以前、私と会話する人から、「話を体系建てることが上手ですね。」と言われたことがあります。約15年前のことです。
その当時、私はブログを熱心に行っていっため、「似たような内容を事前にブログで記事にしているからですよ。」と回答していました。
ブログで記事を書くことは、頭のなかの整理整頓に非常に役に立ちます。
また、ブログを読むことは、不完全な内容に対する検証努力などの考える力を養ういい教材になると思います。
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ただし、自分の中の未熟な理論を体系的に整理整頓にする段階のため、ブログは無料で行う必要はあると思います。
有料ブログなどの金銭的な対価を読者から徴収する仕組みがある場合、基本的に内容に一定の責任が発生するからです。
この事は、ある意味社会で生きていく上での「表現の自由の範囲内」と考えます。
内容が法律の範囲内のことであれば、「多少内容に疑問があっても、読者の側にも検証する必要性を感じてもらいたい記事」という前提条件付きの内容が、無料ブログであると感じます。
よく無料ブログの記事の内容が間違っていたことに、責任問題を声高に主張する方もいますが、無料で受けている自分の検証努力の怠慢にはどのように言い訳するのでしょうか?
責任問題を追求する行為自体が、本来社会的に許容されるべき範囲の「表現の自由」、「思想良心の自由」、「私的自治の原則」への弾圧などということにならないか考えるべきと思います。
強要罪等の刑事責任が訪われる場合もありますので、注意が必要です。
私は、むしろ真偽不明な無料ブログの内容を「科学的にかつ化学的」に検証した内容を、有料ブログや有料メルマガなどのメディアで販売することも一つの醍醐味と考えます。
さて、私の自主規制の一つではありますが、「いくら無料ブログとは云え、何でもかんでも垂れ流してよい」とは考えず、「とあることを根拠に理論構築」することは絶対にしてはいけないと考えます。
これは、無料ブログであっても予め無垢な読者の大切なものを「人質」に取っていることになるからです。
例えば、「亡くなった○○が、こう言ってます。」なんて言われたらどうでしょうか?「身の代金目的の誘拐(ゆうかい)」と同じに感じませんか?
「人質」を取られた無垢な読者は、「人質」を取り返すため、必死に「内容を検証する義務」を不当に負うためです。
内容が検証できない場合は、ひたすら黙り従うという屈辱的な弾圧を受けることになるからです。
これは、最初から人を黙らせ従わせることが目的の行為と判断しても差し支えないと思いますし、自らの持論の未熟さを、反証不能なことで覆い隠そうとする卑怯な手段と考えることができると思います。
また、怪しい団体などが、自らの論理の磐石な体系構築を目論見、Q&A等を作成するために未熟とも思える反証を収集しているとも受け取れます。
ここが普通の無料ブログの「検証する必要性を感じる」と性質の異なる新たに不当な義務を負わせることとなり決定的な違いと考えます。
では、有料ブログなどの有料メディアと「とあることを根拠に理論構築」した無料ブログではどうでしょうか?
一般的には有料ブログなどは、内容についても一定の責任が発生します。
読者が、内容についての適切な反証をした場合は、有料ブログなどの読者は何らかの責任は発生すると考えます。
検証が難しくてもジャーナリストや専門家などの検証のプロを利用することで、ある程度の検証は可能になります。
しかし、「とあることを根拠に理論構築」については、有料、無料の区別なく私は普通の無料ブログとは異なる一定の責任は負わせてもいいと思います。
なぜなら、「科学的かつ化学的」に検証のしようがないため、多くの無垢な読者はただ黙り従うという屈辱的な弾圧状態に陥らざるをえないからです。
勿論、私もこのようなブログ記事は掲載しませんし、その内容には注意して掲載します。
その「とあることを根拠に理論構築」とは、検証不能な神仏や先祖、スピリチュアル的な存在です。
はっきりいって、これを根拠に言われてもどうしようもありません。仏典や聖書、コーランなどの聖典の類を出されても、確定的な根拠となりえません。
先の記事でアラフィフ、アラフォー世代の考え方の底流について触れましたが、今もそれに苦しんでいる人はたくさんいます。
アラフィフ、アラフォー世代の底流にある考え方。 - Mr.Busーstop(バス運転士の日記)
1975年から1985年頃の10年間に出生した世代を一般的に団塊ジュニア世代といいます。また、1...
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「あなたの後ろには、○○の霊や神がついてます」的なことで、自信をつけたり凹まされた経験を持つアラフィフ、アラフォー世代の方も多数いると思います。
一般的に強迫による意思表示は取り消しうるため、このような検証不能なことで社会的混乱を未然に防ぐためにも、精神世界に係る表現に関し具体的な法規制などの対策も必要と感じます。