トーキング・マイノリティ

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医は仁術 展

2015-06-23 21:10:08 | 展示会鑑賞

 東北歴史博物館の特別展『医は仁術』を先日見てきた。チラシ表には「江戸の医から、未来を眺める」のコピーがあり、展示物の中心は江戸時代の資料や遺物だった。さらにチラシ裏では、「医の原点は江戸にあった!」「新発見!『杉田玄白の直筆の漢詩』『日本最古の解剖原図』世界初公開!」等の宣伝文句まであり、特別展への関心を煽っている。この特別展は全国巡回だそうで、展示物の多くには「国立博物館 蔵」の表示があった。

 特別展は5部構成になっており、第1章「病はいつの時代も、身分の貴賤なく人々を襲う」、第2章「東から西から~医術の伝来」、第3章「医は仁術~和魂漢才・和魂洋才の医」、第4章「近代医学と仁」、第5章「現代の医」の順に展示されていた。第1章名どおり、病は身分の貴賤なく人々を襲うのは現代も同じであり、独裁者でも病に倒れる。
 現代人でも新型ウィルスの出現でパニックに陥るのだから、満足な医療施設が無かった時代の庶民にとって、流行病はさぞ恐ろしかっただろう。はしかの神を擬人化して描いた江戸時代の絵もあり、はしかに罹ると流行病にはならないといった迷信もあったそうだ。

 江戸時代初期までの日本の医学は完全な中国医学の影響下にあり、中国の医学書を和訳したものを医学書としていたのだ。中国の伝説の聖王・神農像もあった。神農は野草を食べ、その効能を試したといわれており、中国では医薬の神とされている。自らの身体をもっての薬学実験の祖とも言えるが、現代中国からはこのような医者がかつていたことが信じられない。



 やはり最も面白かったのが第3章。特別展目玉の江戸時代の展示物はここに集中しており、おそらく来館者の大半も同じ感想だったと思う。上の画像は山脇東洋の観蔵図。重罪人の首切りが普通だった江戸時代なら、腑分け(解剖)に不足しなかったと思われがちだが、死者への冒涜や祟りを恐れてか、腑分けはあまり行われなかったという。



 それでも腑分けとなると、見物人が集まってきたというからグロテスクな見世物を好む心理は現代人と変わりない。山脇東洋の観蔵図はまだ素朴だが、リアルな腑分け図が何点か展示されており、上は最も凄惨な図。解剖と云うよりも“解体”そのものであり、医者たちは解体した人体や臓器をリアルに描いている。但し医師らは、腑分け後には罪人たちを手厚く葬っていたそうだ。
 
 杉田玄白の名は解体新書と合わせて知られているが、実は翻訳を完成させたのが仙台藩医・大槻玄沢だったことを特別展で初めて知った。会場では「解体新書を完成させたのは東北人」という表示があり、おそらく他の会場では見られない表示だろう。杉田玄白に大槻玄沢という弟子がいたことさえ、私は知らなかった。



 解体新書などにより人体内部の知識が一般に広まり、薬屋の看板や見世物用として「生き人形」が作られるようになり、上の画像がそれ。赤い腰巻姿から明らかに女の人形だが、微笑みを浮かべた顔の下に内臓を露出しているのは不気味だった。また第4章では西欧からの医療輸入品で、腕全体が赤い発疹に覆われた蝋細工もあり、これまたリアル過ぎた。
 世界初の全身麻酔による乳癌手術を成功させた華岡青洲の手術図もあったが、これよりも当時の医師たちが用いた医療器具のほうが迫力があった。作りは江戸時代のものとは思えないほど精巧でも、殆ど拷問道具に見えてくる。



 そしてエレキテルとは平賀源内だけではなく、他にも作られていたことを今回知った。それが上の画像で、医療用のエレキテルとか。整骨院などでは電気をかける医療行為が行われているが、コピー通りその原点は江戸にあったようだ。

 近代や現代医療を扱った第4章以降はあまり面白くなかった。3Dプリンターで作られた臓器モデルの展示もあったが、発疹だらけの蝋細工の方がインパクトがある。東北での特別展らしく近代東北の医療の歩みも紹介されており、現代の東北大学の前身校のひとつでもあった旧制第二高等学校医学部が取り上げられている。医学部初の卒業式の写真の展示があり、ひげを生やした学生も何人かいたが、面構えが今の学生とはまるで違う。同じ日本人でも19世紀末と現代では、かくも顔の表情が違ってくるものなのか…

 貧しく身寄りのない者は捨て置かれたというイメージのある江戸時代だが、一方で小石川療養所のような無料の医療施設もあった。その根底には「医は仁術」という精神があったはず。「医は仁術」という基本理念を失い、きれいごとと冷笑するのは現代人の“病”かもしれない。

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