春休みのデッサン室

春休みのだれもいないデッサン室。
ぼんやりしながら北九州のあれこれ、デッサンしてみましょう…

城井神社/大分県中津市

2017年04月16日 | 北九州ブランド



ちょっと足を延ばしました。
大分の中津、隣の県ですが小倉南区からは
さほど遠くはありあません。



行った先は「城井神社」です。
かねてより行きたかったところです。

この神社には「宇都宮鎮房(しげふさ)が祀られています。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」に登場する悲劇の武将です。
豊前国城井谷の領主で、演じたのは村田雄浩さん。

テレビでは黒田長政の謀略により命を落とすわけですが
詳しくはこの案内板にあります。



内容は

城井神社 御祭神 宇都宮鎮房(しげふさ)

城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る十六代およそ
四百年の間豊前国守として徳政を布いた。
天正十五年(1587年)五月豊臣秀吉は九州平定にあたり
豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には
四国今治(十二万石)移封の御証判を与えたという。
鎮房は累代の墳墓の地に安堵を願い、このご朱印状を
返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の
地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)
では長政を敗退させた。
そこで秀吉は孝高と謀り所領安堵を条件として長政と
鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。
天正十六年(1588年)四月二十日鎮房は中津城に
招かれ酒宴の席で謀殺された。
宝永二年(一七〇五年)小笠原長円は小社を建て
城井大権現として崇め、その後幾度かの変遷の後
城井神社として改められた。   中津市

この城井神社の横に小さな社がありました。
とても神社とは思えませんでしたので
写真には撮りませんでしたが
これが扇城神社でした。



この内容は

扇城神社

宇都宮鎮房公従臣四十五柱
天正十六年(1588年)宇都宮鎮房公従臣は、
庶子空誉上人(鎮房公と静の方の間に生まれた)の
合元寺に止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い
中津城内の館で謀殺された。
異変を知った家臣群は次々に城中に駆け入り、
龍が荒れるように戦った。小姓松田小吉は十九人に
手傷を負わせ京町筋で討死、野田新助・吉岡八大夫は
手傷を負い広津広運寺まで切り抜け追腹、
その他二士は合元寺門前に遁れ戦い遂に庫裏にて討死、
その他はことごとく討死した。
家老渡辺右京進は七・八人を薙ぎ伏せたという。
松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助・吉岡八大夫は
広運寺にそれぞれ埋葬され、その他の従臣の遺体は寄せられ
場内乾の上段、この地に埋葬された。宝永二年(1705年)
小笠原長円(ながのぶ)公は広運寺追腹の二士を
小吉稲荷大明神とともに祀った。
その後変遷。城井神社再興後、大正九年(1920年)四月二十日、
鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀ったのである。

中津市
中津の郷土史を語る会

これを読むと壮烈な戦いの後、滅ぼされた事がわかります。
知人に城井氏の末裔の方や家臣だった方の末裔もいます。
さぞかし悔しい思いをされていることだろうと推察されます。



城井神社の横にこんな社がありました。



中を覗けば、こんな魚の木彫がありました。
なにかの祭事で使われたのでしょうか。



城井神社は中津城の城内というか、横というか
その敷地を共有しています。





堀にはコブハクチョウとマガモ(合鴨?)が3羽、
仲良く泳いでいました。

北九州やお近くにお住まいの方は
ぜひ一度、この城井神社にお参りください。
非業の死を遂げた宇都宮鎮房とその家臣、
城井一族に憐憫の想いを寄せて、偲んであげてください。




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