
参院選、選挙区(三重)は無所属の芳野氏に、比例区は立民の石川大我氏に投票した。小選挙区制の中で、自民が強すぎて野党が統一候補を出す。そのこと自体は否定しないが、そうなると私としては投票先は野党統一候補しかない。政策や実効性に多少疑問があっても、そうせざるを得ない。比例区があることで、一応、政党の政策を見比べたり、考えたりする機会が確保される。
なぜ、自民党に入れないのか。自民党が嫌いなのだ。候補で見ると、自民の吉川氏のほうが優秀な人物かもしれない、と思う。でも、心情的に自民党に入れることはできない。・・・と思っていたのだが、常にこれほど自民が嫌いだったわけではない、と気づく。たぶん、福田政権のころや、谷垣さんが総裁だった時代は嫌いではなかった。冷静に、他党と比べて、自民党のまともさを感じていたときもあった。ということは、安倍政権、安倍首相の自民党が嫌いだ、ということだ。
なぜ安倍自民党が嫌いなのか。福田さん、谷垣さんのころはOKだったのか。政策志向ももちろんあるが、話し方への嫌悪感も大きい。話している内容が入ってこない。独善的に感じてしまう。つまりは、共感できない。非寛容的に思える。
この寛容さ、多様性への志向、というのは、最近の私の中では重要な評価軸であり、今回立憲民主党はそのへんを志向する有権者をうまく取り込んでいたと思う。夫婦別姓、同性婚などの政策は、お金がかからないのだ。どんどん認めて、社会を強くしていけばよい。他方、伝統的な、お金のかかる政策(社会保障や公共事業、防衛など)は、野党の議論はへたくそすぎである。消費増税反対、でも対案はほとんど出していないも同じ。これでは、頭が悪いのかまともに考えていないのか、と思われても仕方がない。
上記の寛容さへの志向、というところで、今回はれいわ新選組に投票することも、正直迷った。ALSや重度障害を持つ人の立候補、その2人を特定枠に指名して、選挙運動をせずとも当選させるというのは、意味不明な「特定枠」という仕組みを今回導入した自民党の足元をすくったような、爽快なやり方であり、重度障害の人が当事者として国政に参加するということは、むしろ立憲民主党などほかの党がやらなくてはいけなかったことである。
では、なぜれいわ新選組に入れなかったのか。後悔しそうだと思ったから。特定枠の2人というより、山本太郎氏である。政策は「消費税廃止」「奨学金チャラ」といったもので、左派ポピュリズム的。簡単で、スカッとさせるような、それでいてやっぱり政策としては成立していないようなものを上手に訴えて煽る。今後それほど議席を伸ばさないのであれば、重要な多様性の一部であるが、もし議席が増えるようなことがあれば、一度でもこの政党の口車に乗って投票をしたことがある、と後悔してしまいそうだ。そんなこんなで、立民で、LGBT当事者の石川氏に投票した。
三重で、またも民主系が負けて、本当にがっかりである。田舎でありつつも反自民である、というところが、私にとって三重県の好きなところのひとつなのだ。なのに、素人目にも、みすみす体制を弱体化させているように思う。特に、伊賀や松阪で、現職の衆院議員の引退に伴って後継候補がいなかったり。衆院選でまともな候補を立てられなかったり。頼むよ岡田さん。
もともとは、「現代日本の思想」を読んだ後、「日本にリベラル思想が根付かなかったのはなぜか」という疑問のもとに、家にあったこの本を手に取った。その疑問の答えはないが、保守思想というものを理解するにはとても分かりやすい本だった。保守思想に基づくと、橋下徹は到底保守主義とは言えないし、原発政策は段階的な脱原発を訴えざるを得ない、などと現代トピックも題材となっている。
私の理解の範囲でまとめてみる。自民党が強い今の日本では、さまざまな事柄が「保守的」と捉えられているが、その多くは「保守」ではなく「右派的」「右翼的」なのであって保守的ではない。保守思想は、「現代の人々が享受する自由・社会の背景には、それを培ってきた先代たちの努力や試行錯誤があり、歴史や伝統を大事に、重要に考える」というもの。また、人々を単なる、均一的な「個人」と捉えることに抵抗し、それぞれの人の歴史、その人の家族の歴史など個々の背景を切り離さずに、その環境を含めて人だととらえる。だから、平等な社会を実現するために社会を「設計」しよう、個々人を平等化しよう、という左派とは相容れない。例えば、左派は、宗教団体などの持つ中間団体としての役割を否定し、直接国家とつながることを奨励する。保守では、宗教や伝統、地域というコミュニティ(=中間団体)が培ってきたものを大事にする。異なる他者同士の存在を認め、対話の中で答えを探っていくという、リベラルの思想も、保守と重なる。
精神科患者の地域移行や長期入院の回避が進められ、精神科病床を減らしていこう、入院を減らそう、というのが医療界の流れだと思っていた。そこからすると、閉鎖病棟や身体拘束は減っている、でもまだ残っている、ということなのかな、と。実際は逆で、身体拘束は増えているらしい。1週間以上、ほぼ24時間拘束され続ける患者もおり、その後にエコノミー症候群で血栓が詰まった結果、心不全で亡くなることもあるという。ニュージーランド人の男性が精神科入院直後に死亡したという事件は、報道でうっすら覚えている程度だったが、先日のハートネットTVで背景を知ることができた。
<iframe class="embed-card embed-webcard" title="急速に増える精神科病院での“身体拘束” - 記事 | NHK ハートネット" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.nhk.or.jp%2Fheart-net%2Farticle%2F14%2F" frameborder="0" scrolling="no"></iframe>www.nhk.or.jp
増加の要因としては、精神科病院での急性期患者の割合が増えている、認知症患者が増えている、ということらしい。統計的には出ていない。なぜ増えているか、ということより、まずは身体拘束の害、エコノミー症候群による死亡についてだけでなく、トラウマを抱え続けているという患者の話も紹介されている。
「精神科病院の身体拘束」カキコミ板ウオッチ 第1回 身体拘束の法的根拠 | 福祉の潮流 | ハートネットTVブログ:NHK
私も、閉鎖病棟の保護室にある身体拘束器具を見たことがある。もちろん使われていない状態のものだが。身体拘束をされたことがある、と言っていた人ものちの障害福祉事業所で会ったことがあるが、彼にあまり思い出してほしくないこともあり、深く聞かなかった。身体拘束、1週間。身体拘束がほぼ全くない国もある。病院の中での悪癖として、または人員不足の結果として行われている部分が多いように感じる。精神疾患の人と、対話によって向き合っていくということは相当な覚悟を要する場合も多い。でも、向き合わなければよくならない。すなわち身体拘束をしても、よくならないということであれば、下に紹介されていたように、「転倒などで身体を傷つける可能性もありますが、拘束しない、ということに同意してもらえますか」と家族から同意を得ること、そのことで、リスクはありつつも症状の改善を目指していくということ(他科の診療では極めて普通のことのように思う)が現実的ではないだろうか。
<iframe class="embed-card embed-webcard" title="認知症でしばられる!? ~急増・病院での身体拘束~ - NHK クローズアップ現代+" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.nhk.or.jp%2Fgendai%2Farticles%2F4083%2Findex.html" frameborder="0" scrolling="no"></iframe>www.nhk.or.jp
NHKのハートネットTVで特集されていた、精神科医療で行われている「オープンダイアローグ」。これを、「治療法」と位置付けて精神科でなされている様子が写されていた。患者、家族、医師、看護師、心理士などが輪になって話を聞き、時には医師らが自分の話もしたりして、対話をすすめていく。患者の話を聞いて、そこから少し視線を切り替えて、医師らがその話から考えることについて、考察を患者の前で意見を交わす。患者の前で、患者抜きの客観的なケース会議が開かれるような感じだ。
<iframe class="embed-card embed-webcard" title="【特集】変わり始めた精神医療 (3)“オープンダイアローグ”の可能性 - 記事 | NHK ハートネット" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.nhk.or.jp%2Fheart-net%2Farticle%2F233%2F" frameborder="0" scrolling="no"></iframe>www.nhk.or.jp
医師らが時間をかけて話を聞き、言葉を返す。治療法を決めるためだけでなく、その会話自体が治療になりうる。患者は小さな「?」を膨らませたり妄想化させたりしなくて済む。生活を変えたり薬を飲んだりすることへの理解も進み、病気と付き合う生活に前向きになれる。
これだよ!と思った。常々、「医者は短時間で精神科患者の何を見ているのだろう?」と思っていた。日常で関わる、たとえば日中活動サービスの支援者らは、時には家族以上に長い時間、彼らの様子を見て、言動を聞いて、今のはどういうことではないかな?病気の症状かな、性格の部分かな?などと考えながら対応する。誰だって、私だって、医者の前では違う、よそ行きの自分を演じていることがある。その「よそ行き」を見て、それがよそ行きだと見抜けるかもしれないが、では日常の部分を見通せるのか?
精神科患者に対して、「言葉に頼りすぎるな」と言う同僚がいたが、私は、言葉で会話、対話できることこそ、彼らの救いだと思っている。言葉を交わすことで、考え方を少し変えたり、考えを深めたり、ということができやすくなる。小さな変化を見ることができ、それが本人にとっても支援者にとってもうれしい。
オープンダイアローグ。果たして診療報酬上の評価はどうなんだろうか?そこらへんは
今度調べてみたい。
児童虐待のニュースは本当に胸に痛い。伝えられる情報から、その虐待場面を思い浮かべてしまうからだ。虐待する側の親がしんどい、共感できる部分がある場合もあるが、すべての場合で子どもは虐待されるべき理由はない。どうにかできなかったのだろうか、と考える人も多いだろう。
その具体的な方法について、効果があり、なおかつすでに機能している例がある、と知ったのが、月刊福祉(2018年12月号)である。図書館で借りて、返却直前の今日まで置いてあったもの。特集は「地域で支える子ども・子育て支援の展開」。
その方法とは、理由を問わない一時託児機関を設けること、である。保育園は、もちろん親が就労していたり病気があったりと「保育できない明らかな理由」が認められなければ利用者となり得ない。普段保育所を利用していない人が一時保育を使うのにも、定員などでハードルが高い。(保育園では一時保育を片手間的にやっているところがほとんどだと思う)。
大日向雅美さんたちがやっているNPO法人あい・ぽーとは、365日の一時託児所を2003年からやっているという。1時間800円程度の料金設定で、生後2か月から預けられる!!
<iframe class="embed-card embed-webcard" title="施設型一時保育事業「あおば」|子育てひろば「あい・ぽーと」" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fwww.ai-port.jp%2Faiport%2Faoba%2F" frameborder="0" scrolling="no"></iframe>www.ai-port.jp 子どもの家庭環境や育ち方は、接してみるとすぐにわかる場合が多い。託児してもらえば、子どもの様子も、親の様子もわかる。親の「預けたい」というニーズがあるから、自分から支援拠点に接触してくる理由になる。子ども食堂も、同じような機能があるのではないか。
あい・ぽーとは年中無休をうたっているが、特集では大分県福祉会が月に1回、日曜日にやっている子育てサロンも紹介されていた。月1日でも、子どもを安心して、だれにもとがめられずに預けることができれば、親にとっての意味はとても大きい。虐待のサインに気づくための発見機能だけでなく、親がゆとりを少し取り戻すことで虐待の予防にもなる。
うすうす、スポット的な託児サービスの意味の大きさには気づいていた。先日も、自分がいける範囲での「託児付きイベント」を探したばかり。多少興味が持てなさそうな後援会でも、子どもを預かってくれるなら行きたい。興味のない映画でも、ぜひ観たい。
託児サービスは、潜在的な可能性を秘めている。託児の利用だけでないところで、いつか関わってみたい事業のひとつだ。
大阪で拳銃が強奪された事件。犯人逮捕のニュースで、NHKは昨日の昼、「精神障害者福祉手帳2級を持っていた」と伝えた。「このタイミングで小出しに速報してくることか!?」と腹が立った。
新聞やテレビの事件報道は、やっぱりおかしい。わかったことをわかっただけ伝えてくる。それを競う。そのことが、多くの事実を読者・視聴者に伝えることになる仕組みだという面は理解しているが、事件の全体像を歪んで見せるという面の弊害は大きい。手帳の取得が伝えられ、「精神障害だからか」「2級だから事件を起こしたのか」と、犯行と結び付けるなというほうがおかしい。
ではどのように伝えればいいのか。ひとつひとつわかった材料を、のちの影響も考えたうえで、ボリュームの強弱を慎重につけながら伝えること。事件の全体像を早くつかむ、それを伝えることに重きを置くこと。こんなことしか考えられないが・・・。だいたい、起訴され、裁判で判決が下るまでは「容疑者」であり、全体像として見えてこないともいえる。確かにそれでは遅い。事件について最も世間の関心があり、事件について世の中の人が考えるタイミングというのは事件直後なのだ。
それでも、「情報についてのボリュームの強弱を慎重につけながら伝える」というのは基本においてほしい。それは、川崎のバス停で子どもと大人が刺された事件でもそう。
<iframe class="embed-card embed-webcard" title="「価値ある人間」の裏返し - ほっぷ すてっぷ" src="https://hatenablog-parts.com/embed?url=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fmreisende21%2Fe%2F0d252f3a874a37a8691c36bf0781ab66" frameborder="0" scrolling="no"></iframe>blog.goo.ne.jp そのことが、メディアとして価値を上げることになるはずだ。