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日常一般

日常生活にはびこる誤解、誤りを正す。

書簡集4 ガラテヤ人への手紙 人は信じる信仰によって救われる

2019年06月28日 | Weblog
  書簡集4 ガラテヤ人への手紙 人は信じる信仰によって救われる

  >はじめに
 「信じる信仰によって救われる」これは福音の大原則である。しかし、パウロとその兄弟がガラテヤの教会に手紙を書いた当時、この教会の状況は真の神によって守られた清い教会ではなかった。真の神を見捨て、偽使徒の影響下にあった。彼らは「律法による行い」を義とし、「割礼」をその証としていた(6:12、使徒の働き15:1参照)。パウロはこの状況を嘆き「私は、キリストの恵みをもってあなた方を召して下さった,そのかた(イエスキリスト)をあなた方がそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移っていくのに驚いています(1:6)」と述べている
 これに対してパウロは「信じる信仰によって救われる」を義として、本来の神キリストに立ち返れと彼らに訴えた。このように使徒パウロは霊的束縛をもたらすモーセの律法の奴隷となっているガラテヤ人に対して、霊的自由をもたらすイエス・キリストの福音を伝えることによって「真の救いとは何か」を解き明かしたのである。

 それでは「信じる信仰」とは何か
 勿論、信じる対象はキリスト・イエスである。イエスはアブラハムの相続者である。アブラハムは神を信じ、それが神の義と認められた。神はアブラハムと契約を結び「わが前に全き者なら、汝に大地を与え、子々孫々にわたる増大・繁栄を保証しよう」と、子々孫々に対する永遠の存続を約束する。さらに「「わたしは、あなたを多くの国民の父とする」と、福音の対象を異邦人にまで広げている(創世記17:1~10参照)。アブラハムはイスラエル民族の父であり、それゆえ、イスラエルは神によって選ばれた民となる。イエスはこの民の中より生まれた相続者であり救い主である(3:15~16)。アブラハムは神との契約を信じたがゆえに彼とその子孫は永遠の命を与えられたのである。さらに異邦人に至るまで神を信じるならその福音が与えられるのである。イエスはこのアブラハムの相続者であって、その恵みをアブラハムとともに与えられている。さらにガラテヤ人は異邦人であっても、その契約から神の福音(恵み)を授かることができる。
 このことから心から神を信じる者は、たとえ異邦人でも、だれでもアブラハムの子孫であり、イエスキリストの子孫となる。
 先に神によって結ばれた契約はその後430年たって出来た律法によって、取り消されたり、その約束が無効とされることはない(3~17)。ユダヤ人であれ異邦人であれ、すべての人々はモーセの律法の業に依存する代わりにイエス・キリストに対する信仰を持つことでイエス・キリストの贖罪によって救われる。

 >律法の役割
 イエス・キリストが来臨するまでは、イスラエルの民はユダヤ教(律法)のおきてや、儀式によって救われると信じてその奴隷になっていた。しかし定めの時が来た時、神はそのひとり子イエス・キリストをイスラエルの民に遣わした。まさにイエスは律法のもとに生まれ、神の約束の実現を宣言する。キリストは霊的自由を得させるために私たちを魂の奴隷状態から解放してくださった。パウロは言う「人は律法の行いによって義とは認められず、ただイエスキリストを信じる信仰によってのみ救われる、ということを知ったからこそ、私はキリスト・イエスを信じたのです。これは律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。それは律法による行いによって義と認められたものは一人もいなかったからです(2:16)」と
 それなら律法は神の約束に反するのか。律法は神がモーセを通じて民に与えた(出エジプト31:18)ものである。神の与えたものに偽りはない。律法は神の約束に反するのか、その答えは「NO」、「そんなことは絶対にない」と、パウロは言う。ここでパウロは神の計画における「律法の役割」を明らかにする。それでは、モーセの律法に義があるとすればそれは何であろうか。「おきては神様の約束に付け加えられたものであり、それを破ることがどんなに罪深いことかを人々に示したのです。ただしこのおきての有効期間はその約束の指し示す「子」すなわちキリストが来臨する時まででした。さらにこのほか、次の点も指摘できます。神様はおきてを、み使いたちを通してモーセにお与えになり、モーセはそれを民に告示したのです。しかしアブラハムは約束をみ使いやモーセのような仲介者を通してではなく神様から直接与えられたのです。とすると、おきてと約束は互いに対立するのでしょうか。勿論そんなことはありません。もし私たちがおきてによって救われることができたのであれば、それでことは済んだはずです。、罪の力から逃れるための、別の道が開かれる必要などなかったのです。聖書は私たちはみな、その罪の力に閉じ込められていると宣告しています。そこから解放されるためには、イエス・キリストを信じる信仰による以外ありません。この脱出の道は、キリスト様を信じる、すべての人に開かれています(3:19~22参照)。「信仰が現れる以前は、私たちは律法の監督下に置かれ閉じ込められていましたが、それは、やがて示される「信仰」が得られるまででした。こうして律法は私たちをキリストに導くための、養育係になりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし「信仰」が現れた以上、もはや私たちは養育係の下にはいません。あなたがたはキリスト・イエスに対する信仰によって「神の子」です(3:23~26)。「兄弟たちあなた方は自由を与えられるために召されたのです。ただその自由を肉の働く機会にしないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語によって全うされるのです(5:13~14)」。ここには律法のもつ意義と限界が語られている。

 異端と正統
 「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは、本来は神でない神々の奴隷でした。ところがいまでは神を知っているのに、いやむしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値な幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか(4:8~9)」。とパウロはガラテヤ人に問いかける。彼らは偽使徒に惑わされ、かつての主人に再び支配されようとしていた。いや、支配されていた。これに対してパウロは私こそ真理であると訴え、偽使徒たちを糾弾する。
ここでパウロは異端と正統を区別し、正統性の相続者であれと訴える。


 割礼とは何か:
 神はアブラハムと永遠存続の契約を結んだ際、その証として割礼を施すことを命じている。「次のことが、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたのすべての男子は割礼を受けなさい。(中略)それがあなたがたとの間の契約のしるしである。あなた方の中の男子は、みな代々にわたり、生まれて8日目に割礼を受けなければならない(創世記17:10~12)」。神はアブラハムに「代々にわたり」と命じている。イエスはアブラハムの相続人である。相続人である限りイエスとその信者は割礼を受けなければならない事になる。目に見ることのできない神と、アブラハムとの霊的契約を、肉的に保証するものが割礼なのである。
 しかしパウロはこの割礼を否定する。「割礼を受けるすべての人に、私はすべてを明かします。その人は律法を行う義務があります。律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵から落ちてしまったのです(5:4)」
「そのような(割礼の)勧めは、あなたがたを召して下さった方(キリスト・イエス)から出たことではありません(5:8)」とパウロは断言している。
 この両者の矛盾をどう解釈すべきか。たとへ割礼がアブラハムから出たことであってもそれがモーセに引き継がれ律法化され、義務化された時、それは軛(律法主義)となる。パウロはそのような儀式化された割礼を「あなたがたを召した方から出たことではありません」という。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受けるか受けないかは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大切なのです(5:6)」とパウロは言う。それは、神を信じる信仰によって生きる人間の自由を現している。

 >新しい創造:
 字義どおりに解釈すれば、古いものは消滅し、新しいものに作り替えられることを意味している。歴史的に言えばモーセの律法(肉の働き)からイエス・キリストの贖罪を経て、イエス・キリストを信じる信仰(御霊の実)へと変えられることを意味する。それが新しい創造である。

 偽使徒:
 彼らは必ずしも反キリストではない。彼らは律法主義的クリスチャンと呼ばれており、ユダヤ教徒とともに、律法の順守なしでは人は義とはなれない、という立場をとりパウロと対立した。彼らはアブラハムを引き合いに出し契約のあかしとしての割礼の意味を強調した。アブラハムは目に見えない霊的契約の証として目に見える肉的証しとして「割礼」を要求している。このような偽使徒の布教活動がガラテヤの信徒たちに悪い影響を与え、これを信ずるものが多く輩出したのである。(1:6)。パウロはこれを嘆き。本来の神に帰れと叱咤したのである

 内容構成


 >各章ごとの説明:
 1章~2章:パウロは主の道を踏み外し。偽の教えを受け入れていたガラテヤの聖徒たちに手紙を書く。1章でまずパウロは自らの使徒としての正統性を改めて主張する。
1、私が使徒になったのは人間の手から出たことではなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストとキリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです(1:1)。
2、私が宣べ伝えた福音は人間によるものではありません。私はそれを人間の手から受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです(1:11~12)
3、私を選び分け恵みをもって召して下さった方が異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子が私のうちに啓示することを良しとされた(1:15~17)パウロは人が義とされるのはモーセの律法の業ではなく、イエス・キリストを信じる信仰によると教える。しかし実際のガラテヤのクリスチャンは律法を重視する偽使徒の支配下にあった。
 3章~4章:
パウロは福音のメッセージを擁護する。パウロは、アブラハムがモーセの律法の業ではなく、信仰によって義とされた人物の模範であったと教える。贖罪を通して、イエス・キリストは律法の呪いから人類を贖われた。モーセの律法の目的は「私たちをキリストに連れていく養育係」となることである、と教える。信仰とバプテスマを通して、聖徒たちは贖罪の祝福を受け、福音の聖約に入りキリストを通して神の相続人となり、もはや使用人ではなく神の子となる。
 5章~6章:パウロは、キリストが与えてくださった福音の聖約を固く守り続けるようガラテヤの聖徒たちに求める。パウロは「肉の働き」(5:19~21)に関与している人の生活と「御霊の実」(5:22~24)を享受している人の生活を対比させる。パウロは聖徒たちに互いの重荷を負いあいたゆまず良い働きをするよう教える。私たちは自分のまいたものは刈り取らねばならない。

 「余禄」から
 2019年6月5日(水)の毎日新聞朝刊の「余禄」に次のような記事が載っていたので紹介する。「お父さんがお前に上げたいものは健康と人を愛する心だ。人が人でなくなるのは、自分を愛することをやめる時だ (中略)その時)人は他人を愛することを止め、世界を見失ってしまう」。これは詩人・吉野弘が誕生した長女・奈々子に宛てたものである。神はモーセに10戒を与えた。そのなかに「自分を愛する如く、隣人を愛せよ」という御言葉がある。自分を愛する如く人を愛せたらどんなに素晴らしいことだろう。世の中に犯罪や、争いや、戦争は起こらないであろう。ゼカリヤ書には、律法は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語をもって全うされるのです(5:14)」。と書かれている。後年、成人した奈々子には、この父の言葉が重荷(軛)だったという。「かちとるに難しく、はぐくむに難しい、自分を愛する心だ」と言っている。「自分を愛する心を見つけるまでには時間がかかったが、自分が子もってこの詩を読んだとき、涙が止まらなかった」と奈々子は言う。彼女に救いをもたらしたものは何だったのだろうか。余禄の作者は言う「人は自分を愛せなくなれば、他人も世界も意味を失い、道徳も倫理も底がぬける」と。
 ガラテヤ書は、まさにこのことを主題としている。パウロは言う「律法は人を罪の中に閉じ込め、信仰はそれから人を開放する」と。律法はこうあらねばならぬと強制する。しかし、人は、こうあらねばならぬと思いながらも、こうある自分に絶望する。その葛藤の中から罪の意識が生まれる。律法は、人は罪びとであることを教える。詩人は「お前に多くを期待しない」とも言う。「期待に応えようとして人はだめになるからだ」と。キリストはこれらの罪を一身に背負って、何一つ罪を犯していないのに、十字架にかかり死んでいった。キリストの贖罪は愛である。
 キリストを信じる信仰によって人は救われる

令和元年6月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


コリント人への手紙Ⅱ コリント教会の皆さんへ

2019年06月11日 | Weblog
  書簡集3  コリント人への手紙Ⅱ コリント教会の皆さんへ
 はじめに
 コリント人への手紙Ⅱはパウロがコリント人の教会の信徒に送った2通の手紙のうち第2番目の手紙である。パウロはこの時点ですでにコリントの信徒に3通の手紙を書いていたが、そのうち2通は残っていない。
 第一の手紙はコリントの教会の内部に生じた諸問題に対して、パウロはそれを厳しく叱責し、その実際的解決と、指導を与えたものであった。パウロはコリントにいる信徒のことをキリストにあって愛し主に立ち返ることを願っていたのである。
 第二の手紙(本リポート)は第一の手紙に対する反響に応えたものである。その反響は必ずしもパウロの意に沿うものではなく、主に立ち返ろうと努力をした者がいた半面、パウロの権限を否定しその動機に疑問を唱え、その手紙に反発し反パウロ、反キリストの集団も現れたのである(使徒の働き19:21~41)。また偽使徒も現
れ信徒たちを惑わしていた。そこでパウロはマケドニヤに逃れ、その地で第二の手紙を書いたといわれている。第二の手紙にはパウロが第一の手紙を現したわけと、コリント人だけでなくアカヤ全土(ギリシャ)に住むすべてのクリスチャンに対する愛と慰めの言葉に満ちている。
 第一の手紙によってコリントの教会には悲しみが満ちていた(2:1,7:8)。それゆえに、パウロはこの第二の手紙によって彼らの間に喜びを取り戻したかったのである(7:9~13)。だからこそ、その調子は第一の手紙と違って穏やかでコリントの信徒に対する愛と気遣いにあふれている。そして最後にパウロは言う「終わりに兄弟たち喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つの心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば愛と平和の神はあなた方とともにいてくださいます。聖なる口づけをもって互いにあいさつを交わしなさい。すべての聖徒たちがあなたによろしくと言っています。主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなた方すべてとともにありますように(13:11~13)」と。
 作者:神のみ心によるキリストイエスの使徒パウロおよび兄弟テモト
 宛先コリントにある神の教会、ならびに、アカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ
 書かれた年代:西暦55~57年ごろ
 書かれた場所:マケドニヤ
 主要な登場人物:パウロ、テモテ、テトス、偽使徒
 主要な地名:コリント、エルサレム、マケドニヤ      

 内容の構成
1.1章~7章:パウロの内面的苦悩
    コリントの信徒に対する熱き想い
2.8章~9章:慈善活動の勧め
    エルサレムの教会支援の願い
3.10章~13章:パウロ批判に対する反論
    コリント信徒に対する配慮
    弱さを誇る
    結びのあいさつ      

 各章ごとの解説
1、第1章~7章 パウロの内面的苦悩とコリントの信徒に対する熱き想い
 1章:パウロは、神がすべての試練において神の子たちを慰めると証しする。 「神はどのような苦しみの時にも私たちを慰めてくださいます(1-4)」
 2章:パウロは聖徒たちがお互いに愛し合い赦しあうようにと奮起させる。 「そこで私(パウロ)はその人(罪びと)に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。もしもあなたがたが人を赦すなら、私もその人をキリストのみ前で赦します(2:10)」。
 3章:福音と主の御霊の働きは、モーセの律法の文字よりもすばらしい。 「神は私たちに新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです(3:6)」。
 4章:パウロは逆境にあるコリントの聖徒を励まし、彼らに神の愛と栄光のもつ永遠の本質を思い起こさせる。 「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされます(4~16)」、「私たちは見えないものにこそ目をとめます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです(4:18)」。
 5章:パウロはイエス・キリストの贖罪を通じて神と和解する必要性を理解するようコリントの信徒に勧める。 「だれでもキリストのうちにあるならその人は新しく作られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました(5~17)」、「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それで私たちはこの方にあって、神の前に義とされたのです(5:20)」。
 6章:コリントの信徒よ、どうか私の言うことに対し心を広く開いてください。正義と不法とはつながりがありません私たちは生ける神の宮として、偶像を避け、あの不信者(偽使徒)に惑わされないようにしなさい。 「確かに今は恵みの時、今は救いの日です(6:2)」。
 7章:あなた方が私を慕っていること、また過ちを嘆き悲しんで悔い改めたと聞いて喜んでいます。 「神のみ心に沿った悲しみは、悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします(7:10)」。
 2、第8章~9章:慈善活動の勧め、特にエルサレム教会支援の願い
 8章:施す恵み。あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。パウロはエルサレムの人々に対する献金についてコリントの聖徒に感謝し引き続き惜しみなく与えるよう彼らを励ます。「兄弟たち、あなたがたは諸教会の使者、キリストの栄光です。あなた方の愛と、私たちがあなたがたを誇りとしている証拠を諸教会の前で彼らに対して示して欲しいのです(8:23~24)」。
 9章:「惜しみなく与える」。「神は喜んで与える人を愛してくださいます(9:7)」「ひとりひとり、いやいやながらではなく、強いられたからでもなく、心に決めた通りにしなさい(9:7)」。そうすれば神からの賜物が、あなたがたにも与えられるのです。
 3、第10章~13章:パウロ批判に対する反論、コリント信徒に対する配慮、弱さを誇る、結びのあいさつ
 10章:「主から授けられた働き」「自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ受け入れられる人です(10:18)」。パウロはコリントに行くにあたって、そこにキリストの純粋な教義を損なう偽使徒がいることを知る。彼らは自分で自分を推薦し、パウロの働きを阻害しようとしていた。パウロはコリントの信徒に言う「あなた方の信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広がることを望んでいます(10:15)」と。お互いの相互作用によって信仰は強化される。
 11章:「パウロの誇り」「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります(11:30)」10章で述べたように、コリントには偽使徒がいてコリントの信徒を騙していた。彼らは結果としては反キリストにはなったが、意図するところは善意で決してパリサイ人や、律法学者のように真っ向から反キリストを掲げているわけではなかった。自分こそキリストの使者だと僭称していたのである。サタンさえも神のみ使いに変装して表れていることを考えると、パウロがコリントの信徒たちが偽使徒に騙されるのではないかと心配するのは当然であった。「騙されるな」と強調する。彼らは自分の強さを誇ったが、パウロは言う「私は自分の弱さを誇ります」と。コリントの信徒の信仰心は決して強くはなかったといえよう。
 12章:「弱さのうちの強さ」「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである(12:9)」パウロは11章において自分の弱さを列挙した(11:23~27)またこの章においても、その弱さを列挙している(12:10)。もちろんパウロには誇るべき強さは多々ある。第三の天(パラダイス)にまで引き上げられている。しかしパウロはこれを「キリストにある一人の人(12:2)」と言って自分であること隠している。誇ることを控えている。人がパウロを過大に評価することを。わたしたちは恐れたのである。神は人が高ぶることを最も嫌われる。神はパウロが高ぶることのないようにとパウロの肉体に「一つのとげ」を与えた。もし、高ぶってその限度を超えた時、その「とげ」はパウロの肉体を刺すであろう。神の前にへりくだり謙虚になるとき、パウロは弱さを誇ることができた。この時、神はパウロと共にあった。「私が弱い時こそ、私は強いのです(12:10後半)」とパウロは言う。
コリントに住む偽使徒たちはパウロたちのコリント訪問に危機感を感じ、その訪問を阻止しようとしていた。パウロはこれを知って「私たちは(偽使徒たちとは異なって)神のみ前でキリストにあって語っているのです。彼らに、騙されてはいけません」とコリントの信徒を諭す。
 13章:「完全な者になりなさい」「あなた方は選ばれた民です『あなた方のうちにイエス・キリストがおられることを信じなさい』」「キリストはあなた方に対して弱くなく、あなたがたの間にあって強い方です。確かに弱さゆえに十字架につけられましたが、神の力ゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱いものですが、あなたがたに対する神の力ゆえに、キリストと共に生きているのです。私たちは真理に逆らって何もすることができず、真理のためなら何でもできるのです。私たちはあなた方が完全な者になることを祈っています。私は神からあなた方をさばく権威を与えられています。この権威が与えられたのは築き上げるためであって倒すためではありません。主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてと共にありますように」。コリント人への手紙Ⅱはこのような祝福の言葉で終わっている。

 言 葉
第三の天:パラダイス。主なる、み座のある天国である。パウロが引き上げられた天。ちなみに第一の天は、私たちが見上げることのできる天。空とも、大気圏ともいえる。鳥の飛ぶ天。第二の天は「天体」のこと星があり宇宙がある。
 偽使徒:キリストの使徒を僭称して現れる。その霊は悪霊であり、その福音は人を欺くものであるが、いかにもそれらしく見える。騙されやすい。パウロの教えに反してユダヤ人の教えを取り入れる必要性を説いた。
令和元年5月14日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


書簡集2 コリント人への手紙 Ⅰ 悔い改めて神に帰れ

2019年06月02日 | Weblog
  書簡集2  コリント人への手紙Ⅰ悔い改め神に帰れ

 はじめに:
 神のみ心によってキリスト・イエスの使者として召されたパウロと兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へとあてられた手紙がコリント人への手紙である。コリントとはギリシャ本土とペロポネソス半島を結ぶコリント地峡の西端にある都市で、古代にはアテナイ・スパルタに伍して繁栄した都市国家であった。パウロの時代、コリントはローマの属州であるアカヤの州都でありその範囲はマケドニヤの南にあった古代ギリシャの大部分まで広がっていた。豊かな貿易の中心地で、ローマ帝国全土から多くの人々が集まっておりその地域において最も多様性のある都市のひとつであった。コリントの宗教文化では偶像崇拝が優位を占めており、町のいたるところに神殿や祭壇が存在していた。パウロが手紙をしたためていた時代コリント人は極めて不道徳な民として知られていた。信者の分裂、誤った教え、不道徳、姦淫、神殿売春、等々。今日、この世に存在する多くの問題点を抱えていた。このことを伝え聞いたパウロが、少なくともコリントの教会の信者だけでもと、その原点であり、礎でもあるキリストへとその信仰を戻そうとして、したためたのがコリント人への手紙である。「コリント人への手紙1」5章を読んでほしい。作者はパウロである。

 選びとは何か:
 コリント人の教会の人々は、「聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々」と、パウロは言う。彼らは選ばれた人々である。その選ばれた民がなぜ神に逆らうのか。そんな民をなぜ神が選んだのか。旧約聖書でイスラエルの民が選ばれた民でありながら神に逆らい続けたのに似ている。パウロはいう「あなたがたのからだは、あなた方のうちに住まわれる神から受けた聖霊の宮であり、あなた方はもはや自分自身のものではないことを知らないのですか。あなた方は代価を支払って買い取られたのです。だから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい(6:19~20)」と。要するに神による選びはその体内に「聖霊」が宿っているか否かによって決まるのである。サウル(パウロ)はキリスト者に対する迫害者として現れたが、神による啓示によって回心し霊的存在として蘇ったのである。選びは神の選任事項であって、人の及ぶところではない。この選びは天地創造以前から決まっていることであり、ここに神の壮大なご計画を見るのである。キリスト者こそ、その担い手なのである。自分の中に聖霊を持たない者は、神を理解することも受け入れることもできない。この世の支配者たちはこの真理をだれ一人理解することができなかった。理解していたならば栄光の主を十字架にかけなかったであろう。パウロはいう「主はあなた方に必要なものはすべて与えている。清さを保て、そして悔い改めて、主に立ち返れ」と。しかしあなた方は主に従わず、好き勝手にふるまっている。あたかも主を信じない人みたいです。私の仕事はあなた方の畑に(心)に種子をまくことです。「あなた方は、まだ肉に属しているからです。あなた方の間に妬みや争いがあることからすれば、あなた方は肉に属しているのではありませんか。そしてただの人のように歩んでいるのではありませんか(3:3)」と、パウロはコリントの教会の信者に言う。肉から霊へ。あなた方は高められねばならない。と。福音宣教を必要とする。
コリント人への手紙は第1と第2に分かれており、この書簡は書簡集の中では最も長く全体の4分の1を占めている。
 内容構成

 これまで私は主に逆らうコリントの民に対する主と神との基本的な関係を取り戻す方法を主題にして述べてきた。これからは基本に対する応用といって良いであろう。

 男の役割、女の役割
 男は神に似せて作られたのであり、神の栄光の現れです。最初の男は女から作られたのではなく、最初の女が男から作られたのです。最初の男アダムはエバのために作られたのではなく、エバがアダムのために作られたのです(創世記を読め)。妻は夫に責任があり、夫はキリストに責任があり、キリストは神に責任があるのです。祈るとき、男は帽子を取り、女は帽子をかぶりなさい。女は男の権威の下にある証として頭にかぶり物をつけなければなりません。み使いたちが、それを認めて喜ぶためです。しかし、神の計画では、男と女とは互いに必要としあう存在であることを忘れてはいけません。なぜなら、最初の女は男から生まれたといっても、それ以後男はすべて女から生まれたからです。そして、男も女も神がお造りになったのです。長い髪は女の誇りです。しかし男の被り物は恥です。だから女が教会で祈るときは被り物をつけなさい。どこの教会でもこのことは同じです(11章参照)。

 結 婚:
「男が女に触れないのは良いことです。しかし不品行を避けるため、男はそれぞれ自分の妻を持ち、女もそれぞれ自分の夫を持ちなさい。夫は自分の妻に対し義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい(7:1~3)」。パウロは言うのです。独身は最善であり、結婚は次善であると、できるなら私のように一人でいなさい。と。パウロがいろいろうるさいことをいうのは、一人のほうが結婚生活に煩わされて神との接触が妨げられるのを恐れたからである。

 >死人の復活:
 ここに一つの疑問がある。「死んだ者は2度と生き返らない。生き返ったのはキリスト・イエスだけではないのか」と。パウロはこれに反論する。「もし、死人の復活がないのならキリストは今も死んだままです。死者の復活がなかったらキリストも復活されなかったでしょう。死が一人の人を通じてきたように、死者の復活も一人の人を通じてきたからです。すなわち、アダムによってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべてに人が生かされるからです。そして最後の敵である死も滅ぼされるのです。「最初のアダムは生きたものとなった。最後のアダム(イエス・キリスト)は御霊となった。地より生まれたものは地に帰るが、天から来たキリストは死を克服して天に戻る。ここで言われていることは「最後の審判」を指しているのだろうか。

 アガペー(神の愛):
 この章(13章)では無償の愛が述べられている。この愛に支えられることのないいかなる善と言われている行為も何らの価値を持たない。神が罪びとたる人間に対して一方的に恩寵を与える行為でキリストの自己犠牲的な愛として新約聖書に現れた思想。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます(13:4~7)」。いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です(13:13)。

 異言と預言:
 異言とは宗教的恍惚状態において発せられる理解不能な言葉。御霊の力によって語る言葉。それゆえ神によってのみ理解されるが一般の人には理解不能である。
 預言とは神から預かった言葉を、徳を高め勧めをなし、慰めを与えるために人に向かって話す言葉である。それゆえ福音宣教の場では預言で語ることが推奨される。異言はそれを解き明かす通訳がいない限り人の前で語ってはならない。混乱を引き起こすだけです。一人静かに神に向かって話しなさい。通訳がいる場合はこの限りではありません。徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために異言を語りなさい。

 概 要:
 コリントの教会は派閥争いに明けくれていた(1:12)。パウロは彼らにイエス・キリストのもとに一つになれと警告する(3:21~23)また彼らの多くは性的に乱れていた(5~12)。パウロは教会を汚しているものを除き清くなれと命じる(5:13)。彼らは互いを裁判に訴えていた(6:12)。このように、コリントの教会は神によって選ばれた民にもかかわらず穢れていた。神の義とは何かをパウロは彼らに解き明かす。
 パウロは彼らに結婚と聖潔について語り(7章)、偶像に捧げられた肉の扱い方(8~10章)、キリスト者の自由(9章)、聖餐式(11:17~34)、霊的賜物(12~14章)、そしてキリストの復活についても語っている(15章)。パウロはコリントのキリスト者がした質問に答え、間違った歩みを正すよう、この手紙で語っている。
>平成31年4月9日(火)報告者守武 戢 楽庵会

書簡集1「ローマ人への手紙」「行い」から「信仰」へ

2019年05月18日 | Weblog
  書簡集1 「ローマ人への手紙」 「行い」から「信仰」へ。
  はじめに
 「ローマ人への手紙(ロマ書)」は新約聖書の第6番目の書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書、「使徒の働き」)で使徒パウロによるローマ教会の信徒に宛てた書簡である。AD55年ごろ書かれパウロの神学思想が体系的に詳述されている。
 この書は、パウロが間もなく訪れる予定の未知のローマ教会に宛てて、いわば神学的な自己紹介の書である。彼の信仰理解の核心を提示し、ローマ教会に福音を延べ伝えている。「福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にもすべて信じる者に救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に掲示され、信仰に始まり、信仰に進ませる。『義人は信仰によって生きる』と書いてある通りです(1:16~17)」。この言葉は本書の主題であり、この主題のもとに組織的に構成された書が「ローマ人への手紙」である。
 本書は、第1部(1~8章)と2部(9~16章)に分かれており、第1部では、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのである(3:28)」という信仰義認説がアブラハムの例を引いて述べられている。それなら神がモーセに啓示した律法は誤りだったのか、律法は罪なのか、という疑問が提示される。パウロはこれをきっぱりと否定される。信仰と律法と罪との関連が説かれる。第2部ではイスラエルの救いの歴史と、異邦人の救いの問題、キリスト教の倫理、信仰の軽重などがそれぞれ述べられ、最後に神の義を行動に移すように命じている。

 書簡集新約聖書の最後を飾る書簡集はすべてで21書ありそのうちの13の書簡がパウロのものであるとされている。しかし、そのうち確実に彼のものと思われるものは「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙」(第1、第2)「ガラテヤ人の手紙」「ピリピ人への手紙」「テサロニケ人への手 紙」(第1)および、「ピレモンへの手紙」の合計7書である。その他の書簡については、新約聖書の目次を参照のこと。

 パウロ:キリスト教史最も重要な使徒のひとり。小アジアのタルススでローマの市民権を持つユダヤ人の家庭に生まれる。パリサイ派の一員としてキリスト教徒を迫害する。パウロは別名サウルと呼び、「使徒の働き」の中に、その回心とその後の活躍が詳しく述べられている。回心後のパウロは、異邦人伝道を使命とし、3回の伝道旅行でエーゲ海一帯に福音を伝えた。エルサレムで捕らえられたが、ローマ市民の権利として皇帝に上訴する。ローマに護送されるが、その扱いは緩やかであり、「こうしてパウロは満2年の間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人たちをみな迎えて大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエスキリストのことを教えた(使徒の働き、28:30~31)」しかしその後ネロ帝によって処刑されたという。。彼はキリスト教を普遍的宗教とした貢献者で、彼が各地の信徒に宛てた書簡が新約聖書の中に収められている。

 時代背景:前1世紀までにローマが国際舞台に登場してきた。この時イスラエルのユダヤ人たちは内部抗争に明け暮れ国は弱体化していた。これに乗じてローマはイスラエルに侵入しローマの支配下に置き属領とした。ローマは総督を派遣してこれを支配した。ユダヤ教はキリスト教の誕生と勢力の拡大によって新たな局面を迎えていた。多くのユダヤ人がキリスト教を受け入れた。ユダヤ教の指導者は危機感を抱いた。キリスト教ははユダヤ教の分派とみなされたり異端扱いされた。反キリストの指導者ラビや祭司は信心深いユダヤ人に対し「法の順守」を求めた。「行いの原理」を徹底することにより「信仰の原理」と対抗した。そこには両者のせめぎあいがあった。その当時の状況をパウロは次のように述べている。「この民のところに行って告げよ、あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることがないからである。神のこの救いは異邦人に送られました。彼らは耳を傾けるでしょう(使徒の働き、28:26~29)。これがエルサレムのまたローマの民の状況だったのである。パウロはかたくなな自国の民から離れて異邦人に向かった理由がここにあったのである。
 
 各章ごとの説明
 1~4章:本書の中心テーマはイエスキリストへの信仰を通して得られる救いである。パウロはアブラハムを引き合いに出してキリストによる神の恩寵を強調した。人が義と決定されるのは信者の側の信仰と、それに結び付いた神の側の恩寵によるものと力説する。またユダヤ人にも異邦人にも等しく神の恩寵は下りそこに差別はない子とも強調している。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です(1:16)」。
「ではどうなのでしょう。私たちは他のものに勝っているでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシャ人もすべての人が罪の下にあると責めたのです。それは次のように書いてある通りです。『義人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない』(3:9-11)」。
「しかし今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によって証されて、神の義が示されました(3:21)」。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みによりキリスト・イエスによる贖いのゆえに価無しに義と認められるのです(3:23~24)」
 5~8章(救いの保証1):パウロは、主を信じる者は救いの約束を受け、罪と律法のくびきから解放されると論じている。ただし、律法や決まりごとは自分の行いが悪と気づかせてくれるゆえに善いものと見做している。反面、人間に出来ることは。罪の自覚を得ることのみで救済には至らないと結論付けている。救済は神からの恩寵によるものであって、信仰によって義とされ信じる者はイエスとともにあり罪から解放されるのである。すべての人が罪によって神から離れたように、イエスの償いによって、すべての罪は赦されるのである。
「しかし私たちがまだ罪びとであったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます(5:8)」。
「罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です(6:23)」。
「けれども、もし神の御霊があなた方のうちに住んでおられるなら、あなたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません(8:9)」。
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのこと中にあっても圧倒的な勝利者になるのです。わたしはこう確信しています。死も、いのちも、み使いも、権威ある者も、いまあるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも、深さもそのほ、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません(8:37~39)」。
 9~11章(救いの保証2):「神が選んだイスラエルに対して神ご自身が忠実であられたことに触れ、同じように神は信じる者に忠実であられることを思い起こさせる。パウロはご自身がイスラエルの一員であり(11:1)、かつてキリスト者を迫害していたため、イスラエルの民がみな神から選ばれた民であることに気づくことを望んでいる。パウロは神がイスラエルを選んだように、キリストを信じる者を新しい民として選ぶという。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(10:9~10)」。
 12~15章前半:パウロは福音がいかに人を変えるか、そして替えられた人はどのようにふるまうべきかを宣べている。さらにユダヤ教の習慣を固守すると、そうでない人々の間に緊張関係を生ずることについても宣べている。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は神のあわれみのゆえに、あなた方にお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」。
15章後半~16章(信じる者を変える福音)書簡の終わりにパウロは今後の旅行の計画を宣べ、最後のあいさつで手紙を終えている。
「兄弟たち。私はあなた方に願います。あなた方の学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい(16:17)」。

 本書の区分
「ローマ人への手紙」は教理的な書で4つの部分に分けることができる。
1、義の必要について(1:18~3:20)
2、義が与えられることについて(3:21~8:39)
3、義の証明について(9:1~11:36)
4、義を行動に移すことについて(12:1~15:13)
 上記で明確にわかるように、この書簡のテーマは「義」です。聖霊に導かれて、パウロは全人類の罪について書いています。彼はこの書において、神の、み言葉の真理(義)について語っています。
 義:神の正しさ、また人の神の前での正しさ。キリストが律法を終わらせたので主を信じる者はすべて義人とみなされた。
 著書パウロはこの書簡を書くにあたり書記テルテオの助けを借りている。
>平成年3月12日(火)報告者守武 戢 楽庵会

書簡集1 ローマ人への手紙 「行い」から「信仰」へ

2019年03月16日 | Weblog
  書簡集1 「ローマ人への手紙」 「行い」から「信仰」へ。
 はじめに
 「ローマ人への手紙(ロマ書)」は新約聖書の第6番目の書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの各福音書、「使徒の働き」)で使徒パウロによるローマ教会の信徒に宛てた書簡である。AD55年ごろ書かれパウロの神学思想が体系的に詳述されている。
この書は、パウロが間もなく訪れる予定の未知のローマ教会に宛てて、いわば神学的な自己紹介の書である。彼の信仰理解の核心を提示し、ローマ教会に福音を延べ伝えている。「福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にもすべて信じる者に救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に掲示され、信仰に始まり、信仰に進ませる。『義人は信仰によって生きる』と書いてある通りです(1:16~17)」。この言葉は本書の主題であり、この主題のもとに組織的に構成された書が「ローマ人への手紙」である。
本書は、第1部(1~8章)と2部(9~16章)に分かれており、第1部では、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるのである(3:28)」という信仰義認説がアブラハムの例を引いて述べられている。それなら神がモーセに啓示した律法は誤りだったのか、律法は罪なのか、という疑問が提示される。パウロはこれをきっぱりと否定される。信仰と律法と罪との関連が説かれる。第2部ではイスラエルの救いの歴史と、異邦人の救いの問題、キリスト教の倫理、信仰の軽重などがそれぞれ述べられ、最後に神の義を行動に移すように命じている。
 書簡集:
 新約聖書の最後を飾る書簡集はすべてで21書ありそのうちの13の書簡がパウロのものであるとされている。しかし、そのうち確実に彼のものと思われるものは「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙」(第1、第2)「ガラテヤ人の手紙」「ピリピ人への手紙」「テサロニケ人への手紙」(第1)および、「ピレモンへの手紙」の合計7書である。その他の書簡については、新約聖書の目次を参照のこと。
 パウロ:
 キリスト教史最も重要な使徒のひとり。小アジアのタルススでローマの市民権を持つユダヤ人の家庭に生まれる。パリサイ派の一員としてキリスト教徒を迫害する。パウロは別名サウルと呼び、「使徒の働き」の中に、その回心とその後の活躍が詳しく述べられている。回心後のパウロは、異邦人伝道を使命とし、3回の伝道旅行でエーゲ海一帯に福音を伝えた。エルサレムで捕らえられたが、ローマ市民の権利として皇帝に上訴する。ローマに護送されるが、その扱いは緩やかであり、「こうしてパウロは満2年の間、自費で借りた家に住み、訪ねてくる人たちをみな迎えて大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエスキリストのことを教えた(使徒の働き、28:30~31)」しかしその後ネロ帝によって処刑されたという。。彼はキリスト教を普遍的宗教とした貢献者で、彼が各地の信徒に宛てた書簡が新約聖書の中に収められている。
 時代背景:
 前1世紀までにローマが国際舞台に登場してきた。この時イスラエルのユダヤ人たちは内部抗争に明け暮れ国は弱体化していた。これに乗じてローマはイスラエルに侵入しローマの支配下に置き属領とした。ローマは総督を派遣してこれを支配した。ユダヤ教はキリスト教の誕生と勢力の拡大によって新たな局面を迎えていた。多くのユダヤ人がキリスト教を受け入れた。ユダヤ教の指導者は危機感を抱いた。キリスト教ははユダヤ教の分派とみなされたり異端扱いされた。反キリストの指導者ラビや祭司は信心深いユダヤ人に対し「法の順守」を求めた。「行いの原理」を徹底することにより「信仰の原理」と対抗した。そこには両者のせめぎあいがあった。その当時の状況をパウロは次のように述べている。「この民のところに行って告げよ、あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしにいやされることがないからである。神のこの救いは異邦人に送られました。彼らは耳を傾けるでしょう(使徒の働き、28:26~29)。これがエルサレムのまたローマの民の状況だったのである。パウロはかたくなな自国の民から離れて異邦人に向かった理由がここにあったのである。
 各章ごとの説明
 1-4章:本書の中心テーマはイエスキリストへの信仰を通して得られる救いである。パウロはアブラハムを引き合いに出してキリストによる神の恩寵を強調した。人が義と決定されるのは信者の側の信仰と、それに結び付いた神の側の恩寵によるものと力説する。またユダヤ人にも異邦人にも等しく神の恩寵は下りそこに差別はない子とも強調している。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です(1:16)」。
「ではどうなのでしょう。私たちは他のものに勝っているでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシャ人もすべての人が罪の下にあると責めたのです。それは次のように書いてある通りです。『義人はいない。一人もいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない』(3:9-11)」。
「しかし今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によって証されて、神の義が示されました(3:21)」。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みによりキリスト・イエスによる贖いのゆえに価無しに義と認められるのです(3:23~24)」
 5~8章(救いの保証1):パウロは、主を信じる者は救いの約束を受け、罪と律法のくびきから解放されると論じている。ただし、律法や決まりごとは自分の行いが悪と気づかせてくれるゆえに善いものと見做している。反面、人間に出来ることは。罪の自覚を得ることのみで救済には至らないと結論付けている。救済は神からの恩寵によるものであって、信仰によって義とされ信じる者はイエスとともにあり罪から解放されるのである。すべての人が罪によって神から離れたように、イエスの償いによって、すべての罪は赦されるのである。
「しかし私たちがまだ罪びとであったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます(5:8)」。
「罪からくる報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です(6:23)」。
「けれども、もし神の御霊があなた方のうちに住んでおられるなら、あなたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません(8:9)」。
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのこと中にあっても圧倒的な勝利者になるのです。わたしはこう確信しています。死も、いのちも、み使いも、権威ある者も、いまあるものも、後に来るものも、力あるものも、高さも、深さもそのほ、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません(8:37~39)」。
 9~11章(救いの保証2):「神が選んだイスラエルに対して神ご自身が忠実であられたことに触れ、同じように神は信じる者に忠実であられることを思い起こさせる。パウロはご自身がイスラエルの一員であり(11:1)、かつてキリスト者を迫害していたため、イスラエルの民がみな神から選ばれた民であることに気づくことを望んでいる。パウロは神がイスラエルを選んだように、キリストを信じる者を新しい民として選ぶという。
「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心で信じて義と認められ、口で告白して救われるのです(10:9~10)」。
 12~15章前半:パウロは福音がいかに人を変えるか、そして替えられた人はどのようにふるまうべきかを宣べている。さらにユダヤ教の習慣を固守すると、そうでない人々の間に緊張関係を生ずることについても宣べている。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は神のあわれみのゆえに、あなた方にお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」。
 15章後半~16章(信じる者を変える福音)書簡の終わりにパウロは今後の旅行の計画を宣べ、最後のあいさつで手紙を終えている。
「兄弟たち。私はあなた方に願います。あなた方の学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざか りなさい(16:17)」。
 本書の区分
「ローマ人への手紙」は教理的な書で4つの部分に分けることができる。
1、義の必要について(1:18~3:20)
2、義が与えられることについて(3:21~8:39)
3、義の証明について(9:1~11:36)
4、義を行動に移すことについて(12:1~15:13)
 上記で明確にわかるように、この書簡のテーマは「義」です。聖霊に導かれて、パウロは全人類の罪について書いています。彼はこの書において、神のみ言葉の真理(義)について語っています。
 義:神の正しさ、また人の神の前での正しさ。キリストが律法を終わらせたので主を信じる者はすべて義人とみなされた。
 著書パウロはこの書簡を書くにあたり書記テルテオの助けを借りている。
平成29年3月12日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会


ヨハネの福音書2 13章~21章

2019年03月04日 | Weblog
  ヨハネの福音書2
 はじめに
ヨハネの福音書には、我々の人生における大切な多くの教えと死後における永遠についての教えが提示されている。
1.イエスが旧約聖書で預言されたユダヤ人のメシアであることの実証から始まり、
2.主がイエスをメシアとして遣わされた理由と目的を実証し、さらに他の福音書(マタイ、マルコ、ルカ)が出来事に焦点を与えているのに対して、主の霊性に目を向けている。肉から霊へ、本書はマタイ、マルコ、ルカの集大成(イエス観の斬新的高度化・高度なキリスト論への移行)として位置づけることができる。
3.福音のメッセージは神についての真理とイエスが我々の救い主であることの真理をたとえ話を用いて我々に伝えている(告別の説教 14章~17章)。

 >ヨハネの福音書の特徴
 「時の始まり」に目を向けよ
 共観福音書が弟子たちに「時の終わり」を警告するのに対して、ヨハネの福音書は「時の始まり」に目を向けることを命じている。ヨハネの福音書は有名な劈頭部分で宇宙の開闢を語り、「はじめに言葉があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」という。ヨハネが言及しているのは、言うまでもなく「創世記」の冒頭である。はじめに広大で形なき混沌、闇、そして深淵があり「神の霊が水の面を動いていた」。そして太陽、月、星々の前に、まず光があった。「神は言われた『光あれ』。こうして光があった」すなわちヨハネはイエスを神の言葉のみならず、そこにあらしめられた神の光とも同一視する。「その光は、まことの光で、世にきてすべての人を照らすのである」そして「終わりの時」を問おうとするものを諫める。「共観福音書」がイエスを神の使者である「人間」と見做しているのに対して、「ヨハネの福音書」はイエスを人間の姿をまとった神自身の「光」としている。
 宮きよめ3つの福音書は一致して宮きよめの叙述をイエスの公的生活の最後に置いている。それに対して「ヨハネの福音書」はこの叙述を公的生活の最初の置いている(1;13~22)。3つの福音書によれば祭司長たちが最終的にイエスの逮捕を決定した契機は宮の内部では禁じられている商行為を行う両替商に対するイエスの襲撃であった。「マルコの福音書」によれば「祭司長や律法学者たちはこれを聞いてイエスをどのように殺そうかと謀った(マルコ11:15)」と述べている。そしてマタイもルカもイエスの逮捕はこの事件の直後であったという点でマルコと一致している。だが「ヨハネの福音書」はこの事件を物語の冒頭に置き、イエスの布教活動のすべてを神の崇拝にあるとし、宮の浄化・改革をその一環としたのである。それほどエルサレムは穢れていた。エルサレムの指導者たちは、これを正そうとはせず、逆に商人たちと結託して私利私欲に走っていた。そこでイエスの逮捕の原因を説明するために、ヨハネは他の福音書には全く登場しない「ラザロの死からの蘇生」の奇蹟を挿入したのである。この奇跡はエルサレムの民の心に感動を与え、イエスに対する信仰心を高めたのである。反イエスの指導者たちはこの状況に危機感を持ち、その影響力を削ぐためにイエスとラザロを殺そうと謀った。そのはかりごとはイエスの磔刑によって実現する。
 >告別の説教:イエスのその生涯は果たしてなんであっただろうか。彼の意図したものは何一つ実現しなかったのではなかろうか。確かに彼は多くの奇跡を行い、多くの民をいやしてきた。イエスの行くところに民は集まった。しかしイエスは言う「彼らは奇跡を信じても私を信じない」と。そこにはエルサレムの民に対する絶望があった。メシア像にしても、イエスの考えるメシア像と民の求めたメシア像は異なっていた。民の求めたメシア像は政治的なメシアであって、ローマの支配からの解放であった。それに反してイエスの求めたメシア像は、あくまでも霊的なメシアであった。それを知ったエルサレムの民は絶望して、イエスから離れていく。そしてイエスを十字架にかけた者もまた彼らであった。
 このような絶望的な状況の中で行われたのが、「最後の晩餐」であった。イエスは自分の運命を悟っていた。自分を遣わした方のところに戻っていくにあたって、託すべき弟子たちはあまりに弱かった。強くなってほしかった。それゆえに行われたのが「最後の説教」であった。自分が去った後に、愛すべき民がサタンの誘惑に陥らないようにとイエスは神に祈った。神の恵みを授かるためには、わたしとわたしを遣わした方をあなた方は信じなければならない。枝は幹につながっていなければ実を結ぶことがないように、「あなた方も私を離れては実を結ぶことはできません」とイエスは説く。「あなた方がわたしを選んだのではありません、わたしがあなた方を選んだのです」「あなた方は、穢れた世間からわたしによってえらばれた選民なのです」「だから、わたしを愛しなさい、わたしの言葉を守りなさい。その時、わたしはあなた方の上に自分を現すのです」。
「父なる神は、わたしをこの地に遣わしたと同時に助け手として「聖霊」も遣わした」。「聖霊はあなた方とともに住み、あなた方のうちにおられます」「その方は真理の御霊です」。父(神)と子(わたし)と聖霊(助け手)。三位一体の神があなた方がわたしを信じるならば守ってくれると保証する。結論としてイエスは言う「このことを話したのは、これからどんなことが起こっても、あなた方がおたおたしないためです」と。
 聖 霊:キリスト教では3位一体(父と子と聖霊)の神の、第3の位格。一般的には聖霊とは神の活動する力を指す。父なる神は聖霊を送り出し、そのエネルギーによって、その言葉によって、その行動によって、いつでもどこでも、そのご意志を成し遂げられる。それは肉眼では見ることはできないが、その力の働いている結果を見ることができる。主は自分の霊によって次のことを行われた。
1、宇宙を想像した。
2、聖書を筆記させた。
3、古代の主のしもべたちに熱心な宣教を行わせた。
しかし「ヨハネの福音書」は、次のように述べている。
「わたしを愛するなら、わたしの戒めを守りなさい。父にもう一人の助け主を送っていただくよう、お願いしましょう。その助け主は。絶対あなた方を離れません。その方とは聖霊、すなわち、すべてへの真理へと導いてくださる御霊のことです。この御霊はあなた方とともに住み、あなた方のうちにおられるからです(14:15~21参照)」。聖霊は善なるお方、あなた方とともに住み、あなた方とともにおられるお方。聖霊は言う「あなた方に贈り物をあげましょう」「そう、あなた方の思いと心を安らかにしてあげる。それがわたしの贈り物ものです。わたしが与える平安は、この世が与える、はかない平安とは比べ物になりません」。
 トマス;トマスはキリストの12弟子のひとりである。復活したイエスが弟子たちの隠れ家に顕現したとき、トマスはその場所に存在しなかった。弟子たちがトマスにイエスが自分たちの前に顕現した話を聞いても彼は信じなかった。
「主のみ手に釘跡を見、この指をそこに差し入れ、この手を主の脇腹に差し入れてみなきゃ、信じるもんか」と言う。イエスが再びトマスの前に現れ傷口を見せた時、トマスは初めてイエスの復活を信じたのである。イエスは言う「私を見たから信じたのですかしかし見なくとも信じる者は幸せです」と。経験的真実=科学と見なくとも信じる=信仰の対立を見ることができる。

  >各章ごとの説明
 前半(1~12章)がイエスの公生活について語っているのに対し、後半(13~21章)は、最後の晩餐から、捕縛、裁判、十字架刑、復活、顕現、「羊を飼いなさい」と福音宣教への導きで終わっている。
 13~17章:最後の晩餐の席でイエスは弟子たちの足を洗い、自分を裏切るものの存在を明らかにし、互いに愛し合うように戒め、自分自身の死を預言して、仲間を連れずに一人でその場を立ち去る(13章)。14章から16章はいわゆる「告別の説教」と呼ばれており福音書の中で唯一独特のものである。イエスはこの地を去るにあたって弟子たちに霊的な秘密を明らかにする。17章では自分がこの地を去ったのちに主の恵みが弟子たちに充てられるよう祈る(独白)。イエスは弟子たちを愛してはいたが必ずしも信じてはいなかった。再三再四にわたって、わたしとわたしを遣わした方を愛せよと教え導く。わたしとわたしを遣わした方の同一性を強調する。それ故、わたしを愛したものはわたしを遣わしたものを愛するのだという。さらにわたしを遣わしたものは同時に慰め主(聖霊)もこの地に遣わす、と言う。わたしを遣わしたもの=神、わたし=御子、慰め主=聖霊。神と御子と聖霊=三位一体の神が現れる。これも他の福音書には見られない独特のものである。イエスは御自分を「まことのぶどうの木(幹)」であり、「あなた方(弟子)は枝である」と述べ、枝は幹なしに存在しえない、と語り、「わたしにとどまる」ことを命じる。「世」と「選ばれたもの」の関係を説き、聖霊の御業を語り、わたしが遣わされた方のもとに戻ることの意味を語る。そこには「死」と「復活」と「召天」が語られている。「あなた方は、世にあって患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」と勇気づける。
 18~19章:イエスは裏切られ、捕らえられ、裁判にかけられ、死を宣告される。ローマの総督ピラトはイエスの主張する王はあくまでも霊的王であって、政治的王ではないと知り、イエスの無罪を確信する。しかしエルサレムの反キリストの指導者たちは、納得せず、十字架刑を要求する。民衆の力を恐れたピラトは、イエスを反キリストの指導者に引き渡す。彼らはイエスに十字架刑を宣告する(18章)。十字架の上で、イエスは「私は乾く」と言われ、酸いぶどう酒を飲まれると「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。イエスの弟子アリマタヤのヨセフがイエスの遺体を引き取り埋葬する。その日は安息日の備え日であった(19章)。
 20~21章:イエスの顕現 復活されたイエス・キリストは墓の前にいたマグダラのマリヤに御姿を現され、その後、ユダヤの指導者を恐れ隠れ家に潜んでいた弟子たちの前に現れ「平安があなた方にあるように」と言う。イエスの復活を信じないトマスの前にも現れ自分の復活を証明される。さらにイエスはガリラヤの海で弟子のうち7人の前に現れ不漁を大漁にするという奇蹟を行い自分をイエスであると証明され、ペトロに対し「私の羊になれ」と福音宣教において弟子たちの前に立てとお命じになる。
>平成29年2月12日(火)報告者 守武 戢 楽庵会

ヨハネの福音書 1

2019年01月19日 | Weblog
  ヨハネの福音書 1 (1章~12章)
 はじめに
 新約聖書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書から始まる。ともにイエスの生涯を描いている。最初の3つの福音書は「共観福音書」として1つにまとめられている。それに対して「ヨハネの福音書」は独立の書である。なぜか、「共観福音書」は歴史的事実に重きを置いているのに対して、「ヨハネの福音書」は霊的な主題に焦点を当てているからである。それ故に、ヨハネは神の目を通してイスラエルの民を見つめている。ヨハネの福音書は非常に教義的であり、そのテーマのいくつかは神の御子イエスの神性、キリストの贖い、生まれ変わることの必要性、隣人愛、救い主を信じることの重要性を語っている。
本書の目的は、「わたしが天から下ってきたのは、自分の心を行うためではなく、わたしを遣わした方のみ心を行うためです(6:38,6:57,7:16,8:26,8:28,8:54)」。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません(3:3)」、「神は実に、そのひとり子お与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである(3:16~17)」。聖書全体を要約すれば、以上に引用された文章になるという意味で、この文章は「ミニバイブル」と呼ばれている。
 私が新約聖書を始めるにあたって、福音書の最初に位置する「マタイの福音書」から始めず「ヨハネの福音書」から始めるのはそのためである。
 「ヨハネの福音書」で、その神性を象徴する言葉は第1章1節から5節までの言葉に言い現わされている。その言葉とは「初めにとばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。そして聖書を読み進んでいくと、この「ことば」とはイエスであることがわかる。天地創造の前にイエスが存在していたことになる。「共観福音書」の「三位一体(神と御子と聖霊)」の神であるイエスとは異なっている。イエスは聖母マリヤの子ではない。イエスは神そのものである。全人類を愛されるがゆえに神はイエスという人の姿をまとって、天からこの地に下りてこられたのである。
 更に異なっていることは、「共観福音書」ではイエスはガラリヤ地方を宣教(公生活)したのちに、はじめてエルサレムを訪問している。それは死出の旅であった。イエスはエルサレムで十字架にかかり、処刑されている。しかし、「ヨハネの福音書」ではエルサレムへの訪問は数回にわたっている(2:13,5:1,7:10)。過ぎ越しの祭りの時は必ず訪問している。エルサレムで処刑されたことは「共観福音書」と同じである。
 >本書の構成
その全体を2つに分けることができる。
1、バプテスマのヨハネの洗礼に始まるイエスの公生活(1~12)
2、イエスの受苦の道のり(弟子たちに個人的に語った言葉:告別演説)とイエスの処刑と復活(13~21)。
ここに神の壮大なご計画を見ることができる(イエスの誕生・宣教・十字架・復活)

イエスの歩いた行程
 
 その旅は反イエス(パリサイ人と祭司)との戦いであった。特に安息日をめぐる争いは熾烈であった。イエスは言う「わたしの父は今に至るまで(安息日に)働いておられます。ですからわたしも働いているのです(5;17)」。さらにイエスが自分を神の御子と呼ぶに至って、彼らの怒りは頂点に達し、迫害を強め、イエスを殺そうとまでした。
本書の書かれた年代:西暦80~95年ごろ
>時代背景:西暦70年にエルサレムがローマに破壊された後に書かれたと言われている。

 本書の作者は
 伝統的には作者は12使徒のひとりのヨハネであるといわれている。しかし、本書には、作者は「イエスの愛された弟子(13:23,19:26,21:7,21:20)」と書かれてあっても「ヨハネ」であるとは特定されてはいない。しかし、その弟子とは、最後の晩餐の時、イエスの右側にいて「主よ、あなたを裏切るものは誰ですか」と問うた弟子(20:20~21参照)であり、復活後のイエスがガラリヤ湖に現れた際に漁をしていた7人の弟子(21:7)のうちの一人であると明かしている。それ故、この書の作者は、イエスの12弟子のひとりであることは確実であっても、それが「ヨハネ」であるとは決めることはできない。もちろんヨハネである可能性はある。それ故に私は伝統に従って、また表題に従って「主の愛した弟子」とはヨハネであると決めようと思う。

 イエスの行った8つの奇蹟
イエスは奇蹟をおこなっただけではなかった。イエスの教えは力強く神の知恵に満ちていた。奇蹟はイエスが神の子であるという存在証明である。奇蹟は、神の栄光を現わし、人々に対するあわれみと慈愛のあかしである。その8つを以下に示す。
1.水をぶどう酒に変える(2:1~12)
2.役人の子をいやす(4:46~54)
3.38年間闘病生活に苦しんでいた人をいやす(5:1~9)
4.5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人を満腹させる(6:1~15)
5.湖の上を歩く(6:16~21)
6.安息日に、生まれつきの盲人をいやす(9:1~7)
7.死んだ友人(ラザロ)を蘇生さす(11:1~44)
8.復活後ガラリヤ湖畔で弟子たちの前に現れ、不漁を大漁に替える(21:1~14)
 以上8つの奇跡のうち5つは他の福音書には記録されていない。独自のものである。

 主要な登場人物:イエス、バプテスマのヨハネ、マリヤ、マルタ、ラザロ、イエスの母,ローマの総督ピラト、マグダラのマリヤ、イエスの愛された弟子(ヨハネ)。

 主要な地名:ユダの田舎、サマリヤ、ガリラヤ、ベタニヤ、エルサレム。

 神とは何か
 TBSのラジオ番組「荒川強啓DAYキャッチ」のゲストコメンテーター社会学者宮台真司がアインシュタインの以下の言葉を紹介していた。興味深かったので紹介する。「神が世界(宇宙)を作った」といわれている。ということは、神は世界の外に存在することになる。しかし世界は永遠かつ無限で外は無い。この時、神の存在はどうなるか。「あってあり得ない」矛盾した存在となる。この番組ではこれ以上論を進めていなかったので、自分なりに考えてみた。その回答は2つある。
 1は唯物論的考えで、神が世界を作ったのではなく、世界(人)が神を作ったのである。神が世界の外に存在しえないなら、世界の中から生まれるざるを得ない。クリスチャンには到底認めることはできない結論である。
 2つ目は、世界そのものが神である。あってあり続ける存在である。内もなければ外もない。神は人の姿をまとって(キリスト)この地におられる。本書の冒頭の言葉「はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり」まさにこのことを指している、といっても過言ではなかろう。
1も2も試論であって、公には認められてはいないと思う。しかし、「聖書はこう言っている」と言下に否定しないでほしい。否定してしまったら、それ以上、論理は進まなくなる。
 
各章ごとの説明
 第1章:はじめにことばあり、ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネはイエスキリストの神性を語り、そのイエスが人の姿をまとって地上に下り、その使命(裁きと回復)をお果たしになることを預言する。ことばが人となる。キリストこそが本当の光である。その先ぶれとして現れたのが「バプテスマのヨハネ」であった。キリストは霊によってバプテスマを捧げ、すべての民に救いをもたらす使命をお果たしになる。イエスは最初の弟子たち(ペトロ、アンデレ、ナタエル、ピリポ)を伴って宣教の旅へと出発する。「私に付いてきなさい」。
第2章~4章:イエスは婚礼の席で水をぶどう酒に変える(2章)。サマリヤ人のニコデモに会い「霊的に変えられる」ことの重要性を説きエルサレムでは、宮清めをして、宮に巣食い、宮を商売に利用している商人を追放し、それとグルになっている祭司らと対立する。井戸の傍らにいたサマリヤ人の女性にご自身がメシアであることを明かしし、役人の息子の病をいやされ、ご自身の聖なる力と、権限を示される。次第にイエスを信じる者が増大する。
 5章~7章:イエスは、安息日にベテスタの池の傍らの回廊で歩けない人の足をいやして歩けるようにした。6章では5000人以上の人にわずかな食糧(2匹の魚とパン5個)で、その食欲を満たし、有り余る祝福を示した。
しかし、民衆はイエスの奇跡は信じてもイエスを信じなかった。それを知っておられるイエスは「なくなる食物のためではなく、永遠の命に至る食物を求めなさい」と神への信仰を促した。イエスはご自身がメシアであることを示し、自分を受け入れる者のみが永遠の命を受け取ることができると「仮庵の祭り」で断言された。イエスは自分の言葉ではなく自分を遣わしたお方・神の言葉で語ったのである。神の言葉は真実である。
 第8章~第10章:姦淫を行った女性の経験を通じて、イエスはあわれみと悔い改めについて語る。そして自分を主に代わるものと語り「わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしを一人残されることはありません。わたしがいつもその御心にかなうことを行うからです(8;29)」そして反キリスト(祭司長やパリサイ人)をサタンと呼び、主はそれとの対決を誓う。主はこれも安息日に生まれつきの盲人の目をお開きになる。反キリストはこれを認めようとはしなかった。イエスは言う「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは目の見えない者が見えるようになり、見えるものが盲目になるためです(9章)」。ご自身については「羊たちを愛し、羊たちのために命を捧げる良い羊飼いである」と語られる。羊をイスラエルの民と読み替え、羊飼いを主と読み替えよう。
 11章~12章:イエスは死んだ友人ラザロを蘇生させた。これを見た民はイエスを信じた。イエスは言う「私はよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでもよみがえるのです。また生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません」。徐々にイエスを信じる者は多くなる。この話を聞いた祭司長とパリサイ人は危機感を募らせ、イエスとラザロを殺そうと画策する。大祭司カバヤは民に向かって言う「一人の人が民の代わりに死んで国民全体が滅びないほうがあなた方にとって得策だということも考えに入れていない(11:50)」と。これは、カバヤの意思に反して、主がカバヤの言葉を借りてイエスの死と復活を預言したのである。
イエスは過ぎ越しの祭りの6日前ベタニヤに行かれた。その夕食時に、イエスの足に高価な香油を塗るマリヤがいた。それを非難するユダ、これを無視するイエス。イエスは、驢馬に乗ってエルサレムへ勝利の入場(最後の宣教)をする。歓待する民。イエスとギリシャ人との会話。イエスは言う「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば豊かな実を結びます。自分の命を愛する者はそれを失い、この世でその命を憎むものはそれを保って永遠の命に至るのです(12:24~25)」。この言葉はイエスの死と復活を現わしている。「まだしばらくの間、光はあなた方の間にあります。闇があなた方を襲うことがないように、あなた方は光がある間に歩きなさい。闇の中を歩くものは、自分がどこに行くのかわかりません。あなた方に光がある間に、光の子供となるために、光を信じなさい。イエスが多くのしるし(奇蹟)を行われたのにイスラエルの民はイエスを信じなかった。何故か、ヨハネはイザヤ書を引用し次のように言う「主が彼らの目を盲目にされ、心をかたくなにされた、それは彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである(12:40)」と。主は世を救うために来たのであって裁くためではない。終わりの日にその人を裁くのである。

平成31年1月8日(火) 報告者 守武 戢 楽庵会

マラキ書 旧約聖書最後の預言書

2018年11月13日 | Weblog
マラキ書 旧約聖書最後の預言書
 はじめに 
 周知の通り旧約聖書は12の小預言書で終わっている。終末時における民族的危機の警告と回心を説いている。マラキはその最後の預言者であり、マラキ書はその最後の預言書である。終末的色彩の濃い書である。それ故、その後400年間イエスが誕生するまで預言者は出ていない。マラキ書を以て預言者の時代は終わったのである。この400年をキリスト教史では「沈黙の400年(旧約聖書と新約聖書との間の断絶)」と呼んでいる。しかし、マラキ書は、その最後に「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向かわせ、子の心を、その父に向けさせる。それはわたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と述べている。このエリヤとは誰のことか。メシア再臨に先立って現れメシアの道を用意したヨハネのことか。いずれにしても、メシアの出現が預言されている。マラキ書は旧約聖書と新約聖書を結ぶ一書であり、この空白の400年こそ、メシア誕生を国家的世界的に準備する文明発展の期間といえるであろう。

 マラキ書とは

 作 者;預言者マラキ「わたしの使者(3:1)」という意味。
 内 容:マラキ書とは、12預言書の最後の一書であり、4章55節(原点区分では3章24節)からなる。主に対する不義、不遜、契約の履行と、律法の順守の勧告、突然に訪れる、主の「さばき」について語る。イスラエルの民は形としては礼拝を行ってはいたが心は神から離れていた。「見よ、わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向かわせ、子の心を、その父に向けさせる。それはわたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と。主はイスラエルの民が、エリヤの前でその罪を悔い改め、主への立ち返りを求めているのである。主は決して自分の民イスラエルを滅ぼさないのである。そこには、イスラエルに対する愛と永遠存続の契約があるからである。
 成立時期:マラキ書にはその成立時期に関しては具体的には語られてはいないが、その背景にある社会的状況から判断して、「エルサレム第2神殿建設(BC515)」から「エズラ・ネヘミヤの改革(BC450)」までの期間というのが一般的な定説である。

 社会的状況
 ではその社会的状況とはどんなものだったのだろうかそれはマラキ書の2章に具体的に述べられている。ユダヤの民族はバビロンから帰還して、ペルシャの統治下に入っていた。ペルシャの統治はイスラエルに対して寛大ではあったが、ペルシャは異邦人の国であり、異教の国であった。イスラエル人はその身分の上から下まで、その影響を受けていた。主の愛を感じることのできないその表れとして、祭司はその職分に不誠実であり、偶像礼拝をおこない、祭司自身が異邦人の女と結婚していたし、ましてや一般の民の間では異邦人との結婚は普通であり、離婚があり、姦淫があり、同性婚がありで主の教えに忠実ではなかった。これがマラキの生きた時代の社会状況であった。イスラエルはその内部からそのアイデンティーが侵されていた。イスラエルは霊的崩壊の危機にあった。主は悲しみ、怒り、エズラ、ネヘミヤを改革のために遣わしたのである。「この時、あなた方は、わたしがレビとのわたしの契約を保つために、この命令を送ったことを知ろう(2:4)」。

 マラキ書の内容構成
 表 題:宣告(1:1)
 第1部:主による選びと、契約を捨てた祭司に対する告発(1:2~2:9)。
 第2部:妻を裏切る離婚に対する断罪と偽善者に対する告発。(2:10~16)。
 第3部:主の使者の派遣と「さばき」における峻別についての預言(2:17~3:21)。
 結 び:終わりの日のエリヤの派遣。(4:3~6)。

 各章ごとの解説
 第1章:イスラエルの選び(1:3~5)、と祭司による欺瞞行為(1:6~14)。
 主はイスラエルの民に「わたしはあなた方を愛している」と言う。これは預言書の基本形である。それに対してイスラエルの民は「どのようにして」と、問う。彼らは主の愛を信じられなかったのである。これに対して主は応じる。主はエソウとその子孫であるエドム族に象徴される反ユダの諸勢力を滅ぼすと宣言し、イスラエルに対する愛と選びを示す。しかし、イスラエルの祭司はその選びと愛を信じることができなかった。「どのようにして」と、問う。彼らは偽りの預言と祈りの中にいた。それを真実とみなしていた。彼らは主に問う。
1.「あなたが私たちを愛されたのですか(1:2)」。
2.「私たちがあなたの名をさげすみましたか(1:6)」
3.「私たちがあなたを汚しましたか(1:7)」。
4.「私たちは煩わしたか(2:17)」。
5.「私たちはあなたのものを盗んだでしょうか(3:8)。
 ここには罪の意識はない。そこにあるのはただ形式的かつ欺瞞に満ちた祈りであり捧げものであった。主はその祈りや捧げものを喜ばず、これを拒否する。イスラエルの民は「心」が主から離れていることに気づいていなかったのである。主はイスラエルの民をこよなく愛したが、イスラエルの民はこれに対して偽りの祈りで応えたのである。
 2章:祭司への警告と断罪(2:1~9)、若い時からの妻に対する背信(2:10~16)、うそぶく偽善者たち(2:17)。   
 2章は主からの呼びかけ「祭司たちよ」から始まる。イスラエルの祭司たちの堕落に対する糾弾と祭司の本来の務めとは何かが語られ「もし本来の務めを果たさないなら『あなた方の中に呪いを送ろう』」と、主は警告する。主はレビとの契約をそこなった祭司(祭司はレビ族から選ばれる)たちに対して「しかしあなた方は道から外れ、多くのものを教えによってつまずかせ、レビとの契約をそこなった。わたしもまたあなた方をすべての民にさげすまれ軽んじられたものにする」
 次にマラキ書は、当時の祭司たちが侵した性の霊的退廃を厳しく糾弾する。 
1.異教の神の娘をめとり
2.契約の妻との離婚をするものを
主は憎む。しかし偽りの祭司はうそぶいていう。「『悪を行うものも、みな主の心に適っている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神は何処にいるのか』とあなた方は言っているのだ(2:17)」。ここには祭司たちの犯したレビとの契約違反と性の霊的退廃という2つの罪が語られている。
>第3章:派遣される使者の務め(3:1~4)、神をないがしろにする者と神を恐れる者(3:5~18)
1~2章ではイスラエルの民は決して神に従順ではなかった。「悪を行うものもみな主の心にかなっている。主は彼らを喜ばれる。さばきの神はどこにいるのだ(2:17)」とうそぶく。もはや彼らは自立で神に立ち返る意志も意欲もなかった。しかし、主はこんな不信仰な民をあきらめようとはしなかった。彼らを悔い改めさせようと使者を送る。彼らの役割は「これを清めるものとし座につきレビの子らを清め彼らを金のように銀のように純粋にする(3:3)」ことにあった。原石としての彼らは罪にまみれていた。しかし精錬されれば金となり銀となる。それ故に、主は、彼らを選びの民としたのである。精錬の過程がこの後に描かれる。社会的弱者を虐げる者たち、主に逆らう者たち、これら主を恐れないものに主は立ち向かう。そして主に立ち返れという。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう、と宣言する。しかし主に逆らい続けたイスラエルの民は「どのようにして私たちは帰ろうか」と主に問う。主はこれに応えて言う「わたしを試してみよ、あなたが盗んだわたしの富の10分の1をわたしに返還せよ。そうすれば悔い改めの証としてわたしはあなたに大いなる恵みを与えるであろう」と。このように主は悔い改めと主への立ち返りをイスラエルの民に命じたのである。
 しかし、イスラエルの民はこれを信じるものと信じないものに分かれた。主は言う「あなた方は再び正しい人と悪者、神に仕えるものと仕えないものとの違いを見るようになる(3:18)」と。
 4章では主の審判が下され、両者の運命が分かれる。
 4章:マラキ書の終末宣言(4:1~6)見よその日が来る(4:1~3)、預言者エリヤが遣わされる(4:4~6)。
 4章は「見よ、その日が来る」で始まる。その日とは、ある者にとっては主の裁きの日であり、ある者にとっては救いの日となる。さばきと回復、光と闇、があらわされる。この様子が4:1~3に描かれている。
 「見よ、わたしは主の大いなる日が来る前に預言者エリヤをあなた方に遣わす。彼は父の心を子に向けさせ、子の心を父に向けさせる。それはわたしが来て呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ(4:5~6)」と主は言う。下線部分の解釈:父と子、すなわち主とイスラエルの民の失われた関係を回復させることを意味する。この回復なしにはイスラエルの民は救われない。「それは、わたしが来て呪いでこの地を打ち滅ぼさないためだ」

 マラキ書を終わるにあたって
 「米国の民主主義は権力を委ねるべき人間の選択をしばしば誤る」。これは19世紀のフランスの思想家トクビルの言葉である。これを少々変えてみる。次のようになる「神はイスラエルの民を誤って選択した」と。イスラエルの民は主によって選択されたにも拘わらず主に逆らい続けた。しかし、トクビルはこうも言っている「米国人の長所は失敗を正せる力にあるのだ」と。米国人の民主主義の長所は、正しい選択をすることではなく失敗を正せる力にある、と言う。これも少々変えてみる。「主の大きな長所は失敗を正せる力にあるのだ」と。これは毎日新聞(11/8)の余禄から一部を引用して自分の文章にしたものである。預言書のテーマは「さばき」と「回復」である。しかし、回復は最終的には「黙示録」の世界である。それは「新天新地」であり「神の国」である。しかしこれはあくまでも未来完了の世界であり、現実には「幻」過ぎない。神を信じない者
には、この「幻」は単なる幻に過ぎない。主を信じる者のみが、神の栄光と恵みに浴することができる。
 12の小預言書を読み終わって、いや「旧約聖書」を読み終わって、回復とは何かを、つくづく考えらされたのである。一部の識者は、現在を「大患難時代」だという。未だに主の再臨は起こっていないという。「黙示録」の示す世界はいまだ「幻」であって、その時代が来るという確証はどこにもない。主を信じるのみである。
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平成18年11月13日 報告者 守武 戢 楽庵会
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ゼカリヤ書2主の さばきとメシアへの希望

2018年11月07日 | Weblog
ゼカリヤ書2 主の「さばき」とメシアに関する宣告
はじめに
これまで見て来たように、イスラエルの民は、主に対して決して従順では無かった。逆らい続けてきた。少なくとも旧約聖書の段階では主と主の民イスラエルとの間には和解は成立していない。しかし、主はこれを決して滅ぼさなかった。最終的には救いの恵みの授与を預言している。
 何故か、そこには主とイスラエルの民との間に、「永遠存続」の契約が存在しているからである。最初に主は、イスラエルの民の祖先であるアブラハムに「もし、わが前にあって全きものであるなら、汝に大地を与え、子々孫々の増大繁栄を保証しよう」と契約している。これは、先にも述べたように、「永遠存続の契約」と呼ばれている。これは神のご契約を考える上で、重要な要素となる。永遠存続=神の国を象徴する。
 主は「全きものなら」と条件を付けている。しかし、イスラエルの民は決して全き者では無かった。普通の契約では、一方が契約を破れば、他方はその契約を守る義務はない。これを双務契約と呼び条件付き契約と呼んでいる。しかし、主は、逆らいの民イスラエルに教訓的罰を与えても、決して滅ぼしたりはしなかった。否、逆に、その契約を実行なさるのである。ここには無条件的契約がある。これを片務条約と言う。たとえイスラエルの民が、主の前に全きもので無くとも、この契約は実行されるのである。これは、主のイスラエルの民に対する愛を現している。主の選びのもとは「愛」である。主はイスラエルの民を「ねたむほど愛していた」からである。その罪を懲らしめられれば神に立ち返るが、しばらくするとまた主に逆らう。その繰り返しが神の民である。まるでだだっ子である。騙されても、騙されても主はこれを救う。悪女の深情けである。何故か、そこには愛があると同時に「永遠存続の契約」が存在する。主のご計画の最終目的は神の国の実現である。この国の中心に存在するものこそ、主の選びの民イスラエルだからである。主は、これを滅ぼすことは出来ない。
 中川健一氏はその書の中で無条件的契約(片務契約)について次のように述べている。「神だけが責務を有するという契約である」「人間の側に契約の不履行があっても、この契約は破棄されることは無い。神の恵みによって、祝福が保障されているからである」「時の経過によって、変更されたり、廃棄されたりするものではない、イスラエルの不信仰や、罪のゆえに廃棄されるものではない、ということである」(月刊「ハーベスト・タイム」389号より)。これを一歩進めれば不信心者が救われるのだから、当然信仰者も救われるのである。片務的契約とは、神の民イスラエルが敬虔な信仰者であろうと、なかろうと、主はこれを救われることを意味している。要するに彼らは選びの初めから救われているのである。しかし、イスラエルの民はこれを知らない。だから預言者はイスラエルの民に「悔い改めよ」「神に立ち返れ」と叫び続ける。

 ゼカリヤ書2(9~14章)の内容構成
 9章~10章=メシアの到来とその祝福
 11章=メシアの拒絶とその結果
 12~14章=メシアの受け入れとその結果
 これをより詳しく分けると以下のようになる。主はイスラエルの民に2度宣告(託宣)をする。9章と12章である。
 第Ⅰの宣告(9:1~11:17)
1.宣告の表題(9:1前半)
2.周辺諸国への「さばき」と、イスラエルの平和についての宣告(9:1後半~17)
3.真実の牧者と偽りの牧者についての宣告(10:1~11:17)
 第2の宣告(12:1~14:21)
1.宣告の表題(12:1前半)
2.主の守りとエルサレムの浄化についての宣告(12:1後半~13:1)
3.民の浄化と主の日の到来についての宣告(13:2~14:21)
 宣告(託宣)の意味:神が人に乗り移り、また夢などに現れてその意志を告げ知らせること。人が神に祈って受けた御告げ。預言とほぼ同じように使われるが、特に声を大にして叫ばざるを得なかったメッセージを意味している。この言葉が使われている所、必ず主の「さばき」が語られている。

  各章ごとの解説
 9章:周辺諸国への「さばき」と、イスラエルの平和についての宣告(9:1後半~17)。1~8節において、イスラエルを取り巻く諸国・諸国民(ハマテ、ツロ、シドン、アシュケロン、アシュドテ、ペリシテ人、エクロン)に対する主の「さばき」が語られる。
9~17節においては全イスラエル回復のためにメシアの到来が預言されている。(シオンの義に適った謙遜な王はロバに乗ってエルサレムにやってくる)。イスラエルの民は救われ反ユダの勢力は滅ぼされる。「それはなんと幸せなことよ、それはなんと麗しいことよ。穀物は若い男たちを栄えさせ、ぶどう酒は若い女たちを栄えさせる」

 10章:終末において神の民に与えられる祝福
 10章は次の言葉から始まる。「後の雨の時に、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる(10:1)」。この文章にはこの章の全てが要約されている。後の雨=3月から4月にかけて降る雨。収穫の前に降る恵みの雨、雨=恵み、大雨=聖霊の傾注の象徴、野の草=豊かな実り。
 大艱難時代、イスラエルの社会には2種類の牧者がいた。真実の牧者と、偽りの牧者である。偽りの牧者は、虚しい夢や、慰めを民に与え民の関心を引き民の心を惑わしていた。そこには偶像礼拝があった。主は怒り、これを滅ぼす。これらの背信の民の中にあって僅かではあるが、主と共にいる「残りの者」がいた。主は彼らに期待する。
 散らされた神の民は、エジプトから、アッシリアから帰還する。
 彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。
 11章:偽りの牧者、愚かな牧者。  1~3節には、神殿とエルサレムの崩壊が語られている。この3節はこの章の全てを語っている。
 何故、イスラエルは主によって罰せられねばならなかったのか。それはメシアの来臨(初臨)が愚かな牧者(イスラエルの民)によって拒否されたからである。
 主はこの愚かな民を「ほふられた羊の群れ」と呼んでいる。反ユダの勢力に売り渡しその迫害に任したからである。それ故、主はこれを救うことを拒否する。「あなたがわたしを見捨てたから、わたしもあなたを見捨てる」のである。
 2つの杖(慈愛と結合)を折るという象徴的表現によってメシアの来臨が拒否されたことを現している。主は怒り、能なしの偽預言者を遣わす。彼は羊の群れを救わない。却ってこれを見捨てる。しかし、最終的には主はこの反ユダを滅ぼす。主は背信の民を罰しても、絶対にこれを滅ぼさない。神の民だからである。
  解 説
 2本の杖:慈愛=恵みの契約
     結合=ユダとイスラエル(北)の間の兄弟関係
これを折る=メシアの拒否を現す。
 12章:民族的回心をもたらす「恵みと哀願の霊」 12章から14章にかけてはイスラエルの民がどのようにしてメシアを受容するようになったかが描かれている。「その日」と言う言葉にこの3章は彩られている。終末論と言って良い。
 ゼカリヤによって与えられたメッセージは、単に神殿建設に留まることなく、神の栄光のご計画のマスター・プランを示す預言が多く含まれている。この章では、終わりの日に起こる多くの出来事が「その日」と言う言葉によって語られている。
 3節:エルサレムは反ユダの勢力にとっては「重たい石」になる。
 4節:全ての馬(反ユダ)を打って盲目にする。
 6節:反ユダの勢力は破壊されるが、エルサレムは安泰である。
 8節:主はイスラエルの民を守られ、彼らは立ちあがって勝利する。
 9節:主はイスラエルに攻め入る国々を捜して滅ぼそう。
 11節:エルサレムでは一人一人が悔い改め、民族的な悔い改めが起る。
 以上、エルサレムの民の力は。万軍の主の中にある。エルサレムの民の上に聖霊が注がれ、悔い改めと神への立ち返りによって、民族的回復が起ることが預言されている。
 13章:13章においても12章で語られたように「その日」の出来事が語られる。
 その日

1.ダビデの家とエルサレムの住民のために罪と穢れを清める「1つの泉」が開かれる(13:1)。一つの泉とは聖霊を現す。それが開かれるとは、大艱難時代の終わりメシア再臨の直前に開かれる聖霊の泉を指す。残された神の民は、この泉の聖水を飲むことによって自分たちの罪を悔い改め、主に立ち返り、民族的回心へと導かれる。
2.主は偶像の名を、この国から断ち滅ぼす。その名はもう覚えられない。主はまた偽預言者たちと、その穢れた霊をこの地から取り除く(13:1~2)。偶像礼拝と、偽預言者はイスラエルの長い歴史の中で、神の民を神から引き離してきた最大の要因であった。イスラエルの民が主に立ち返るためには、これらから解放されることが必要であった。
3.残された民の純化(13:7~9)。ここには、メシア(イエス)の十字架(磔刑)と回復が描かれている。イエスの死は神の御業の一つであって、主には、人類の贖いの業を成し遂げるご計画があったのである。イエスはその終わりに際し「すべては完了した」と述べている。7節にはメシア初臨に起こることが、8節にはメシア再臨に起こることが語られている。
 「彼らは、わたしの名を呼び、わたしは彼らに応える」。わたしは「これはわたしの民」と言い、かれらは「主は私の神」と言う(13:9後半)。
 14章:第2の宣告 ゼカリヤ書は先に見たように2つの部分に分かれている。第Ⅰ部(Ⅰ~8章)では神殿再建への関心が、第2部(9~14章)ではメシア再臨への関心が語られている。特に12~14章(第2の宣告部分)ではイスラエルの民がどのようにしてメシアを受容するようになったかが問われている。神殿再建への関心とメシア再臨への関心は、個々ばらばらの物では無く、堅く繋がっている。神殿再建によって、主への信仰に目覚めた民に主が与えたものはメシアの再臨であった。神殿再建にイスラエルの民を向かわしたものが主の霊的な力であったとするなら、イスラエルの民にメシアの受け入れに向かわしたものも、また主の霊的な力であった。それは、イスラエルの民を神の民として選んだのは、主の霊的な力であって、イスラエルの民が主を選んだのではない事に呼応している。主はイスラエルと共にある。
 メシアの初臨を拒否したイスラエルの民は、「さばき」を受け、各地に散らされた。しかし、その罪を悔い改め、神に立ち返った全体の3分の1の「残りの者」は救われる。主は彼らと共に反ユダの勢力と戦い、これを滅ぼす。それは最後の戦い(ハルマゲドンの戦い)であった。
 「その日には光も、寒さも、霜もなくなる。これはただ一つの日であって、これは主に知られている。昼も夜もない。夕暮れ時に、光がある。その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも、冬にも、それは流れる。主は全ての王となられる。その日には、主ははただひとり、御名もただ一つとなる(14:6~9)」。
素晴らしい世の中が生まれる。命の水は全国つつうらうらまで流れる。主は全ての地の王となられ、あまねく地を支配され、もはや主に逆らうものは誰もいない。新天新地が現れる。
一応、これで「ゼカリヤ書」は終わる。次の「マラキ書」で12預言書の全てが終わる。それだけでなく「旧約聖書」も終わる。

 次回は『マラキ書』である。  「マラキ書」の概略を述べて「ゼカリヤ書」を終わりとしたい。
 マラキという語は「わが使者」という意味で、この預言書を書いた人がどのような者であったかは、何も知られていない。本書の背景は紀元前450年頃である。預言者マラキは神の愛に応えていない古代イスラエルの民を、4つの点から責めている。
1.祭司が、その聖なる職分に不忠実であること(1:1~2:9)
2.離婚と雑婚について(2:10~16)
3.道徳的懐疑について(2:17~3:6)
4.神殿に対する民衆の無関心について(3:7~4:6)
旧約聖書の最後の書は、救いの準備をする者の到来の預言の言葉で結ばれている(4:5)。この預言の成就として、新約聖書のバプテスマのヨハネが誕生する。
                     遠藤周作監修、佐藤陽二編集「キリスト教ハンドブック」発行所 三省堂より
 
平成30年10月9日(火)報告者 守武 戢 楽庵会


ゼカリヤ書1 この愛すべき都

2018年10月09日 | Weblog
  ゼカリヤ書 1 エルサレム:この愛すべき都
 
はじめに
 ゼカリヤ書は12の小預言書のうち11番目に位置し、ホセヤ書につぐ2番目に長い書である(14章211節)。第1ゼカリヤ(1~8章)と第2ゼカリヤ(9~14章)の2部に分かれる。今回はⅠ部に限ってレポートする。
 作者:イドの子、ベレクヤの子、預言者ゼカリヤ(1:1)。ハガイと共に神殿再建に関わり、ハガイの没後も、彼の後を受けて預言活動を行い神殿再建に寄与した人物。
 執筆の年代:BC520~BC470年と言われている。活動の開始はダリヨス1世の治世、第2年目の第8の月(10月から11月にかけて)(!:1)である。これはハガイが預言活動を終える直前である。
 主題:ゼカリヤの幻と託宣の主題は、基本的にハガイによる預言活動を受け継ぐもので、その中心は神殿再建にある。幻の本質は復興の幻だからである。
 背信の民イスラエルを前にして主は言う「わたしに帰れ ――万軍の主のみつげ―― そうすれば、わたしもあなた方に帰る(1:3参照)」。今や大いなる救いの日は近づいている。メシア再臨を前にして神の民イスラエルは、主の前に整えられ、悔い改め、主に立ち返る必要があった。
 イスラエルは、本来、全世界に主の栄光を輝かすために主によって選ばれ、世界の中心におかれた神の民である。神殿の再建はイスラエル民族の霊的回復を現している。神殿再建以前の背信の民を神殿再建に導いたものは人間的な力によるのではなく、「権力によらず、能力によらず、わたし(主)の霊によって(4:6参照)」なされたのである(ハガイ書1:12~15参照)」、と主は言う。
 ゼカリヤに啓示された8つの幻の本質は、神殿(礎)再建を通じて神の民イスラエルに示された霊的回復である。神殿再建以前は背信の民に対する「さばき」が再建以後は回復が語られている。神殿再建を主は背信の民イスラエルの悔い改めと主への立ち帰りの証と見做したのである。
 神殿再建の結果見えてくるものとは何か。―――神との契約の成就である。「わたしに対して全きものであるなら汝に大地を与え子々孫々(永遠)の増大繁栄を保障しよう(創世記17章参照)」と主はイスラエルに保障した。神のご計画の成就を預言することが「ゼカリヤ書」の最終的な目的である。このように「ゼカリヤ書は」は、終末論的視点から解釈される必要がある。

 ゼカリヤ書の内容構成
第Ⅰゼカリヤ(1:1~8:23)
序(1~6)
第Ⅰ部、ゼカリヤが見た8つの幻の告知(1:7~6:8)
第2部、大祭司ヨシヤへの戴冠を命じる主の言葉(6:9~15)
第3部、「さばき」の成就とシオンの回復についての預言(7:1~8:23)

 ゼカリヤ書の内容
 第Ⅰゼカリヤ (1~8章)
 主による背信の民に対する怒りと悔い改めを促す呼びかけ。その後に8つの幻と、「若枝」(6:12)に関する預言が続く。ゼカリヤは幻を見て常に問う「主よ、これは何ですか」主は逆に問う「これが何だか知らないのか」ゼカリヤは応える「主よ、知りません」この時、主は幻の本質は「復興の幻」であると証する。この後、「真の断食」とは何かが続く(7章~8章)。
幻に関する記述 8つの幻
 第Ⅰの幻:ミルトスの茂みの中に立つ神の馬たちが語られる。その馬(幻)は諸国を巡回する馬である。その後に、この幻は、エルサレムに憐れみを示し、神殿が再建されるという託宣をもって終わる(1:18~17)。諸国に対する主の怒り1。
 第2の幻:ユダを追い散らした4本の角(バビロン、メディア・ペルシャ、ギリシャ、ローマ)が4人の職人によって投げうたれる(バビロンを滅ぼした「クロス」、ペルシャを滅ぼした「アレクサンドロス」、そしてギリシャのセレウコス王朝のアンティオコスを打ち滅ぼした「ローマの将軍」、そして最後は終末において反メシヤ(ローマ)を滅ぼすキリスト・イエスの4人)(1:18~21)。先が後を滅ぼし、最終的には反ユダはメシアに滅ぼされ、新しいエルサレムが生まれる。諸国に対する主の怒り2.
 第3の幻:測り縄を持った若者がエルサレムを測る用意をするが、一人の御使いはエルサレムが更に拡大することや、主なる神によって守護されると預言する(わたしは火の城壁となる)。(2:1~13)。主の守り。
 第4の幻:大祭司ヨシュアの穢れた衣服が取り去られ、礼服に取り変えられる(3:1~10)「見よ、わたしは、あなたの不義を取り除いた。あなたに礼服を着せよう」(3:4)。彼が神殿を守る者として聖別される。1つの若枝の出現。主の義認。
 第5の幻:ゼカリヤは、2本のオリーブの木から油の供給を受ける7つの灯皿(ともしびさら)のある金の燭台を見る。ゼルバベルは神の霊の力を借りて神殿の再建を完成させるであろう。2人の油注がれた者(4:1~14)。主による建て上げ。
 第6の幻:飛んでいく巻き物(神のトーラ)は盗みをするものや偽預言者。にとっては呪いだ。彼らはこれに照らし合わされて裁かれる(5:1~4)。主の「さばき」1。
 第7の幻:「罪悪」という名の女(偶像)がエパ升の中に閉じ込められシヌアル(バビロンの地)に運ばれる。これは異教の神がイスラエルの地から運び去られることを意味している(5:5~11)。主の「さばき」2
 第8の幻:二つの青銅の山の間から4台の戦車が出てきて主の前に立った後、全地を動き回る。「若枝」という名の人が出てきて、主の神殿を建て直す。彼は尊厳を帯び、その王座について支配する。ヨシュアの冠(6:1~15)。主の来臨。
幻の中で触れられている象徴は何を意味しているのか。多様な解釈が可能である。メシア預言であるとも言えるが、幻全体の使信は、エルサレムの神殿再建がエルサレムの選びと再建と回復にあると言えるであろう。
 
 真の断食とは
 1章から6章までが幻繋がりであるなら、7章と8章も繋がった章と考えることが出来る。7章は神殿(礎)再建以前が描かれ、8章は以後が描かれている。
 7章は神殿再建以前に行われた、形骸化した断食に対する主の怒りから始まる。この背信の民に対し主は、さばきを下す。民は散らされ、エルサレムは荒野となる。これに対して、8章は再建以後である。再建はイスラエルの民の悔い改めと主への立ち返りの証である。主は喜び、大いなる恵みをイスラエルの民に与える。断食の日は「贖罪の日」となり、この嘆きの日は逆転して「ユダの家にとっては楽しみとなり、喜びとなり、嬉しい例祭となる(8:19参照)」。
 7章では真の断食とは何かが問われている。先の章で、幻を見たゼカリヤが「これは何ですか」と問い、神がこれに応じたように「断食」に関する質問から始まり主の厳しい応答で終わる。神殿再建以後に行われた断食こそ真の断食となる。
 断食とは、単に食を断つ行為を指すのではなく、肉の欲望を断ち、自らを無にして主に近づくことを意味している。十戒の後半部分は「人を愛すること」の戒めである。7章はこの戒めに生きる象徴的行為として断食を挙げている。「万軍の主はこう仰せられる『正しい裁きを行い、互いに誠実を尽し、あわれみ合え、やもめ、みなしご、在留異邦人、貧しい者を虐げるな、互いに心の中に悪をたくらむな(7:9~10)。』」と。これこそ主が求め喜ばれる断食である。
 この愛の結果が8章で語られる。主は言う「あなたがたの先祖が、わたしを怒らせた時、わたしはあなた方に災いを下そうと考えた―そしてわたしは思い直さなかった、しかし、このころ(神殿建設以降)わたしはエルサレムとユダの家に幸いを下そうと考えている(8:14~15)」と。7章の終りに主はエルサレムを「この慕しい国(7:14)」と言っているように「わたしはシオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ(8:2)」と言う。主は自分以外の神を愛する背信の民をねたみ憎むほどに愛しているのである。だから、この背信の民が神殿を再建した時、それを信仰回復の証しと考え喜び歓迎し「彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義をもって彼らの神となる(8:8)」と宣言したのである。このように、8章では神殿再建によって新しい時代を迎えようとしている神の民イスラエルのために将来における励ましとして、主がなそうとしておられる回復のご計画のビジョンを預言したのである。
 この結果、エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山シオンは聖なる山と呼ばれるようになる。エルサレムの広場には老いも若きも、男も女も、大人も幼な児も、共に集い、共に楽しむようになる。「平安の種がまかれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を降らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これら全てを継がせよう(8:12)」。主と人との契約「わたしの前で全き者であるなら、汝に大地を与え、子々孫々の増大繁栄を保証しよう(永遠の保障)」が実現するのである。さらに「再び国々の民と多くの町々の住民が(エルサレムに)やってくる。多くの国の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め主の恵みを請うために来よう。神があなた方と共におられると聞いたからだ(8:22~23参照)」。イスラエルから全世界へ。この時、主のご計画は完成に向かって突き進む。

 イスラエルにおける儀式としての断食の日
 断食の儀式とは、過去の悲しい出来事(バビロンによるエルサレムの滅亡)を自分たちの罪ゆえと嘆き、悲しみ、生贄を捧げ、悔い改めて、身を戒める「贖罪の日」に行われる儀式を指す。
 その儀式を挙げると(8:14参照)。
 第10の月(テベット)の10日
 BC588年エルサレムがバビロンによって包囲された日(エレミヤ39:1、52:4)
 第4の月(タンムズ)の9日
BC586年エルサレムの城壁がバビロンによって破壊された日(エレミヤ39:2)
 第5の月(アブ)の10日
BC586年神殿がバビロンによって焼失した日(エレミヤ52:12~14)
 第7の月(ティシュリ)の9日
BC586年総督ゲダルヤが暗殺された日(エレミヤ41:1~3)
平成30年9月11日(火)報告者 守武 戢 楽庵会