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日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

ヨハネの黙示録

2017年09月18日 | Weblog
  ヨハネの黙示録 
 はじめに
 ヨハネの黙示録は次の言葉から始まります。「イエスキリストの黙示。これはすぐに起こるはずのことをそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与ええになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これもしもべヨハネにお告げになった。ヨハネは、神の言葉とイエスキリストのあかし、すなわち、彼の見たすべてのことをあかしした。この預言の言葉を朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである(1:1~3)」。「すぐに起こるはずのこと」、「時」とは神の国「千年王国」を指しています。

 黙示録の書かれた目的
 黙示録は、キリスト教徒迫害の時代に、ヨハネによって、流刑の地パトモス島で、迫害に苦しむ信仰の兄弟姉妹を、慰め、励まし、力づけるために書かれた書です。「神は最終的には勝利される」と言う確信をイスラエルの民に抱かせ「それまで忍耐せよ、わたしはすぐ来る」と云う主の言葉で結んでいます(22:20)。

 黙示録の構成(22章からなる)
 1、教会時代(1~3章)
 2. 大艱難時代(4~19章)注1
    封印
    ラッパ
    金の鉢
  (神による裁き・終末に導く預言)注2
 3. 御国の時代(20章)千年王国
 4. 永遠の時代(21~22章)新天新地
  注1:神がイスラエルの民に示した千年王国に至るまでの試練。千年王国を迎えるに当たって神の民の為すべきことが示されています。
  注2:終末を迎えるに当たって、神はこの世をリセットされる。イエスが再臨して、その彼方に神の国(千年王国)を見ます。

 教会時代(ヨハネが送った7つの教会へに挨拶)
 トルコにある7つの教会(エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤ)に対する使信(手紙)。この使信には7つの教会が抱える問題点が網羅されています。ヨハネは神から託され、7つの教会に告げねばならない言葉(称賛、叱責、勧告、約束)を使信に記録します。全般的に、これらの教会の精神的弛緩、退廃、の傾向は激しく、ある教会は「初めの愛」を忘れ、ある教会は「不道徳な環境世界からの圧力」に屈し、ある教会は「金銭」に拘泥し、ある教会は「偶像」を崇拝し、ある教会は「偽教師」によって誤った方向に信者を導いています。使信は言います「不義を排し、義に戻れ」「悔い改め、神に立ち返れ」と。神は各教会の問題点を指摘した後に、必ず「聞く耳のあるものは霊が諸教会に告げる事を聞け」で結んでいます。「聞け」とは[従え]を意味しており[従う」は神に対する信仰であり、愛なのです。悔い改める者に対して神は決してこれを罰しません。叱責や勧告は励ましなのです。
 7つの教会の持つ問題点はこれらの教会に限られたものでは無く、当時の教会の一般的な姿を象徴的に現していると言って良いでしょう。これは教会だけの責任では無く、教会を取り巻く世界にも原因を求めることが出来ます。
当時は大艱難時代であり、イスラエルはローマの属領に甘んじていました。ローマは軍事的にも宗教的にも諸国、諸民族を支配し、統治していたのです。神格化された皇帝崇拝は、一神教を信じるキリスト者にとっては耐え難いことでした。2人の神を信じる事は出来なかったのです。神信仰か皇帝信仰か、神を信じれば迫害が、皇帝を信じれば背教の苦しみが。二者択一の中で、キリスト者は苦しんだのです。7つの教会の持つ精神的退廃、弛緩も、このような歴史的背景があったと言って良いでしょう。こんな時「黙示録」は生れたのです。大艱難時代の彼方には神の国がある。その信仰に支えられたとき、確信した時、イスラエルの民は癒されたのです。

 大艱難時代
 神は決してその御心を直接には実行しようとはしません。実行する為に、神は人を求めたのです。神は人を通じてしかこの世を支配することが出来ないのです。神はイスラエルの民を自らの選びの民としました。イスラエルの民は本来、その為の権威を神より委ねられていたのです。神はそのご計画をイスラエルの民を通じて達成されようとしました。イスラエルから世界へ。これが神の壮大なご計画だったのです。しかし、この計画を妨げる者が現れます。それがサタン(悪魔)です。サタンは天における神との戦いに敗れて、地に落とされます(堕天使)。地に落とされたサタンは、その命が短いのを知って、神に対して怒り、神のご計画を妨げようとします。それはメシアの出現を阻止することでした。
  1.メシアの初臨(誕生)を妨げる
  2.メシアの福音(宣教)を妨げる
  3.メシアの子孫の繁栄を妨げる
    (1~3は12章を参照して下さい)
  4.メシアの再臨(千年王国)を妨げる。→ハルマゲドンの戦い(16章参照)
 その目的は、神の愛から人を遠ざけることにあったのです。
 イスラエルとサタンとの戦いが始まります。イスラエルはサタンに勝つことが出来ません。これが大艱難時代なのです。サタンの支配する時代です。しかし神はイスラエルの民に言います「何が起ろうとあわてるな、こんな時こそ、あなたの信仰と忍耐が試されるのだ」「わたしは必ず来る」と、神の国の到来を預言します。サタンの支配の歴史は,サタンを象徴する大妊婦(バビロン=ローマ)が敗北することによって終了します。イエスが再臨して千年王国が始まります。しかし、これは救いの前段階に過ぎません。この後に、新天新地が用意されています。神のご計画は完了します。

 神は大艱難時代を終わらすために、終末に導く預言をします。それが、封印、ラッパ、金の鉢の裁きです。
 小羊(イエス)が7つの封印を開いた時、ケルビムが「出て来なさい」と叫びます。この時出てきた動物が、白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬です。それぞれが何かの象徴です。
 白い馬=侵略者 赤い馬=血と戦争(侵略戦争) 黒い馬=死と飢饉 青ざめた馬=悪疫と死 5つ目の封印が解かれた時、殉教者の声がします。「いつまでも裁きを行わず、復讐をしないのか」と。6つ目の封印が解かれた時大地震が起きます。終末が預言されます。第7の封印が解かれた時、7人の御使いが現れ7つのラッパが渡されます。ついで金の鉢の預言もなされます。比較してみましょう。

 上記の表をよく読むと、とても似ています。しかし、最大の違いは、その裁きの質が異なっている事です。ラッパの裁きの災厄は3分の1でしたが、金の鉢の裁きは全てです。神の怒りがそれだけ大きくなっていることを示しています。しかし、最終的には、ラッパの裁きの後には終末が語られ、金の鉢の裁きの後には『事は既になった』と千年王国の到来が預言されています。

 黙示とは
 さてここで黙示された象徴につて学んでみたいと思います。黙示の言葉の意味は「覆いをとる」ということで、隠されたものの覆いをとり、真実を見るという事です。
 そこで黙示(象徴)された言葉を見ていこうと思います。
 ひとりの女:イスラエル(教会でも、マリアでもない)注3
 赤い竜:サタン(悪魔)
 男の子:メシア(キリスト)
 ミカエル:天使長
 女の子孫の残りのもの:キリストの弟子たち
 海から昇ってくる獣:反キリスト
 地から来る獣:偽預言者
 天:神を尊ぶ者の住まい
 地、 海(サタン=獣、の住む場所) 
 大淫婦:バビロン(ローマ)
 小羊:キリスト(メシア)
 注3:「ひとりの女」には諸説あるが、『この女は妊娠していましたが、出産を間近に控え陣痛に苦しみ、大声で呻いていました。--------女は男の子を産みました』(12:1~6参照)、女が教会なら、教会がキリストを生んだことになる。聖書によれば、キリストが教会を生んだのである。マリア説:カソリック教会の説。マリアは無痛分娩の筈である。結局、大艱難時代をしのいだイスラエルということになる。

 唯一、無二の真の神に、正面から、意識的に対立する強力な世俗権力(ローマ)のもとで、純粋に真剣に信仰を守り続けることは計り知れない危険を伴い、殉教すら辞さない信念と勇気を必要とします。その勇気と信念は、究極的には地上の王は、天上の王(神)に服従せざるを得ない、という確信から生まれます。この確信を大艱難時代に苦しむイスラエルの民に与える事を意図した書が「黙示録」です。このような確信を貫く者は、肉体的な死から蘇って千年王国の時代に、第一の復活を達成しキリストと共に千年王国を支配します。

 御国の時代(20章)
 千年王国
 十字架の刑の後3日目に蘇みがえり45日間この地に留まりその使徒たちに、その福音宣教を託して、天に上られ、神の右の座につかれたイエスキリスト(イエスの空中再臨、と花嫁(教会)の空中携挙)は大艱難時代の終わり(終末時)に、天から地上に下りられ(地上再臨)第Ⅰの復活を果たした信徒(注4)たちと共に千年の間この国を統治し最後の審判を行った。この国を「千年王国」と呼ぶ。この時、悪魔は神の御使いによって捕えられ千年の間、底知れぬところに落され、幽閉されていた。この間、悪を行わない為であった。しかし千年後には解放されることになっていた。
(注4)第Ⅰの復活を果たした信徒:イエスの証しと神の言葉のゆえにくびをはねられた魂と、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった信徒たちを指す。要するに殉教者と聖徒たちを指す。彼らは生き返ってキリストと共に千年の間王国を統治した。
 神とサタンの戦い
 千年の後、解放されたサタンは仲間の軍隊と共に、神に逆らって神の都エルサレムを包囲します。神は怒ります。天から火が降り、かれらを焼き尽くします。そして火と硫黄の池に投げ込まれ永遠の苦しみを味わうことになります。
 最後の裁判
 全ての死者は復活し(第2の復活)各々の行いに応じて裁かれます。命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれます。これが第2の死です。
 普遍的平和この結果、全ての悪は取り除かれ、サタンは除かれ神のご計画を妨げる者はいなくなりました。平和と平安が訪れます。神の民は神の恵みを満喫できる条件を手に入れたのです。それ故、千年王国はゴールではありません。中間地点です。世の中も、人も全てが変わらなければならないのです。人は罪びとのままです。
 新天新地
 21章では新天新地が語られます。ヨハネは言います『それから私は新しい地と、新しい空とを見ました。(そこには海はありません)今までの地も空も消え去ってしまいました。また私ヨハネは、神様のもとを出て天から下ってくる、聖なる都、新しいエルサレムに目を奪われました。その素晴らしさは、まるで、結婚式に美しく着飾った花嫁のようでした(21:1~2)。ここには神の計画の完成と御国の完成が描かれています。
神はこの預言を現実のものにするためにすぐ来ると確約しています。

 永遠の時代 
 そして、この預言書を読む人に言います『一言でも追加することも削除することも許さない』と。ここには神の預言の完璧さが示されています。アーメン。主イエスよ来て下さい。         
 
平成29年9月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

ダニエル書2 (7~12)旧約聖書の黙示録

2017年07月24日 | Weblog
  ダニエル書 2 (7~12章 ) 旧約聖書の黙示録
  はじめに
 第Ⅰ部では、異教の神=偶像崇拝に対する真実の神への信仰の優越性が示されました。
 第2部では、ダニエル自身に下される幻が語られます。この中でユダヤの歴史と世界の終末及び救済が語られています。
 第Ⅰ部では、他の預言者にとって不可能な夢解きをしたダニエルでしたが、自分自身に下された幻を解き明かすことが出来ませんでした。その夢解きの手助けをしたのが天使ミカエルでありガバリエルでした。
 第2部では、ユダヤに対する周辺の大国(バビロン、メディア、ペルシャ、ギリシャ、シリアのセレオコス王朝)の支配の歴史(大艱難時代)が預言されます。この大艱難時代は、神の民イスラエルが心を尽くし、精神を尽くして神を捜し当てるために、主が意図的に定めたものだったのです。大国の迫害下、異教の神に囲まれ、偶像崇拝の強制のもと、真実の神への信仰の堅持がダニエル書のテーマとなります。天使ガバリエルはダニエルに言います「あなたの民とあなたの聖なる都については70週が定められている。それは背きを止めさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油を注ぐためである(9:24)」と。大艱難時代は、神に誠実であるなら永遠に続くものでは無いと言っているのです。
 9章には、この大艱難時代を迎えねばならなかった霊的な必然性(神に対する反抗)が語られています(9:3~15)。ダニエルは、内の不信仰と、異教の大国の侵入と云う内外の敵を前にして、気が挫けそうになります。ダニエルは叫びます「わが主よ、この幻によって、私は苦痛に襲われて力を失いました--------私には、もはや、力も失せてしまい、息も残っていないのです(10:16~17)」と。これを憐れみ、力づけたのが神からの御使い天使ミカエルやガバリエルだったのです。「神から愛されているダニエルよ、--------私は今、あなたにつかわされたのだ(10:11)」「恐れるなダニエル、安心せよ、強くあれ、強くあれ(10:19)」「私が来たのは、あなたの言葉のためだ(10:9)」「終わりの日にあなたの民に悟らせるために来たのだ。なお、その日についての幻があるのだが(10:14)」と語ります。これらの言葉を聞いてダニエルは力を得たのです(10:19)。苦悩の彼方にある神の国が描かれています。
 12章は最終章です。ここには神のご計画の完成が語られています。神の審判が語られ、義なる者と不義なる者との行くべき道が示されます。主はダニエルに言います「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ、あなたは時の終わりに、あなたの割り当て地に立つ(12:13)」と。
 ダニエル書で、はじめて真理の啓示者として天使(ミカエル、ガバリエル)が現れます。ダニエルは神の民=イスラエルには、認罪と悔い改めを、神に対しては憐れみと恵みとを示して下さるように祈ります。

 ダニエルの見た幻
 ダニエルはバビロンの王ペルシャツァルの御代に2つの夢を見ます。一つの夢は4つの獣(獅子=バビロン、熊=メディア・ペルシャ、豹=ギリシャ、10本の角を持つ巨大の獣=ローマ)の夢(7章)であり、第二の夢は雄羊=ペルシャ、雄やぎ=ギリシャの夢(8章)です。これらの国々は、それぞれ強大でしたが、次に起こる帝国によって滅ぼされます。イスラエルも国を失い、属領に甘んじ、苦難の道を歩みます。ギリシャはアレクサンドル大王の死後、4つの王朝に分裂します。その分裂した国の中から2つの王朝(シリア、エジプト)が勢力を増し、お互いに競い合います。シリアの王アンチオコス4世は、イスラエルでユダヤ人に対し大弾圧を行います。信仰の自由を奪い、ユダヤ教の祭日や安息日を禁じ、ユダヤ教そのものを禁じ偶像礼拝を迫ったのです。11章にはこの間の事情が克明に描かれています。イスラエルはこれに反抗し、反乱(マカベアの乱)を起し独立を勝ち取っています。しかしローマによって滅ぼされます。


 メディア国の王ダリヨスの治世の第1年、ダニエルに主のみ言葉がありエルサレムの荒廃の終わるまでの年数が70年であることをダニエルはエレミヤの文章によって知ります(7:1~2)。この70年はイスラエルの民が心を尽くし、精神を尽くして、これまでイスラエルの民が犯してきた数々の罪を認め(認罪)悔い改めて神に立ち返るための期間でした(9:4~15)。これが大艱難時代を終えるための条件だったのです。
ダニエルは顔を主に向け、断食をして、荒布を纏い、灰を被って(その実現を)主に祈ります。そして言います「私たちが御前に伏して願いを捧げるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなる、あわれみによるのです(9:18)」と。
人はもともと罪ある存在です。キリスト・イエスの十字架上の贖いによってのみ、人は救われるのです。
ダニエルが罪の町エルサレムの救いを願い、祈っているとき、天使ガバリエルが現れて言います「ダニエルよ、私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た(悟りを授けるとは迷いを脱して真理を会得することを意味します)(9:22)」「主の み言葉を聞きわけ、その幻を悟れ(7:23)」と、いわゆる70週預言を伝えます。70週預言とはイスラエルの民がその間にそむきを止め、罪を終わらせ、咎を贖うだけでなく、その上に、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至誠所に油を注ぐことが必要なのです。前半の3つは、背きの民イスラエルの必須事項であり、後半の3つはやがて再臨されるメシアによってのみ実現するものです。70週預言とはイスラエルの完全な回復を意味しており、終わりのときを前提としています。
この後、終末論が語られ、悪が一時的に栄えても、神によって滅ぼされ、神の御国が現れると云う預言で9章は終わっています。
「ペルシャの王クロスの第3年にダニエルに一つの言葉が啓示された。そのことばは真実で大きないくさのことであった。かれはその言葉を理解し、その幻を悟っていた(10:1)」。大きな戦いとは霊的戦いのことです。神とサタンとの戦いです。しかし、神もサタンも共に目に見えない存在です。天上における戦いは必ず、地上における戦いの中に現れるのです。4つの世界帝国(バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ)と神の民イスラエルの戦いを指します。
 小国イスラエルは帝国の前では決して勝つことは出来ません。しかし、帝国に無い最大唯一の強みはイスラエルには主が味方して、決して見捨てることが無いと云う事です。確かにイスラエルは大艱難時代を迎えました。しかし、それも70週と定められています。それは背きの民イスラエルが神に立ち返る期間なのです。天使ミカエルはダニエルに言います。「終わりの日にあなたの民に起こることを悟らせるために来たのだ。その日については幻があるのだが(10:14)」と。更に云います「真理の書にかかれていることをあなたに知らせよう。あなた方の君ミカエルの他にはわたしと共にふるい立って、彼らに立ち向かうものは一人もいない」と。100万人が敵にまわろうと神はあなたと共にある、と言っているのです。

 ダニエル書は旧約聖書の黙示録
 ダニエル書は「ヨセフの黙示録」とならんで黙示文学の一つとといわれています。黙示文学とは象徴、シンボル、サイン、啓示、例え話などを使って、暗黙のうちに作者の意図を表現する文学です。表現の自由の奪われた国ではよく使われる手法です。ダニエル書では7章8章でこの手法が使われています。バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマを現すのに獅子、熊、豹、10本の角を持った獣、あるいは雄羊でペルシャを、雄やぎでギリシャを現しています。11章でも具体的な人の名は出てきません。ユダヤ人には評判の悪い、シリア人のアンティオコス4世は「一人の卑劣な者」、「横柄で狡猾なひとりの王」、イスラエルは「麗しい国」、ギリシャのアレクサンドル大王は「勇敢な王」と表現されています。それ故、黙示文学は難解だと言われています。歴史を知らない人には、その象徴の意味か分からないからです。暗号を解く気持ちになります。

 アンティオコス4世
 アレクサンドル大王の死後ギリシャは4つの王朝に分裂します。この分裂した4つの王朝の中から勢力を伸ばして来たのが、北のシリアと南のエジプトだったのです。彼らは互いに競い合い、戦います。アンティオコス4世はシリアのセレウコス王朝の王様です。彼は王位を簒奪します。肥沃な土地に侵入し彼の父も父の父たちもしなかった事を行います。彼は、そのかすめ取った物、分捕りもの、財宝を仲間たちで分け合います。まさに悪王の典型です。エジプトに侵入しようとしてローマの海軍に阻まれ撤退を余議なくされます。腹いせにエルサレムに戻り、その城壁を破壊し家々に火を放ち、多くのユダヤ人を殺害し、捕囚し、奴隷にするなど暴虐の限りを尽くします。彼は反抗するユダヤ人を徹底的に弾圧し、ユダヤ人の神殿での犠牲の奉献、安息日の遵守、割礼の執行、律法の書の所持等全てを禁止し、命令に背くものには死罪を持って報いたのです。エルサレムの神殿に「ゼウス神」を祭り、これを礼拝するようユダヤ人に強要したのです。アンティオコス4世は神聖な神殿を踏みにじった悪王として今日まで伝えられています。
 この王は、思いのままにふるまい、全ての神よりも自分を高め、大いなる者として、神の神に対してあきれ果てるようなことを語ったのです。こんな彼を主が許すわけは無く、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者は一人もいない。
平成29年7月11日(火)報告者  守武 戢 楽庵会

ダニエル書1、1~6章

2017年06月13日 | Weblog
  ダニエル書1 1~6章
 はじめに
 ダニエル書に限らず預言書を読む場合、「ヨハネの黙示録」を併せ読むことをお勧めします。預言書の行き着く先はこの書にあるからです。「ヨハネの黙示録」は新約聖書巻末の一書で、小アジアで迫害されているキリスト教徒を慰謝、激励し、キリストの再来、地上の王国の滅亡と神の国の到来とを叙述しています。世の終わりに義人の復活が語られ、主によって選ばれたイスラエルの民の行くべき場所が啓示されています。神は、自然界と人間界をはるかに超越した存在であるにも拘らず、イスラエルの歴史に内在し、介在しイスラエルの民を導いていく存在として現れます。これは旧約聖書に一貫として貫く思想であり、ダニエル書も例外では無いのです。それは祖国を追われ、流浪の民となったイスラエルの民にとって最後で、唯一の希望だったのです。
 このように、ダニエル書は、ダニエルの時代から、世の終わりまでの、歴史的に広範囲にわたる預言を語っています。主に忠実のものは、最後には復活への道が用意されているのです

 ダニエル書
 ダニエル書の最終目的は、決して滅びることのない神の国です。「--------その主権は永遠の主権で滅びることが無い(7:14)」「国と主権と天下の国々の権威とは『いと高き方』の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。全ての主権は彼らに仕え、服従する(7:27)」。神の民、イスラエルの民は千年王国において、世界の支配者になることが預言されています。ダニエルはこの書の主役です。彼は捕囚地でバビロンのネブカゼネザル王によって選ばれた王に仕えるにふさわしい優秀な人物です(1:3~4参照)。ダニエルは聖なる神の霊を宿す者として、また全ての夢と幻を解き明かす能力を持つものとしてダニエル書に現れます。その力によって、王たちの信頼を勝ち取り、高い地位を与えられています(1章~6章)。ダニエルは他の預言者が神の召命を受けて福音宣教に努めたのとは違って、神にではなくネブカゼネザル王によって選ばれた捕囚民の一人です。王族か貴族の出身(1:3)のようです。「ダリヨスの治世とペルシャ人クロス王の時代に栄えた(6:28)」のです。彼の他に3人の仲間(ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤ)も優秀な人材としてダニエルと共に王によって選ばれています。
 バビロンの捕囚民
 このように「バビロンの捕囚民はイスラエルの民のうち主だったもの」とあるように、彼らは捕囚地において必ずしも奴隷状態にあったわけでは無かったようです。自分の専門分野を生かしそれなりの地位につき安定した生活を送っていたようです。その証拠にペルシャのクロス王によって、祖国への帰還が許された時にも、祖国に帰還せず、バビロンに残っていた者が多くいたと云われています。ダニエルもその一人です。
ダニエル書は12章からなりその内容から2つに分けられます。
1、バビロンにおけるダニエルと仲間たちの受難と救済、そして夢解き(1~6章)。
2、ダニエルに啓示された終末の預言(7~12章)。

1、バビロンにおけるダニエルと仲間たちの受難と救済、そして夢解き(1~6章)。

注①ダニエルたちは自らに与えられた王からの飲食物を穢れたものとして、これを拒否。野菜と水だけを要求する。ネブカデネザル王は試用期間を設ける。結果、正しさが証明され、王の飲食物は中止される。
注②ネブカデネザル王は、金の偶像を作り、これを我と考えて敬い、ひれ伏せと、民に命じる。しかし、ダニエルの3人の仲間はこれを拒否する。王は怒り、彼らを猛火の炉の中に投げ込む。御使いが現れ、彼らを救う。王は3人の信仰を認め、彼らに高い地位を与える。この章にはダニエルは登場しない。
注③メヂアの王ダリヨスは法令を作り、これを守らない者は獅子の穴に投げ込むと宣言する。王の信任の厚いダニエルに嫉妬し、高官たちは正しい神を敬い、ひれ伏すダニエルを王に讒訴する。王は自分の法令を犯したものを救う事が出来ずダニエルを獅子の穴に投げ込む。しかし、神の御使いが現れ獅子の口をふさいだのでダニエルは食い殺されること無く救われる。
注④ネブカデネザル王は「大きな像」の夢を見る。その夢の解明をダニエルに問う。その像は、下表のようなものであった。足の部分は体を支える基礎、この基礎が脆かったと言う事は、これらの国が正しい神を斥け、異教の神を信じていたということを現している。国の基礎は正しい神によって、確立されねばならない。それ故、滅ぼされる運命にある、と夢解きをする。ダニエルは王に本来の神を敬い永遠に打ち砕かれることの無い国を打ち建てるようにと進言する。
注⑤ネブカゼネザル王は、大木の夢を見る。その夢解きをダニエルに命じる。大木とは王のこと。その治世は栄え、他に並ぶものは無い。その主権は地の果てにまで及んでいた。この時、御使いが現れ「この大木を切り倒せ」。「しかしその根株は残せ」「この根株を天の露に濡れさせ、7つの時が通り過ぎるまで野の獣と草を分け合うようにせよ」と叫ぶ。これが夢の意味であり、夢解きを必要とする。この夢は王の国が倒れ、試練にさらされることを意味している。この試練を乗り越えて、7つの時が過ぎた時、王は救われる。しかし、その為には神の教えを受け入れ、守り、正しい行いによって「あなたの咎を除くならば、あなたの繁栄は末永く続くでしょう」とダニエルは王に言う。しかし、その繁栄によって高慢となった王は「この繁栄はわが力によるもの」とダニエルの進言を斥ける。この瞬間、天から裁きが下り、王は罪に服す。そしてその裁きの期間が終わった時、ネブカデネザル王には理性が戻り、王位は確立し、以前にもまして大いなる者となった。王は神を敬う。
注⑥ ネブカデネザル王の息子ペルシャツアル王の夢解きをダニエルは命じられる。それは、メネ、メネ、テケル・パルシンと云う言葉であり、その意味を王は、ダニエルに問う。ダニエルは応えて曰く「あなたの国は分割され、メディヤとペルシャに与えられる」と。その夜、王は暗殺され、バビロンは滅びメディヤのダリオス王が後を継いだ。
 3章と6章の共通点

 言 葉
 根株:大木が切り倒されても、根株さえ残っていれば、そこから芽が出、成長し美しい花を咲かすことから、ネブカゼネザル王の心の奥底に潜在する隠された信仰心を指します。これがあったからこそ、おごり高ぶっていたネブカゼネザル王を主が打った時へりくだる者となった(理性が戻る)のです。
「いと高き方(神)」の主権は、地上の主権に勝るのです。
信仰の素とも捉えることが出来ます。
 法制度:バビロンの法制度とメディヤ・ペルシャの法制度との違いは、一方が絶対君主制であり、他方が立憲君主制だと云う事です。ペルシャのネブカデネザル王は法そのものです。しかし、ダリヨス王は君主といえども法に従う義務があります。しかも自分の作った法となればなおさらです。ダリヨス王は、ダニエルを個人的には救済したいと思いながらも、法に縛られてそれをすることが出来なかったのです。
平成29年6月13日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会


エゼキエル書2 主はエルサレムに住む 25~48章

2017年05月19日 | Weblog
  エゼキエル書2 (主はエルサレムに住む) 25章~48章
 はじめに
 主がエルサレムに住むという思想はソロモンによる神殿建設以降一般化しています。主は神殿建設中のソロモンの前に立ち、あなた方がわたしの前において完全であるならば『わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない(Ⅰ列王記6:12~13)』と述べています。この思想は詩篇などでも詠われています(詩篇46,48,76他参照のこと)。
 エゼキエル書は、ケベル湖畔の町テルアビブでの主の幻=ケルビムの出現に始まり、再建された神殿と回復したエルサレムの幻で終わりますが、この間、主が一端、エルサレムを見捨てた状況が語られています。主は仰せられます「わたしの前で完全であるならば」と、しかしイスラエルの民は決して主の前で完全ではなかったのです。主に背き続けたのです。それで主は怒り、バビロンを使って、この町を廃墟とします。すると人々は、「あの人たちは、エジプトの地から自分たちの先祖を連れだした、彼らの神=主を捨てて、他の神々に頼り、これを拝み、これに仕えた。そのために主はこの全てのわざわいをこの人たちに下されたのだ--------(Ⅰ列王記9:9)」と。しかし主は、エルサレムの崩壊をあざ笑ったイスラエルに敵対する周辺諸国を罰します。基本的には主はイスラエルと共にあったのです。主は「聖なるわが名のために」自らの選びの民を冒涜することをお許しにならなかったのです。次に周辺諸国に対する審判預言について見ていきたいと思います。

 諸国民への審判預言とその背景

 上記の周辺諸国はエジプトを除いて全てイスラエルに敵対する国々であり、イスラエルの崩壊を歓喜し、あざ笑った国です。しかし、なぜか、バビロンに関する審判預言はありません。当然あってしかるべきです。ここにエゼキエルの意志を感じます。エゼキエルはバビロンに好意を持ち、イスラエルの民に対し降参してバビロンに仕えよとまで言っています。機会を待てと云っています。勿論その背後には主が居ます。
主はイスラエルを崩壊させた張本人です。その主が、イスラエルの崩壊を歓喜し、あざ笑った国々をなぜ裁いたのでしょうか。一見、矛盾しています。
 創世記12章3節には次のような主の言葉があります「あなたを祝福する者を、私は祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う」と。主は自らが選び、契約まで結んだイスラエルを、その不義ゆえに罰しはしても、「その聖なる名のゆえ」に滅ぼしはしなかったのです。そこにはイスラエルに対する愛がありました。それゆえ、選びの民であり、契約の民であるイスラエルを呪い、その崩壊を喜ぶ諸国を許すことが出来なかったのです。特にエドムに関しては25章に語られていますが、べつに、独立の章(35章)がもうけられ、そこでも改めて審判預言が語られています。特に、エドムとはヤコブ(イスラエル)によって長子権を奪われ、その正統性も奪われ、傍系に甘んじたエサウの子孫の作り上げた国です。長子権を奪われた時、エサウは怒ってヤコブを殺害しようとしますが、のちに和解しています。その信義に反して復讐を試み、イスラエルの崩壊に乗じて、あわよくば国を回復しようとしてバビロンと共にエルサレムに侵入したのです。そのため主の怒りが及んだのです。

 ツロ:南フェニキヤの有力な商業都市であり、貿易によって巨万の富を築いた海洋都市であり、軍隊によって守られた豊かで、美しい都市でした。その豊かさを27章では詳細に描いています。この強固で美しい都市が主の鞭(バビロン)の前でもろくも滅び去るのです。その滅びはその他の諸国と同じくイスラエルの崩壊をあざ笑ったことにあると同時に、その強さと豊かさゆえにこの国の王が高慢となったことにあります。われこそは海の神と「自分は神なり」と高ぶったのです。「神はわれ1人」と誇る主にとって自分以外に神があってはならないのです。神は謙虚さを要求するのです。「お前は人であって神ではない」と主は言います。
ツロは反バビロン的立場を鮮明にし、エルサレムの熱狂的反バビロン分子と呼応してバビロンと事を構えようとして滅ぼされます。主はエゼキエルを通じて親バビロン的立場を鮮明にしてこれに仕えよ、と戦火による滅亡を避ける方法を模索していたのです。

 エジプト:エゼキエルの時代エルサレムはバビロンに包囲されていました。この時エルサレムの指導者層は、エジプト派とバビロン派に分かれて争っていました。大国に挟まれた小国イスラエルが生き残って行く為には、どちらかに頼る以外に道は無かったのです。イスラエルの熱狂的分子はエジプトに頼ってバビロンと闘おうとします。エゼキエルの平穏、かつ平和的戦略(バビロンに仕える)とは当然対立します。
 当時、エジプトは、強力で、美しい国でした。エデンの園にも例えられていました。これらすべては主の恵みだったのです。それにも拘らず、それを自らの力と過信し、エジプトは高慢となったのです。「ナイル川はわが作品」とエジプト王パロは言います。主は怒ります。自然の創造は神以外にあり得ないのです。その高慢に対して主の裁きが下ります。裁きの鞭ネブカデネザルによってエジプトは滅ぼされます。しかし40年の廃墟の末にエジプトは回復します。主は言います「40年の終わりになってわたしはエジプト人を、散らされていた国々の民の中から集め、エジプトの繁栄を元どおりにする。彼らをその出身地パテロスの地に帰らせる。彼らはそこで、取るに足らない王国となる。どの大国にも劣り、2度と諸国の民の上にぬきんでることは無い。かれらが諸国の民を支配しないように、私は彼らを小さくする。イスラエルの家は、これに助けを求めるとき、咎を思い起こして、もう、これを頼みとしなくなる(29:13~16)」と。ネブカデネザルによるエジプト征服の知らせはバビロンに捕囚になっているユダの人々にエゼキエルの言葉こそ真実であることを知らせるものだったのです。
 このようにエジプトもツロもそのおごり高ぶりは、自らを神に見立て主を冒涜するものでした。更に偶像を作り異教の神を信じたのです。主の最も嫌われる行為です。主はこれを罰します。主の関心は、この世の智恵、富、権力ではなく主への信仰、救いにあります。

 イスラエルの回復の預言(わが聖なる名の故に) 
 神のご計画の最終目的は、エデンの園(新しいエルサレム)の再現にあります。主の栄光を世界に輝かす為には、自分の選びの民であり、契約の民であるイスラエルを滅ぼすことは出来ないのです。「わが聖なる名の故に」イスラエルは輝いていなければならないのです。イスラエルを愛する前に、主は自らを愛しておられたのです。イスラエルはあくまでも主のご計画を達成する為の手段に過ぎなかったのです。「イスラエルの家よ。わたしが事を行うのは、あなた方のためではなく、あなた方が行った諸国の民の間であなた方が汚した、わたしの聖なる名のためである(36:22)」。
「わたしのために、あなた方は裁かれ、認罪し、悔い改め、わが前に立ち返れ、この時『あなたはわたしの民となり、わたしはあなたの神となる(37:23)』」。
 エドムの章が回復預言にも含まれたのは、過去の経緯はともかくとして、イスラエルの地は主がイスラエルに与えた相続地であり、嗣業地であるという事です。この地を奪おうとすることは主に対する冒涜です。主の怒りがエドムに向かったのは当然です。この地は将来的に捕囚の民が帰還を果たすべき土地です。主はエドムを一掃して廃墟にしたのです。後顧の憂いを取り除いたのです。
 主はエゼキエルを谷間につれていく。そこにはイスラエルの民の骨で満ちていた。主はその骨に息を吹きかけ蘇らせる。彼らは絶望の淵にあった。主は彼らに希望を与える。「神である主はこう仰せられる。『みよ、わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族を取り、それらをユダの杖にあわせて、一本の杖とし、わたしの手の中で一つにする(37:19)』と」。「わたしが彼らを、その地イスラエルの山々で一つの国にするとき、一人の王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや二つの国とはならず、もはや決して二つの国にならない(37:22)」。「わたしのしもべダビデが王となり彼ら全体のただ一人の牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしの掟を守り行う(37:24)」。そしてイスラエルは回復し、子々孫々永遠にそこに住み、ダビデが永遠に彼らの君主となる。と主は預言する。ダビデ=イエス・キリストと考えて良いででしょう。

 新しい神殿
 捕囚地にいたエゼキエルの前に再びケルビムが現れ、彼をエルサレムに戻します。そこには神殿がありました。主の御使いがこの神殿を案内します。聖書はこと細かに神殿の構造について語っていますが、よく分からないし、聖書学者ではないので省略します。神殿とは神のお住まいです。主は再びエルサレムに戻りますが、その為には備えが必要です。
 主の御使いがエゼキエルを出入り口へと誘います。水が神殿の敷居の下から流れ出ていました。その水は川となりアラバ(荒地)を下り海(苦い水=死海)に注ぎます。そしてその水は癒されます(真水になる)。その水は各地に流れ込み全ての人に恵みを与えます。漁師に、農民に与えられ,川の畔の果樹は生い茂る、その水が聖なる場所から出るからです。
水=聖なる方(主)、苦い水=罪に満ちたイスラエルの民、苦い水は癒される=救い、
生い茂る=主の恵みを受けて救われる。

 嗣業の地
 イスラエルの地に戻った民(異邦人も含む)には嗣業の地が与えられます。
平成29年5月9日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

エゼキエル書1 イスラエル滅亡の預言 1~24章

2017年04月19日 | Weblog
  エゼキエル書1(エルサレム滅亡の預言) 1~24章
 
 はじめに
 エゼキエル書は、3大預言書(イザヤ、エレミヤ、エゼキエル)の一つであり、その名の通り預言者エゼキエルによって書かれたものです。48章からなっています。
エゼキエル:エゼキエルに関する情報は多く有りません。「フジの子祭司エゼキエル--------(1:3)」「--------夕方私の妻が死んだ。------(24:18)」とあるように祭司であり妻帯者であった事が判ります。別資料によれば祭司の家庭に生まれたことになっています。ただ、聖書には上記引用文以外の事は書かれていません。そんなエゼキエルに捕囚の地で主からの召命が下ったのです。活躍の場所は捕囚地です。
エレミヤ書がエルサレムの滅亡前に書かれた40年間の主の言葉の記録とするなら、エゼキエル書はユダの民がバビロンに捕囚された時、捕囚地ケベル湖畔の町テル・アビブで書かれた主の言葉の記録です。エゼキエルは捕囚となった民の中から預言者として召命を受け、主の御心を民に伝えたのです。捕囚地で主の召命を受けた、と云うことは、「主の栄光」がエルサレムから捕囚の地へ移った事を意味します(10:19)。もはやエルサレムは主のみ座では無くなっていたのです(後に回復 43:1~5)。

 エゼキエルの召命
 この時の召命の様子を聖書は次のように述べています。
「第30年の第4の月、私(エゼキエル)がケベル川のほとりに捕囚の民と共にいた時、天が開け、私は神々しい幻を見た。それはエホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから5年目であった。その月の5日に、カルデア(バビロン)人の地のケバル川のほとりで、フジの子祭司エゼキエルにはっきりと主の言葉があり主の御手が彼の上にあった(1:1~3)」と。この幻に接して、エゼキエルには、これが「主の栄光のように見えた。私はこれにひれ伏した(1:28後半)」と述べています。
エゼキエルはエホヤキン王がエルサレムの主だったものと共に拉致された時(第1次バビロン捕囚)共にいたとされています。ここで言われている「神々しい幻」とは、「ケルビム」を指します。しかし、第Ⅰ章では。ケルビムの名は出てきません。「生き物のようなもの(1:5)」と描かれ、これがケルビムと判るのは10章においてです。ケルビムとは主に仕える御使い(天使)です(詳細は後述)。
 主はエゼキエルを召命した時、彼に告げます。「わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人にした。あなたは、わたしの言葉を聞く時、わたしに代って彼ら(イスラエルの民)に警告を与えよ(3:17)」と。更に云います「わたしの言葉を(エルサレムの民に)伝え、聞くものには聞かせ、聞かない者には聞かせるな、彼らは反逆の家だからだ(3:27後半)」と述べています。反逆の家イスラエルの民(主の言葉を聞かない者)の中にも、わずかではあっても主に従順なもの(主の言葉を聞くもの)も存在していたのです。主はそれらのものに印を付け、裁きの時これを救ったのです(9:4~6)。
これより預言者エゼキエルの宣教活動が始まります。

 エゼキエル書の構成
1・エルサレム滅亡の預言(1~24)
2.イスラエルの諸敵国に対する預言(25~32)
3.イスラエル回復の預言(33~35)
4.新しいエルサレム神殿のビジョン(36~48)
 今回のレポートは1に限ります。

 預言書の特徴
 3大預言書を読み進めてきて感じることは、預言書は個々に特色を持つと同時に、共通性も持っているという事です。それは、イスラエルの陥落と捕囚という歴史的事実を指しています。まさに歴史の主役は主なのです。歴史は主の仕事場です。預言者たちは陥落と捕囚と云う深刻な歴史的事実を、イスラエルの民の罪に対する主の審判の結果として受け止めています。それほどイスラエルは罪に満ちていたのです。そこで預言者たちは、イスラエルの民に認罪と悔い改めを要求し、主に救いを求めよと何度も進言します。しかし彼らはこれに従いません。主は怒り、これを罰します。しかし、滅ぼすことはしませんでした(20:17)。何故でしょうか。

 わが名のために
 主は決してイスラエルの民を愛していたからではありません(?)。エゼキエル書は何度も繰り返します。「わが名のために(20章)」と。選びの民、契約の民を滅ぼしてしまっては、たとえイスラエルの民に不義があったとしても、「諸国の目の前で、ご自身の名を汚すこと」になるからです。「汚す」と云うことは「侮られる」ということを意味します。民に対する選びも、契約も、導きも、信頼も、いい加減なものと見做されるからです。それは、誇り高き主には我慢のならない事です。主は偲び難きを偲び、憎っくき、背反を繰り返すイスラエルの民に、その罪を罰しても、救いの手を差し伸べるのです。主にも面子があるのです。

 ユダとエルサレムに対する主の審判の根拠
 エゼキエルが祖国の滅亡と捕囚の必然性を説いた4つの理由
 1エルサレム神殿内部における堕落
 エルサレム神殿内部における異教崇拝(偶像崇拝)の蔓延。エゼキエルはエルサレムがもはや主の御座で無くなり、主自身エルサレムを去って、捕囚の地に移ったことを確認します(10:19~20:11:23)。ケルビムの移動がこれを現しています。
 2、歴史的対比
 エルサレムの罪は悪徳の町ソドムとゴモラ、北イスラエルの首都サマリヤの罪に比べて勝るとも劣らない程、罪に満ちています。それ故の裁きがあって当然、とエゼキエルはその罪を認めています(16:48~59)。
 3、エルサレムの指導者層の堕落 エルサレムの指導者層(祭司、首長、預言者、官吏)の堕落が22章において指摘されています。指導者たちは社会的弱者を虐待し、賄賂を取り、性の逸脱を犯して、恥入ることがありません。預言者は偽りの預言を以て人々を食いものにし、祭司たちは率先して律法を無視する。高官たちは、人命を無視してまで不正の利を求め、イスラエルの民は社会的弱者(奴隷、寡婦、孤児、寄留者)を搾取します。主は怒りこれを罰します。
 4、外交政策の変節
 ユダ王ゼデキヤは、バビロニアとの契約を無視して、エジプトに依存します。当時、エルサレムにおいては外交政策において二派に分かれて争っていました。バビロン派とエジプト派です。エゼキエルはバビロン派で、ゼデキヤ王はエジプト派でした。バビロンの圧迫に対し過激派はエジプトに頼り、バビロンを打ち破ろうとします。バビロンはユダの裏切り行為を怒り、これを滅ぼします。バビロンは主の裁きの鞭だったのです。

 背信のイスラエルの歴史
 20章には背信のイスラエルの歴史が描かれています。
ここにはイスラエルの民がエジプトにおいて、荒野において、カナンにおいて、そして現在(イゼキエル書の書かれた当時)においての主とイスラエルの民との背反の関係が描かれています。
1.主のイスラエルに対する恵みの預言→恵みの契約
2.それに対するイスラエルの背反→偶像崇拝、律法違反、安息日の軽視
3.背反に対する主の怒り→怒りの鞭(アッシリア、バビロン)
4.主の怒りを思い留めた理由→ わが名のために
 この章は主とイスラエルとの関係を典型的に現しているので取り上げました。

  >言葉の意味
 ケルビム(ケルブの複数形)神殿に仕え、主の玉座や聖なる場所を警護する天使。9天使の第2位に位置します。智天使。人、獅子、雄牛(1章ではケルブ)、鷲、の4個の顔と、4枚の翼をもち、黄金の目が記された自転する4個の車輪を持った姿で現れ、主の霊の動きに応じて動きます。ケルビムは旧約聖書の中では各章に現れます。最初に現れるのは創世記で、アダムとエバが楽園を追われた後、楽園の門を守り(3:24)また、契約の箱(主の玉座)の上に座し、聖所を守っています。その他、Ⅱサムエル記(6:2)、Ⅱ列王記(19:15)、Ⅰ歴代誌(13:16)、詩篇(20:1、99:1)他にも現れ聖所を守る主の御使いです。
 酸い葡萄:葡萄の木とはエルサレムの事を指します。
「彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良い葡萄を植え、その中にやぐらを立て、酒舟まで掘って、甘い葡萄がなるのを待ち望んでいた。ところが酸い葡萄が出来てしまった(イザヤ書5:2)」。何故か。「まことに万軍の主の葡萄畑は、イスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植え付けたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び(イザヤ書5:7)。良い葡萄の種子は地に植えられ、その成長過程で酸い葡萄に変化したことが描かれています。民の信仰が、本来の神から異教の神、偶像崇拝に移って行ったことが描かれています。
 父が酸い葡萄を食べれば子の歯が浮く:祖国の陥落と捕囚と云う経験は、親の世代が起こした罪の結果である、しかし、子の世代がその責めを追う、と云うことです。因果応報の論理であり、悲観的な宿命論です。それに対してエゼキエルは言います「お前たちは親の世代の罪によって裁かれるのではなく、お前たち自身の罪によって裁かれるのである」と。因果応報論を否定し、すべては自己責任であることを主張します。「義人の正義は彼自身に帰す。邪悪な者の邪悪も彼自身に帰す(18:20)と述べています。
 十戒の中には「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし」と云う言葉がある反面、「主を愛し、その命令を守ることは、恵みが千代にまで施される」と云う言葉もあります。いずれも因果応報の論理です。
「あなた方の犯した全ての背きの罪をあなた方の中から放り出せ。新しい心と、新しい霊を得よ(18:31)」悔い改めて神に立ち返れと述べているのです。
平成29年4月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

「哀歌」 嘆きの書

2017年03月25日 | Weblog


 「哀歌」 嘆きの書
 はじめに
 「哀歌」は「嘆きの書」であっても、決して「絶望の書」でも、「挽歌」でもありません。復帰への渇望があります。復帰と云う言葉通り、そこには帰るべきところがあることを意味します。本来、自分達の居る所です。「哀歌」には、悲しみの中にも、光に導く何かが隠されています。この光に導くものとは何か。これが「哀歌」の主題です。
 「哀歌」は5つの章から成る「詩文学」です。確かな事は分かりませんがエレミヤの書と言われています。しかし、その可否は別として、哀歌を理解する為には「エレミヤ書」を読む必要があります。歴史的背景を知る必要があるからです。「哀歌」には当時の歴史はほとんど描かれていません。「エレミヤ書」を、併せ読むことによって「哀歌」の理解を深めます。是非読んでください・

 歴史的背景
 時はユダ王国ゼデキヤ王の時代、エルサレムはバビロンのネブカドネザル王の軍隊に包囲されます。預言者エレミヤは、「降伏してバビロンに仕えよ」と主のみことばをゼデキヤ王に預言します。「70年後に救われるであろう」、と救いの預言もします。ゼデキヤは降伏するか、籠城して支援国(エジプト)に期待するかの選択に苦しみます。結局エレミヤに逆らって籠城を選びます。しかし支援国は来ません。「それに私たちの目は衰え果てた。助けを求めたが空しかった。私たちは見張りどころで見はった。救いをもたらさない国が来るのを(4;17)」と、これはエルサレムに終わりの日が近づいていることを示しています。バビロン軍は兵糧攻めを選びます。戦わずして勝つ戦略です。結果、ユダの民は飢えと渇きと疫病に苛まれます。人間の尊厳は失われ、民の堕落(自分の幼子を食す=ガルバリズム)を引き起こし、主の怒りを誘います(4:10~11)。兵糧攻めの生き地獄が描かれています。「剣で殺されるものは、飢えで死ぬものより幸せだった(4:9)」と、凄まじい苦しみがあったのです。飢餓は神の呪いであり裁きなのです。バビロン軍はエルサレムに攻め入ります。その前にゼデキヤ王一行は逃亡します。しかし、途中で捕らわれバビロンに送られます。エルサレムは陥落して、亡国の悲哀を経験します。バビロンの占領下、捕囚、神殿・宮殿・住居の破壊、略奪、暴行、強姦、民の奴隷化、エルサレムからの逃亡者の続出等々によってエルサレムは廃墟になります。そんな中、残された者は、全てを失い、本来自分のものまで買い戻さなければならなかったのです(5:1~18)。主は言う「これは、その預言者の罪、祭司たちの咎のためである。彼らがその町の、ただ中で正しい人の血を流したからだ。(4:13)」と。その為、主はその裁きの杖としてバビロンを使い「燃える怒りを注ぎ出しシオンに火をつけられたので火はその礎まで焼き尽くした(4:11)」のです。「シオンの娘(エルサレム)あなたの刑罰は果たされた。主はもう捕え移さない。エドムの娘よ、主はあなたの罪を罰する、主はあなたの不義を罰する(4:22)」。
このように、占領下における民の苦しみを描いた書が「哀歌」なのです。これは、主に対してエルサレムが犯した罪に対する裁きだったのです。しかし主はどんなにその罪を怒り、ユダの民を罰しても、選びの民を滅ぼしたりはしません。自分の罪を認め、悔い改め、主に立ち返る者は救われるのです。この厳しい裁きは、恵みを与えるための父性的懲罰だったのです。主を畏れ敬い、ひれ伏すならば、救われるのです。しかし、エルサレムの民は主に逆らい続けたのです(1:20)。主にひれ伏すことも畏れることも無かったのです。そのため、エレミヤは悔い改め主に立ち返れと叫びます。5章には罪と裁きと認罪、悔い改めと、救いへの祈りが描かれています。「主よ、あなたのみもとに帰らせて下さい。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくして下さい(5:21)」と、エルサレムの民は祈ります。しかし、主は応答しません。沈黙を守っています。この沈黙の意味とは何か。難しい問題です。

 シオンは苦しんでいる
 バビロンによって滅ぼされて廃墟になったエルサレムについてエレミヤ(?)は次のように言います「ああ、人の群がっていたこの町は一人寂しく座っている。国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった(1:1)」と。ここにはエルサレムの孤独地獄が描かれています。それは主に逆らったが故の裁きだったのです。主に逆らうことの怖さが描かれています。エレミヤは言う「彼女の多くの背きの罪のために(1:5後半)」「エルサレムは罪に罪を重ねて汚らわしいものになった(1:8)」と、それまでかかわり合っていたものから切り離され、分離され、見捨てられ、「シオン(エルサレム)が手を出しても、慰める者が一人もいない(1:17)」と云う状況が「一人寂しく座っている」と云う表現によって語られています。
 1章の12節から3章20節まではエルサレムの罪に対する主の怒りが語られています。「主が燃える怒りの日に、私を悩まし、私を酷い目にあわされた。このような痛みが他にあるかどうかを(1:12)」と。この「ひどい目」「このような痛み」の具体的な内容が「主が」と云う枕詞によって1章の12節から3章の20節まで語られています。
 主は恣意的にエルサレムを罰したのではなく、「私の背きの罪のくびきは重く(1:14)、「主は正義を行われる。しかし私は主の命令に逆らった(1:18)」「私が逆らい続けたからです(1:20)」と、エルサレムの犯した罪に対する裁きだったのです。2章では、その裁きは一転して個人としての民から、イスラエルの民全体の裁きに及びます。住まい、城門、要塞、神殿へと拡大します。神殿は今や本来の神を祭るものではなく、異邦の神を祭るものに成り下がっていたのです。更に「その王も首長たちも異邦人の中にあり、もう律法は無い(2:9)」主の最も嫌う状況がそこにあったのです。それ故、主の怒りは容赦(2:2)が無かったのです。飢えが襲い、若者も、母親も、乳呑児も、息を絶えようとしていました。エルサレムを癒す者はいないのか。偽の預言者は、空しい預言をして、エルサレムの罪を暴こうとはしませんでした(2:14)。この時、エレミヤは叫ぶ「あなたの心の水のように、主の前に注ぎ出せ、主に向かって手を差し上げ、幼な子たち(エルサレムの民)のために祈れ(2:19)」と。裁きと認罪と悔い改めへの祈りがここにはあります。しかし、主はこの祈りを無視します(3:8)。「主の御怒りの日に、逃れたもの生き残った者もいませんでした。私が養い育てた者を、私の敵は立ち滅ぼしてしまいました(2:22)。私の敵とは、バビロンであり、主の裁きの杖だったのです。

 
 裁きと救い
 3章の冒頭の言葉は「私は主の激しい怒りのむちを受けて、悩みにあったもの(3:1)」とあります。これは明らかにエルサレムを指しています。主の怒りの厳しさが語られ、「私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、私の道を切り石で囲み、私の通り道をふさいだ(3:8~9)」、その結果、「私の魂は、平安から遠のき、私は幸せを忘れてしまった。私は言った『私の誉と主から受けた望みは消えうせた(3:17~18)』」と。「哀歌」の全体を覆うものは、明らかに「嘆きの書」であり、「絶望の書」であり「挽歌」の如くに見えます。しかし、3章の後半3章の17節から41節には、エルサレムに対して恵みの預言がされています。そこには救いを求める祈りがあります。
 主は、その怒りによって、エルサレムを激しく罰しても、決して、主が自ら選んだエルサレムを滅ぼしたりしないのです。そこには主の優しさがあり、契約があります。「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる、主の憐れみは尽きないからだ(3:22)」「主はいつまでも見放しておられない。たとえ悩みを受けても、主はその豊かな恵みによって憐れんで下さる。主は人の子らをただ苦しめ、悩まそうとは思っておられない(3:31~33)」と。しかし、その為には条件があります。「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも、心をも,天におられる神に向けて上げよう(3:40~41)」と認罪と悔い改めを必要とします。その上で、エルサレムは祈ります。「主よ。彼らの手のわざに応じて、彼らに報復し横着な心を彼らに与え、彼らにあなたの呪いを下して下さい。主よ。御怒りをもって彼らを追い、天の下から彼らを根絶やしにして下さい(3:64~66)」と。彼らとはバビロンをさします。支配者バビロンの圧政からの救いを求めています。ここには認罪と悔い改めと救いを求める祈りがあります。この祈りを主は聞くのか。この祈りに対する主の応答はありません。
この祈りは、「哀歌」の最終章5章においても同じです。「しかし、主よ、あなたは、とこしえに御座につき、あなたの御座は代々に続きます。何故、いつまでも私たちを忘れておられるのですか。主よ、あなたの御許にかえらせてください、私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくして下さい。それとも、あなたは本当に私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか(5:19~22)」と。ここにも救いを求める祈りがあり、復帰への渇望があります。しかし主の応答はありません。

 最後に
 救いは求めれば与えられるものではありません。主の恵みは、恩寵は主から一方的に与えられるものであって、主がエルサレムの罪を許して出迎えてくれない限り、帰ることは出来ないのです。主は我儘であり、その選びは恣意的であり、合理的根拠はありません。主の御心を人は推し量ることは出来ません。
 「昔のように」と云う言葉は、ダビデ、ソロモン王の栄耀栄華を誇った時代に戻ることを意味しますが、その彼方に、人間が本来置かれていた「エデンの園」への復帰への希求が隠されています。これは、主のご計画の最終段階を意味しています。そこには「エデンの園」=新しいエルサレムがあり、そこに住む原罪以前のアダムトエバ(神の似姿)の存在があります。神の似姿としての人と、主が共に住む理想郷が求められています。それが「エデンの園」なのです。「哀歌」はそれ故、単なる嘆きの書ではないのです。聖なる書は嘆きで終わってはならないのです。主の裁きは恩寵的裁きなのです。その裁きの彼方に救いがあり「光」が隠されているのです。それが沈黙の意味です。
 「エデンの園」から始まって「エデンの園」に戻る。そこには新天新地があります。以前の「エデンの園」ではありません。主によって変えられています。同様に人は「神の似姿」から始まって、「神の似姿」に戻ります。そこには原罪から解放された本来の人の姿があります。弁証法的発展と言ってよいでしょう。
 これこそ、神のご計画の完成形なのです。
「哀歌」は嘆きの書から始まって、「恵みの書」に転じます。勿論これは「主」と「人」との完全な和解を条件とします。前途遼遠です。
平成29年3月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会

エレミヤ書3 34~52章

2017年02月19日 | Weblog

  エレミヤ書 3 34章~52章
  はじめに

 今、遠藤周作の『沈黙』が映画化され話題になっている。
 時は17世紀、キリスト教禁令下の日本。長崎奉行に拘禁され獄中にあった宣教師ロドリゴは、残虐な肉体的拷問に苦しむ信者の姿を見せつけられ「棄教すれば彼らを助ける」と踏み絵を迫られる。そこには精神的な拷問があった。神の義に生きるか。人の情に生きるか。もがき、苦しみ、彼は泣く。そして神に対して怒りがこみ上げてくる。「こんなにもひたむきにあなたを信じ苦しむ信者を何故救わないのか」「なぜ沈黙を守っているのか」彼は答を求めて叫ぶ。これに対して主は沈黙を破る。「踏みなさい」「わたしは沈黙をしていたのではない。共に苦しんでいたのだ」「ユダも苦しんだ、ペテロも苦しんだ」。ユダも、ペテロも踏み絵を踏んでいる。しかし、ユダはともかくとしてペテロは、「使徒の働き」を見れば明らかのように、ローマにまで福音宣教に出かけている。この事から判断した時、踏み絵を踏むか踏まないかは、信仰とは全く関係の無いことである、と言える。主が踏めと云っているのである。だからカトリック教会は、この書を禁書にしている。僕に言わせれば「踏み絵」とは主が最も嫌う偶像崇拝である。極端はいけない。信者のひたむきさは狂信に繋がる。自爆テロは狂信から生まれる。私はこの書『沈黙』の中で一番好きな人物は人間的弱さを典型的に現す隠れキリシタン漁師のキチジローである。気弱で、常におびえ、何度も裏切り、役人からも相手にされなくなり、その度にロドリゴに泣いて許しを乞う。弱さゆえにロドリゴを役人に売り渡す。まるでキリストを売ったユダのようだ。こうありたいと思い悩みながらも、弱さゆえにこうあることが出来ない。しかし私はそんなキチジローを憎むことが出来ない。そんな人間らしい、いい加減さが、僕は好きだ。こんな人間に厳しさや、試練を要求することは出来ない。こんな人間こそ救われなければならないと思う。
 エレミヤ書とは直接関係ないにもかかわらず、何故『沈黙』を取り上げたのか。それは、「エレミヤ書」に限らず、聖書は神と人との関係を扱っているからである。神とは何か、人とは何か、信仰とは何か、罪とは何か、これは『沈黙』の課題でもある。
 この問題がイスラエルの最後の王たち(ヨシヤ、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤ=マカヌヤ)の時代(陥落以前、陥落、陥落後)に生きたエレミヤを通して語られている。そして、恵みの預言と災いの預言とがセットで語られる。アッシリア、バビロンは主の裁きの杖である。


①アッシリアから独立、申命記改革、エジプトとの戦いで戦死
②聖書には名前は出てこない。
③主の預言の記録、(エレミヤが作製し、バルクが口述筆記し、朗読する。災いの預言集)。エホヤキム王はこれを焼却する。         エレミヤこれを加筆再生する。
④第一次バビロン捕囚(この時王を含め全ての有能な者たちがバビロンに拉致される。BC597年)
⑤捕囚されたエホヤキンの恩赦と優遇。
⑥剣と疾病と飢饉によって国を滅ぼす悪王の典型として描かれる。
⑦バビロンに反抗して敗れ、逃走、途中で捕まり、バビロンに連行され、目はえぐられ、2人の息子は家来と共に虐殺され、死ぬ         まで獄に繋がれる。
⑧第二次バビロン捕囚。
⑨第二次捕囚に残された者、主の命に逆らってエジプトに逃走。

 エルサレムの陥落
 ユダの最後の王ゼデキヤはバビロンの包囲下(兵糧攻め)、陥落の危機を前にして監視の庭にいたエレミヤを呼び今後の対策を尋ねる。エレミヤは「バビロンに降伏せよ」「そうすればあなた方は助かり、エルサレムが火で焼かれることはない」と勧告する(38:17~19)。「降伏すれば生きる」「戦えば死ぬ」戦力差を考えれば、選択の余地は無かったはずである。主の約束には「必ずそうなる」と云う確実性がある。しかし、これを信じるか否かは、その人間の信仰心にかかっている。王はエレミヤの言葉に疑心暗鬼だった。バビロンの王ネブカデネザルは、兵糧攻めによってゼデキヤの降伏を待っていた。しかし降伏は無かった。業を煮やしたバビロン軍は攻撃を仕掛け、城郭の一角は破れる。ゼデキヤ王とその戦士は逃走を図るが、追手に捕まる。バビロンに連行され、目はえぐられ、2人の息子は家来と共に虐殺され、死ぬまで獄に繋がれた。⑦⑧参照。
エレミヤ書の46~50章にはエルサレムの周辺諸国に対する預言がまとめられています。

 諸国はなにゆえ神に裁かれたのか
エレミヤ書46章から51章にかけてはエルサレムの周辺諸国に対する災いの預言が語られています(上記表参照)。北イスラエルはアッシリアにユダがバビロンに滅ぼされたように、エルサレムの周辺諸国も主の警告を無視したが故に、裁きの杖であるバビロンに滅ぼされます。イスラエルの民がカナンの地に侵入して以来敵対していたペリシテ人の国もバビロンによって滅ぼされます。要するに主の御心を離れた故の結果なのです。しかし、○印のある国は、終わりの日に主によって繁栄を回復します。
 この主の裁きの杖であったバビロンも最終的には主によって滅ぼされます。具体的にはイスパニアのクロス王によって滅ぼされるのですが、神の僕として、裁きの杖として、一時は周辺諸国を打ち破った輝かしい存在としてのバビロンが、何故、天から落ち、地に倒されたのか。聖書は言います「お前が主に争いをしかけたからだ(50:24)」「主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ(50:29後半)」と。イザヤ書でも同様のことが言われています(イザヤ書14:12~15参照)。ユダをはじめその周辺諸国を滅ぼしたバビロンにとって、飛ぶ鳥を落とすような存在になったことによって、その力が主によって与えられていたにもかかわらず、自己過信をして、おごり高ぶり、自己神格化を図り、主に比すべき存在として主に争いを挑んだのです。これは主の最も嫌う事だったのです。主にとって、自分以外に神があってはならないのです。主は言います「大水のほとりに住む財宝豊かな者(バビロン)よ、あなたの最期、断ち滅ぼされる時が来た(51:13)」と。

言 葉
 レカブ人(35章 エホヤキム王の時代):「レカブ人に酒を飲ませよ」と云う主の命令に彼らは、これを拒否する。彼らは家訓を守る、清く正しい一族であった。イスラエルとユダの民との対比で描かれている。主に歯向かう者と、主に従順なる者の違いを鮮明にしている。より霊的な存在であれと諭す。誠実と不誠実が対比されている。レカブ人の存在が主のメッセージの一面を現している。
 バルク:エレミヤが主の言葉を口述し、バルクがこれを筆記した。これを神殿で朗読する。エホヤキム王の前でも朗読するが、その内容が王の意に添わなかったが故に王はこれを焼却する。エレミヤとバラクはこれに追加し再生する。後にバルクの逮捕を王は命じる。しかし、主がこれを隠された(保護された)。45章はバルク専用の章であり、主が、エレミヤがいかに彼を重要視していたかが判る。
残りの者のエジプトへの逃走:エレミヤはネブカドネザル王の好意によって救われ、エルサレムの総督ゲダルヤのもとに身を寄せる。ゲダルヤは、「バビロンに従え」と、イスラエルの民に言う。イシュマエルがこれに反発して彼を暗殺する。巡礼者も殺し、人質を取ってアモンに向かって逃走する。ヨナハンがこれを追いい、人質を奪い返す。ヨナハンは、主の命「この地に残れ」と云う言葉に逆らってエジプトに逃走する。主は怒りエジプトを滅ぼすと宣言する。
 バビロン捕囚は主のご計画である
 「わたしはあなた方のために立てている計画をよく知っているからだ―主の御告げ―それは災いではなく平安を与えるためのものだ」バビロンの捕囚は一見、災いであるかのように見えるが、「バビロンに70年に満ちる頃、私はあなた方を顧み、あなた方をこの地に帰らせる」と主が言われるように、恵みの預言の実現は長期にわたる場合もあるといえよう。
 歴史的結論(52章): 
 この章の主な項目は、バビロンの傀儡王であったゼデキヤの悲劇と、反対に在位3か月のエホヤキンの捕囚地で受けた恵みについてです。主は常に言います。「わたしに従いなさい、そうすれば恵みが与えられます。反対に逆らえば災いを受けます」と。この言葉を地で行ったのがこの二人です。ゼデキヤは主に逆らい続けました。反対にエホヤキンは主との葛藤は起こしていません。主は恐らくバビロンの王を通じて彼に恵みを施したものと思われます。彼は一生の間バビロンの王に優遇され、食事を共にし、楽しんだのです。主はその罪を憎み罰しはしても、滅ぼしたりはしません。ゼデキヤは罰せられ、その子孫は断たれたが、エホヤキンは主によって選ばれ、終わりの日に現れるメシアの先ぶれと見做されたのです(かな?)。
平成2017年2月14日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会

エレミヤ書 2 災害預言と救済預言

2017年01月19日 | Weblog

  エレミヤ書 2 災害預言と救済預言

  はじめに
 「すべての赤ちゃんは、神が人間に絶望していないというメッセージを抱えて生れてくる」(インド哲人の言葉)。
 「いざ、地上へと船出となった時、(子供達に、前に押し出されながら逆らっている子供を見て)子供達を送りだすおじいさん「時」がたしなめた『こら、お前はどうしたんだ?時刻がきたことは、わかっているだろう------不正とたたかう英雄がひとりいるんだ。お前がそれなんだ、さあ、出かけねばならんぞ』」(メーテルリンク作、若月紫欄訳「青い鳥」未来の国から。岩波少年文庫(第35版)P、205より。
 たとえどんなに神が正しく、イスラエルの民が間違っていても、わたしはイスラエルの民の側に立ちたい。(その意味で、厳密な意味で、私はクリスチャンではないかもしれない)。彼らは常に信念を持って行動し、決してあきらめなかった。敢えて破れると判っている戦いに挑み、散っていく、そのロマンに共感するからだ。主なる神は絶対的な権威者であり、権力者だ。イスラエルの民はそれに挑戦する反権威者であり反権力者である。それに対抗し、そして破れ去る。
 主(権威、権力)に頼ることは、人に安心を与えるが、他方、それに規制されて、思考が停止し自由な活動が出来なくなる。神は思考などするなと云う。わたしを信じ、従えという。祈れという。信じる者は救われるという。しかし、イスラエルの民は自由(自立)を求めて主に対立する。
 ネヘミヤ書に限らず、聖書は神目線で描かれている。民に向かって、上から、云う。「こうせよ、そうすれば、こうなる、そうでなければこうなる」と。聖書の定型句である。その典型例が「わが前に全きものであれ、されば汝に大地を与え、子々孫々の増大繁栄を約束しよう」である。これは神とアブラハムとの間で交わされた契約である。この契約を守らなかったイスラエルの民は最終的には、流浪の民となる。ここに神とイスラエルの民との葛藤がある。神は恵みの預言をする。しかし預言はあくまでも預言であって実現を保証するものではない。そこには希望(hope)があると同時に、懸念(fear)もある。そのリスクを冒してまでイスラエルの民は神に従わなければならないのか。神の預言は必ず実現するのか。

  主とイスラエルの民との葛藤
 何故、神の命に従わないのか,というエレミヤの問いにイスラエルの民は応える。「私たちは、私たちの口から出た言葉をみな必ず行って、私たちも、先祖たちも、私たちの王たちも、首長たちも、ユダの町々やエルサレムの巷で行っていたように、天の女王に生贄を捧げ、それに注ぎの葡萄酒を注ぎたい。私たちはその時、パンに飽きたり、幸せで災いに会わなかったから。私たちが天の女王に生贄を捧げ、それに注ぎの葡萄酒を注ぐのを止めた時から、私たちは万事に不足し、剣と飢饉に滅ぼされた(44:17~18)」と云う。要するに異教の神が恵みを、イスラエルの神は災いもたらした、と云うのである。イスラエルの民は、主なる神よりも異教の神に軍杯を挙げるのである。
 カナンの地に定着したイスラエルの民はその生活の基盤を徐々に牧畜から農業へと変えて行った。イスラエルの神は牧畜の神である。その捧げものには動物の血を要求する。カインとアベルの捧げものの話はこのことを如実に示している。異教の神としてイスラエルの民が信じた典型例はバアル神であった。バアルは豊饒の神であり、農業の神であり、土着の神である。それへの信仰は生活に根差していた。そこには平穏があり、安定があり平和があった。イスラエルの民がこの神を信じるようになったとしても、当然ではなかろうか。このような事実に対し、イスラエルの神――万軍の主――は、猛烈に反発する。「わたしは妬み深い神である。わたし以外の神を信じるな、律法を堅く守って生活の糧にせよ、さもないと、わたしはあなた方を罰する」と。これはイスラエルの民にとって拘束以外の何ものでもない。イスラエルの神は、イスラエルの民の生活上の変化を心の変化を理解せず、これを罰するのである。少なくともイスラエルの民にはそう感じられた。 
主はイスラエルの民の罪を裁きはするが、彼らを滅ぼしたりしない。イスラエルの民の苦しみや悩みが判っていたからである。決して無理解であったのではない。それは母子の関係に似ている。いたずらっ子をどんなに叱っても、時には手をあげても、母は決してその子を殺したりしない。母の怒りは、母の愛である。主の裁きも母の愛である。「人は愛される為生まれた」。時に子(民)はそれを誤解する。

  預言者エレミヤの苦悩
 主は預言者エレミヤを通じて、ある時は尽きせぬ愛を持って、ある時は、厳しい怒りを持ってイスラエルの民に語りかけ、民を神への応答へと招いている。それは片思いの女が恋い慕う男を求めるのに似ている。拒否されればされるほど、その愛は募る。しかしイスラエルの民は主に背を向け、愛人である他の神々に付いていった。特にバアル神は魅力的であった。「なぜ異教の神を拝んではいけないのか」恐らくイスラエルの民はこの疑問をエレミヤを通じて、主に投げかけたであろう。しかし主の答は「NO」であった。ここに至って、イスラエルの民は主を捨てたのである。これに関してはイスラエルの民は頑なであった。それは主においても同じであった。主はイスラエルの民の声に対して頑なであった。この間にあってエレミヤは悩み、苦しむ。エレミヤはその預言者としての立場から民の罪を主に告知したが、同時に、民の苦悩、願い、疑い、悲しみ等を率直に神にぶつけたのである。彼はイスラエルの民をこよなく愛していた。彼ほど神と民との軋轢を経験した預言者は他に居ないであろう。彼は神と民との軋轢の中で、真摯な努力は報われず、自分の限界を感じ、死すら考えている。

  主に抵抗する民
 主は預言者を通してイスラエルの民や王に対してその罪に対する裁きを預言して、警告を発したが、彼らはその預言を信じず、耳を傾けることは無かった。それ故、主は、心ならずも彼らを裁かざるを得なかった。目に見ることの出来ない主は、アッシリアやバビロンを目で見える裁きの杖として、イスラエルの民に災いを下したのである。
イスラエルの民が、耳を傾けなかった預言とは何か?それは次の二つであった。
1.わたしの言葉を聞かないならわたしはイスラエルの民を滅ぼす
2.バベルの王に服従し、バベルの王ネブカドネザルとその民に仕えよ。それはバビロニアに降伏せよという事であった。
  これはバベルの軍隊に包囲されていたイスラエルの守るべき絶対条件であった。
 この言葉に対しイスラエルの民は反発し、「エレミヤはエルサレムに対して、この町に敵対する預言を行った」として、彼に死刑を宣告する。しかし、ユダの高官たちは、「エレミヤは主の言葉を語ったにすぎない」と、この訴えを退ける。
 この時、イスラエルの民に対してその心に心地よい預言をする偽預言者(ハナヌヤ、シェマヤ他)が横行していた。イスラエルの民はこれを歓迎し、それ故、厳しい預言をするエレミヤを拒否したのである。真実は時に民にとって苛酷である。

  偽預言者の出現
 偽預言者の一人にハナヌヤがいた。彼はユダヤの民が喜ぶ預言を語りイスラエルの民の関心を引こうとしていた。主は怒り、この預言を信じるな、と警告を発し、彼に死を与える。更に云う「わたしがあなた方を引いていったその町の繁栄を求め、その為に主に祈れ、そこの繁栄があなた方の繁栄になるからだ」と。この地に同化し、ユダヤ人としてのアイデンティティーを失う事を主はイスラエルの民に求めたのであろうか。主はイスラエルを選んだのである。何故。しかし神は言う「バビロンに70年の満ちる頃、私はあなた方を顧み、わたしに幸いの約束を果たしてあなた方をこの地に帰らせる」。「彼の国に時が来ると多くの民や大王たちが彼(バビロン)を自分達の奴隷にする」と。神はそれまで忍耐せよと云うのである。それは主が立てたご計画だったのである。それはイスラエルとユダの民に対する試練だったのである。この試練に耐え、自分に立ち返ることを主は望んでいたのである。ここにはイスパニアの王クロスの出現を予言していたのである。クロスはバビロンを滅ぼした後、イスラエルの民を捕囚から解放し祖国への帰還を許している。イスラエルの民はクロスを救世主と見なした。クロスは主の遣わした恵みの杖だったのである。

  救済預言(イスラエルの回復) 
これから述べる29章から33章までは「慰めの書」と言われ救済預言が語られている。主は言う「かつて、わたしが引き抜き、引き倒し、壊し、滅ぼし、災いを与えようと見張っていたように、今度は彼らを建て直し、また植えるために見守ろう(31:28)」「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民になる(31:28)。そして彼らに与えたわたしの災いは、わたしに出会うための産みの苦しみであったと、イスラエルの民は知るであろう。「見よ、その日が来る―主の御告げ―、その日、わたしは、わたしの民とユダの繁栄を元どおりにする」「わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する(30:3)」「もはや異国がイスラエルの民を奴隷にすることは無い(30:8)」「わたしがあなたとともにいて―主の御告げ―あなたを救うからだ。わたしは、あなたを散らした先の全ての国々を滅び尽くすからだ。しかし、わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公儀によってあなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが(30:11)」。
 

平成29年1月10日(火)制作者 守武 戢 楽庵会

エレミヤ書 1(1~25章)災いの預言

2016年12月19日 | Weblog
 
  エレミヤ書 第Ⅰ部(1~25章)災いの預言

 「エレミヤ書」は「イザヤ書」「エゼキエル書」と並んで三大預言書の一つです。預言書はこのほかに「ホセア書」から「マラキ書」に至る12の小預言書から構成されています(旧約聖書の目次参照)。
 エレミヤ書は、その冒頭に述べられているように、ヨシア王の治世13年に預言者として召され、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤ王の時代を経て、バビロニアによるエルサレムの陥落までの時代に活躍した預言者です。この時代はイスラエルの歴史における大きな曲がり角に当たる最も悲劇的な時代でした。第25章(エレミヤ書の第Ⅰ部をまとめた書)において主なる神は云います「あなた方は。わたしの言葉に聞き従わなかったために、見よ、わたしは北の全ての種族を呼び寄せる―主の御告げ―すなわち私の僕(しもべ)バビロンの王ネブカドレザルを呼び寄せ、この国とその住民とその周りの全ての国々とを攻めさせ,これを聖絶し、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする―中略―この国は全部廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロン王に70年仕える(25:8~14)」。しかし、主はイスラエルを罰しはするものの、ペルシャの王クロスを使ってバビロニアを滅ぼし、捕囚の民を帰還させます。ここには主による裁きと救いが語られています。
エレミヤは、この時代にあって、主の言葉に従って、イスラエルの民に「神に立ち返れと」と再三再四「心を尽くし精神を尽くして」繰り返し呼びかけます。偶像の神から離れるよう諭します。民の罪を執りなし神に赦しを請います。しかし頑なな民はこれに従いません。それどころか彼の暗殺すら試みます(18:18)。エレミヤはこの事態に直面し、絶望します。「わたしの生まれた日は呪われよ」と悲痛な言葉を叫びます。「なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか、私の一生は恥の内に終わるのか(20:14~18)」と神を恨みます。義なる者の苦しみ、悩みは『ヨブ記』においてもみられます。エレミヤは「涙の預言者」と言われるほど、悲しみを体験した預言者だったのです。
 しかし、主は裁きだけを与えるお方ではありません。必ず、救いを用意しています。どんなに怒り、民を罰しても、これを完全には滅ぼしたりはしません。それでは絶望し将来に希望を失ったエレミヤは何に希望を託すのでしょうか。
このような時代に現れるのは、偽の預言者です。彼らはイスラエルの民に対して心に心地よいが、決して真実ではない預言をし、苦悩する民に刹那的な喜びを与えます。しかも「神の宣告」と云う言葉を使います。「主はあなた方に平安があると告げられた」「あなた方に災いは来ない」と。神は怒ります。「わたしは彼らを遣わした覚えはない」と云い、「彼らに語らなかったことを彼らは預言する」と怒り、悲しみます。そして言います。「夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、私の言葉を聞く者は、私の言葉を忠実に語らねばならない(23:28)」と。主の言葉は真実を語るが故に、民にとっては重荷になるのです。人は心地よさを求めて、重荷を拒否するのです。そして滅びに向かって歩んでいくのです。ここに神と人との間の葛藤があります。これは永遠の課題かもしれません。
神は人間の根本悪とは何かを問い、肉体の割礼ではなく、心の割礼(4:4、9:25~26)を要求します。イスラエルが神への服従を拒んだのは、人の本性上拒まざるを得なかったのであり、反逆の源は、心に割礼を受けていないことにあるという。こうした根源悪、原罪の洞察へと行きついたエレミヤは何処に希望を託すのでしょうか。
神が人の心を変えない限り、民の復興と更新は起こり得ない。そこに希望がある。
絶対的恩恵:神の国の到来、エデンの園
相対的恩恵:新しい契約(新約聖書=キリスト)


 言 葉
 ヨシヤの宗教改革:イスラエルはバビロニアによって滅ぼされ、政治国家としては滅亡し、宗教的教団へとその姿を変えて行く。政治的枠組みを失ったイスラエルの統合の象徴は宗教であった。ヨシヤの行った宗教改革は申命記改革と呼ばれた。異教の神に犯された民を集めまとめて行く為には厳しい律法を必要とした。しかしヨシヤの改革はヨシヤの死亡により頓挫する。後の王たちは改革の実行には積極的ではなかった。
 公義と正義:この二つの言葉はセットで用いられる。この二つを行わなかった王家の宮殿は神の杖(バビロニア)によって破壊される。その後。主は公義と正義を行うメシアの到来を預言する。旧約聖書の最後の王たちは公儀と正義を行わなかったことにより断罪されている。
 公義:神の統治と支配の総称。それは人に自由意志を与え、神への信仰と従順を求めることによって成り立つ統治理念。そこには数々の神の計らいや計画を導き。時には懲罪的な訓練も含む。
 正義:神と人との正しい関わりを意味するがその内容は、自分自身では自らの権利を確保できない貧しい人を擁護し助けることを意味する。つまり「他人のために犠牲を払うこと」「施しをすること」を意味し、それがやがて「救い」を意味するようになる。
彼らはわたしの民になり、わたしは彼らの神になる:どちらが先か?神の恩寵が先にあって、民がこれに従うのか、民の信仰が先にあって、この民に神の恩寵が下るのか。
神の選びが先にあって、人に恩寵を与え、人が神を知ってこれに従う(聖書の立場)
神が人の心を変えることが無い限り、民の復興と更新は起こり得ない。
 新しい契約:「見よその日が来る。―主の御告げ―その日、わたしはイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を結ぶ。それはモーゼとの間に結ばれた古い契約ではない。その契約は破られてしまった。しかし、わたしは彼らの咎を許し、彼らの罪を二度と思いださない(31:31)。それは新約聖書に現された約束である。
 エレミヤの神観:エレミヤの神観は聖書に描かれている神観と同一であって目新しいものではない。唯我独尊、異教の神を決して認めず、これを邪教として排除し、虚しい者、幻と見做し忌み嫌う。旧約聖書に出てくる異教の神の代表的なものにはバアル神がいる。豊饒の神である。イスラエルの民がこの神を自分より尊び、敬い、信仰するのを見て、妬み深いイスラエルの神は、これを攻撃する。これはエレミヤ書に限った事ではない。この神は創世記に描かれているように天地万物万象の創造者にして歴史の支配者である。神は預言者を通じて福音宣教を行い全世界に自分の光を注ごうとする。イスラエルを自分の選びの民として、これに希望を託す。イスラエルから全世界へと壮大なご計画である。その意味では普遍的な神観である。この神は倫理的で公正にして正義の神であるが、あくまでもイスラエルの神であって、その範囲は限られてくる。自分の行く手を妨げる者は徹底的に排除しようとする。皆殺しも辞さず、破壊尽くし焼き尽くす。ヨシア記を読むと、これが神様の申し子のやることかいなと思ってしまう。あらゆる宗教は互いに互いを認めあって生きて行くべきなのである。宗教戦争は御免である。
平成28年12月13日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

エレミヤ書 1(1~25章)災いの預言

2016年12月18日 | Weblog

エレミヤ書 第Ⅰ部(1~25章)災いの預言
「エレミヤ書」は「イザヤ書」「エゼキエル書」と並んで三大預言書の一つです。預言書はこのほかに「ホセア書」から「マラキ書」に至る12の小預言書から構成されています(旧約聖書の目次参照)。
エレミヤ書は、その冒頭に述べられているように、ヨシア王の治世13年に預言者として召され、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤ王の時代を経て、バビロニアによるエルサレムの陥落までの時代に活躍した預言者です。この時代はイスラエルの歴史における大きな曲がり角に当たる最も悲劇的な時代でした。第25章(エレミヤ書の第Ⅰ部をまとめた書)において主なる神は云います「あなた方は。わたしの言葉に聞き従わなかったために、見よ、わたしは北の全ての種族を呼び寄せる―主の御告げ―すなわち私の僕(しもべ)バビロンの王ネブカドレザルを呼び寄せ、この国とその住民とその周りの全ての国々とを攻めさせ,これを聖絶し、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする―中略―この国は全部廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロン王に70年仕える(25:8~14)」。しかし、主はイスラエルを罰しはするものの、ペルシャの王クロスを使ってバビロニアを滅ぼし、捕囚の民を帰還させます。ここには主による裁きと救いが語られています。
エレミヤは、この時代にあって、主の言葉に従って、イスラエルの民に「神に立ち返れと」と再三再四「心を尽くし精神を尽くして」繰り返し呼びかけます。偶像の神から離れるよう諭します。民の罪を執りなし神に赦しを請います。しかし頑なな民はこれに従いません。それどころか彼の暗殺すら試みます(18:18)。エレミヤはこの事態に直面し、絶望します。「わたしの生まれた日は呪われよ」と悲痛な言葉を叫びます。「なぜ、私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか、私の一生は恥の内に終わるのか(20:14~18)」と神を恨みます。義なる者の苦しみ、悩みは『ヨブ記』においてもみられます。エレミヤは「涙の預言者」と言われるほど、悲しみを体験した預言者だったのです。
しかし、主は裁きだけを与えるお方ではありません。必ず、救いを用意しています。どんなに怒り、民を罰しても、これを完全には滅ぼしたりはしません。それでは絶望し将来に希望を失ったエレミヤは何に希望を託すのでしょうか。
このような時代に現れるのは、偽の預言者です。彼らはイスラエルの民に対して心に心地よいが、決して真実ではない預言をし、苦悩する民に刹那的な喜びを与えます。しかも「神の宣告」と云う言葉を使います。「主はあなた方に平安があると告げられた」「あなた方に災いは来ない」と。神は怒ります。「わたしは彼らを遣わした覚えはない」と云い、「彼らに語らなかったことを彼らは預言する」と怒り、悲しみます。そして言います。「夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、私の言葉を聞く者は、私の言葉を忠実に語らねばならない(23:28)」と。主の言葉は真実を語るが故に、民にとっては重荷になるのです。人は心地よさを求めて、重荷を拒否するのです。そして滅びに向かって歩んでいくのです。ここに神と人との間の葛藤があります。これは永遠の課題かもしれません。
神は人間の根本悪とは何かを問い、肉体の割礼ではなく、心の割礼(4:4、9:25~26)を要求します。イスラエルが神への服従を拒んだのは、人の本性上拒まざるを得なかったのであり、反逆の源は、心に割礼を受けていないことにあるという。こうした根源悪、原罪の洞察へと行きついたエレミヤは何処に希望を託すのでしょうか。
神が人の心を変えない限り、民の復興と更新は起こり得ない。そこに希望がある。
絶対的恩恵:神の国の到来、エデンの園
相対的恩恵:新しい契約(新約聖書=キリスト)


ヨシヤの宗教改革:イスラエルはバビロニアによって滅ぼされ、政治国家としては滅亡し、宗教的教団へとその姿を変えて行く。政治的枠組みを失ったイスラエルの統合の象徴は宗教であった。ヨシヤの行った宗教改革は申命記改革と呼ばれた。異教の神に犯された民を集めまとめて行く為には厳しい律法を必要とした。しかしヨシヤの改革はヨシヤの死亡により頓挫する。後の王たちは改革の実行には積極的ではなかった。
公義と正義:この二つの言葉はセットで用いられる。この二つを行わなかった王家の宮殿は神の杖(バビロニア)によって破壊される。その後。主は公義と正義を行うメシアの到来を預言する。旧約聖書の最後の王たちは公儀と正義を行わなかったことにより断罪されている。
公義:神の統治と支配の総称。それは人に自由意志を与え、神への信仰と従順を求めることによって成り立つ統治理念。そこには数々の神の計らいや計画を導き。時には懲罪的な訓練も含む。
正義:神と人との正しい関わりを意味するがその内容は、自分自身では自らの権利を確保できない貧しい人を擁護し助けることを意味する。つまり「他人のために犠牲を払うこと」「施しをすること」を意味し、それがやがて「救い」を意味するようになる。
彼らはわたしの民になり、わたしは彼らの神になる:どちらが先か?神の恩寵が先にあって、民がこれに従うのか、民の信仰が先にあって、この民に神の恩寵が下るのか。
神の選びが先にあって、人に恩寵を与え、人が神を知ってこれに従う(聖書の立場)
神が人の心を変えることが無い限り、民の復興と更新は起こり得ない。
新しい契約:「見よその日が来る。―主の御告げ―その日、わたしはイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を結ぶ。それはモーゼとの間に結ばれた古い契約ではない。その契約は破られてしまった。しかし、わたしは彼らの咎を許し、彼らの罪を二度と思いださない(31:31)。それは新約聖書に現された約束である。
エレミヤの神観:エレミヤの神観は聖書に描かれている神観と同一であって目新しいものではない。唯我独尊、異教の神を決して認めず、これを邪教として排除し、虚しい者、幻と見做し忌み嫌う。旧約聖書に出てくる異教の神の代表的なものにはバアル神がいる。豊饒の神である。イスラエルの民がこの神を自分より尊び、敬い、信仰するのを見て、妬み深いイスラエルの神は、これを攻撃する。これはエレミヤ書に限った事ではない。この神は創世記に描かれているように天地万物万象の創造者にして歴史の支配者である。神は預言者を通じて福音宣教を行い全世界に自分の光を注ごうとする。イスラエルを自分の選びの民として、これに希望を託す。イスラエルから全世界へと壮大なご計画である。その意味では普遍的な神観である。この神は倫理的で公正にして正義の神であるが、あくまでもイスラエルの神であって、その範囲は限られてくる。自分の行く手を妨げる者は徹底的に排除しようとする。皆殺しも辞さず、破壊尽くし焼き尽くす。ヨシア記を読むと、これが神様の申し子のやることかいなと思ってしまう。あらゆる宗教は互いに互いを認めあって生きて行くべきなのである。宗教戦争は御免である。
平成28年12月13日(火)報告者守武 戢 楽庵会