その①、その②の続き
ケマルのトルコ近代化政策は後にケマリズム(ケマル主義)と呼ばれたが、それは①共和制②民族自決主義③人民主義④国家企業主義⑤政教分離主義⑥革新主義の六つを柱にしたものだ。政教一体が大原則であり、21世紀の現代も宗教の重圧が著しいイスラム圏では、⑤の政教分離主義が、最も困難だった。救国戦争後ケマルは全国各地を遊説し、イスラム教そのものではなくカリフ制度を中心とする宗教勢力を攻撃した。
「新 生トルコは発展し、世界の強国と肩を並べる国にならねばならない。それには、まず祖国が滅亡の寸前まで追い込まれた原因の一つである、一切の古い制度を棄 てなければならない。新しいトルコは、新しい制度によってしか生きられないのだ。古い制度とは何か?それは政治や経済までが宗教勢力に支配されていた制度 である。彼らは堕落した特権階級であり、祖国と国民のことを考えぬばかりか、売国奴ですらあった」
ケマルの演説に人々は苦しかっ た救国戦争中にウレマ(神学者)、イマーム(導師)などの聖職者がどんな役割を演じたかを思い出した。彼らは皇帝の、「ギリシア軍は敵にあらず、ギリシア 軍に抵抗する者は反乱者なり」という布令を、カリフの命だと平気で民衆に伝え、「アンカラ政府一派は神の敵だ」と説いたのだった。
「宗教を利用する特権階級は、新生トルコに存在させてはならない。宗教は宗教、政治は政治というのが新しいトルコの精度でなければならない。宗教の本来の姿は、神と個人の直接の関係である。神の御名によって特権を振るう者や階級は諸君の敵なのだ」
オスマン・トルコ国民にとってカリフとは、カトリックのローマ法王同然だった。そのカリフ制をケマルは1924年、ついに廃止する。これには他のイスラム 圏にも動揺を与え、遠いインドのムスリムばかりか、アラブ人さえもがケマルに新たなカリフに就任してほしいと要請する者もいたという。ケマルが「これらの頼みをきっぱりと拒否し、他国の宗教問題に巻き込まれなかったのは賢明」(J.ネルー)で、以降様々な大革命に着手する。ケマルは「トルコを堕落させたのはアラブだ」とも言っており、周辺アラブ諸国とは特に距離をおく。
翌'25年、トルコ帽やヴェールの着用を禁止する。救国戦争中に女たちは看護婦やゲリラ活動なども行い、既に身動きの自由な服装で活動していたのでヴェー ル禁止はさほど抵抗なく受け入れられたが、トルコ帽廃止は混乱を引き起こす。房のついた粋なトルコ帽は実は19世紀初め頃に作られた帽子で、それ以前の成 人男子はターバンをしていた。トルコ帽は近代トルコのハイカラファッションの一つでもあったが、縁なし帽が好まれたのは、イスラムの聖職者が長いこと民衆 に、「キリスト教徒がつばやひさしのある帽子を被るのは、心に後ろめたいところがあり、神から顔を隠そうとするためだ」と説いてきたからだ。
トルコ帽廃止でケマルは強権を発動する。憲兵隊と警官はこの帽子を被っている者を発見するや、直ちに没収、抵抗する者は留置所に入れる。しかし、あくまで トルコ帽に執着した者は処刑された、などと欧米人作家が書いているのは大嘘で、せいぜいムチ打ちか、トルコ帽を着用しないことを条件に釈放された程度に過 ぎない。「頭にのせるものよりも、その下にある中身の方が大切」(ネルー)なのに、ケマルがトルコ帽廃止に執着したのは、コーランに根拠なく神学者が勝手 に作ったタブーでも、一旦民衆の間に根付いてしまえば、そのタブーの否定が大問題になるのがイスラム社会なのだ。それゆえ、封建制打破の象徴的な政策でも あった。
大統領に強制的に被らせられたにせよ、西欧式の帽子の方が強い日差しや雨に対し、ずっと便利だと民衆は身をもって知るようになる。
欧米人作家、特に英国人の書いたケマル伝の多くは、彼がアルメニア、クルド、ギリシア人のような少数民族を虐殺したかの如く描かれている。だが、これらの 少数民族の反乱を陰に陽に支援していたのこそ英国だった。反乱鎮圧はトルコにとって正当防衛に過ぎない。1925年2月、トルコ東部で起きたクルド人大反 乱の際、反乱軍はたちまち東部のいくつかの都市を占領し、至る所に「共和国を倒せ!スルタン・カリフ制を復活させよう!」とのビラを貼る。しかも、クルド人の持っていた最新式の武器の大半は英国製だった。「アラビアのロレンス」を思い出して頂ければ、英国ほどその種の工作に長けた国もない。
ケマルは非トルコ民族であれ、トルコ政府とその国法に忠誠を誓う者なら、トルコ国民と見なしたのである。やがてクルド人やアルメニア人でありながら、ケマル政権の大臣になった人々までいたのだ。ケマルへの「少数民族の虐殺者」は英国の宣伝工作だったと言える。
ケマルには欧米知識人を中心に独裁者という非難がされている。中東は現代に至るまで独裁的政権が大半だが、これは風土も影響している。中東は日本や西欧の ような農業社会と異なり、遊牧社会が色濃い。遊牧社会では強力なリーダーがいない場合には、部族そのものが分裂に陥るので、常に強力な指導者を必要とす る。それゆえ6世紀余も続いたオスマン・トルコ帝国では、ついに西欧のような世襲の貴族層が成立しなかった。いかに遊牧民でなくなり定住しても、その思想 は子孫に濃く伝わっている。
独裁者ケマルの面白いエピソードがある。1923年7月に合意したローザンヌ和平会議で新生トルコ共和国 は、旧帝国の負債の“棚上げ”を認めさせた。ケマルは苦しい国家財政にも係らず、旧帝国が外債という形で借りていた約一億六千万金貨リラ(現代の邦貨で軽 く十兆円は越す)の借金を、旧帝国の約束どおり利子をつけて返済し続ける。この借金を払い終えたのはケマルの死後16年目だった。この点、借金を踏み倒し たヒトラーやスターリンとは異なる。
独裁者といえば思い浮かぶスターリン、ヒトラー、ムッソリーニ、毛沢東…彼らはいずれも最前線に立ち、危険を顧みず指揮を取ったことのない人物ばかりである。国民を飢えさせて痛痒も感じない中国の紅い星とは実に対照的で、このような独裁者を生んだトルコも興味深い。
■参考:「ケマル・パシャ伝」新潮選書、大島直政 著
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ケマルのトルコ近代化政策は後にケマリズム(ケマル主義)と呼ばれたが、それは①共和制②民族自決主義③人民主義④国家企業主義⑤政教分離主義⑥革新主義の六つを柱にしたものだ。政教一体が大原則であり、21世紀の現代も宗教の重圧が著しいイスラム圏では、⑤の政教分離主義が、最も困難だった。救国戦争後ケマルは全国各地を遊説し、イスラム教そのものではなくカリフ制度を中心とする宗教勢力を攻撃した。
「新 生トルコは発展し、世界の強国と肩を並べる国にならねばならない。それには、まず祖国が滅亡の寸前まで追い込まれた原因の一つである、一切の古い制度を棄 てなければならない。新しいトルコは、新しい制度によってしか生きられないのだ。古い制度とは何か?それは政治や経済までが宗教勢力に支配されていた制度 である。彼らは堕落した特権階級であり、祖国と国民のことを考えぬばかりか、売国奴ですらあった」
ケマルの演説に人々は苦しかっ た救国戦争中にウレマ(神学者)、イマーム(導師)などの聖職者がどんな役割を演じたかを思い出した。彼らは皇帝の、「ギリシア軍は敵にあらず、ギリシア 軍に抵抗する者は反乱者なり」という布令を、カリフの命だと平気で民衆に伝え、「アンカラ政府一派は神の敵だ」と説いたのだった。
「宗教を利用する特権階級は、新生トルコに存在させてはならない。宗教は宗教、政治は政治というのが新しいトルコの精度でなければならない。宗教の本来の姿は、神と個人の直接の関係である。神の御名によって特権を振るう者や階級は諸君の敵なのだ」
オスマン・トルコ国民にとってカリフとは、カトリックのローマ法王同然だった。そのカリフ制をケマルは1924年、ついに廃止する。これには他のイスラム 圏にも動揺を与え、遠いインドのムスリムばかりか、アラブ人さえもがケマルに新たなカリフに就任してほしいと要請する者もいたという。ケマルが「これらの頼みをきっぱりと拒否し、他国の宗教問題に巻き込まれなかったのは賢明」(J.ネルー)で、以降様々な大革命に着手する。ケマルは「トルコを堕落させたのはアラブだ」とも言っており、周辺アラブ諸国とは特に距離をおく。
翌'25年、トルコ帽やヴェールの着用を禁止する。救国戦争中に女たちは看護婦やゲリラ活動なども行い、既に身動きの自由な服装で活動していたのでヴェー ル禁止はさほど抵抗なく受け入れられたが、トルコ帽廃止は混乱を引き起こす。房のついた粋なトルコ帽は実は19世紀初め頃に作られた帽子で、それ以前の成 人男子はターバンをしていた。トルコ帽は近代トルコのハイカラファッションの一つでもあったが、縁なし帽が好まれたのは、イスラムの聖職者が長いこと民衆 に、「キリスト教徒がつばやひさしのある帽子を被るのは、心に後ろめたいところがあり、神から顔を隠そうとするためだ」と説いてきたからだ。
トルコ帽廃止でケマルは強権を発動する。憲兵隊と警官はこの帽子を被っている者を発見するや、直ちに没収、抵抗する者は留置所に入れる。しかし、あくまで トルコ帽に執着した者は処刑された、などと欧米人作家が書いているのは大嘘で、せいぜいムチ打ちか、トルコ帽を着用しないことを条件に釈放された程度に過 ぎない。「頭にのせるものよりも、その下にある中身の方が大切」(ネルー)なのに、ケマルがトルコ帽廃止に執着したのは、コーランに根拠なく神学者が勝手 に作ったタブーでも、一旦民衆の間に根付いてしまえば、そのタブーの否定が大問題になるのがイスラム社会なのだ。それゆえ、封建制打破の象徴的な政策でも あった。
大統領に強制的に被らせられたにせよ、西欧式の帽子の方が強い日差しや雨に対し、ずっと便利だと民衆は身をもって知るようになる。
欧米人作家、特に英国人の書いたケマル伝の多くは、彼がアルメニア、クルド、ギリシア人のような少数民族を虐殺したかの如く描かれている。だが、これらの 少数民族の反乱を陰に陽に支援していたのこそ英国だった。反乱鎮圧はトルコにとって正当防衛に過ぎない。1925年2月、トルコ東部で起きたクルド人大反 乱の際、反乱軍はたちまち東部のいくつかの都市を占領し、至る所に「共和国を倒せ!スルタン・カリフ制を復活させよう!」とのビラを貼る。しかも、クルド人の持っていた最新式の武器の大半は英国製だった。「アラビアのロレンス」を思い出して頂ければ、英国ほどその種の工作に長けた国もない。
ケマルは非トルコ民族であれ、トルコ政府とその国法に忠誠を誓う者なら、トルコ国民と見なしたのである。やがてクルド人やアルメニア人でありながら、ケマル政権の大臣になった人々までいたのだ。ケマルへの「少数民族の虐殺者」は英国の宣伝工作だったと言える。
ケマルには欧米知識人を中心に独裁者という非難がされている。中東は現代に至るまで独裁的政権が大半だが、これは風土も影響している。中東は日本や西欧の ような農業社会と異なり、遊牧社会が色濃い。遊牧社会では強力なリーダーがいない場合には、部族そのものが分裂に陥るので、常に強力な指導者を必要とす る。それゆえ6世紀余も続いたオスマン・トルコ帝国では、ついに西欧のような世襲の貴族層が成立しなかった。いかに遊牧民でなくなり定住しても、その思想 は子孫に濃く伝わっている。
独裁者ケマルの面白いエピソードがある。1923年7月に合意したローザンヌ和平会議で新生トルコ共和国 は、旧帝国の負債の“棚上げ”を認めさせた。ケマルは苦しい国家財政にも係らず、旧帝国が外債という形で借りていた約一億六千万金貨リラ(現代の邦貨で軽 く十兆円は越す)の借金を、旧帝国の約束どおり利子をつけて返済し続ける。この借金を払い終えたのはケマルの死後16年目だった。この点、借金を踏み倒し たヒトラーやスターリンとは異なる。
独裁者といえば思い浮かぶスターリン、ヒトラー、ムッソリーニ、毛沢東…彼らはいずれも最前線に立ち、危険を顧みず指揮を取ったことのない人物ばかりである。国民を飢えさせて痛痒も感じない中国の紅い星とは実に対照的で、このような独裁者を生んだトルコも興味深い。
■参考:「ケマル・パシャ伝」新潮選書、大島直政 著
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しかし、常勝の将軍で名君。さらに宗教改革もやるなんて、確かにほかにはいない超一級の英雄ですね。
そして、やはり歴史は敵対国の為政者により書き替えられる。
歴史は一つしかないと思っている、どこぞのレフトサイダー達に聞かせたいですね。
以前、mugiさんも話されていましたが、日本人にケマルのような英雄がいないのは確かに残念ですが、そういう日本こそ、より健全だと思います。軍事にも宗教にも優れているケマルですが、その後の後継者は、、、。その後のトルコ史に興味が涌きました。
(勝手な解釈かもしれませんが、英雄が出ない社会は不幸だか、英雄が出た社会はもっと不幸だ、というような事をおっしゃっていましたね。ナポレオンを排出したフランスの事例等を考えますと、仰るとおりですね。
)
その②でもありましたが、人の死という意味を考えると、ドツボに嵌ってしまいます。もちろん、戦争に行って死ぬことは本望ではないですが、自国の窮状、身内や知人、友人等を守るために戦に赴く事に、誰が簡単に、愚か者と呼ぶことができるのでしょうか?
負け戦は特にそうでしょうけど、勝ち戦でも戦場に赴き、散った者を犬死呼ばわりする事には、強い憤りを感じますが、自分が同じ事をできるかと言えば、かなり否定的ですね。
「勇気とは、誰もが同じように持っているものだが、いざという時に踏み出せる、ほんの少しの差だ」というのにも、チ○ン・ハ○トな私でも、理解できますね(実践は、ほぼ不可能ですが)。
トルコに関心がない限り、硬くて長いと感じられるのは確実な記事を最後まで読まれて頂いて、ありがとうございました。
私は好きなことを追求する性質なので、贔屓する英雄について書くのは楽しいです。
英国側がケマルを悪く書くのは、覇権の野望を尽く潰されたからでしょう。オスマン・トルコから英国支配下に移ったイラクなど、混乱が絶えなかったから、統治能力としてはどちらが優れていたか、書くまでもありません。
「アジアからの視点」を強調するレフトサイダー達に限って、欧米史観を権威の拠り所としたがる。
『ケマル・パシャ伝』を書いた大島氏も、(英雄を必要とする国は、不幸だ)と本で言ってます。まさにケマルの登場した頃のトルコは、亡国寸前でした。凄まじい内憂外患、己の保身のためには平気で国と国民を売るような売国奴が蔓延っていたのです。その②で挙げたケマルの青少年への演説はそんな背景がありますが、これは他人事では決してありません。
我国にケマル級の英雄が現れるとしたら、未曾有の国難に陥っているでしょうね。
平時に平和な暮しを満喫している者が、戦に赴いた人を愚か者呼ばわりするのは簡単ですが、その平和を築いたのは当人ではない。平和の確立と代償はきれい事やタダでは得られないのを直視出来ない者こそ、正真正銘の愚か者ではないでしょうか?
大島氏はケマルの欠陥として、酒と女を挙げてましたが、凡人からすれば酒と女が大好きな英雄は好ましいです。
そして明治天皇の役割を一人でやったようなものですから凄いです。
超一級の軍事・政治の能力を持ちながら「なぜトルコの若者がエジプト
やイエメンで命を落さねばならない」という言い方で帝国主義を否定
したことは近代の他の独裁者とは対照的です。
ケマル後ですが、イスメト・イノニュが後を継ぎ第二次世界大戦では
中立を東西冷戦では西側を選択してしのいだことは評価できます。
内政はグダグダですが、ケマルの時代や日本と比較するからそう感じる
のかもしれません。
昨日、ケマルについて Web で調べていたら小説を見つけました。
「アタチュルクあるいは灰色の狼」
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/ataturk%20front1.htm
出版もされているようです。
仰るとおり宗教改革、産業革命、近代化を短期間でやった世界史でも稀有な人物です。
軍事面ばかりでなく、すごいと思うのは宗教が全てのイスラム圏でありながら、政教分離を断行できたのはケマルくらいです。エジプトのナセルなどはケマルを大変尊敬してましたが、改革が思うように進まなかったのは力量の差です。
ケマル自身は無神論者だったのは確かでしょうが、民衆を前に演説する時はしっかりコーランを引用してました。
ケマルと比較しなければイノニュは優秀な指導者だと思います。英国のカーゾンとのやり取りはニヤリとさせられました。カーゾンはインドでもトルコでも結局ヤラレましたね。
ケマルについて Webでも出ていたとは知りませんでした。情報、ありがとうございます。
業績やその言動を見るに、同じ独裁者であっても「ヒトラー・スターリン等とは根本的に異なる人物」であったようですね。
「民主主義の独裁者」というどう考えても矛盾していると思われる論理がキチンと機能して評価されたという不思議。
実子は1人もいなかったものの、7人の戦災孤児を養子にして育て、確か4女は「トルコ初の女性パイロット」となったはず。
「天才的な戦略家・戦術家」でありながら、「戦争嫌い」で戦いは全て「守り」。決して他国を侵略によって奪い取ろうとは考えなかった。
自らの神格化も嫌い、私腹を肥やすこともなく、また権力に対する固執もせずに自ら独裁者の地位を降りようとしたが果たせなかった。
このような点がおそらくただ1人の「成功した独裁者」「正しい独裁者」の異名を受けることになったのでしょう。
歴史上多くの独裁者が陥った「罠」に彼だけが嵌らずに済んだ点から
「独裁=悪」でなく、「間違った人間による独裁=悪」なのだと知る。
面白いことにケマルは、「軍人は政治に介入するな」と遺言しています。
優れた軍人は内政、外交が不得手な者も珍しくありませんが、ケマルは例外です。トルコ国内ばかりでなく、イランとアフガンが国境紛争を起こした時、大国の干渉を防ぐため、すばやく調停に乗り出し和解に成功させてます。第二次大戦後のインドのネルーなどが提唱した第三世界の団結による中立外交の魁でした。
第一次大戦後のトルコは、到底他国を侵略する余裕などなかったし、「天才的な戦略家・戦術家」でありながら、その国力を見極める目も持っていたのです。
ケマルが独裁者だったのは確かですが、これを批判するのは欧米、殊に英国人が中心です。彼にコテンパンにヤラレ、報復する機会もないフラストレーションが事ある毎にケマル非難になっているのかもしれません。トルコと“民主的な”英国の統治を比べれば、どちらが良かったか書くまでもない。中東支配に音を上げたチャーチルは、「領土をそっくりトルコに返した方がよかった」と言ったとか。