で暮らすと、私のようなお花畑、脳天気人間であっても、とくに社会・経済・歴史を勉強すること無しに、さすがに『これは、おかしい』ということに、素朴な生活体験が気づかせてくれるという利点があります。
>どんな人生を送るのかは、その人が決めることであり、
おっしゃる通りです。猫も杓子も移住した方が良いなどとは薦めるつもりはありません。日本で居場所がみつけられないなら、海外に目を向けるという選択肢があるということをいうのは僭越ですか?全然違う環境に住んでみようというチャレンジ自体も、やってみる価値があると思います。
もちろんmugiさんの生き方にケチをつけるつもりもミジンもありませし、むしろ尊敬を感じるからここにお邪魔してるんですけど。
私が人様のブログにコメントするのはおかしいですか?
Mugi さんは私を買いかぶって下さっているようですが、一生懸命時間を掛けて勉強し技術的知識を得るということと、本当の思考力、インテリジェンスがあるということとは違いますよね。遅まきながら、私はもうちょっとマシな人間になりたいだけです。今少し時間に余裕ができたのであちこちお邪魔しているということもあります。
なんだか、一生懸命ラブ・コール送ってるつもりなんですけど、振られっぱなしでクヤシ~
(その点、海外ニートさんは実に優しい。)
「子供の頃は学校で出来るだけ目立たないようにしていた。だって人と違うことをしたらあっという間に叩かれるだろ?だから他の連中と同じように振舞ってたな」
これを聞いて「どこも同じなんだな~」と思ったものです。確かに日本は見た目も同じですから些細な違いを取り上げて叩くことはあります。ただこういう事ってどの世界でもあることではないでしょうか。
昔の映画「緋牡丹お竜」はヒロインが九州の姐さんで、九州弁でタンカをきるシーンは格好よかったですね。これが東北弁だったらまるでしまらないし、関西弁だったらギャグになってしまいます。「なめたらいかんぜよ!」の土佐弁が使われた映画もありましたが、九州や土佐の方言が格好よく聞こえるのも、明治維新の威光のせいでしょうか。特に九州は得をしているような…
東北弁で悪口を言われても、間延びがしていて凄みがないと言った人がいました。東京のべらんめえ口調は荒っぽい印象ですが、私はそれでも関西弁の方が怖い(笑)。東北人は関西にはあまり足を運びませんが、東京には結構行くので、聞き慣れていることもあるのかも。
>>たとえ“ガラスの天井”があっても、アメリカの方が、私にとっては居心地が良いです
海外暮らし皆無の私には、アメリカ事情は不明です。あなたがアメリカに移住して居心地が良いのは結構ですが、そうでない人もいる。元から移民国家だし、日本と背景が異なる。何処に住むのか、どんな人生を送るのかは、その人が決めることであり、己がアメリカで居心地が良いといって、他人にも移住を呼びかけるのは僭越であり、「余計なお世話」そのものです。
海外に移住する者もおれば、ナワル・エル サーダウィのようにその国に止まって活動する人もおり、活動家も様々です。私は後者のタイプに惹かれます。
市川房江は専業主婦を「ゴキブリのように台所にいる…」と表現したことがあったそうですよ。名指しこそ避けましたが、彼女のことを作家・池波正太郎はかなり辛辣に書いていました。 伊藤野枝は知っています。もちろん幼い息子まで殺されたのは惨いですが、伊藤と事情は違っても、ローザ・ルクセンブルクのように殺害された女性活動家もいた。
個人を型にはめる社会を批判したり、市川や伊藤の例を持ち出すとは、何やらサヨクっぽい印象ですね(笑)。確かあなたは、山本七平ファンのブロガー「一知半解」さんのところでも、結構コメントしてましたね。現役の医者が「一知半解」さんや拙ブログで何度もコメントをしているのはちょっと奇妙。
マイケル・ムーアも新作映画でアメリカの50-60年代は専業主婦でも子供を大学にやれたと言っていました。それだけ、相対的に貧しくなったと言うこと。おそらくアメリカもそうでしょうけど、今や日本も恵まれた家庭ほど専業主婦の傾向だそうです。
≫それでも東北弁は怖くないでしょ?
怖くないです(笑)。関東弁が怖い印象の一つとして、言葉の歯切れが良すぎる点があります(特に下町)。なんだか急かされ、ずけずけ言われているようで。
≫関西人は方言コンプレックスが稀薄なのでしょうか。
そうなんです。一応ちょっとまで都がありましたから。でも、正式な場所での発言は関西弁訛りの標準語ですし、関西弁を話して引かれてしまい、隠すようになった、と言うことはあるそうです。
雄弁術ですか、ハードル高いですね。
人前で話すのは苦手です。
そもそも人と話すのが苦手なので、その延長上で掲示板でのやりとりもヘタなのかもしれません。それこそ訓練です。追跡!AtoZでは「あ、うんの呼吸」と対比してました。室長さんは会話苦手ですか?
ブルの有能な共産主義者として育てるために「アジ(アジテート、扇情的弁舌のこと)演説」の技術を教えるための授業なので、我々外国人には履修が許されていませんでした。しかし、学友から聞いたところでは、有能な講師(ブス男で、背が小さい由)が、声の調子を工夫して、張り上げたり、ささやいたり、あらゆる技巧の限りを尽くし、更に言葉にも、感情に訴えかける用語をちりばめたりすると、いかに胡散臭い議論でも、凄い説得力になるし、女性達などは、それこそ金縛りになるそうです。
欧米の雄弁術は、ギリシャで生まれたと思うのですが、普通の会話術よりも、演説のための話術といえますが、日本の弁論部のようなものとも言えるけど、もう少しレベルが高いようです。
ともかく、しゃべるという面での技巧、技術、効能に敏感な関西文化を、我々ももう少し高く評価しても良いと思う。そして、話術に色づけする中身、話す中身とか。インターネットの世界でも、皆を振り返らせる、中身の濃い議論、これらを工夫しながら頑張りましょう。
mugiさんの文章力、ネタの構想力もたいしたものだし、ap_09さんの中身のある議論も、楽しめます。
でも、ここみちさんも、勇気を持って、どしどし投稿してください。何事も訓練というか、慣れの部分もあります。長い文章、ややこしい、などといわずに、挑戦していってください。きっとご自分のためにもなります。
>たとえ男女平等が実現されても、それは男女共に幸福な社会となるのでしょうか?
女性差別というのが、単なる偏見なのか、生物学的差異を社会の中にうまく収めるのに、文化と言う長年の蓄積による集合知が枠組みを提供しているのか、私にはわからないんですが、
たとえ“ガラスの天井”があっても、アメリカの方が、私にとっては居心地が良いです。大統領はまだ時期早かもしれませんが、実質を伴った女性のトップもたくさんいます。
米国内でも今住んでいるところが特別なのかもしれませんが、マイノリティーの会は女性に限らずいろいろあるようで、実用的なアドバイスや利用できるツールの紹介、心理的に元気付ける等、あやしげな人権活動家による特権の取得ではなく、社会で成功するにはどうしたら良いかという趣旨のものが多いです。
ナワル・エル サーダウィのような『戦う闘士』もそれを支持する人があって、初めて認識されるということはありませんか?ヨーロッパの女権運動とほとんど同じ時期に日本でも‘青鞜運動’がありましたが、平塚雷鳥と、一時期彼女を交えて政治活動をしていた政治家の市川房江に対して、日本社会の受け止め方は、単なる変人という扱いで、社会構造の変革にインパクトがあったようにはみえません。
伊藤野枝にいたっては、青鞜社を雷鳥から引き継いだ後、女権運動が直接の原因ではないですが、アナーキストで夫の大杉栄と10歳にも満たない息子とともに、官警に殴り殺されて(子供は絞殺された)、遺体は井戸に投げ込まれてあったようです。
今日本で伊藤野枝の名前を知っている人などほとんどいないでしょう。
昨日、初めて地域の日本人会と言うものに参加してみました。長年在米している人から、留学生でまだ滞在2ヶ月という人までおられましたが、やはり、日本では満足して暮らしている人が多そうだという印象を受けました。日本のやり方のほうが、欧米より大多数を満足させることのできる社会なのかもしれません。
>女を安く使い、男の賃金もそれに合わせて下げれば、一石二鳥ですからね。
現在では米国世帯の40%の稼ぎ頭は女性だそうで、いぜん男女の間には賃金格差があり、それでも女性が社会進出している一つの理由として、上記をあげていました。
加えて男性は失業し、変わって女性が稼ぎ頭になることが増えているのだそうです。製造業がなくなり、比較的低賃金のサービス業の需要が増え、それに向いた女性労働者の需要が多いのだそうです。
私はmugiさんとやりとりしているんでしょうか
追跡AtoZという番組だったかな?を見ました。
非常に私にはおもしろかったです。
日本人の言語力が弱いとかいう視点だったと思います。
イビチャ・オシム前日本代表監督がもっと日本人は会話能力を高めろという話しをしていました。
私もぶん殴る前に
吉本といえば関西ばかりか、日本を代表するプロダクションですよね。紹介された漫才師のお話には驚きました。さすが、この商魂で日本の芸能界を席巻したのですね。お体裁を好む関東、まして東北は太刀打ちできない訳です。
関西のお喋り文化なのでしょうけど、「男がしゃべりで何が悪い!」と言うコーナーがあるというのは、やはり東京基準に対する反発もあるのでしょうか。やしきたかじんのような芸能人は、東京では生まれそうもありませんよね。
TVでは東北もステレオタイプで描かれており、使われる雑な東北弁には私も良い気はしません。リメークの白い巨塔で品のない関西弁を使っていた人物が財全の舅でした。いかにも成金という格好で登場していましたね。アニメの世界でも田舎者は必ず怪しげな東北弁をしゃべり、人物だけでなく猫やイルカでも主人公側は標準語に対し、辺境に住む動物がヘンな東北弁で話しています。これも「分かりやすい」イメージですよ。
関西人には関東弁が怖い印象があったのですか!それでも東北弁は怖くないでしょ?東北でも数の少ない関西人が、大きな声でお国訛りで話しているのを見ると、怖いと共にさすがパワーがあると思ってしまいます。関西人は方言コンプレックスが稀薄なのでしょうか。東北人には羨ましい限りです。
先のコメントにも書きましたが、ネットの世界では自分の経歴を詐称する者もおり、本当は友人も伴侶もないくせに、外国人の友人または配偶者がいる等と書く見得張り屋もいるのです。また、男なのに女に成り済ますネカマも。ニートをするのは自由ですが、実績を作ってから社会批判をしなれば、単なる負け犬の遠吠えです。
>>私もかなりの変人に違いありませんので、どうぞ、お気遣いなく。
別にあなたに気遣ったつもりはありませんが、型に嵌らない者を排除する日本社会を批判していたあなたが、型にはまった見方をしていたのは意外でした。「自論を雄弁に語れるように非常な理屈屋」の女は、「意志が強いと言うより、かなりの変人」なのは事実です。ただ、このタイプは努力してそうなったよりも、生来の性格に由来していそうですね。
私は英米人共に付き合いは皆無ですが、イギリス人は日本人のように婉曲な言い方を好み、面と向かいズバリ指摘されることの方を嫌うように思えます。第二次大戦もイラク戦争も、イギリスが策謀していたはず。
医師の世界は結構封建的だと聞いたことかありますが、基本的に他の職種も女性は似たような状況にあるはずです。そして、広告塔的な女性がいるのも医師ばかりではありません。部外者が言っても何の意味もありませんが、日本に残って仕事されている女医さんたちの状況が改善されるのを願うばかりです。ただ、これは女医が解決する問題でしょう。
女性差別は日本社会に限らず、欧米も偏見は根強いものがあるはずですよ。いくら頑張っても“ガラスの天井”があり、ヒラリーも無名のオバマに敗れた。
たとえ男女平等が実現されても、それは男女共に幸福な社会となるのでしょうか?最近私は疑問に感じています。最もリベラルと謳われたオランダの荒廃はネットでも出回っておりますが、女性の社会進出は資本家の仕掛けた罠だったと書いていたブロガーさんもいました。女を安く使い、男の賃金もそれに合わせて下げれば、一石二鳥ですからね。
中東世界のカフェで盛んに時事放談しているのは男ばかりで、女性はいませんよね。男女隔離の習慣のあるイスラム圏という背景もありますが、バルカンのキリスト教徒も同じだったのですか?ギリシャは昔から男社会で、貴婦人も人前にあまり姿を見せなかったのに対し、ローマは宴会でも夫人は夫と同伴で出ていたとか。古代世界でもギリシャとローマは、社交のあり方が違っていたのです。
紹介されたウーマン・リブの英国女性のお話は面白かったです。夫が浮気したから差別解消に熱弁をふるうようになったのか、ウーマン・リブの結果、夫が浮気ばかりするようになったのか不明ですが、リブ闘志の正体を見たような。日本のリブ活動家もまた、男と縁遠い女達が多いように思えます。女に限りませんが、差別差別と喚きたてる者ほど、自身がトンでもない差別主義者だったり。
そして、米国外交官の妻となった日本女性のお話も興味深いものでした。まさか、ライシャワー夫人?一般に外交官夫人といえばやっかみもあり、いいドレスを着て好い物を食べて社交している…とのイメージが付きまといますが、人知れぬ気苦労があったとは。「社交」も国際情勢に関する最新の情報収集がメインでした。
一方日本では、明治になっても華族や新興財閥の間に、結局西欧式の「社交」は根付かなかったですよね。日本の外務省でアメリカのような外交官夫人の教育など、鹿鳴館を除いて行われていたでしょうか。
>>女性を口説くのに、相手がほとんど理解できない議論は、それなりに有効です!
実感が込められていますね(笑)。私の同僚に血液型の話題に詳しい者がいましたが、女の子を口説くためだったそうです。あまり成功しているように思えませんでしたが、血液型ネタはポピュラーすぎた?
気に入らぬ上司をぶん殴って、辞表を提出するのは容易ですが、そのような“蛮勇”の持ち主は稀ですよ。
だから上や周囲に気を使い、萎縮する結果となります。ヘタレと言われればそれまでですが、同時に慎重とも呼べます。
確かに吉本は品がないので…。あれには違和感があるのです。そしてずっと昔、お正月に吉本の漫才を聞きに行ったのですが、吉本の演芸場は観客を詰め込むだけ詰め込んでいました。そして、演目のつなぎに出てくる漫才師が異様なすし詰め状態をネタにして、吉本の金儲け主義とこき下ろしながら笑いを取っていました。笑い(儲け)になるなら所属芸人に悪口を言わせる吉本の商魂逞しさに感心しました。
そして関西ローカルのバラエティーには「男がしゃべりで何が悪い!」と言うコーナーがありました。とにかく吉本の男の芸人が社会問題や日頃の不満を延々と喋るのです。これも関西のお喋り文化?なんでしょうか。
たかじんの委員会の司会者、やしきたかじんも深夜番組で好き放題に喋り、収録分が全部使えなかった回があったと思います。
≫マスコミのステレオタイプの大阪の報道
上の方に出ている白い巨塔は阪大がモデルと言われています。で、近年もフジテレビで放映されたのですが、面白いことに、登場人物が標準語で話すにも関わらず、なぜか下品な人間だけこれまた品のない関西弁を喋らされていました。旧作の白い巨塔は上品な関西弁を財前側、医療被害側双方が話し、砕けた場面では財前自身も関西弁を使用していたと思います(ちょっと記憶曖昧)。マスコミで「分かりやすい」イメージが出来ていて、これまた分かりやすい構図で関西弁を使用したのでしょう。私はあんまり良い気はしませんが。
≫早口の関西弁が怖かった
関西だと関東弁が怖い印象がありますね。会社で関東弁を喋る人が女性社員を泣かせたことがあります。口調がきつく聞こえるからです。関西弁なら泣かれなかったはず。
私自身東京へ行って道を聞いた際、相手の回答を聞いて、喧嘩を売られているのかと誤解したことがあります。心の中で相手の発言を反芻して普通の言い方だと分かりましたが、一呼吸おいていなければとんでもない事を言い返したかもしれません。一生の恥になったことでしょう。
同類だったら光栄かな、なんて思いつつ、mugiさんにも嫌われたくないなぁとか言ったら、私が男だったら、あなた、張り倒してるでしょう。
私もかなりの変人に違いありませんので、どうぞ、お気遣いなく。
今後もmugiさんの御記事を楽しみにしてます。
>人を操るなら、アングロサクソン、殊に英国人が長けているように思えるのですが…
そうですね、イギリス人に比べると、アメリカ人は直裁的ですが、詭弁でもちゃんと表立って説明すれば、ごまかされる方が悪いのでこれはOKというところでしょうか。
ほのめかしたりぼかしたり、他の人に言わすように持って行くことが悪いみたいです。日本人はこれで察するのが普通で、逆に面と向かってズバリ指摘されることの方を嫌いますよね。
室長様
何だかいろいろ元気付けて頂いて、ありがとうございます。
>日本人のまともな男性がいなくて残念というか。
日本にまともな男性がいないというより、私が周りに合わせるために自分を偽っていた部分が大きすぎ、偽りの自分に向かって来る人しか近づいて来なかったんだと思います。うまくいかなくて当然だったでしょう。これは心理的には抑圧と言って、無意識にそうしており、自分でも気がつかないので、なかなか厄介な問題かもしれません。こういうことで知らずに人間関係で苦しんでいる人は結構いると思いますよ。Mugiさん(怒られると思うけど海外ニートさんも)のように自己に対する洞察力が鋭く自我を保てる人は、日本のような集団主義ではあまりいないのかもしれません。
>エジプトの女性作家ナワル・エル サーダウィは・・・このような女性活動家は稀ですが、日本の同類と比べる気も起きません。
日本にはヘンな左翼闘士しかいないのは、
日本のやさしい社会では、「アメと鞭」の使い分けが絶妙で、アメのほうに釣られて鞭の方には目をつむってしまい、隠微な形で差別が温存されるように思います。それを逆手にとって在日特権のようなものができるのでは?
医師の社会では、女性は男性が切磋琢磨するような場には基本的には入れてもらえませんが、広告塔になれるような女性には「何もさせずに(大したアメです。同僚の嫉妬も買います)」適当な地位(大学だと講師とか準教授まで)に置き、差別は無いというポーズを内外に示して、男性の本命が現れたら、脇にどいてもらう。もともと鍛えられてないので何の実力もありませんからいいなりになるしかないでしょう。あるいはだから女性は使えないと、何かの折に証明するのに使うとか。男を脅かすような本当に力のありそうな女性は、いじめ抜いて早い時期に排除するのかもしれません。
すると純度の高い均質な職能集団が維持されるので、それはそれで大変効率的なのかもしれませんね。
確かに、男性にばかり退屈させない話題の提供とか、話術のさえを求めるバルカン社会は、実はある意味未だに男性社会なのかも知れません。それに、オスマン時代からそうだと思うけど、そもそも男性がカフェに集まって男ばかりの仲良しグループで、侃々諤々政治とかを議論する、それに対して女性は女性のみで編み物などの手作業をしながら、誰かの家に集まって、女の話題に熱中する、つまり、男女の場は、基本的には別々ですね。男が女の前で熱弁をふるうのは、口説くため。だから、楽しい話をてんこ盛り用意していかねばならない!
他方、西欧、米国などの「社交」の場は、男女が同じ場で議論したりするのですが、やはり女性は聞き役が多かったように思う。しっかり熱弁を期待され、知性を競うのは男性達で、女性達は、これを聞きながら、男達の値踏みをする。もっともウーマン・リブが盛んな頃は、差別解消に向け熱弁をふるう女性もいた。もっとも英国人の彼女は、そうやって熱弁をふるって憂さ晴らしをしていたようで、実は夫が浮気ばかりしていた!!
外交団の社交に関して、米国外交官の妻となっていた日本人妻からは、次のような話を聞いたことがある:
(1)国務省から「社交」に付き教育を受けて、その際に、Time、Newsweekなどを毎週読んで、政治、経済、などに関しても、それなりに最低限の知識と関心を持つことと教えられた。男達の議論に、ある程度は参入できる教養を持つべし、といわれた。
(2)現地要人、外交団を招待するディナーなどの「費用」は、基本的に国務省が、毎月2--3回分のディナー相当の金額を、各外交官に支給できるので、そのノルマをこなさないと、無能な外交官と見られる。「費用」は出してくれるとはいえ、料理とか、食器洗いとか、沢山のお客を招く度に、外交官夫人としては多大の労力を費やすことになるし(夫もかなり手伝うけど)、料理の腕なども日頃から磨かねばならず、結構負担が大きい。日本人妻の自分だからできるけど、白人の奥様達は、あまりノルマを達成していない(交際費を返上している)!!
ともかく、「社交」というのは、本来が貴族とかブルジョア階級の間で発達した概念ですから、門番、女中、コック(派遣コックでも良い)などの使用人を多く使える階級の人が、優雅に人脈を広げ、情報を集めるために開催した行事。
つまり、エリート階級の人々を集めて、生の、一番旬の情報を集めるための場でした。だから、商売、国際情勢に関する最新の情報交換が、行われていたわけですが、米国がトップになると、より大衆社会ですから、外交官夫人達も元来がエリート階層でないから、どういう風に最高度の情報を扱うか、訓練されていないし、国務省としても夫人教育していたらしい。
ともかく、社交の場で熱弁をふるうためには、他の誰も知らないであろう情報を持っているとか、誰も行ったことがない辺地を見てきたとか、色々興味をそそる話題を持っていればよい。新しい理論などという、普通の人にできないことを必ずしも要求されるわけではない。
そういう「理論」などの議論は、むしろ大学の教室とかで闘わせるべき話題。とはいえ、女性を口説くのに、相手がほとんど理解できない議論は、それなりに有効です!(ジョークです。小生は口説いたことはない)
萎縮するってどなたか書いてましたが、私もそう思います。
怖いんじゃないですかね
どうも本質がなんなのかわかりません
みなさんの文を読んでるとつくづく自分がバカだなーと思います
あなたも関西人でしたか!件の大阪の芸能人は名前も知らない人物だったし、友人からチケットをもらって見に行ったのです。しかも、何年も前なのでよく憶えていませんが、確か吉本系だったと思います。あのような品の悪い芝居でも、大阪のおばちゃんが20秒も笑っていたというのが信じられませんでした。大阪の人は笑い上戸なのか、と思いました。
私も関西に対するイメージはあまりなく、もしかするとマスコミのステレオタイプの大阪の報道をそのまま鵜呑みにしているのかも。関東の人間も東北といえば、印象が薄いはず。栃木出身の若い女性と話したことがありますが、東北といえば冬は毎日雪が20㎝は降ると思っている。私自身も、栃木と群馬の違いはよく分かりませんが。
私も北海道に旅行した際、本土とは違う印象を受けました。夏でも乾いた涼しさがあり、青森とも違う空気でしたね。東北の方でも関西出身者を見かけるのは少ないですが、彼らはあの関西弁で存在感を出してます。
方言のお話もお互い様でしょう。関西弁はTVなどで聞いているため、おそらく東北人の方が関西弁を理解していると思いますが、私の知人も仕事で関西に行って、早口の関西弁が怖かったと話していました。
狭い日本と言われる割に、方言は本当に違いがありますね。日本でさえこれだけ方言に違いがあるなら、大陸は桁外れであり、同郷出身者で結束するのも当然でしょう。
文章が長くて読めないと仰られても困りますね。特別難文でもないし、ネット上では物理的にケンカのしようもありません。だから、議論のかたちになり、長い文章となる論戦となるのです。
匿名ネットでは格好付けたいのか、殊更エリートを装い医者や教授と名乗る者がおり、幾つもハンドルを使い分けて自作自演までしている輩がいるのです。だから、ap_09さんもそのタイプかと疑ったのですが、まさか本物の医者が拙ブログを見ていたとは思いもよりませんでした。女医といえば女性の職業のトップなのに、日本の医療制度での性差別の実態には言葉もありませんでした。女医に限らず、学者、キャリア官僚、大企業OL以下ノンキャリ、“無印”OL…全て男社会での苦労はあります。残念なことに日本はその点で欧米に遅れを取っていることは否めませんね。
女性検死官が主人公の米国の小説『検屍官』シリーズを昔読んだことがあります。日本よりは待遇はマシにせよ、あちらでも女性への差別や偏見が根強いのを感じさせられました。ヒラリーが結局オバマに敗れたのも、女性ゆえだったはず。
ただ、私が尊敬しているエジプトの女性作家ナワル・エル サーダウィは女医でもありました。彼女の作品より生き様がすごい。イスラム世界での女性抑圧と戦う活動家でもあり、何度も投獄されています。原理主義者からの脅迫などザラ。もちろん、このような女性活動家は稀ですが、日本の同類と比べる気も起きません。
日本は辺境の島国なので、いつも輸入学問を扱っていた歴史が続いているのです。かつての唐天竺から明治以降は欧米に変わっただけであり、外国の権威という「虎の威を借る狐」と化す知識人が殆ど。安易といえば安易ですが、それを有難がる風土があるはず。
ただ、日本人に限らず外国人も自分自身の頭で考えるのは、意外に難しいと思います。もしかすると、欧米人の場合、本当はどこかで言っていた思想に改良を加えたものを、自らのオリジナルとして印象付ける技能に長けているのかも。
以前、高知出身の方からのコメントに、南国は餓死する確率が低いから我を通して生きる自由もあると書かれていました。それに反し、関東や殊に東北では餓死の確率もあり、東北は飢饉に何度も泣かされてきた風土です。宮城県はまだマシでしたが、博物館にも東北の飢饉の惨状が展示されています。だから、団結して自分の分を守り、でしゃばらず…となってくる。だべる(無駄話)よりも働け!の発想に陥ってしまうのですね。欧州でも南欧より北の方が働き者のはず。
海外で活躍する日本人に関西人が多いと聞いたことがありますが、関西人の笑いへの執念もあったのですね。元来は「おもてなし」の精神というのは目からウロコです。一方、東北の「おもてなし」はでしゃばらず、「がやがやうるさくして、周囲に迷惑をかけない」なので、これでは到底関西人に敵いそうもありません。
「我しゃべる、故に我あり」!結構ですね。熱弁をふるう根性と、勇気、そして男性を退屈させない・飽きさせない話術、これこそが西欧における淑女の極意にもなるでしょうか??
≫実際、私もある大阪の芸能人の芝居で、あまり面白くないと感じたし
吉本の芸人ですか?私も関西人ですが、吉本は下品で好きになれません。
≫個人的に上方漫才は面白いと思いませんが、東京の寄席は好みです。
私は東京の寄席はさほど面白いと思わないのですが、上方漫才は大好きです。吉本は嫌いでも、上方漫才のリズムや騒がしさは面白さを構成する要素になっていると思います。また、漫才ではありませんが、桂枝雀師匠の落語は本物の名人です。笑いを追求したあまりにあんなお亡くなり方をして本当に残念です。
≫申し訳ありませんが東京が第一、関西を軽視する傾向があるのです。
それはお互い様でしょう。
方言といえば、遥か昔、うちの父が東北へ知人の葬儀に出席しましたが、周囲が何を言っているのか全く理解できなかったそうです。私の勤務先は仙台に支店がありますが、関西出身者が転勤して最初困った事は、電話の聞取りができない事だと言っていました。ただ、これも相当前に聞いた話なので、今は違うかもしれません。それにメールがあるので言葉の訛りを気にせずに済みます。文明の利器ですね。
日本も均質と言われる割に、結構文化の差異がありますね。
先のコメント(白い巨塔)を、格好言い言葉で閉めくるという、当初のもくろみを途中で失念していました。今からでは、少し効果が薄くて残念ですが、やりきりたいので書きます。
フランス人の誰かが、「我思う、故に我あり」と述べたとか(ルネ・デカルトらしい)。しかし、小生は、「我しゃべる、故に我あり」という言葉を提唱したいと思います。
熱弁をふるう根性と、勇気、そして女性を退屈させない・飽きさせない話術、これこそが西欧における紳士の極意です。
日本人も負けてなるものですか!!
すみません
物理的にケンカしないので主張しないんではないでしょうか
なんでケンカしないのかはわかりません
物理的にケンカしないので主張しないんではないでしょうか
なんでケンカしないのかはわかりません
そうです、「白い巨塔」でした。ap_09さんの小生ブログへの書き込みぶりから、もしかして日本の医大の閉鎖社会かと想像したのです。それにしても、女医さんで、男性医師より更にご苦労されたとは思い至らなかった。
そういえば、女性に対する差別は、前回のアメリカ大統領選でも、結局ヒラリーという女性よりは、黒人の方がまだまし、ということで、少なくとも人種差別ではないということを証明したくて陣営に加わるものが増え、オバマの方が有利になった、という選挙解説を読んだことがある。米国でも未だに、女性への偏見は根強い部分もあるようです。でも日本よりは、まだ女性として、医師として、活躍しやすいということでしょう。
なお、ap_09さんが結局は米国人との結婚という形で、自分の人生を良い方向に持って行ったと言うことは、良かったというか、日本人のまともな男性がいなくて残念というか。それにしても、米国在住者の意見は参考になるので、これからもどしどしコメントを入れて欲しいと思う(小生のブログでも)。
伝次郎さんが、伝統社会で調和が取れ、ことさらに自らの自我を確立して、自分の意見をひけらかすことをしなくてすんだ日本の村社会という社会背景を理由に、むっつり、だんまり文化を擁護される論点は、理解はできる。
しかし、国際社会で対等に外国人と渡り合う、という段階になると、弱い。やはりグローバライゼーションの時代ですから、自分の意見をきちんと確立して、外国人との議論でも、格好いい姿を見せられる日本人が増えて欲しい。それに、自分自身の頭で考えずに、誰か他人の意見に乗っかるというのは、恥ずかしい。もちろん、皆が天才ではないから、全く新規の、誰も言ったことがないような、すばらしい意見、というのを見つけることは、そう簡単ではないし、どこかで読んだ意見がつい口から出てしまう、というのはしょうがない部分もある。
それでも、ともかく、自分で考え、辿り着いた意見とか、理論とか、そういうのは、「おしゃべり」してみても、ますます自分を輝かせてくれるような、いい気分にしてくれる。他人の意見を借りて「虎の威を借る狐」ほど、自分が考えに考えた思想ではないから、どこで交渉の余地があるとか、そういう柔軟性の部分が無く、一切妥協もできないし、頑迷になる、と「日本辺境論」で内田樹氏が書いている。
小生は、やはり、日本人が、もっともっと議論好きになり、また「おしゃべり好き」になって、上手にユーモアとかを加味する、そういう話術にも長けて欲しい。関西人の笑いへの執念は、それなりに、周囲の人を笑わせて、嬉しがらせようという、元来は「おもてなし」の精神だと思う。
関東、東北では、より静かに、自分の分を守り、でしゃばらず、「がやがやうるさくして、周囲に迷惑をかけない」、という発想で、少し文化が違うと思うけど、我々からすると、まあ、もっと陽気になって下さい、といいたい。
むっつりして、しゃべらない人を嫌うのがバルカンの文化だし、小生も長年かけて、ようやく、おしゃべりになれた。女性達から、「何かしゃべりなさいよ」としょっちゅうせっつかれ、必死に面白いことをしゃべれるように訓練を重ねた青春時代があるから、自分で考えた自分の言葉を持たないと、そうは長くしゃべれないし、情熱が伝わらないと、悟りました。魂を込めて、しゃべる、そこまで行かないと議論で勝てません。東北人も頑張れ!!(怒らないでください、ユーモアのつもりです)。
人間は環境によって左右される生き物であり、長らく異民族、異教徒と付き合いの薄かった辺境の島国という環境こそが、日本人の精神文化に影響を与えたのは確かでしょう。日本のような国なら、個人は集団の中の一員であり、自己主張をする必要もなかった。
戦前まではそれでよかったのですが、仰るとおり、戦後はその土台が否定、破壊されたゆえ、個人主義なるものをよく理解しないうちに早急に真似をして飛びついたのは否めません。文化背景も異なる土壌に西欧型の個人主義を持ってきても、巧くいかないのは確かです。ちょうど21世紀の米国が、中東に民主主義を広めようとしても失敗しているように。
それでも、戦前型の家族制度に今更戻るのは無理なので、アメリカ型個人主義でもない、新たな日本の指針が求められます。
あなたは女医だったのですか!私はてっきり男で、以前、海外ニート君を擁護されていたので、実は同類かと疑っていたのです。ハンドルを複数使っているとも書かれていたので、ますますその疑いを強くしました。男社会で苦労するのは女医に限りません。女として最高の技能と地位を持つ職に就いておられるなら、何処でも通用すると一般人はイメージしますが、女医ならではの苦労の実態は知りませんでした。
ただ、女も色々ですから、一部にせよ議論したり自論を雄弁に語る類の“変人”もいるのは確か。記事にもした塩野七生氏は文科系ですが、まさにそのタイプであり、塩野氏は自分の読者を「アペルタ」、つまり、少し外れたところがある人だと語っていました。現に私など「アペルタ」というより、かなり外れたところがあると思います。
そもそも、インド、中東のような普通の日本人が無関心なところに興味を示す者は、私も含めかなり変人ですよ。だから、他人の目など気にしてはやっていけない。変わり者扱いに鍛えられるため、我も強くなってくる。
あなたが先に海外ニート君のファンだとコメントされていたので、もしかすると海外生活が長くて、“沈没”してしまった人ではないか…と想像していたのです。そのようなタイプは日本への不平不満を並べつつ、いざとなると日本大使館に駆け込んだり、病気になれば成田から日本の病院に直行したりする。タイにはその類の日本人が多いそうですが、途上国の方が「人間らしい暮らしをしている」と現地の生活を絶賛するくせに、いざとなれば日本の医療福祉にすがる。
ずっと日本暮らしをしている私からすれば、日本と途上国とのよいとこ取りの優雅な生活としか見えないし、どちらの国にも貢献せず、渡り鳥のような暮らしをしているとしか思えない。途上国で技術支援をしている日本人は尊敬しますが、“沈没”者には侮蔑しか覚えません。保険料も納めているか疑問な者に、日本の医療福祉サービスを受けさせるのも不愉快です。
私は医者になれるような頭脳は持ち合わせてない分、逆に気楽だったかもしれませんね。日本の医療体制での女医さんの苦労は想像も出来なかったし、あなたが何故日本から見切りをつけて出て行った理由がやっと分かりました。
私は口も性格も悪い群れの羊の一匹ゆえ、この記事はさぞ不快だったでしょう。日本から出て行った背景も知らず、大変失礼致しました。
それにしても、あなたのお義母様も日本人だったとは、アメリカも広いようで狭いのやら。私は米国の習慣は無知ですが、義兄姉の“Mom is manipulative.”はよく分かりません。人を操るなら、アングロサクソン、殊に英国人が長けているように思えるのですが…
関西人と違い、やはり東北人はクラい傾向がありますね。関西の芸人が東北に来たがらないのも、受けが悪いからだとか。実際、私もある大阪の芸能人の芝居で、あまり面白くないと感じたし、その芸能人も不満気味でこう言っていました。「なんや、仙台のおばちゃん、笑うのはたった5秒だけ?大阪のおばちゃんなど、20秒も笑いこけていたのに…」
ひょっとすると、関東と関西の文化の違いでしょうか?個人的に上方漫才は面白いと思いませんが、東京の寄席は好みです。東北人は東京文化への憧れが強いのです。申し訳ありませんが東京が第一、関西を軽視する傾向があるのです。
左翼のおばちゃん党首が自信満々で陽気な笑顔なのも、責任もなくアタマを使ってないからですよ。無茶苦茶な詭弁で世渡りしてきたへの自信もあるはず。この党の看板“娘”も、大阪出身でしたね。元ピースボート代表で彼氏は赤軍派。陳腐なスローガンやドグマを繰り返すのは安易ですが、精神的に楽なのです。それに対し、考える保守はやはり陽気から遠ざかりがちになる。
しかし、暗い顔で悲観していても何も変わらないので、笑う角に福来る、顔で笑って心で泣いて、の精神で暮らしたいものです。
日本人にもお喋りな人はいますが、どうも日本の“おしゃべり”と西欧のそれは違うようですね。特に日本の場合、男のおしゃべりを卑しむ傾向が強いような。かなり前の某ビールのCMで「男は黙って○○ビール」なんてものが流行りました。そのCMに出演していたのが三船敏郎。高倉健もそうですが、三船も寡黙で男らしいイメージで人気がありました。もっとも、おしゃべりなジョン・ウェインも考えられませんけど。
今は違いますが、かつて日本の食卓では「黙って食べろ」というのが普通だったのではないでしょうか?食事中にお喋りすると、親父に怒られる…なんて家庭も少なくなかったはず。家族との会話も重視されたとはとても思えないし、食卓の場でもこの有様なら、社交が育つのは絶望的です。
学校でも生徒が教師に積極的に質問することは殆どないし、逆に質問するような生徒を教師は煩がるかもしれない。そのような生徒はクラスメートからも揶揄されることもあり、それに負けずに質問する生徒はかなり少なく、大半は授業中に黙っている。
アイルランド人のおしゃべりは面白いですね。以前、ジャック・ヒギンズの小説を読んだ時、イギリス人がアイルランド人に、「そのアイルランド人特有の多弁を止めてくれ」という台詞がありました。U2が来日した際も、「イギリス人はケチだから言葉も出し惜しみするけど、アイルランド人は気前が良いから」と、予定時間をオーバーしてインタビューに答えていたのです。同じ島国でもアイルランドとイギリスはかなり違うようですね。
日本の医師を描いたテレビドラマとは、もしかすると「白い巨塔」ではないでしょうか?とかく大学病院の教授が絶対、若い見習いなど逆らうのは考えられない世界でしたね。教授のご意向で出世が決まり、結婚相手まで決められる。
昔は日本でも親父が子供を殴るのは当り前だったし、「地震、雷、火事、親父」の諺もありました。それでも、日本の家父長制は中東に比べれば、その権威はとても及ばない。中東では親父ばかりか、母親も子供を思い切り叩きます。もちろん家庭にもよりけりで、妻や娘には毎日手を上げていた親父が、1人息子だけは大事にしていた家もあります。
私はバラエティー番組は滅多に見たことがありませんが、心なしか司会者に逆らう意見が少ないような。島田紳助のような司会者に迎合する発言が多いように思え、社交的で気の利いた議論が成り立ちにくいように感じられました。これも芸能界の上下関係のため?
私も以前は「朝まで生テレビ」を見ていましたが、見なくなってしまったのは何時の頃だったのやら。おそらく、本格的にネットをする前から疎遠になってきたような。スタジオに対座している一般参加者も、意図的に選ばれているのでしょうね。おそらく少なからぬ視聴者も、田原やプロデューサーによる本音トーク番組と銘打った“ヤラセ”と見ているのかも。
テレビの生番組でも、予めリハーサルがあって本番はどう報道するのか、プランを作っているのかもしれませんよ。特にスポンサーのご意向には逆らえず、大口広告企業なら不祥事も報じないでしょう。コメンテイターの顔ぶれも各局似たようなものだし、同じ人物が何度も出たりする。不都合な発言なら編集でいくらでもカットできるし、「シナリオ番組」でないトークショーなど、ありえないのではないでしょうか。
「日本社会は個を認めない」と大上段に言うテレビ関係者ほど、他人の個性を認めないのは皮肉というか…
日本人の場合は、私が思うに人と人の間に歴史(共同体、先祖、ふるさと、国家など)がありその下支えのおかげで、個人は未熟でもやっていけるのだと思います。
しかし、敗戦、GHQの占領政策によりその土台が壊されたため、個人の弱さ、脆さが出て右往左往してるうちにアメリカ型の個性に飛び付く過ちをしたと思います。
小泉八雲は日本を「死者の国」といいましたこれは、今生きている人だけが生きているのではなく先祖や歴史も一緒に生きている、と言うことではないでしょうか?
お邪魔しました。
どうも。当エントリーの“肴”にあがった本人です。
>周囲の環境だけでなく、当人の性格もかなり反映されていると私には思える。
それはその通りですね。
私は女なものですから、物心ついたころから「理屈をいうんじゃない」ということで、学校の勉強はモノを覚えることはあっても、思考を鍛えるところじゃありませんし、男の人のように議論したり政治を論じたりする体験や場所もありませんでした(左翼の人は違うなんて知らなかったですね)。これに反発して、自論を雄弁に語れるように非常な理屈屋になろうと努力する女性がいるとしたら、意志が強いと言うより、かなりの変人なんじゃないでしょうか。
価値観とセットになった行動様式にチャレンジする場合というのは、
1. その価値観に疑問を抱かせるような体験をする
2. 異なる価値体系に触れる。
3. 青年期の脳内ホルモンのアンバランスが生み出す精神状態。
4. 高度な知性がその価値観には問題があると気づかせる。
というのが大体思いつくところですが、日本にいたころの私は1. に当てはまりますが、個人的にどのような行動を取ったかというと、これはやはり性格によるところが大きいようです。
強迫観念と言うのも確かにありますが、女性が社会的にしゃしゃり出るというのは、実際にはかなりのペナルティーが実在します。これは個性の問題ではなくて、私にとっては単なる差別、あるいはそれが望ましいこと、良いことだと、共同体の大多数のメンバーが信じて共有している考えなので、文化です。自分が文化の破壊者であるという自覚は、あまり愉快なことではありません。
私は医師ですが、医学部に行っては、「お前みたいなやつらのせいで有望な一人の男の将来が奪われる」と言われてみたり、兄弟は学生の時分から、各種医局や教室から青田買いよろしく引きてあまたでしたが、私はお声がかかるどころか、母校の半数くらいの医局は女は入局させないという状況でした。
これに反旗を翻すのに、人権運動家がやるような運動をするのも一つの手には違いないんですが、そんなことをして時間を潰すより、横からでも曲がってでも、どこかに逃げ道がないかと言うことを考えました。なにしろ訓練(教育)させてもらえる場がなければ話になりませんからね。
今、医局制度はなくなったそうですが、当時は入局させてくれる医局があったり、大学で教官になれても、女性はいろいろとイチャモンつけられてやめさせられましたよ。他にも差別的なことに対して正面切ってさからって玉砕しちゃう先輩の女医などいろんな例を見てますから、同じ轍は踏むまいと思った私は、出る釘と思われないよう、しかし自分の有能さを証明すればいいんだと、どうやって羊の群れの中を上手に泳ぐか腐心する毎日でした。
たまたまアメリカ人の夫と知り合い、仕事はいくら頑張っても都合よく利用されるだけで、自分の生きている間には本流に加えてもらえる機会は来ないと悟り、ある時点で見切りをつけて日本を出て行きました。
偶然にも私の義母も日本人なんですが、日本女性らしく正面切って物を言わなかったときに、米国生まれである義兄姉が“Mom is manipulative.”と言うのを、非常に悲しい思いで聞いたことがあります。欧米の価値観では「悪徳」というのはそういう意味です。
アメリカは過酷な社会ですが、私のような者にも惜しみなく機会を与えてくれる素晴らしい国、人生に夢を持つことができる国です。日本人は一人一人が粒ぞろいに優秀なのですから、より良い国に、皆が生き生きして暮らせる国になれるはずですし、なって欲しいです。
ところで、ネタにまでされてますが、mugiさんは文章が上手でらっしゃいますし、目の付けどころが他の人とは違うので、ここまで言われても愛読しちゃう私は、かなりのマゾなんでしょうかね?
塩野七生氏の『死んで生きる』までには、まだまだのようですが、旦那に聞いてみます
また少し経って思い出したことがあるので、連投で申し訳ないけど、続けさせていただきます。
我々関西人(注:三重県人ですから、関西の「辺境」というか、最近は、名古屋圏の「辺境」なのですが)としては、ヘキサゴンというフジテレビの番組が楽しくてしょうがないです。
なぜかというと、自ら「おしゃべり」を自認する島田紳助のおしゃべりに促されるように、出演する「おバカさん」芸人、芸能人達が、どんどんしゃべれるようになって、それなりに気の利いた発言をできるようになってきているから。そういう、お馬鹿さん芸能人の成長過程を見守れるというか、そういう感覚にさせてくれるのが、この番組の楽しみです。
日本社会も、皆が自分自身に自信を持って、自らの言葉で「会話」に参加し、自分のおしゃべりで皆を楽しませようとか、自分もそれなりに自分の頭で考えたことをしゃべれば、まあまあ良い感じでしゃべれるではないか、と気づいて、おしゃべりになってくれれば、もっと陽気で明るい日本になると思う。
左翼のおばちゃん党首だけが、何時も自信満々で、陽気な笑顔だったのは、何かおかしいとは思いませんか?保守の我々も、陽気に笑顔で暮らしましょう!!
外国人も、必ずしも個性尊重、個人主義という意味で我々と大きく違うようには見えないけど、社交という場での「おしゃべり」に、どの程度の意義を認め、いかに振る舞うか、という点において、若干差異があると思う。おしゃべりこそは、人生の楽しみとして、友人、家族との会話に、一番の意義を認める、この故に食事を共にする友人達との「社交」の場と、その場における気の利いた「おしゃべり」ができるかどうかが、重要視される。
おしゃべりで主導権を取ったり、時局を見事に分析して見せたり、何しろ皆を感動させうる議論を展開できてこそ、皆から尊敬されるのが、西欧社会だと思う。衣食住足りてその後は、会話を楽しむ!
例えば伝統社会のアイルランドでは、各人は、どこそこの村の○○家の三男坊、などという記号がまず周囲で認知されます。従って、同じコミュニティー(教会を同じくする村人)の人が、同じパブに集まって、酒を飲みつつ議論するときに、その議論の中で発言しても、年長者から「○○家の○○坊や」としてたしなめられ、その議論を一言の下で却下されることは、ありうる。村社会では、家柄で序列が決まっているから。
それでも、三男坊殿は、必ずしも黙るわけでもないし、次の日も議論を蒸し返すかも知れない。とはいえ、また長老で、名家の別の人間と議論しても、相変わらず周囲から、まあ出しゃばるなよ、という扱いを受けたり。
ともかく、田舎では序列が決まってはいるけど、必ずしも黙る必要もないし、議論し、喧嘩しつつも、結構毎晩仲良くわいわい!
まあ、こんな感じでしょうか。
日本でも同じで、頭さえ良ければ、村社会の中で徐々に頭角を現していけると思う。とはいえ、昔からの家柄がものを言う場面も多い?現代社会が進展する中で過去の家柄に伴う、金銭的格差も、社会的権威も弱まりつつあるし、下々だった昔の階層も、教育のおかげで頭脳とかでも上の階層と対等に渡り合える時代となってきて、家柄が悪いから黙る、という時代でもなくなった。英国でも、アイルランドでも、ますますそういう傾向にあると思う。
他方で、中東とか、東欧のジプシー社会では、部族長的な人が、富も権力もほぼ独占しているので、部族長に従順に振る舞わなければ、仲間内から追放され、明日から食うにも困る。羊のごとくおとなしくなるのは、そういう社会的背景だと思う。
昔、シリア人(35歳ほど)が、「自分は今でも親父が世界で一番怖い。親父の前では、何時も冷や汗をかいている。未だに、すぐに殴られる」と、中東の家父長制社会のあり方を述べていました。幼児から、「怖い親父」が頭に刷り込まれていて、今でもパブロフの犬のごとく、親父からの折檻への恐怖で、父親の前では萎縮してしまうのだ!
今の日本で、そういう昔の徒弟制度とか、家父長制時代のような、羊のごとく黙って従う必要性などは、あまりないと思うけど、そういえば、医師の世界では、一昔前まで、大学病院の教授などが、凄い権威で、部下の医師らが奴隷のごとく奉仕していたのだったかな?テレビドラマでそういうのがあったような。
日本人が無口なのは、往々にして、自らが日頃から頭を使って考えて、自分の意見を持つという、そういう訓練をしないからだと思う。なぜ意見を持たないかというと、社交の場で発言して、皆を説得できるような議論をできるようになるべき、という、そういう社会的背景がそもそも無いからだと思う。もっと日本人は、おしゃべり好きになりましょう。
そういえば、日本では、テレビのバラエティー番組が発達していて、島田紳助などが、時折凄く気の利いた発言をするけど、まあ社交の場での気の利いた議論とは、ああいう感じのものだと思う。やはり、自分自身の頭で、日頃から考えて、自らの思想をまとめていかないと、生きた言葉が生まれない。
意地悪どころか全くそのとおりでしょう。「個を認めないと批判する者」がどこでそれを発表してきたか、新聞、テレビなどのマスメディアなどではないですか。新聞社への寄稿が記事になる、テレビ出演できるコメンテーターになれるということは、その新聞社のデスクやテレビ局のプロデューサーに迎合しなければならないことぐらい、もうmugiさんはもちろん、ブログ寄生虫の私ですらお見通し。かつては本音トーク番組だった「朝まで生テレビ」ですら、20年をへて田原やプロデューサーに同調した意見しか取り上げられない「シナリオ番組」へと堕落してしまった。
いまどきテレビ、特に生番組でない収録もので出演者がその人の個性を発揮して本音トークしているなどとは思わない方がいい。特に東京キー局の番組については。某宗教団体や某芸能事務所が牛耳っている現状からすれば、それらに非難がましい発言などできるわけがないし、よしんばそういう発言をする豪気な出演者がいても、編集でカットされるのは自明の理である。