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日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ハガイ書

2018年08月18日 | Weblog
  ハガイ書  第2神殿建設の意義と栄光 
 
 はじめに

 ハガイ書の特徴
 ハガイ書はおそらく聖書の中でも1,2を争う短い預言書であろう。2章38節から成っている(1章15節、2章23節)。短くとも、その意義は大きい。第2神殿建設の経緯が描かれ、再建の意義と、失われた第Ⅰ神殿の誉と栄光のより一層の回復が描かれている。それは同時にイスラエルの民の悔い改めと、神への立ち返りでもあった。
これよりエルサレムの民の神の国への出発が始まる。
 作 者:預言者ハガイ=祝祭の男の意
 ハガイの活躍した時代:バビロンの捕囚後、ペルシャのアケメネス王朝3代目の王ダリヨス1世の時代。ダリヨス王第2年目の6月1日(BC520年8月29日)よりダリヨス王第2年の9月24日(BC520年12月18日)まで4カ月弱の間。極めて短い。
 預言した場所:エルサレム(エズラ記5:1~2参照)
 
  慨 節
 第1章:預言者ハガイの使命は、背信のイスラエルの民の中にあって、彼らの霊的な昂揚を呼びさまし、その心を神殿建設に向かわせることにあった。人々の心を霊的に鼓舞した。
 第2章:主はハガイを通じて総督ゼルバベルと大祭司ヨシュヤとイスラエルの残りの者を聖別して、第2神殿建設を命じた。自分は常にあなたと共にあるから強くあれ、と励まし、力づけ、彼らを再建へと導いた。再建の暁にはその誉と栄光が第Ⅰ神殿以上に回復されるであろうと預言し、反ユダの圧迫のない平和な世界=自由な神の国エルサレムの到来を預言した。主は、ゼルバベルを神殿建設の推進者として見るだけでなく、それ以上に霊的存在として考えていたことが判る。
 しかしハガイ書の段階では建設は完成していない。礎(基礎部分)が築かれただけである。しかし、主はこれに完成と同等の価値を置いた。その裏には神殿完成の確信があったからである。

 内容構成  
 (1:1~2)
 第Ⅰ部:神殿建設を促す覚睡預言(1:1~3)
 第2部:神殿における聖別についての預言(2:10~19)
 結 び:主の僕(しもべ)ゼルバベルの選びについての預言(2:20~23)

><第2神殿建設までの経緯

 
 
ハガイ書の歴史的背景
 イスラエルの信仰の対象としてソロモン王によって建てられ礼拝されていた第Ⅰ神殿は、バビロンのセンケナブリ大王によって破壊され、民の主だった者は、捕囚としてバビロンに拉致された。破壊された神殿は、その後、修復されること無く荒れるにまかされていた。主はその再建を、バビロンを滅ぼしたペルシャの大王クロスに命じたのである(Ⅱ歴代誌36:22~23、エズラ記1:2)。クロスは捕囚の民の帰還を許し、更に破壊された神殿の再建を彼らに命じたのである。
 しかし、神殿の再建は直ちに行われたわけでは無かった。ハガイ書の冒頭に語られているように、ペルシャの3代目の王ダリヨス1世の時代まで待たねばならなかった。周辺諸国の反ユダの諸勢力が神殿再建の妨害を図ったからである。クロス王の再建命令がBC539年、神殿建設に取り掛かった年がBC520年であるから、神殿建設は19年近く中断していた事になる(前ページの表参照)。この間の事情は「エズラ記」を参照。外部では反ユダの勢力が妨害していたように、内部では民が「主の宮を建てる時はまだ来ない(1:2)」と自分の生活を優先していたのである。
 ハガイ書は次の言葉から始まる「ダリヨス王の第2年の第6の月の1日に、預言者を通してシェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルとエホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような言葉があった(1:1)」「山に上り、木を運んで来て、宮を建てよ--------(1:8)」と。主は破壊された神殿の再建をゼルバベルとヨシュアの2人に命じたのである。2人は、背信のイスラエルの民の中にあって、その霊的な影響力を発揮し民を神殿の再建へと導いていくのである。
 
  エズラ記とハガイ書、その異同
 ハガイ書を読むとき「エズラ記」を併読して欲しい。捕囚から解放されたイスラエルの民の第2神殿再建までの物語がより詳しく描かれているからである。
 この書には、ペルシャの大王クロス、ダリヨス王、預言者ハガイ、ゼルバベル、ヨシュアが登場する。クロス大王以外はハガイ書と同じである。しかし神殿建設に至る過程は異なっている。より歴史的である。エズラ記では、神殿再建を妨げ、遅らせていた者として、反ユダの諸勢力が登場する。ハガイ書では神殿再建を遅らせていた者はイスラエルの民自身の背信であった。更に違いは、ゼルバベルとヨシュアの身分である。ハガイ書ではゼルバベルは、ユダの総督であり、ヨシュアは大祭司である。しかし、エズラ記では共に捕囚の地からの帰還に際し、イスラエルの民を先導した人物(エズラ2:2)として描かれている。神殿再建に重要な働きを果たしたことは、同じである。
 このように神殿再建にはハガイ書には内部の背信が、エズラ記には外部からの妨害があり再建は中断した。この中断の原因は取り除かれねばならない。ハガイ書では、ハガイは背信の民の再建に向けての霊的な昂揚を呼び起こし再建工事に向かわせた。それに反して、エズラ記の民は神に従順であった。しかし、エズラ記には神殿再建を快よしとしない反ユダの諸勢力が存在しており、神殿再建を妨害した。これと立ち向かい打ち勝つ必要があった。いずれにしてもハガイは、内外の敵と戦わねばならなかった。
 エズラ記における反ユダの勢力は、再建工事を行うイスラエルのペルシャ王に対する過去の悪を暴き、誹謗中傷を行い、再建を武力を持って中断させた。しかしユダヤの長老たちは、クロス王のイスラエルに対する神殿再建の詔勅を明らかにし、それが認められ、神殿再建の工事が再開した。「こうして、この宮(神殿)は、ダリヨス王の治世の第6年、アダルの月の3日に完成した(エズラ6:15)」のである。エズラ記にはハガイ書に見られるような民の主に対する背きは描かれていない。民の背信は預言書の特徴である。
 いずれにしても、神殿再建の仕事は順調にはいかなかったのである。

  各章ごとの説明
 序 章: ペルシャの王ダリヨスの時代に、主は預言者ハガイを通じてユダの総督ゼルバベル、大祭司ヨシュアに対し主の言葉(神殿建設)を告げる(1:1)。
 第1部: 神殿建設を促す覚睡預言:あなた方は現状を理解せよ。背信の民に対する主の警告と刑罰を通じて、主はいかにして背信の民を神殿建設へと奮い立たせたか、が描かれている(1:3~2:9)。
 
  神殿建設が遅れた理由
 第1部
 1、異教の神を信じていた(1:4)
 長年にわたる捕囚の生活、異教の国、異教の神、偶像崇拝(板張りの家1:4)
 2、帰還の民は貧しかった(1:6)
  「主の宮を建てるときはまだ来ない(1:2)」衣食足って礼節を知る。豊かになるまで待て。「自分の家のために走り回っていた(1:9参照)」
 3、世代交代が行われており、第Ⅰ神殿の栄光の輝きを知らぬ世代が多かった。「あなた方の目にはまるで無いに等しいのではないか(2:3参照)」神殿再建に意義を認めない若者の増大があった。
 このような背信の民の中にあって、主は言う「宮を建てよ、そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現そう(1:8参照)」と。民は、その言葉に従わず主の怒りを買った。主は自然災害(日照り)を起こし、民は飢餓と渇きに苦しんだ(1:10~11参照)。これらの災害を前にしてゼルバベル、ヨシュアは、主と預言者ハガイの言葉に従い、民は主の前で恐れた。ハガイは民の霊的高揚を呼び覚まし、神殿再建へと向かわせた。
 第2部:長年にわたる捕囚期間は、捕囚の民の間に世代交代を引き起こし(2:3)、第Ⅰ神殿の栄光の輝きを知らない世代を生み出していた(2:3)。彼らは第Ⅰ部で述べたように他国の神=偶像崇拝に陥っていた。このように多くの神殿再建を押し止めようとする要素に囲まれ、神殿の再建は危機的状況に陥っていた。しかし、主は諦めることなく選びの民を力づけて言う。「ゼルバベルよ強くあれ、ヨシュアよ強くあれ、この国の全ての民よ強くあれ。(神殿建設)の仕事に取り掛かれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ(2:4参照)」「あなたがたがエジプトから出て来たとき、あなた方と結んだ約束により、わたしの霊があなたがた間で働いている。恐れるな(2:5)」。と、子々孫々の増大繁栄の契約を保証する。「この宮のこれからの栄光は、先のものにまさろう。--------わたしはまた、この所に平和を与える(2:9)」と神殿再建の暁には、この宮はより一層の栄光で満され、平和が到来すると約束する。イスラエルの民はその言葉に励まされ、神殿再建の工事に取り組む。かくして、その基礎(礎)部分は完成する。ハガイ書には神殿完成の叙述は無い。しかし主は礎の据えられた日に対し神殿完成と同価値を与える。
 神殿の基礎部分の完成を境にして預言は先と後の2つの部分に分けられる。先は民の背信の時代であり、民も背き、祭司も背いた。その結果神の怒りに触れ、不作が続き、民は飢え渇き苦しんだ(2:16)。神殿の基礎部分の完成の後は、主は、それを主に対する信仰の回復と評価し、その罪から解放する。礎の構築は、民の悔い改めと神への立ち返りの証しだったのである。その結果、多くの実りが約束された(2:19)。
 結 び:主の選んだメシア(ゼルバベル)によって、神殿は完成する
 2章21~23節はユダの総督ゼルバベルに語られた預言である。主はゼルバベルに次のように語る。「わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る------わたしはあなたを印形(いんぎょう)のようにする。わたしがあなたを選んだからだ(2:23参照)」。主がゼルバベルを選んだということは彼を通してメシアを遣わされる神のご計画があるからである。「もろもろの王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車とそれに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる(2:22)」。主のご計画を妨げる者は滅ぼされ、平和が訪れる。まさに、ゼルバベルによって第2神殿が再建されることは、主のこれからの後のご計画において印形(約束の保障の印)となるのである。
 このように、ハガイ書は、総督ゼルバベルを主のしもべとして立てるという終末論的メシア預言で終わっている。

平成30年7月10日 報告者 守武 戢 楽庵会
 

ゼパニア書

2018年07月16日 | Weblog
  ゼパニヤ書
 はじめに
 アッシリアの支配下、南ユダ16代目の王ヨシアの時代、王族の系統に繋がる預言者ゼパニヤに主の召命が下る。その言葉を記したものがゼパニヤ書である。
 ゼパニヤは「主の日」を「さばき」の到来する日と預言しているが、その範囲はイスラエルだけでなく、その周辺諸国にも及んでいる。その周辺諸国とは西はペリシテ、東はモアブ、アモン、南はクシュ(エチオピア)北はアッシリアであり、いわゆる反ユダ反イスラエルと呼ばれている諸国である。
 第1章ではイスラエルが「反逆と穢れに満ちた暴力の町」と見做され、第2章では周辺諸国が「神をないがしろにしておごり高ぶり、主の選びの民をそしり侵略した」として、主が、これを罰した。3章ではゼパニヤ書の纏めと言ってよく「さばき」と「回復」が語られている。「さばき」は主の家から始まる、と言われているようにそれはイスラエルの民に対する主の愛を現している。主は愛する者を厳しく諫める。それゆえ、主はイスラエルの罪を厳しく罰しても、これを滅ぼしたりしない。「さばき」の中から悔い改め、主に立ち返った者を「残りの者」として回復するのである。選びの民は回復されるが、反イスラエルの周辺諸国は決して回復されない。これが主のご計画における統治の原則である。反イスラエルの諸国は滅ぼされ、イスラエルを脅かす者はもはや存在しない。主は喜び、民も喜ぶ。主の喜びは民の喜びであり、民の喜びは主の喜びである。
 主のご計画は決して「さばき」で終わるのではなく、新しい主の民(残りの者)を確立させるためにある。その彼方に新天新地があり、神の似姿がある。喜びの声でゼパニヤ書は終わっている。他の預言書と同じく「さばき」と「回復」、これがゼパニヤ書の主題である。

 歴史的背景
 善王として名高い父王ヒゼキヤの後を継いだマナセ、アモンは背教の王として有名である。彼らは自己保全のためアッシリアに頼り、主に頼ろうとはしなかった。彼らの後を継いだヨシア王は、マナセ、アモン(暗殺)の背教を正し善政を敷き宗教改革を断行する。このヨシア王の治世の初期にゼパニヤは主から召命を受ける。彼は王と共に改革に関わったであろう。しかし、マナセ、アモンの背教の後遺症は甚だしく主の怒りを解くことは出来なかった。主は怒り「私に帰れ」と勧告する。その当時の様相がゼパニヤ書には描かれている。さらに、ヨシア王はエジプトとのメギドの戦いに戦死し、その改革は道半ばにして挫折する。ヨシア王の後を継いだ王たちも拉致されたり、傀儡政権になったりでイスラエルは急速に滅びへと進んでいく。彼らは決して主に立ち返ることは無かった。歴史的結果は滅びであってゼパニヤ書に描かれているのような救いでは無かった。
 北王国は既に滅び、南ユダ王国も滅びの運命にある時、ヨシア王の治世下の初期に王(ヒゼキヤ)の身内であるゼパニヤがイスラエルに対して、主の「さばき」と「回復」の言葉を語ったのである。

 イスラエルの歴史は主と民との葛藤の歴史であり、主は民の罪をさばき、これを罰する。しかし主はイスラエルがどんなに自分に逆らおうとも、これを滅ぼそうとはしなかった。それどころか、一貫として取り戻そうとしてきた。本来において人間を人間たらしめているものは何か。人は神の似姿として生まれて来た。だから人の心の底には神が存在している。その心の神は原罪によって潜在化し、隠されたが、消失したわけではない。それは悔い改めによって蘇る。イエスの十字架の死と蘇り、そこに原罪からの解放がある。遠い遠い将来、人は神の似姿を取り戻す。

ゼパニヤ書の内容構成は次の3つに分類される。
1.主の怒りの日、ユダに対する「さばき」の宣告と悔い改めへの勧告(1:2~2:3)。
2.ユダの周辺諸国(アッシリア、モアブ、アモン、クシュ=エチオピア、ペリシテ)に対する、主の「さばき」の宣告(2:4~3:8)。
3.エルサレムに対する回復の預言。シオンの娘よ、喜び歌え(3:9~20)。

  章ごとの説明
  1章1節~2章3節 
 「ユダの王、アンモンの子ヨシアの時代、クシュの子ゼパニヤにあった主の言葉」とあるようにアッシリアの支配下ヨシア王の時代にゼパニヤに主の召命が下ったのである。1章は主の厳しい怒りの言葉から始まる。ヨシア王はマナセ、アモンの長年にわたる(56年)背教の結果、退廃した国を引き継ぐ。ヨシア王は改革を行うことによって主の意向に沿って退廃からの解放を試みる。主の怒りの激しさから判断してゼパニヤが預言したのは改革以前の退廃した社会に向けてであることが判る。「さばき」の主題はバアル信仰であり、おごり高ぶりであり、神殿聖娼であり、異教の神モレコム礼拝であり、主に対する不信仰に対してであった。また長年にわたる親アッシリア政策は文化的にも異教的慣習に染まっていた。これら全てを取り除くと主は宣言する。これらは主の日に行われる。主の日にイスラエルの民は激しい怒りに接する。この日は苦難と苦悩の日であり、荒廃と滅亡の日であり、闇と暗黒の日であり、雲と暗闇の日であり、角笛と鬨の声の日であり、城壁のある町々と四隅の塔が襲われる日である。金銀財宝はこの罪から解放することは出来ない。しかし主は「主の日」に「さばき」だけを行うわけではない。主の「さばき」が訪れる前に悔い改めるならば、神に立ち返るならば主は定めを行う。主は怒りを治める(2:1~3参照)。残りの者の思想がこの時現れる。

 言 葉
ゼパニヤ:南ユダのヨシア王の時代、主によってユダの民を救うために召命された預言者。エルサレムと、その周辺諸国に対して「さばき」と「回復」を預言する。ヒゼキヤ王に繋がる由緒正しき預言者(異論もあり)。
残りの者:イスラエルの民は、主に逆らい退廃していた。そんな中にあって主を尊び、敬い、信仰して従う者があった。主はこれらのものを聖別して「残りの者」と呼ぶ。
残り者の思想はイザヤ書において顕著に表れる。「残り者の思想」とメシアとの関係は極めて重要である。主との契約を破棄した不義なるイスラエルの民に主の審判が望むが、その民の中からあたかも切り株から生命が芽生えるように「残り者」と言う少数の真のイスラエルが生じて聖なる末を形作る(イサヤ6:13)この聖なる末こそ、もう再び、自分を打つ者(アッシリア)に頼らずイスラエルの聖なるお方、主にまことを持って頼る残りの者、ヤコブの残り者は、力ある神に立ち返る。たとえ、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち帰る(イザヤ10:20~22)者たちである。この「残り者」こそ、メシア王国(千年王国)、及び、「永遠の御国」における「新しい聖なる都」の成員となる。
「私を待て」:ここには終末論的待望論がある。主は自分自身にも「待」て、と言う。主は、民の悔い改めと、主への立ち返りを待ち、民は、主の恵みを待つ。

2章4~15節 ユダの周辺諸国に対する審判預言
 周辺諸国とはイスラエルを取り巻く反ユダヤ主義の国々を指し、これらの国々対する主の「さばき」の預言が第2章で語られている。その国々とは、西は、ペリシテ(海辺に住む者たち、ケレテ人の国、ペリシテ人の国カナン)でカザ、アシュケロン、アシュドデ、エクロンがその範囲内にある。東はモアブ、アモン、南はクシュ=エチオピア(含むエジプト)、北はアッシリアを指している。
ユダの周辺諸国に対する審判預言


第3章 エルサレムへの「さばき」とその回復
ゼパニヤの活躍した時代は、アッシリア支配による覇権の続いていた時代であり、彼はその力を誇り、おごり高ぶっていた。他方イスラエルはアッシリアの支配下、真の神はそこにおらず、反逆と穢れに満ちた暴力の町に成り下がっていた。不正を行うものは恥を知らない。呼びかけを聞こうともせず、主に信頼せず、懲らしめを受けようともせず、主に信頼せず、神に近づこうともしない。神は怒りこれを罰する。しかし回復の道を用意している。選びの民を滅ぼさない。悔い改め主に立ち返るならば「その住まいは断ち滅ぼされまい」。そのためにはイスラエルを罪に貶めている反ユダの諸国は滅ぼされなくてはならない。主は言う「その日を待て」と。主の日は決して「さばき」だけで終わるのではなく、新しい主の民(残されたもの)を確立するためにある。
 唇を変えて清くする 「その時わたしは、国々の民の唇を変えて清くする。彼らはみな主の御名によって祈り一つになって主に仕える(3:9)」。清い唇とは、純正な言葉、唯一の真理を現し、神によって変えられた唯一の言葉を意味する。バベルの塔の事件によって散らされた言葉は、ここに、再び、統一される。言語の統一は諸国の民を共通の言語でまとめ、主に祈ることを可能とする。言葉の違いによる相互不信は無くなり、主の定めの日に主の家の構築を可能とする。
 「クシュの川の向こうからわたしに願い事をする者、私に散らされた者たちが贈り物を持ってくる(3:10)」。贈り物とは悔い改めと、神への立ち返りの言葉を指している。それ故、「その日には、あなたは、私に逆らったすべてのしわざのために、恥を見ることは無い(3:10)」のである。
 主の日、主は選びの民を聖別する。「あなたの中から、おごり高ぶる者どもを取り去り」「へりくだった寄るべない民を残す」と。「彼らはただ主の御名に身を避ける(保護を求める)。イスラエルの残りの者は不正を行わず偽りを言わない--------。彼らを脅かす者はいない(3:11~13参照)ここには最後の審判が描かれている。主に逆らうものは滅ぼされ、主に忠実な「残された者」が残されるのである。
 3章14~20節にはイスラエルの神とその選びのイスラエルの民の回復の喜びが描かれている。その日、エルサレムは(主から)こう言われる「シオンよ恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主はあなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びを持って、あなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌って、あなたのことを喜ばれる(3:16~17)」と。主はメシア王国の時に、主は恩寵として選んだシオンの娘(エルサレム)を単に「集め」、「連れ帰る」だけでなく彼らに本来与えられていた名誉と栄誉という特権を回復して下さるのである(3:20参照)
平成30年6月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

ハバクク書 神と預言者の対話

2018年06月22日 | Weblog
 ハバクク書  神と預言者の対話

 はじめに
 ナホム書がアッシリアの首都ニネベに関する預言とするならハバクク書は、このアッシリアを滅ぼし、イスラエルに侵攻してきたカルディラ(バビロン)に対するハバククの預言である。この預言書はBC612年に書かれたと言われている。
どんな苦境下にあっても正義の神=主への信仰に生きる者は救われる、というのが「ハバクク書」の主題である。しかしこれだけなら他の預言書と変わりはない「さばき」と「回復」である。小預言書はそれぞれ特色を持っている。「ハバク書」の特徴は、その預言が、神から預言者へという一方通行型では無く、預言者が主に問い、主がこれに応えるという双方向型である。
ハバククはバビロンの圧政に苦しむイスラエルの民を代表して、何故、異教の国バビロンを滅ぼし、神の民イスラエルを救わず沈黙を保っているのかと主に問う。この問いから「ハバクク書」は始まる。主はその沈黙の理由を明らかにする。
 
 
ハバクク書の主題
 主は応答してその理由を明らかにする。「--------。しかし正しい人は、その信仰によって生きる(2:4)」。
そこには2つの「さばき」があった。
1、ハバククの生きるイスラエルの罪に対する「さばき」であり、もう一つは
2、暴虐の民「反ユダ、反メシア」のカルディアに対する「さばき」であった。
両者ともに、正義の人でなく、信仰の人でもなかったのである(1:7)。その意味では両者は同罪であった。
主はイスラエルに対するさばきの鞭として杖としてバビロンを用いた。主はイスラエルの悔い改めの時間を用意したのである。それが沈黙の理由であった。しかし、この裁きの鞭であり杖であったカルディアは、高慢となり、「我は神なり」と宣告するに至り、主は怒り、これを滅ぼすと宣告する。神の民イスラエルは救われ、自分を神と見做し偶像の神を信じて、暴虐の限りを尽くす者は滅ぼされる。
激動の歴史の真只中で反ユダ、反メシアが滅び、主の義が確立され、主のご計画が実現することをハバククは切に祈り求めたのである。
「しかし、私は主にあって、喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私を高いところに歩ませる(3:18~19)」
 

 内容構成:ハバクク書は3章56節から成る
 表題(1:1)
 第Ⅰ部:ハバククの嘆きと、主からの応答
 1、預言者ハバククの嘆きと、カルディア人来襲の預言(1:2~11)。
 2、主に対する訴え(1:12~17)、→預言者ハバククの疑問
 3、主からの応答(2:1~20)→預言者ハバククの待望と主の応答
 第2部:ハバククの祈りと讃歌(3:1~19)
 1、讃歌の表題(3:1)
 2、主に対する祈りと讃歌(3:2~19A)
 3、結び(3:19B)
 
 
各章ごとの説明  
 第1章:
 ハバクク書の1章にはバビロン占領下の悲惨な状況が描かれている。このような状況下ハバククは主に救いを求めている。「あなたはいつまで聞いて下さらないのですか、あなたは救って下さらないのですか」と。主の正しい統治を求めたのである。バビロンの統治下、律法は機能せず、イスラエルの社会は無法地帯に貶められていた。暴虐と暴行が闘争と争いが社会を覆っていた。それ故、正しいさばきは無く、悪しきものが幅を利かせ、正しきものがさばかれていた。しかし、主は沈黙を守りバビロンの悪を放置していた。なぜか、イスラエルはこの悲惨な状況を神のみ業と理解せず、悔い改めも無ければ、神への立ち返りも無かったからである。そんなイスラエルに主は言う「わたしは一つのこと(バビロンの捕囚)をあなたの時代にする。それを告げられても、あなた方は信じまい。見よ、私はカルデア人を起こす(1:5~6)」と。
主は言う「あなた方は信じまい」と。不信仰なイスラエル人にはこの裁きが理解できないであろうというのである。ハバククは主に言う「主よあなたは昔から私の神、私の聖なる方ではありませんか、私たちは死ぬことはありません。主よ。あなたは「さばき」のために彼を立て、岩よ。あなたは叱責のために彼を据えられました(1:12)」。主は選びの民を罰しても決してこれを滅ぼすことは無い。アッシリアもバビロンも、主の「さばき」の鞭であり杖だったのである。しかし主の沈黙の間、バビロンはその罪を拡大し、高慢となり自分の力を自分の神としたが故に、主の怒りを買い、滅びの運命を辿ったのである。「それ故、彼(バビロン)はその網を使いつづけ、容赦なく諸国の民を殺すであろうか(1:17)」とハバククは言う。これは明らかに反語でありいつまでもその圧政はつづかないよ、とバビロンの滅亡を暗示するのである。
 
 第2章: 第2章の私は第1章で、悔い改めた私である。その私が主の応答を聞いたのである。「幻を板の上に書いて確認せよ。これを読むものが急使として走るために。この幻は定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしは言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることは無い(2:2~3)」。
定めの時:終末。主の「さばき」の時。正しいものは天に、悪しきものは地の下に落される。主は高ぶるものには「さばき」を告げ、主を信頼し、「待ち望むもの」には恵みを用意しているのである(2:4参照)。
主はバビロンに対し5つの災害預言をする

 
 第3章: 
 3章は、「ハバククの詩篇」と言われている。セラという音楽用語が使われ、文章は韻を踏んでいる。最後には、「指揮者のために弦楽器に合わせて(3:19B)」。と書かれているので、この章は弦楽器に合わせて唱和されたであろう。
 3章は2つに分けられる。
1、1節~15節 ご自分の民を救うために出てこられた主。
2、16節~19節 「さばき」の苦難を、くぐり抜けた民に対する救いの預言。
 神の臨在が現されるのは、反ユダ、反メシアを滅ぼして神の民を救うためである。その顕現と働きを自然界の描写によって現している。これが旧約聖書的な神の顕現を現す表現である。
 3章の冒頭でハバククは主に祈る「主よ、あなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それを繰り返して下さい。この年のうちにそれを示して下さい。激しい怒りの内にも、あわれみを忘れないでください(3:2)」と。御業を恐れるとは悔い改めを現している。ここには神の民イスラエルと、反ユダ、反メシアに対する主の怒りが示されている。反ユダ、反メシアに対する「さばき」と、悔い改めたイスラエルに対する憐れみをハバククは主に乞うている。
 
1、ご自分の民を救うために来られた主。
  主は必ず来られる。1~15節の間に「来られます」という言葉が5回出てくる。
 3節:神はテマンから来られ、聖なる方はパランの山から来られる。
 8節:あなたは馬に乗り、あなたの戦車に乗って来られます。
 13節:あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油注がれたものを救うために出て来られます。
 この言葉から主の来臨は、反ユダ、反メシアを滅ぼし、神の民イスラエルを救うため
であることが判る。
主の顕現によって現された「さばき」。
主は自分の民を救うために3つのことを成される。
1、13節の後半:あなたは悪ものの家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。(裸にされます:根源的部分を露わにすること)。
2、14節:彼らは---私をほしいままに追い散らそうと荒れ狂います。(悪あがき)。
3、15節:あなたは、あなたの馬で海を踏みつけ大水に、泡を立たせられます。
(馬=神の力の象徴、海、大水=聖書では、神に敵対する勢力を現す)。

2、「さばき」の苦難を、くぐり抜けた民に対する救いの預言。
  16節には、主の「さばき」を前にして、反ユダの勢力による最後の抵抗が描かれている。「彼は----私を欲しいままに追い散らそうと荒れ狂います(3:14)」。そこには滅びを前にしての「悪あがき」がある。
 その悪あがきがイスラエルの民を苦しめる(3:16)。しかし、主の「さばき」の日=終末は必ず来る。それを「私は静かに待とう」。それが1章における「いつまでも聞いて下さらないのですか」の主の応答であった。主は、「時が来るまで待て」と私にお命じなったのである。
 17節には終わりの日を前にしてのイスラエルの破滅的な危機(大艱難時代)が描かれている。しかし、それは主の再臨の前兆でもあった。この破滅的な危機の後に反ユダは滅ぼされ「千年王国」「新天新地」が予計されている。
 「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。私の主、神は私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高いところを歩ませる(3:18~19)」。
 ハバククは高き所(エルサレム=シオンの山)に立ち神のご計画の全体像を見ることが出来たのである。

 まとめ
ハバクク書は、主に対する預言者ハバククの「暴虐の民」反ユダ=バビロンを何故滅ぼさず沈黙を守っているのか、という問いかけから始まり、その問いかけに応じて反ユダの勢力を滅ぼした主に対する賛歌で終わる。
神の応答は2段階で行われた。1回目は罪に満ちていたイスラエルに対する「さばき」である。主は「さばき」の鞭であり、杖としてバビロンを用いたのである。沈黙は、イスラエルが悔い改め、神に立ち変えるための猶予期間だったのである。それ無くしては、第2段階の反ユダ=バビロンに対する「さばき」はあり得ない。神に従ったものは救われ、逆らった者は滅びるのである。
さて、3章の最後の最後の言葉「私に高いところ(エルサレム=シオンの山)を歩ませる」を考えてみる。主はハバククに対し高い所から眼下に広がるすべてを見渡せと言うのである。神の目を持てと言うのである。そこには無限の広がりと、永遠の時間がある。宇宙空間である。それは神の国である。主は言う「わたしはαでありΩである」と。聖書的にいえば「創世記」から「黙示録」までである。ここには、主のご計画の全体像がある。黙示録は終末から始まる。
神のご計画はどのように終わりどのように始まるのか。(終始)。
1、混沌の終わりと、大地の創生。
2、アダムトエバの楽園からの追放と、人類(原罪)の始まり。
3、「洪水」による人類の終わりと、新しい家族の出発。
4、「バビロンの捕囚」の憂き目と、トーラ(律法)による新しい民の回復。
5、イエスの十字架による死と、復活
6、反キリストによる大艱難時代の終わりと、トーラ(律法)による新しい民の復活。
7、白い御座における最後の審判と、天から降りてくる新しいエルサレム。
ここに神のご計画は完成する。

 ハバクク書の歴史的背景
1、エジプトとの戦いでヨシア王戦死(BC609年)。
2、エオアファズ(ヨシア王の息子)即位、エジプトにより廃位、在位3か月。エジプトに連行され、この地で客死。
3、イエホヤキム(エオアファズの兄弟)エジプトの傀儡政権となり、これに隷属。
4、アッシリア・エジプト連合軍とバビロン帝国との戦い。――イエホヤキムは中立を保つ。
5、連合軍の敗北。
6、イエホヤキムは身の安全を図って、バビロン帝国に朝貢。時の王=ネブカドネザルに隷属。
7、やがて、バビロンからの自立を図り、これに敵対。カルケミシュの戦いに敗北。
8、バビロンのエルサレム侵攻。
9、イエホヤキムは捕囚としてバビロンに連行さる。後に解放。
10、解放後イスラエルを統治。
11、バビロンによるイスラエル侵攻を許し、エルサレムの神殿は破壊され、次王ゼデキアと共にバビロニアに連行される。
 この後、イスラエルは滅亡する。
 このような激動期にハバククは活躍し、イスラエルの悔い改めと、バビロンの滅びを預言したのである。 これらの歴史的背景を知る為には、列王記Ⅱ(23:1~30)、と歴代誌Ⅱ(36:1~26)を読んで欲しい。この後、ハバククは主のご計画が実現することを願う。ここでハバクク書は終わる。
平成30年5月8日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

ナホム書 ニネベの滅亡

2018年05月27日 | Weblog
ナホム書  ニネベの滅亡

  はじめに
 本書の主題は、主の正義を歴史的に証明することである。すなわち、アッシリア帝国は不信仰のイスラエルを裁く杖として主によって用いられたが、その杖としての限度を超えて高慢となり、横暴を極めた結果、バビロン(主)によって滅ぼされた。さ前半ばきの杖は自らにも向けられたのである。本書はBC615年に書かれたものと言われている。
その内容は3つに分けられる。
 1.主の正義の宣告(Ⅰ章1~15節)
 2.主の正義の実証(2章1~12節)
 3.アッシリアの首都ニネベの罪とさばき(3章1~19節)
 神を恐れず神の愛を踏みにじるものには、必ず大きなさばきがあることを忘れてはならない。

 ヨナ書とナホム書
 本書にはアッシリアの首都ニネベに対する「さばき」の預言が描かれており、主のご計画を妨げるものは必ず滅ぼされるという聖書の基本に立ち返っている。しかし、我々は先に「ヨナ書」を読んでいる。ヨナ書では暴虐の異邦人の都市ニネベは「災い預言」を預言者ヨナから聞いて王から民まで「悔い改め」、主に立ち返っている。主はそれを知ってその「災い預言」を取り消している。主は優しく心豊かな方である。
 私たちはこの矛盾をどう解釈すればよいのか。
聖書信仰(福音主義)の立場に立つ限り「聖書は誤りなき神の言葉」と告白せざるを得ない。ヨナ書もナホム書も真実の筈である。矛盾があってはならないのである。歴史的事実は「ナホム書」が述べているように、ニネベの崩壊であって救いではない。ニネベはBC612年にバビロンによって滅ぼされている。
 聖書は歴史書であると同時に信仰の書でもある。この二つの書を読んで感じることは、滅び(ナホム書)とは何か、救い(ヨナ書)とは何か、という根源的な問いかけであり、共に真実であって矛盾ではない、ということである。
 ここには、イスラエルファースト(ナホム書)か、グローバリズム(ヨナ書)かの対決がある。いろいろ議論があるし、誤解される可能性もあるので、この点を指摘するだけに留める。

 ナホム書の内容構成
1、主の正義の宣告(1:1~15)
 ① 主はねたみ、復讐する方、主は復讐し憤る方、主はその仇に復讐する方、敵に怒りを保つ方。
 ② 見よ、良い知らせを伝える者の足
  ニネベの崩壊=そのくびきからの解放、ニネベの崩壊はその圧政下に置かれていたイスラエルには良い知らせとなる。
2、主の正義の立証(2:1~13)
 ① 雄獅子:アッシリアの首都ニネベの陥落
   主は全てを滅び尽くす。仇は二度と立ち上がれない。
 ② 見よ私はあなた(ニネベ)に立ち向かう
   よこしまな者(アッシリアの王)、みな断ち滅ぼされた。
3、ニネベの罪とそのさばき
 ① 恥かしめ、見世物とされる遊女ニネベ。
   誰が彼女を慰めよう
 ② アッシリアの王のみじめな結末。
   あなたに向かって手を叩く。全ての国々は、あなたに常にいじめられていたからだ。
 ここにおいてはアッシリアの滅びが、逆にイスラエルにとっては、恵みになっていることが語られている。しかしその恵みもつかの間の事、その後バビロンによって支配される。

 言 葉
 1章
主に身を避ける者:主を信頼するもの
主は知っておられる:主からの慰めの約束
よこしまな事を図るもの:アッシリアの王
あなたの子孫はもう散らされない:アッシリアの勢力は拡大しない
 2章
散らす者:バビロン
雄獅子:アッシリア
3章
すぐれて麗しい遊女(呪術を行う女):ニネベ
淫行:主に対する背き
ノ・アモン:エジプトの首都(テーベとも云う)。ノはエジプトで長い間、首都であった町の名。アモンは、その町の守護神の名。「アモンの町」の意。
包囲の日:籠城の日
その時:アッシリアの滅びの日、終末
バッタ:覆い尽くし、喰いつくすバビロンの象徴
恥を見る:主にさばかれて醜悪な姿を露わにすること
あなた:この言葉はナホム書全般にわたって出てくる言葉であり、これを特定するには文意をしっかりと理解する必要がある。
 
 各章ごとの説明
1章:主はねたみ復讐する神、主は復讐し憤る方、主はその仇に復讐する方、憤りを保つ方(1:2)、誰がその憤りの前に立ち得よう、誰がその燃える怒りに堪えられよう、その憤りは火のように注がれ、岩も主によって打ち砕かれる。主は慈しみ深く、苦難の日の砦である。主に身を避ける者たちを、主は知っておられる(1:6~7)。わたしはあなたを苦しめたが、再びあなたを苦しめない。いま、私は彼のくびきを、あなたからはずし、打ち砕き、あなたをなわめから解き放す(1:12~13)。みよ、良い知らせを伝える者、平和を告げ知らせる者の足が山々の上にある。ユダよ、あなたの祭りを祝い、あなたの誓願を果たせ。よこしまな者は、あなたの間を通り過ぎない。彼らはみな断ち滅ぼされた(1:15)。
 ここには、イスラエルの名もアッシリアの名も具体的には出てこない。終わりの日における審判が語られている。
 ねたみ深い神:出エジプト記参照。「それら(偶像)を拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神=主であるわたしは「ねたむ神」。わたしを憎むものには父の咎を子に報い、三代、四代までに及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守るものには、恵みを千代まで施すからである」。「ナホム書」との関連でいえば、私を憎むものとはアッシリアを指し、私を愛するものとはイスラエルを指す。「わたしのみを愛せよ」「わたしはねたみ深い神」この言葉を裏から読めば神の民イスラエルに対する主の熱愛を現している。
2章:2章には難攻不落を誇っていた巨大な帝国アッシリアの首都ニネベがバビロン軍によって滅ぼされていく様子が描かれている。アッシリアはその後しばらくは続くが、アッシリアの滅びはその圧政下にあったイスラエルにとってはそれからの解放であり救いだったのである(2:1~2)。
 ニネベは水に囲まれた自然の要塞であった。誰も彼を脅かすことは出来なかった。その宝物庫には戦利品として略奪した金銀財宝で溢れていた(2:10~12)。このニネベにバビロン軍が襲ったのである(2:3~4)。みよ、わたしはあなたに立ち向かう――万軍の主の御告げ――。主はバビロン軍を「さばきの杖」としてニネベに向かわしたのである。ニネベは防柵を築き、これに対抗するが効なく敗れ、城門は開かれ、宮殿は破壊され、民(王妃と婢)は拉致され、各地に散らされる。残った者たちはこの地を捨てて逃亡を図る。振り返りもしない。豊かな金銀財宝は略奪に任される(2:8~9)。主は告げる「わたしはあなたの戦車を燃やして煙とする。剣は、あなたの若い獅子を喰いつくす。わたしはあなたの獲物を地から絶やす。あなたの使者たちの声はもう聞かれない(2:13)」。
 アッシリアとバビロンの戦いは主の戦いでもあった。これによってアッシリアの圧政下にあったイスラエルは一時的ではあるが回復する。
 3章:3章は2つに分けられる。前半、バビロンの侵攻によるニネベの陥落とその悲惨な姿(3:1~7)、後半、アッシリア王のみじめな姿(3:8)
前半:「見よ、わたしは、あなたに立ち向かう――万軍の主の御告げ――。バビロンの連合軍によるニネベの崩壊は、主に背いた反ユダ、反キリストに対する主の「さばき」であることが語られている。
 ニネベは穢れた遊女にたとえられ「わたしはあなたの裾を顔の上にまでまくり上げ、あなたの裸を諸国の民に見せ、あなたの恥を諸王国に見せる。わたしはあなたに汚物をかけ、あなたを辱め、あなたを見世物とする。あなたを見る者はみな、あなたから逃げていう「ニネベは滅びた」と。誰が彼女を慰めよう。あなたのために悔やむものをどこにわたしは捜そうか(3:5~7)。
 神の歴史において、反ユダヤ主義者たちは必ず恥を見る運命にある。
後半:エジプトの首都「ノ・アモン」はニネベと同様に長い歴史を誇り、水と緑に囲まれた(3:8)自然の利を生かした美しく、堅固な要塞都市であった。しかしこのノ・アモンはBC663年に当時最強であったアッシリアの王アシュール・バニパロスによって滅ぼされる。その悲惨な状況が3章10~13節に描かれている。一見ナホム書の主題とは関係ないと思われるノ・アモン(テーベ)の叙述は、この50年後に起こるニネベの滅亡を預言しているのである。
 アッシリアの首都ニネベは、この後、バビロン軍によって滅ぼされる。ニネベは滅びたがアッシリア帝国そのものはしばらく続くがBC609年にバビロンによって滅ぼされ1400~1500年続いたアッシリア帝国は完全に歴史の舞台から姿を消した。「誰もどこに行くかその行き先を知らない(3:17後半)」。「アッシリアの王よ、あなたの牧者たちは眠り、あなたの貴人たちは寝込んでいる。あなたの民は散らされ、誰も集める者はいない。あなたの傷はいやされない。あなたの打ち傷はいやし難い。あなたの噂を聞く者はみな、あなたに向かって手を叩く。誰も彼も、あなたに向かって手を叩く。だれも彼もあなたに絶えずいじめられていたからだ(3:18~19)」

 まとめ
 「ナホム書」は、12の小預言書のうちの第7番目の預言書である。中間地点を超えたのである。そこで中間報告をしたい。預言書に共通する主題は「さばき」と「回復」である。しかし、それぞれ個性を持っており同じものは一つもない。その個性を通じて普遍(さばきと回復)に迫っている。主はそのご計画の完成を目指していると考えるならば、その立場から、その立場に沿って、後の世に様々な聖職者がこれに編纂を加え、統一を図ったということは当然、考え得るのである。預言書の後に来るものは、ダニエル書、黙示録に代表される黙示の世界である。黙示の世界とは「千年王国」、「新天新地」の世界である。「神の国」が到来する。ここで主のご計画は完成する。預言は予言を含んでいる。主の預言は必ず実現する。それを信じる者は幸いである。
平成28年4月10日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


ミカ書 裁かれる権威者

2018年04月10日 | Weblog
 ミカ書 さばかれる権威者たち
 はじめに
 主はイスラエルの罪を激しく憎み、これを罰しても、主は優しく慈悲深いお方、悔い改めた者を決して滅ぼしたりはしない。主は苦難を与えた後に、必ず祝福のメッセージを送ってこれを回復させる。それを信じて信仰を忘れるなと「残されたもの(真の信仰者)」に対して励まし、将来に対する希望と勇気を与える。
「主は、あなたに告げられた。『人よ、何が良いことなのか。主は何を求めておられるのか。それは、ただ公儀を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことではないのか』(6:8)」と。
「あなたはユダの氏族の中で、最も小さいものだが、あなたの中から、わたしのためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から永遠の昔からの定めである(5:2)」
 これはミカ書だけでなく聖書全体の主題である。主はイスラエルの民を自らの選びの民とした。主は万能なお方である。選びの前から、彼らが自分に逆らうであろうということは分かっていた筈である。主がそれでも彼らを選んだのは、大艱難時代を与え、悔い改めを通じて、より高い次元に成長していくであろうと確信していたからである。彼らは変えられねばならなかった。ミカは言う「あなたのような神が他にあるでしょうか。あなたは咎を赦し、ご自分のものである「残りもの」のために、そむきの罪を見過ごされ、怒りをいつまでも持ち続けず、いつくしみを喜ばれるからです。もう一度私たちをあわれみ、私たちの罪を踏みつけて、全ての罪を海の深みに投げ入れて下さい。むかし私たちの先祖に誓われたように、真実をヤコブに、いつくしみをアブラハムに与えて下さい(7:18~20)」ここには、悔い改めと、回復への願いがある。千年王国、新天新地の住民になるために彼らは選ばれたのである。「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いの事を習わない。彼らはみな自分のぶどうの木の下や、いちじくの木の下に座り、彼らを脅かすものはいない(4:3~4)」。「しかし、私たちは代々限りなく、主の御名によって歩もう。私たちの神、主の御名によって歩もう(4:5)」。
 ここには神の壮大なご計画がある。主はキリスト・イエスをこの世に送り、旧約聖書では果たせなかった課題を新約聖書によって成就しようとなさったのである。黙示録はそのためにある。これによって主のご計画は完成する。
 
ミカ書の特徴
1、さばきと回復
 一般的には、「はじめに」の項目で述べたが、ミカ書ではさばかれる者はより具体的である。上は、政治的、社会的強者と、神のしもべの強者(祭司、長老、預言者)であり下は一般の人々(弱者)にまで及んでいる(2:1~2、3:1~12,6:9~12,7:2~3、7:5~6参照)。上から下まで腐敗がはびこり、人の間に正しいものは一人もいない。そこには神なき世界がある。主は激しく怒る。預言書はさばきと回復がセットになっている。主は悔い改めを求め、悔い改め、神に立ち返ったものは救われるのである。
2、ミカが活躍した時代
前735年から前681年まで、ユダの王たち=ヨタム、アハズ、ヒゼキやの時代。
3、ミカの活躍した場所
「これは彼がサマリヤ(北)とエルサレム(南)についてみた幻である(1:1b)」とあるからイスラエル全体についての預言であることが判る。
4、ミカの出身地:
南ユダ。モレシュト人ミカと記されている。モレシェトはエルサレムから見て南西に位置する丘陵地帯
5、ミカ書の作者
預言者ミカ(誰が主のようであったか の意、ミカイヤの短縮形)。
6、ミカ書の内容は3つに分類される(より詳しくは、次の項目「内容構成」を参照のこと)。
1、イスラエルとユダに対する警告預言(1:1~2:13)
2、審判に続く回復(3:1~5:15)
3、イスラエルの民に対する主によるさばきと回復預言(6:1~7:20)
ミカは最後に主が救い主を起こして全世界を救われると告げている。

ミカ書の内容構成
1.イスラエルとユダに対する警告預言(1:2~:13)
(ア)主の到来とその裁き(1:2~16)
(イ)社会的指導者(寝床の上で悪を行うもの)の罪とその末路(2:1~11)
(ウ)集められるイスラエルの残りのもの(2:12~13)
彼らの王は、彼らの前を進み、主が彼らの真っ先に進む
2.審判に続く回復(3:1~5:15)
(ア)民を貪る指導者たち(3:1~4)
(イ)空しく恵みの神託を語る偽預言者たち(3:5~8)
  それ故、主の応答は無い
(ウ)民を導く者(かしら、、首領、祭司、預言者)の腐敗と末路
(エ)終わりの日の約束(4:1~8)
(オ)娘シオンの産みの苦しみ(大艱難時代)と、それからの回復(4:9~13)
(カ)警告(5:1)
(キ)牧者(メシア)の到来(5:2~4)
  彼は私たちをアッシリアから救う
(ク)ヤコブの残りの者(5:7~9)
あなたの敵は、みな打ち滅ぼされる
(ケ)断ち滅ぼす宣言(5:10~15)
私は私に聞き従わなかった国々に復讐する
3.イスラエルの民に対する、主よりの裁きと主の憐れみ
(ア)主による告発(6:1~5)
(イ)主の求め給うもの(6:6~8)
(ウ)主に逆らう不法の町(6:9~16)
(エ)腐敗と堕落の結果(7:1~7)
(オ)主にある希望(7:8~13)
(カ)結び、主への祈りと賛歌(7:14~20)
 
ミカ書の特徴2
 預言書の主題は「さばきと回復」であるが、それは一般論であって、それぞれの預言書はそれぞれ特色を持って「さばきと回復」を語っている。

ミカ書の特徴は、ここまでの預言書では現れてこなかった強者(富裕階級、長老、預言者、賢者、占い師)と弱者(イスラエル市民、奴隷)が具体的に現れてその罪が指摘されていることである。
具体的には
指導者:賄賂を取って裁き
祭司たち:代金を取って教え
預言者たち:金を取って預言をする
「ああ、悪だくみを図り、寝床の上で悪を行うもの。朝の光と共に、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ。彼らは畑を欲しがって、これをかすめ、家々をも取り上げる。彼らは人(奴隷)と持ち家と、その相続地をゆすり取る(2:1~2)。彼らは借金のかたに貧者からその財産を取り上げたのであろう。このようにして富むものはますます富み、貧しきものはますます貧しくなるという搾取社会=階級社会=欲望の支配する社会が生まれつつあったと言えるであろう。疑心暗鬼の中「友を信用するな、親しい友をも信用するな。あなたの懐に寝るものにも、あなたの口の戸を守れ。息子は父親を侮り、娘は母親に、嫁は姑に逆らい其々自分の家のものを敵としている。腐敗と堕落が世を覆い神の無い国が現れる。神はこれを怒り災いを与えると預言する。

ミカ書の歴史的背景
ミカ書の歴史的背景を語るためには、南ユダと北イスラエルに分裂に導いたルーツであるソロモン王の時代までさかのぼらねばならない。ダビデ、ソロモンと続いて繁栄をもたらした主は繁栄の基礎をきづいた自分を忘れ高慢となったソロモンをさばき「イスラエルを引き裂くと」預言する。主はイスラエル12部族のうち10部族(ユダ族とベニヤミン族を除く)を臣下ヤロブアムに与えると預言するが「しかし、彼には一つの部族(ユダ族とベニヤミン族)だけが残る。それは私のしもべダビデと私がイスラエルの全部族の中から選んだ町エルサレムに免じてのことである(1列王記11:32)」。「それは、私の名を置くために選んだ町エルサレムでわたしのしもべダビデが、わたしの前に一つのともしびを保つためである(Ⅰ列王記11:36)」主は自分の選びの民イスラエルが滅んでしまうことを恐れたのである。大国に囲まれ小国に成り下がったイスラエルのどちらか一方でも残っていて欲しいという主の願いがあったのであろう。主のご計画は達成されねばならないからである。かくしてイスラエルは分裂しダビデの系列を引く正統としての南ユダ(レハブアム王)と異端としての北イスラエル(ヤロブアム王)が生まれたのである。互いに連合反発しながらその歴史を歩むことになる。しかし、主の願いにもかかわらず北はBC722年にアッシリア帝国に、南はBC586年にバビロン帝国に滅ぼされた。ミカは南ユダ中期の預言者でありヨタム、アハズ、ヒデキヤ王の時代に活躍した。ミカの活躍した時代に北は滅亡した。その衝撃はミカにとって多大なものがあったであろう。ミカは預言者イザヤ、ホセヤと同時代人で、恐らく、アハズ王の時代から預言者としての活動を開始し、主としてヒゼキヤ王の時代に預言活動が集中していたと考えられている。この時代はアッシリア帝国がシリア、パレスチナ地域を支配していた時代であり,南ユダは北イスラエル滅亡以後も100年近く存続していたが、滅亡を避けるためアハズ王の時代に屈辱的な貢納をして存続を許されている。しかし、アッシリアの圧政に苦しめられていた周辺諸国は、反アッシリア同盟をヒゼキア王を盟主として結成されたが、アッシリアのセンナケブリ王の反撃にあい破れ、多額の貢納金を払うことによって滅亡を免れている。その後、アッシリアに代わって台頭したバビロン帝国によって南ユダはヒデキア王の時代に滅亡し、有名な「バビロン捕囚」にあっている。

平成30年3月13日(火)報告者 守武 戢 楽庵会









ヨナ書ー異邦人の救い

2018年02月25日 | Weblog
 ヨナ書  異邦人の救い
 ヨナ書の主題は「全ての人々に対して主の恩恵を知らしめることにある。イスラエルが憎み恐れていた異邦人に対しても主は恩恵の神なのである」。
 「その奥義とは、福音によりてキリスト・イエスにあって異邦人もまた共同の相続者となり、共に一つの体に連なり、ともに約束(契約)にあずかるものになるということである(エペソ人の手紙3章6節から)」

 はじめに――神に逆らう預言者ヨナ
 ヨナ書は前半(1~2章)と後半(3~4章)に分けられる。前半は神の召命(罪の町ニネベへ行け)に逆らった背信の預言者ヨナに対する「さばき」と「回復」が語られる。
 後半は罪に満ちた異邦人の町ニネベが主の「災害預言」を聞き、悔い改め、主に救いを求めた時、主はその「災害預言」を取り消した事が語られている。ヨナは主の「災害預言」の不履行に対して不愉快の念を露わにして、怒りを主に向ける。主は悔い改めるものに対する憐れみと優しさを語るが、ヨナの応答は無い。
 ここには、ヨナの神の正義に対する率直な疑問が提出されている。異邦人は救われるべきか、例え悔い改めがあったとしても、である。ここにはヨナを代表とする選民イスラエルの民の異邦人()に対する心の機微(差別意識)が現され(隠され)ている。

 ヨナ書の特徴
作者:アミタイの子、預言者ヨナ(鳩という意味)。ヘブル人(1:9)。
ヨナが活躍した場所:ニネベ(アッシリアの首都)。
活躍した時代:前862年ごろ。預言者エリシャの時代。
 ヨナが悔い改めた場所:大きな魚の腹(胎)の中。
ヨナに託された神の預言:「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上っ   てきたからだ(1:2)」
 「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる(3:4後半)」
罪の町ニネベのしたこと:悔い改め(悪から立ち直るための努力)
  その結果:
  主による災い預言の取り消し
  取り消しに対するヨナの不満。
  主の取り成し
  ヨナの反応はない。
 ここにはヨナ(ユダヤ人を象徴する)と異邦人との葛藤が描かれている。

 ヨナ書の内容構成
  1章 ヨナに対する派遣命令
 主の御顔を避けたヨナ
 船に乗ってタルッシュへ逃亡を図るヨナ
 海の嵐を引き起こしたヨナ
 海の嵐を神の怒りと感じたヨナ
 海に投げ込まれたヨナ(ヨナの意志)
 海を鎮めたヨナ
 大魚にのみ込まれたヨナ
  2章 大魚の腹の中で悔い改めたヨナ
 主によって大魚から吐き出されたヨナ
  3章 ヨナに対する第2次派遣命令
 ニネベでの布告(「40日するとニネベは滅ぶ」)
 ニネベの民と王の悔い改めと救いへの願い
 主による「災い預言」の取り消し
  4章 「災い預言」の取り消しを怒るヨナ
 それに対する主の応答(悔い改めるものは救われる)
 ヨナの応答は無い。

  各章ごとの説明
 1章:ヨナに対して主の派遣命令(悪の町ニネベに行け)が下る。しかし、何故かヨナはその命令に従わず、主の御顔を避け、船でタルシュシへ逃れようとした。主は怒り、行く手に暴風雨を起こして、逃亡を阻止する。船は難破の危険にさらされ、ヨナはそれがわが罪のためと理解し船員に自分を海に投げ込めと要請する。彼は海に投げ込まれる。海は鎮まる。主は大魚を用意して、ヨナを飲み込ませた。ヨナは3日3晩、大魚の腹(胎)の中にいた。
 問題 1、召命の意味とは何か。「さばき」か「救い」か。
    2、ヨナは何故主の命令に従わず逃れようとしたのか。
    3,3日3晩の意味とは何か。
 これらの問題は後の章で解決されるので、ここでは答えは保留する。
 2章:3日3晩;大魚の腹(胎)中で悔い改めたヨナ
 大魚の腹の中で3日3晩過ごしたヨナはその苦しみゆえに主に祈る「私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度あなたの聖なる宮を仰ぎみたいのです(2:4)」。大魚のはらの中で「私の魂が衰え果てた時、私は主を思い出しました(2:7)「空しい偶像に心を留めるもの(ヨナ)は、自分への恵みを捨てます(悔い改め)、しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたに生贄を捧げ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです(2:8~9)」。
「主は魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた(2:10)」。
  言 葉
 腹(胎):腹は胎を意味し、胎児の宿る場所である。出産は激しい痛みを経験する。同様に、ヨナも大魚の胎の中で激しい痛みを経験し悔い改め、、新しい命が与えられたのである。ヨナは変えられたのである。」胎とは悔い改めるための試練の場所であった。「大艱難時代」を思い出す。
 偶 像:この場合の偶像とは物では無く、心を指す。主に逆らう者と拡大解釈することも出来る。ヨナが主に逆らってタルシシュへ逃亡を試みたことを指す。
 3章:ヨナへ2度目の派遣命令が下る。ヨナはニネベに行き主の言葉「もう40日するとニネベは滅ぼされる(3:4)」を伝える。それを聞いたニネベの民は驚き、断食をし大人も子供も粗布を身にまとい「悔い改め」の意を現した。王もその預言を聞き神を信じた。王服を脱ぎ捨て粗布を身にまとい、灰の上に座り、大臣たちと共に断食を行い、一般の民にもそれを強制した。こうして、ニネベは、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐の行いから立ち返った。「われわれ異邦人も滅びずに済むかもしれない」このように神に救いを求めたのである。
主はその悔い改めを知って、預言した災いを思い直し、実行しなかったのである。
 1章と3章の比較
 3章での40日、1章での3日3晩:40日はニネベの民が悔い改めるまでの猶予期限を指し、3日3晩もヨナの悔い改めるまでの猶予期限を指す。
 1章での船員たちの祈り「神に祈り、お願いすれば、神が私たちに心を留めて下さって私たちは滅びないで済むかもしれない」
3章でのニネベの祈り「もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないで済むかもしれない」
 主は恵み深く、あわれみ深く、優しいお方である。悔い改めるものに対しては、忍耐強く待ち(3日3晩、40日)その罪を取り消し、お赦しになるのである。
  言 葉
 断食:食物を断つこと、宗教上の慣習として、また祈願、抗議などをする時に、一定期間、飲食物を断つことを指す。本書の場合の断食とは、主に立ち返るための儀式と言える。
 粗布:ヤギの毛で織った黒い粗末な布を意味し悲しみや後悔の念を現すときに身にまとった。「灰の中に座る」も同様の意味を持つ。
 4章:4章ではヨナの怒りと、主の異邦人に対する憐れみが語られる。ヨナは主がニネベを赦したことに対して不愉快の念を露わにした。主の発した災害預言の不履行を怒ったのである。ここで、はじめてヨナは自分が主の命令に逆らって逃亡を図った理由を明らかにする(一章では明かされていない)。悔い改めさえすれば主はニネベを許すであろうということが判っていたからである。それはヨナ自身の立場とあきらかに異なっていた。ここに主とヨナの異邦人に対する考え方に根本的な違いを見ることが出来る。主は情け深く、あわれみ深い神であり、怒るに遅く、恵み豊かであり、災いを思い直すことの出来る優しい方である(4:2後半参照)。それに反してヨナの考え方は異邦人はあくまでも異邦人であり罪ある存在と決められている。滅ぼされるべき存在なのである。それはイスラエルの歴史が異邦人との戦いの歴史であったことを考えれば、納得できることではある。主は「とうごま」の例を出し、「とうごま」を愛さない以上にニネベを愛さず、悔い改めた民すら罰することを望むヨナを批判し、もっと人を愛し、あわれみ深く、優しくあれと諭すが、ヨナの応答は無い。

 まとめ
 ヨナが罰せられたのは第一次のニベアへの派遣命令に逆らったからである。それ故の悔い改めであり、神への立ち返りであった。ヨナは変えられたのである。主はヨナを再びニネベへの派遣命令を下した。それがヨナを預言者たらしめたのである。しかしヨナはそれを理解できなかったし40日の真の意味を知ることも出来なかった。災害預言は罰する為では無く救うためだったのである。ヨナは主の災害預言を文字どおりに受け取り、それを実行しない主に不愉快の念を現し怒ったのである。
ヨナの中には2つの価値観があった。神は絶対的善であり、異邦人は絶対的悪であるというものである。ヨナの立場からすれば絶対的悪は絶対的善によって滅ぼされねばならない。しかし主はこの絶対的悪(異邦人ニベア)を赦している。本来なら、絶対的悪は悔い改めなどしない筈である。ここにヨナの信仰の誤りを見る。ここではヨナは主に立ち返ることなく、ニネベの悪を赦した主に対して怒り、不愉快の念を露わにしている。ここに主とヨナの間に横たわる超えることの出来ない壁を感じるのである。この壁は今日まで続いており、旧約聖書と新約聖書を隔てる壁になっている。
平成30年2月13日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会

オバデヤ書 エドムの滅亡

2018年02月04日 | Weblog
オバデヤ書 エサウの子孫=エドムの滅亡

  はじめに
 旧約聖書には2つの系統が存在する。それは主の計画を遂行する系統と、これを妨げようとする反ユダヤ=反キリストの系統である。オバデヤ書でエドムが選ばれたのは反ユダヤのルーツと見做されたからである。この反ユダヤの系統を遡ると、創世記の中にその起源を見ることが出来る。それは、カイン、イシュマエル、エサウ(=エドム)の系統である。これは正統に対する異端である。この両者の葛藤によって聖書は成り立つ。

  オベデヤ書の特徴
1.旧約聖書中最も短い書である
2.作者:オベデヤ(主のしもべという意味)
3.成立時期:バビロン捕囚期以後
4.内容:オバデヤの見た幻。エルサレム陥落時にエルサレムで語られたエドム滅亡の託宣を集めたもの。最後にエルサレムの復活が語られる。
5.内容構成:エドム滅亡の預言、主の日の到来(エドムに対する裁きとイスラエルの回復)。

 反ユダヤ主義のルーツ
 オベデヤ書を述べる前に、先に述べたように旧約聖書を貫く2つの系統を見ておきたいと思う。ここで押さえておきたいことはエドム人はヤコブの兄エサウの子孫である(創世記36:1,8~9)という事である。創世記を貫く2つの系統とは兄と弟の系統である。兄とはカイン、イシュマエル、エサウであり肉を象徴する。弟とはアベル、イサク、ヤコブの系統であり霊(心)を象徴する。彼らは兄弟でありながら対立した。

1、カイン;カインとアベルはアダムとエバノ息子である。主への捧げものを巡って二人は競い、カインは破れ、アベルを殺す(創世記4:1~8)。カインは農耕文化の代表者であり、地の産物は呪われる。この結果、カインは主に見放されみずからの手で地を耕し、町を立て、文化を創造するものとなる。そしてアベルの子孫と対立する。
2、イシュマエル:イシュマエルは、アブラハムの女奴隷ハガルの間に生まれ、正妻サラの間に生まれたイサクと対立した。使徒パウロはガラテヤ書の中で「かつて肉によって生まれたもの(イシュマエル)が、御霊によって生まれたもの(イサク)を迫害するように、今もそのようです(ガラテヤ4:29)」という。イシュマエルは今日のパレスチナ(アラブ諸国)のルーツであり、イシュマエルとイサクは同じ父から生まれながら根深い敵対関係にあった。
3、エサウ:エサウとヤコブは父イサクから生まれた双子の兄弟である。エサウが先に、ヤコブは、後に生まれた。ヤコブは父イサクをだまし、エサウの長子権を奪う。エサウは怒りヤコブを殺そうとする。ヤコブは逃走する。しかし、後に和解している。この(エサウ)系統は天にある霊的な事項を軽蔑し、将来与えられる約束よりも、現在手に入る地上的なものを重んじる性質を持っている。このエサウの子孫がエドム人となり、ヤコブに対する凶悪な存在となったのである。
 以上のように「オバデヤ書」において数ある諸国の中から特にエドムが選ばれたのは単なる偶然では無く、そこには、これしかないという必然性があった。

 オバデヤ書の荒筋 
 主は使者を諸国に送り「立ち上がり、エドムに立ち向かい戦おう」と、エドムに対して戦いを宣告する。エドムとはエサウも子孫の総称であると同時に、主に敵対する勢力、あるいは歴史における反ユダヤ主義を象徴している。主は選びの民イスラエルを攻撃するものを許すことが出来ない。主はエドムに報復する。イスラエルを攻撃する者は主を攻撃するものだからである。オベデヤ書は、エドムの滅びの預言から始まり、イスラエルの復活の預言で終わる。
 その内容
1.滅びの訪れ(1~4節)
2,滅びの現実(5~10節)
3.滅びの原因(11~14節)
4.主の日(さばき)の到来
5.主の日(救い)の到来
1、滅びの訪れ:エドムに対する「さばき」が預言され、主に対する高慢がその原因とされる。(主はエドムをあなたと呼ぶ)
2、滅びの現実:盗人だって自分の必要以外は盗まないのに、収穫時、貧しき人に落ち穂は残されるのに、それなのにあなた(エドム)には何一つ残されない。全て刈り取られる。蓄えてあったすべての宝物は奪われ、同胞にも雇われ人にも裏切られる。それに対処できる知者はいない。結局、エドムの全てのものは虐殺によって絶やされる。それは「あなたの兄弟ヤコブへの暴虐のために主の裁きが下ったのである(10節)」
3、滅びの原因:主に対する高慢は、その一つであるが、エルサレムがバビロンによって破壊された日、主はエドムに対して「~するな」「~してはならない」と訴えたにも拘らず「ただ傍観し、それを喜び、大口をたたき、財宝を略奪し、捕囚から逃れたユダヤ人を捕え、バビロンに引き渡した(11~15節参照)」だけでなくバビロンによる虐殺や破壊にも手を貨した。それが主の怒りを買った。
4、主の日は近づいた(エドムへのさばき):「あなたがしたようにあなたにもされる(15節)」」あなたへの報いは必ず訪れ、あなたは別ものに変えられる。
5、主の日は近づいた。(イスラエルの回復):エサウの家はヤコブとヨセフの家がはなった火と炎に焼きつくされ生き残る者はいなくなる。イスラエルの民は領土を回復・拡大し王権は主のものとなる。

  他の預言書の中にもエドムに対する厳しい態度を見ることが出来る
1.詩篇137篇7節:「主よエルサレムの日に『破壊せよ、破壊せよ、その基までも』と言ったエドムの子らを思い出して下さい。バビロンの娘よ、荒れ果てた者よ。お前の私たちの仕打ちを、お前に仕返しする人は、なんと幸いなことよ。おまえの子供達をとらえ、岩に打ちつけるひとは、なんと幸いなことよ」
2.イザヤ書34章5~7節:「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ、これがエドムに下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。小羊や山羊の血と雄羊に腎臓の脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえを屠り、エドムの地で大虐殺されるからだ」。
3イザヤ書34章9節:「エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる」。
4.エレミヤ書49章7~23節:内容的には、ほぼオバデヤ書の審判預言と同じであり、長文なので引用を省略する。ただオバデヤ書に見られるイスラエルに対する救いの預言は無い。
5.エゼキエル書25章12~14節:「神である主はこう仰せられる、エドムはユダの家に復讐を企て、罪を犯し続け、復讐をした。それで神である主はこう仰せられる。わたしはエドムに手を伸ばし、そこから人も獣も断ち滅ぼし、そこを廃墟にする。テマンからデダンに至るまで人々は剣で倒される。わたしはわたしの民イスラエルの手によってエドムに復讐する。わたしの怒りと憤りのままに彼らがエドムに事を行うとき、エドムは、わたしが復讐するということを知る」。――神である主の御告――。
6.アモス書1章11~12節:「主はこう仰せられる。エドムの犯した3つのそむきの罪、4つのそむきの罪のため、わたしはその刑罰を取り消さない。彼が剣で自分の兄弟を追い、肉親の情をそこない、怒り続けて、いつまでも激しい怒りを保っていたからだ。わたしはテマンに火を送ろう。火はボツラの宮殿を焼きつくす」。
7.民数記20章14~21節:モーセが出エジプトを果たし、カナンの地に向かう途中、モーセの率いるイスラエルの民がエドムの地を目前にし、この地の通過の許可をエドムに求めたがエドムはこれを拒否している。モーセはエドムの地から方向を変えて去った。これは、エドムに対する審判預言とは言えないが、その前提になっているとは言えるであろう。

  言 葉
 エドム:エサウの子孫の住む地。反ユダヤのルルーツ
 あなた:エドム人を指す。これに類する言葉エドム、エサウを合わせると34回出てくる。この事からオバデヤ書はエドムに対する審判預言であることが判る。
 心の高慢(3節):エドムの地の殆どは高地にあり、自然の要害であった。それ故、エドム人はその立地条件を誇り、「誰が私を地に引きずり下ろせようか」と神を忘れた。これに対して主は「あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き下ろす」と怒り、「私はあなたの国々の中の小さいものひどくさげすまれた者とする」。とエドムを罰する。
 逃れたもの(残されたもの):主の裁きを免れたもの、主に対し、義なるもの
 主の日:終わりのときにおける主の審判のとき
=
平成30年1月9日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


アモス書 南から北へ

2018年01月06日 | Weblog
 アモス書(南から北へ) 

 はじめに
 アモス書は預言者アモスの言葉を集めたもので、預言文学の中で最古のものと言われている。12ある小預言書の中の一書であってホセヤ書、ヨエル書に次ぐ第3の書である。9章146節から成る。内容は3つに分けられる。
1.諸国に対する審判預言(1章~2章)。
2.イスラエルに対する審判預言(3章~6章)。
3.アモスの召命を内的に準備した5つの幻と、神の計画の啓示(7章~9章)。
の3つである。

 内 容  
 アモスはヤブロアム王の治世下、イスラエル(北)の民とその支配層に広がる闇、宗教的堕落と退廃を正す為に、主によって南ユダのテコアから北イスラエルに送られた。主の決意された審判預言は厳しくイスラエルの民にとっては耐え難いものであった。主の命に従えと主は諭すが、それでもイスラエルの民は従わなかった。主は怒りこの民を罰する。主に逆らう民の悲惨さが描かれる。しかし、主の日(終末の日)は、その罪に対する裁きではあっても、必ず救いがセットとして組み込まれている。審判なき救いが無いように、救いのない審判もあり得ない。アモス書は最後の最後に(9章11~15節)終末における救いの預言が語られる。アモスはその彼方に神の国を見る。
 アモスはイスラエルの民への神の裁きを見るが、その前に諸国の民に対する裁きを見る。

 内容構成
1、表題と序(1:1~2)
2、第一部:諸国民に対する裁きの預言(1:3~4:13)
   ○周辺諸国民に対する告白(1:3~4:13)
   (わたしはその刑罰を取り消さない)
   ○ 主によるイスラエルの選びと、サマリヤ(北イスラエルの首都)に対する裁き(3:8~4:13)
   (それでも主のもとに返ってこなかった。)
3、第二部:イスラエルの終わりについての預言(5:1~9:10)
   ○ イスラエルの挽歌(5:1~6:14)
   (主を求めて生きよ、5章参照)
   ○ イスラエルの終わりを告げる5つの幻(7:10~9:10)
   (わたしは、もう、2度と彼らを見過ごさない)
   ○ 終末が近いことを意識出来ないイスラエルの民(6:3~13)
   (今、わたしは一つの民を起こしてあなた方を攻める。――、彼らはレポ・ハマからアラバの川筋まであなた方を虐げ      る)。
4、結 び 終末における救い
   ○ 罪にみちた諸国の民はさばかれて滅びるが、ヤコブの家は決して根絶やしにされる事は無い
   ○ わたしは、わたしの民イスラエルの繁栄を元どおりにする。
   ○ その彼方に神の国を見る。

 言葉の説明
 周辺諸国:ダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、アモン、モアブ(1~2:3))に対する裁きに、ユダ、イスラエルが付加される(2:4~6))
 5つの幻:
1、いなご
2、火
アモスのとりなしによって「このことは起こらない」
3、重りなわ、
4、夏の果物、
5、祭壇の傍らに立つ主。
わたしはもう2度と彼らを見逃さない
主の言葉を聞くことの飢饉を送る


 アモス書とは 
 アモス書は次の言葉から始まる。「テコアの牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の2年前に、イスラエルについて彼の見たものである(1:1)」と。
アモス書の預言はこの冒頭の言葉の中に集約されている。すなわち、
1.作 者:アモス(重荷を追う、という意味)
2.アモスの出身地:南ユダの寒村テコア。
3.預言した場所:イスラエル(北)
4.預言した時代:北の王ヤロブアム2世の治世下。
5.地震の2年前:神の顕現の象徴。
6.彼の見たもの:諸国に対する神の裁きと、イスラエルに対する神の裁きと回復。
7.召命の理由:経済的繁栄を築いたヤロブアム2世に代表される民衆の驕りと異教信仰(豊饒の神=バアル神)を正す為、アモスは神によって南(テコア)から北へ派遣された。それほど北は穢れていた。

 アモス書の特徴
 預言書の預言は必ず罪と裁きと回復が主題となる。しかし、いずれも特徴を持っており同じものではない。アモス書もその例外ではない。その特徴は、アモスは牧者であったこと、南ユダ出身者であるにも拘らず、主の召命により北イスラエルで預言した事(7:15)。さらに、アモス書の回復の預言は最終章の最終節(9:11~15)になって初めて語られたこと、の中に現されている。

 預言者アモス
 預言者アモスは、最初は牧者であった。牧者とは羊飼いである。当時羊飼いは豚飼いと同じく社会の最下層に属する職業であった。当然アモスは神学校などに通うという、まともな宗教教育を受けてはいない。アモスは言う「私は預言者では無かった。預言者の仲間でも無かった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。ところが主は群れを追っていた私を取り、主は私に仰せられた。『行って、私の民イスラエルに預言せよ(7:14)』」と。北にはまともな預言者がいなかった。このようにアモスは、北イスラエルに対して神の意志を伝えるため、選び分かたれ北に出向いて預言を語った人物である。北はヤロブアム2世の時代、経済的繁栄は極度に達しており民は自らを信じ、神を忘れた。驕り高ぶり異教の神(豊饒の神バアル)を信じた。この様子は6章に詳しく語られている。主の日(終末の日)は近いという預言をイスラエルの民は誰も信じなかった。偽預言者は今の繁栄が永遠に続くと預言した(6:3)。しかし、北は繁栄の陰に退廃と衰退が深行していた。神は嘆かれイスラエルの民を変えるため、アモスを南から北へ派遣したのである。アモスは北の最高の聖都ベテルで宣教を始める。ここでアモスはベテルの祭司長アマツヤに会う。この地でヤブロアム2世の罪(バアル信仰)を伝えるアモスに対してアマツヤは言う「先見者よ、ユダの地に逃げていけ、その地でパンを食べ、その地で預言せよ。ペテルで2度と預言するな。ここは王の聖所、王宮のあるとこだから(7:12~13)」と。この地はバアル神を拝み、偶像崇拝の場所だというのであろう。それはアモスに対する初めての宗教的弾圧であった。彼の孤独な闘いが始まった。しかし、主は彼と共にあった。主はアモスに対する弾圧を怒り、祭司長のアマツヤだけでなく彼の家族をも罰する(7:14~17)。更に、主は一つの民を起こし、イスラエルの主だったものを、捕囚として各地へ散らしたのである。このようにアモスは諸国に対して、またイスラエルに対して主の裁きを預言して来たが最終章(9章)において初めて回復の預言をする。この個所(9:11~15)はやがて到来するメシア王国がいかなるものかを知る上で重要となる。アモスは神の国の幻を見る。しかし。この幻は、いつか消えていく幻では無く、必ず実現するものである。

 聖なる動物と穢れた動物
 もともと羊や牛は聖なる動物である。イエスは小羊と呼ばれ、ダビデも羊飼いであった。「放蕩息子」は豚飼いに成り下がっていた。イスラエルでは、聖なる動物を穢れた動物から聖別する。羊飼いたち(イエス、ダビデ、アモス)は、主によって聖なるものへと変えられていく。

 まとめ
 神が南から北に送ったアモスが見たものの第Ⅰはイスラエルの周辺に存在する諸国に対する神の審判(主の目は一人イスラエルだけでなく世界に注がれていた)であり、ついでユダ、イスラエルに対する審判であった。イスラエルは異教の支配する世界となっていた。ヤロブアム2世自身バアル神の信仰者の一人であり一般の民にも国策として、その信仰を強制していた。こんな中アモスの孤独な闘いが始まったのである。当然、宗教的弾圧に会わざるを得なかった。しかし、神は彼と共にあった。「私は全ての部族の中からあなた方だけを選び出した。それゆえ、わたしはあなた方の全ての咎を、あなた方に報いる」と主は言う。主はイスラエルを愛していたのである。主を求めて欲しかったのである。その民が自分に逆らうことが悲しかったのである。その裁きは厳しいものにならざるを得なかった。裁きは悔い改めの前提である。それでも、イスラエルは神に立ち帰らなかった。
 イスラエルの挽歌が語られ、「哀歌」が歌われる。イスラエルが滅びに瀕している状況が語られる。それを受ける形で、主の審判と、イスラエルの滅びを暗示する5つの幻がアモスの前に置かれる。イスラエルの民はその罪によって裁かれ立ち直ることが出来ない。しかし主はそんなイスラエルを見捨てない。救い、神の国を預言する。
                                 
平成29年12月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

ヨエル書 いなごの襲来

2017年11月21日 | Weblog
   ヨエル書 蝗(いなご)の襲来

  はじめに
 作者:預言者ヨエル(意味 主は神である)聖書にはペトエルの子としか表記されていない。詳細は不明。
 成立時期:捕囚期以後、前500年ごろ
 預言の対象:ホセア書は北を、ヨエル書は南を対象にしている。
 預言の舞台:シオン、エルサレム(南ユダ)=イスラエル
本書の主題:蝗(いなご)の大群(反キリスト)の襲来による惨状から主の日(神の審判の日)を思う。その彼方に「主の日」をみる。


 本書の構成
 1.蝗の襲来による惨状から主の日を思う(1:1~2:11)。
 2.その日を覚え、悔い改め、神に返れ(2:12~27)。
 3.主の日の到来。悪の三位一体(サタン、反キリスト、偽預言者)の滅亡(2:28~3:21)。


 概 略 
ヨエル書は蝗の大群の襲来から始まる。 
 ヨエル書の主題は「主の日」である。「主の日」とは[終末]を現している。終末とは裁きであり自分の罪を悔い改めた者に対する回復である。このようにヨエル書には罪と裁きと回復が語られている。
蝗の大群の襲来によって、全ては喰いつくされ、飢饉を招く。イスラエルの大地は荒野になる(字義的解釈)。これは、諸国の民(アッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ)の侵略と破壊の歴史も現している(比喩的解釈)。これを終末論的立場から見るとき、イスラエルの民が神に対して犯した罪に対する「さばき」である。目に見ることの出来ない神は、その裁きの杖として目に見える蝗=諸国の民を選び、イスラエルの民を罰したのである。しかし、これだけで終わっては片手落ちである。「主の日(終末)」は、裁きと同時に回復の恩寵についても語られなければならない。主はイスラエルの民を裁き、その罪から解放されるためには、その罪を認め(認罪)、悔い改める「嘆きの儀式」を行わねばならない。「わたしに立ち帰れ」と云う(終末論的解釈=黙示的解釈)。それは「主は自分の地をねたむほど愛し、自分の民をあわれまれた(2:18)」からである。また、「主は情け深く、怒るに遅く、恵みは豊かで、災いを思い直してくれるからだ(2:13参照)」。蝗の大群と諸国の民を送ってイスラエルの民を苦しめたことを「わたしは、あなた方に償おう(2:25参照」とまで言う。そこに主のイスラエルに対する深い愛を感じる。主の描くマスタープラン(創世記から黙示録まで)は完遂されねばならない。神が選び、恵みの契約まで結んだ民を自分のマスタープランを達成させるためには、その道具として選んだイスラエルを、その罪を罰しても、滅ぼすわけにはいかないのである。神はイスラエルの民に大艱難時代を与えるが、「千年王国」を預言する。この預言が達成された時、神のマスタープラン(ご計画)は完成する。


 語句の説明
 蝗の大群の襲来:単体としての蝗は、弱小な存在であるが、それが大群となった時、破壊力を持った強力な存在となる。かつて中近東にあった歴史的事実であり飢饉を起こし、イスラエルの民を飢えによって苦しめたという記録がある。諸国の民の象徴として描かれている。主の日の到来でもある。単体としての蝗は、イスラエルを、大群としての蝗は主を現している。主はその罪によりイスラエルを罰する。(「出エジプト10:12、黙示録(「ラッパ、金の鉢」の項参照)。
 「主の日(終末)」: 「主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇となり、月は血に変わる。しかし主の名を呼ぶ者はみな救われる(2:31~32)」。主の日こそ神の裁きと・その後に来る終末の回復の希望が現れる日である。この時、キリストが再臨する。

 諸国の民:反キリストを指す。神はしばしば歴史においてご自身の民を矯正する目的のためにアッシリア、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマといった強力な異邦の国を用いて来られた。それは神のマスタープランの最終ステージにおいても変わりはない。反キリストによる大艱難と云う試練を用いて、神はご自身の契約の民を回復させようとする。それが「見よ、わたしがユダとエルサレムの繁栄を元どおりにする、その日、その時、わたしはすべての国民を集めヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく(3:1~2)」と宣言する。諸国の民はさばきの杖から、さばかれる側に回ったのである。このように「諸国の民」とはイスラエルに大艱難時代をもたらした異邦の大国(反キリスト)を指す。
 嘆きの儀式: 悔い改めを示す儀式,断食、清めの集会。「主に仕える長老、祭司たちと、この国に住む全ての者をあなた方の神=主の宮に集めて、主に向かって叫べ「主よあなたの民をあわれんで下さい(2:15~17)」と。
 
主の描くマスタープラン:  聖書の最初の創世記から最後の黙示録までは神の描くマスタープランの最初と最後である。この過程は主の支配の過程である。主は言う「わたしはαであり、Ωである」と。
 旧約聖書における神の約束は、神の掟を誤りなく、確実に守ることの出来る人に永遠の命と祝福(神の国)を与えるというものであった。そのために神はイスラエルの民を選び、彼らを契約の民にしたのである。イスラエルの祖アブラハムに対して神は言う「わたしの前で全きものであるなら、汝に大地を与え子々孫々の増大繁栄を保証しよう」と。しかし、旧約聖書には、イスラエルの民が神の掟を全く守らず、それどころか、異邦の神(バアル神)を拝し、神に反逆し、敵対したことが記録されている。旧約聖書は、神とイスラエルの民との間の葛藤の物語である。神は怒り、終末の近いことを預言し、彼らに大艱難時代を与える。その苦難の時は神が恵みの契約を果たす前のWait(待て)の期間であった。神に逆らい続ける民は変えられなければならない。神はイスラエルの民が成長し、自分に立ち返るならば回復の恩寵を与えようと預言する。そのためには時を要するのである。大艱難時代は神がおのれのマスタープランを達成する為には必要不可欠の一過程だったのである。
 本来なら、神が人類を創造し、楽園を造った段階で神の国は自己完結していた筈である。しかし、神の似姿として現れ、楽園の住人となった人類最初の人アダムとエバがヘビに誘惑され最初の罪びと(原罪)となった。それ故アダムとエバは楽園を追放され、楽園は閉じられた(失楽園)。
 閉じられた楽園の扉は開かれなければならない。
 ここに神のマスタープランが生じる。そのための道具として選ばれたのが、イスラエルの民であった。しかし、マスタープランの完遂を妨げるために現れたのがサタンであった。サタンは、もとは神に仕える天使であった。神に反逆して天上から地上に落されサタンとなった(堕天使)。地上でサタンは諸国の民(反キリスト)に乗り移り、イスラエルの民を苦しめる。それ故、神はどんなにイスラエルの民が自分に反抗しようと、これを罰しても、滅ぼすことをしなかったのである。
 神のマスタープラン達成の背後に一貫として貫く思想は、イスラエルの民に対する、神の愛であった。その愛ゆえに諸国の民に乗り移り、自分の計画を妨げるサタンと戦い、これに勝利するのである。その彼方にメシア王国があった。

 章ごとの説明
 第一章わたしを信じてわたしに返れ。主の日は近い.
預言者ヨエルに対する主の言葉。
 1.全てを喰いつくす蝗が襲来する。
 2.諸国の民による攻撃と破壊が起る
  その結果イスラエルは荒廃し荒野になる。
 これはイスラエルの民が神に対して犯した罪に対する裁きの預言であった。
神は言う「認罪と悔い改めの儀式を行い主に立ち返れ」
民は応える「主よ、あなたを呼び求めます。救ってください」
主の日は近い。第一章では主の日が来る予兆が語られている。
 第二章主の日が来る→その日は近い
 「諸国の民」によってイスラエルの大地は破壊される(大艱難時代)。彼らが来る前は「この国はエデンの園のようであるが、彼らの去った後は荒れ果てた荒野になる(2:3参照)。これは神に逆らい続けたイスラエルに対する神の「さばき」であった。それ故、神は「悔い改めよ、断食の布告をし、きよめの集会の布告を出せ、あなた方の神=主に立ち返れ」と勧告する。主は悔い改め、自分に立ち返ったものには、その災いを思い直し、あわれみ、祝福するからである。イスラエルはこの勧告に従う。「主よ、あなたの民をあわれんで下さい。」私は悔い改めます。主はこれに応える「わたしはあなた方を「諸国の民」の間でそしりとしない」「わたしがあなた方に送った蝗の大群、「諸国の民」が喰い尽くした年々を、わたしはあなた方に償なおう」。主はイスラエルの罪を罰しても「主は自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた」のである。イスラエルの民を苦しめた「諸国の民」はこの地から排除された。その後、主は「主の王国」(千年王国)の到来を預言する。主は言う「あなた方は、イスラエルの真ん中にわたしがいる事を知ろう」と。大艱難時代、その終了、「主の日」の到来が預言される。
 第三章 主の日の到来 
第三章ではユダとエルサレムの復活が預言される。主によって諸国に散らされた捕囚の民は帰還する。聖戦が布告され、神と諸国の民の最後の戦い(ハルマゲドンの戦い)が行われ、彼らに対する裁きが下る。自然界に大変動(蝗の襲来)が起り天も地も震える。しかし主はイスラエルの民の避けどころイスラエルの子らの砦」である。悔い改めた者は守られる。その彼方にメシア王国が、新天新地がある。ユダとエルサレムは永遠の地になり主の支配する所となる。「エデンの園」は回復する。ここに神のマスタープランは完成し、これを妨げるものは存在しない。
平成29年11月14日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


ホセヤ書 罪と裁きと回復

2017年10月15日 | Weblog
   ホセヤ書 罪と裁きと回復

 はじめに
 ホセヤ書は12ある小預言書の一つである。預言書には大預言書と小預言書の二つがあり大預言書はイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書を三大預言書と呼び、これに「哀歌」とダニエル書を付加する聖職者もいる。小預言書は12書あり、ホセヤ書、ヨエル書、アモス書、オベデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書である。大預言書に比べて量が少ないのでこう呼ばれる。内容が劣っているわけではない。ホセヤの名前の由来はヨシュヤ(ヨセフ)、イエシュア(イエス)と同じ「主は救う」という意味である。(古代イスラエルにおいては名前にはその意味が与えられている)。ホセヤ書は捕囚期以前の預言書といわれており、他の預言書と同じくそのテーマは罪と裁きと回復である。
 ホセヤは前8世紀の後半にイスラエル王国(北)ヤロブアム2世の時代に活躍した預言者で、神=主への信仰の伝統に立って、民間に流布するバアル神への信仰を糾弾した。また外交面では、アッシリアないしは、エジプトへの依存政策を批判し、神に立ち返れと告げ、内政面では、バアル信仰に立つイスラエルの王制を批判した。
 この時代、イスラエルは南北に分裂(南ユダ、北イスラエル)していたが北イスラエルのヤロブアム2世の時代は、その物質的繁栄は極限にまで達しており、ダビデ、ソロモンの時代を凌ぐ勢いであった。そしてその繁栄は神のみ業であるにも拘らず、王も民も自らの力を誇り高慢となって神を忘れた。しかしヤロブアムの治世の末期には、その政権は、ようよう滅びに向かい、王の死後、シリア・エフライム戦争、王の暗殺、王権の簒奪と王国は混乱し、弱体化していく。他方アッシリアは力を増しイスラエルに圧力をかけ始める。アッシリアの属国となり、貢納と重税に苦しむイスラエルの民はその窮状から逃れるために、真の神を忘れ、バアル神信仰(偶像礼拝)に陥って行く。陥って行くというよりもイスラエル王国も、アッシリア帝国も偶像礼拝を勧めていたので、イスラエルの民は叫ぶ「私は恋人たちの後を追う彼らは私たちにパンと水、羊毛と麻、油と飲み物を与えてくれる(2:5)」と。このように、一般の民衆にとって、真なる神もバアルの神もいずれであっても自分の生活を保障し守って、その欲望さえ満たしてくれればそれで充分だったのである。そこにあるのは生活の問題であって、信仰の問題では無かったのである。衣食足って礼節を知るである。そして紀元前722年サマリヤ(北イスラエルの首都)はアッシリアによって滅ぼされる。これは神の裁きだったのである。
 このような時代に生きたホセヤは預言する。「神にそむき続けるなら、イスラエルは滅亡する。神は反逆者イスラエルを見捨てる事はない。愛し続けるのである」と。
 しかし、神は無条件に恵みを与えるのではない。エフライム(北イスラエル)が悔い改め、主に立ち返った時(14:3)、主は言う「わたしは彼らの背信を癒し、喜んでこれを愛する。私の怒りは彼らを離れ去ったからだ(14:4)「エフライムよ、もうわたしは偶像とは何のかかわりもない」「わたしが答え、わたしが世話をする。わたしはもみの木のようだ。あなたは、わたしから実を得るのだ(14:8)」と。
今まで述べて来たように、主はイスラエルの背信の罪を糾弾しその罪を裁き、最終的には回復の預言をするのである。その彼方に千年王国を見ている。
 ホセヤはこの神の愛を彼の家族の崩壊と再婚(回復)を通して学び取るのである。

  ホセヤ書の構成
 1,ホセヤの結婚とその意味(1~3章)
 2.イスラエルの罪と罰(4~14章1節)
 3.回復と救済(14章2節~9節)

 1、ホセヤの結婚とその意味(1~3章)
 ホセヤに対して主から次のような召命が下る。「行って姦淫の女(ゴメル)をめとり、姦淫の子らを引き取れ。この国は主を見捨ててはなはだしい淫行にふけっているからだ」(1:2)と。神からの召命とは、ある使命を果たす為に預言者や祭司たち聖職者に下る神からの啓示である。「この国は主を見捨てて、はなはだしい淫行にふけっているからだ」。この言葉は、これから述べるホセヤ書の根幹を成している。淫行とは偶像礼拝のことである。神を忘れ、バアル神を信仰するイスラエルの民を、姦淫の女ゴメルによって象徴しているのである。結婚後ゴメルは3人の子を成す。結婚によってゴメルの生活を正常に戻すという事は、バアル神信仰に犯されたイスラエルの民を偶像礼拝から解放し神のもとに立ち返らせることを意味している。しかし、ゴメルとの結婚生活は思惑どおり行かず、失踪あり、姦淫あり、別居ありと多難を極める。ホセヤは離婚に踏み切るが、またまた神から召命があり、だまされて奴隷に売られたゴメルと再婚せよという。ホセヤは大きな代償を支払って彼女を買い取る。そして再婚する。姦淫を繰り返さないことを確約するが、約束とはあくまでも約束であって、その後のことは分からない。この過程はバアル信仰に犯されたイスラエルの民にも適用できる。契約によって深く結び付いているはずの神とイスラエルの民の関係も多難を極める。バアル信仰は生活に結びついた土着の信仰ゆえに神への立ち返りは難しい。しかし、バアル神は最終的にはイスラエルを救えない。
 それではホセヤとゴメルの3人の子供はどうなったのか。
 長子の名はイズレエル(種子を蒔く、の意)
 2子は、女子でその名はロー・ルハマー(愛されない者)
 3子は、男子でその名はロー・アンミー(私の民では無い)
   ローは強い否定語。次に来る語を否定する。
 いずれも神が名付け親であり、その由来を次のように言う。「あなた方は、わたしの民で無く、わたしはあなたがたの神ではないからだ(1:9後半)」と。彼らは母親のゴメルを含め異邦人であり、愛されない者ということは異教徒(バアル神信者)であることを示している。しかし、この異邦人かつ異教徒が将来において、自分の神を捨て、真の神に目覚めた時イズレエルの日は大いなるものになり、
 ロー・ルハマー(愛されない者)は、ルハマー(愛される者)になり、
 ロー・アンミー(わたしの民で無いもの)は、アンミー(私の民)になり
 イズレエルは(わたしに向かって)「あなたはわたしの神」と言おう。
 これは姦淫を犯したものが目覚め、正しい妻となった時(神を信じた時)神が与える恵みの預言である。この預言は未来完了形であり、神の預言は、その完全性から必ず実現することを現している。ローという否定語は取り去られる。
ここで述べられていることは、将来メシア王国(千年王国)において成就する回復の預言である。ユダとイスラエルの人々が「一人のかしら(1:11)、すなわちメシアによって一つに集められ、すべてが神の民になり、神に憐れまれぬ者は愛される者となる。

 2、イスラエルの罪と罰(4~13章) 
 4章から13章まではイスラエルの姦淫(偶像礼拝)の罪と、神による裁きが描かれている。その詳細は省略してキーワードのみを説明する。

 姦淫(偶像礼拝)
 姦淫とは正規の妻がいながら他の女性と関係を持つことを言う。これは、神との契約下にあるイスラエルが他の神を礼拝することを指している。イスラエルの場合、偶像礼拝とは豊饒をもたらすバアル神崇拝だけでなく、対外的には生存と防衛を保障する為に大国(エジプト、アッシリア)に拠り頼むことも指している。
ここにイスラエルの伝統がある。アブラハム以来、神によって与えられ引き継がれて来た伝統(神による選びと、神との契約)それは神の壮大な計画を現している。イスラエルから世界へ、艱難時代からメシア王国へ。この歩みを妨げるものは、徹底的に排除されねばならない。神による偶像崇拝に対する執拗なまでの攻撃は神の存亡をかけての戦いだったのである。だからイスラエルがどんなに神に逆らっても、これを罰しはしても、絶対に滅ぼしたりしないのである。神は悔い改めを要求する。お互いは相思相愛にならねばならない。ホセヤとゴメルのように。

 偽預言者
 預言者とは神から預けられた言葉を一般の民衆に伝える役割を持つ。ホセヤは神からの言葉をイスラエルの民に伝えた。預言者と偽預言者の差はその現状分析の違いにある。主観を大事にし、神の啓示を無視する。更に悔い改めが必要な時、悔い改めを求めないで神の恩恵だけを宣言する。ホセヤ書9章では偽預言者に対する神の怒りが描かれている。「イスラエルよ、知るがよい。預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ。これは、あなたのひどい不義のため、ひどい憎しみのためである。エフライムの見張り人は、わたしの神と共にある。しかし預言者はすべての道にしかけるわなだ。彼の神の家には憎しみがある。彼らはギアブの日のように真底まで堕落した。主は彼らの不義を覚え、その罪を罰する--------(9:7~17参照)」。本来預言者は神の言葉を忠実に表現して、これをイスラエルの民に伝えねばならない。それをしないで神の怒りを買っているのは彼が偽預言者の証拠である。艱難時代には民の心に心地よい預言をしてその関心を買う偽預言者が増えるのである。「私の神は彼(預言者)らを退ける、それは彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国の神のうちに、さすらい人となる(9:17)」。

 エジプト、アッシリア
 エフライムは自分の作り主を忘れ、その契約を忘れ、強大大国(エジプト、アッシリア)に頼り自国の独立を保とうとした。しかし人間の画策は、全て徒労に終わる。エフライムは、本来、主と共に歩むべきであったにもかかわらず自分勝手に歩むロバのようになった。結局アッシリアに滅ぼされる。それは主の裁きであった。

 荒 野
 「私は切にあなたを求めます」主ととの関わりを求めるとき、荒野はそれを可能にする。「荒野」とは神だけをあてにする世界であり、神から来る恩寵を味わう世界である。黙示録では、荒野はイスラエルの民の逃げ場になった。イエスは荒野でサタンの試練を受けた。出エジプトではイスラエルの民はカナンにはいる前40年間、荒野で待機した。

 3、回復と救済(14:1~14 ) 
 神はエフライムを許すために立ち帰りの勧告をした(14:1~4)それは強国に頼るな、軍事力に頼るな、偶像に頼るな、であった。それは全て人間の創造物であった。その上で赦しと癒しの約束をする(14:5~10)。「わたしは彼の背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ」。このようにして神の民は復活する。その彼方にメシア王国がある。
平成29年10月10日(火)報告者守武 戢 楽庵会