その①の続き
9-07付で再び「スポンジ頭」さんから西洋史学者、山之内克子氏の池内紀氏に関するコメントが入った記事「SNSの時代に本を書くということ・・・新書「ヒトラーの時代」に思う」を紹介された。記事に目を通して感じたのは、ドイツ語を解するのは同じでも文学者と西洋史学者とは見識がかなり異なることだった。
山之内氏も池内氏とは面識があったが、同業者の松永美穂氏による追悼コラムとは違い、「ヒトラーの時代」での事実誤認を挙げ、「年代、人名表記、雑誌タイトルなど、ウィキペディアで探しても見つかるレベルの誤りが満載である」とまで述べている。
山之内氏はこれほどの誤り満載となったのは中央公論新社のずさんな校閲のせいではなく、「著者である池内さんが校閲を拒否したからであろう」というのだ。それが氏の考えうる答えであり、中央公論新社の校閲部は「これまで他社では経験したことがないほどハイレベル」と称賛している。
「もしも修正要求をするのであれば、それは出版社ではなく、著者の池内さんに向けてするべきだと思う」と、著者の責任に帰すのだ。特に興味深かったのは、池内紀氏個人に言及した箇所。
―池内紀さんには、2000年前後にウィーン関係の展覧会準備作業などで何度かお目にかかったことがある。とても優しく温厚な人柄を感じたが、他方、彼の翻訳を担当した編集者から伝え聞いたところによると、ご自身の文体や、原稿については、ある意味確固たる独自の美学のようなものを強く抱いておられ、明らかな間違いであっても、指摘や修正要求には頑として応じず、ときには編集者に土下座させるような場面もあったらしい。人づての話でしかないが、もし事実だとすれば、今回の騒動に無関係ではないだろう。
あえて人づての話を紹介しているが、このエピソードでは事実誤認だらけの著作となっても当然という思いだった。池内氏自身の性格もあろうが、売れっ子作家となると出版社もチヤホヤするため、かなりワガママが効くのは一般人でも知っている。まして学者という人種は実にプライドが高く、自分の誤りを容易には認めないことは有名。特に専門外の素人とみると、露骨に侮蔑感情をむき出しにする。
何年か前、日曜日昼にNHK-FMで放送されているトーク番組「トーキング ウィズ松尾堂」に、池内紀氏がゲスト出演したことがある。その穏やかな語り口からも、リスナーはいかにも温厚な紳士という印象を受けただろう。河北新報の追悼コラムにも、新作へのインタビューに答える今年1月付の写真が載っているが、まさに老紳士そのものだった。
しかし、家族には別の顔があったのだ。他ならぬ子息の池内恵氏が2015年1月21日付facebookで父のエピソードをバラしていた。2016-03-21付の記事でも取り上げたが、再び引用する。
「池内紀は昔はすごいキレた。怖かったよ。あっちがキレキレの40代の頃にこちらは物心ついて同居してたんだから、それはすごい怖かったよ。暴力をふるうわけではもちろんないが、ティーネイジャーの頃に、人生の深淵を深く鋭く突くようなセリフを食卓で毎日言われてみろ。ある意味すごい暴力だ。人格歪むよ。被害者は語るだ。できればすくすくと育ちたかった……」
内面と外面が極めて異なる人物がいるにせよ、40代の頃の池内紀氏は家ではキレやすかったのか。年を経て丸くなったかもしれないが、これでは時に編集者に土下座させることもあったという話も頷ける。さらに子息の恵氏は書評エッセイ『書物の運命』(文藝春秋)で語った家庭環境には仰天させられた。
「何しろ生家にはТVがなかった。父が「ドイツ文学者」なるものをやっていて、しかもかなり頑固だったので家にテレビを置かないというのである…私の場合、家庭内の環境としては「戦後すぐ」に等しかったことになる…
小学生の同級生の母親が「まあ教育のためによろしくて」と私の母に言っているのをぼんやり記憶しているが、明らかにこれは子供の教育のためではない。「ドイツ文学」などという周辺に追いやられる一方の部門に従事する父の、出版文化を脅かす華やかな新興メディアに対する僻み根性が嵩じたに過ぎなかっただろうと推測している…」
その③に続く
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