望月けんいち 活動日記 

国立で生まれ育った普通の男が、お金も地盤も看板もなく、国立市の市議会議員になる。
国立を愛してやまない男の日記です。

国立発いわきボランティアバスツアー

2011年08月16日 | 日記
こんばんわ、望月けんいちです。

そろそろ、9月議会も近づき少しづつ一般質問の準備も始めました。今日は、一般質問の通告書(自分の質問事項を並べた書類)のゲラを作り、市役所の担当部局の方と打ち合わせをしてきました。

まだまだ詰めが足りない部分がたくさんあるので、これから勉強開始です。気分的には、夏休みの宿題を終えていない小学生のようなものでしょうか。他にもやることがたくさんあるので少し焦ってます。

昨日は終戦記念日。政治的立場がどうあれ、みんな、戦没者の方々のご冥福をお祈りし平和が続くように祈ることに変わりはありません。私は、静かに平和が続くよう祈り、そして活動していきたいと思います。

空襲を受けた後の東京の映像を見ましたが、ある種の既視感を覚えました。

いわき市のボランティアに行った際に見た被災地の被害が大きかった場所に若干似ているのではと。

我々は、『戦後』ならぬ『震後』の時代を生きている、と誰かがおっしゃっていた記憶がありますがそれはあながち外れていないのかもしれません。

さて、先週の木曜、日帰りでいわき市にボランティアに行ってきました。この前行った南相馬市は交通手段などすべて調べていったのですが、今回のいわき市へのボランティアは、NPO団体がすべて仕切ってくれるボランティアバスツアーなのでとても楽でした。

参加費が4500円で昼食及びドリンク、温泉付きです。これは、東京発いわき市行きの高速バス料金往復の値段(片道3350円×2)よりも安いです。しかも、普段は旅行会社の添乗員やバス運転手をしている方が、休みを使ってNPOを運営しているのでなにかといきとどいていました。


しかも、なによりうれしかったのが、バスの車庫が国立市にあり、その日たまたま、多摩地区から参加する人が僕だけだったので、国立集合になったこと(前回も多摩地区で参加者が国立の方だったので、国立集合になったとのことです。)

さて、5時40分に国立を出ていわき市に着いたのが10時半過ぎ。

それから、ボランティアセンターで受け付けを済ませ、津波の被害にあった高校で、スコップを使って砂かきをさせていただきました。その高校は、一階部分は津波で使えない状態になっていました。写真でお見せできないのが残念ですが、かなりひどいものでした。

そんななかでも希望を感じたのが、津波でぼろぼろになった武道場で高校生たちが、太鼓などの楽器を使ってお祭りのお囃子?の練習をしていたこと。

私は、作業開始前に、ぼんやり腰掛けて聴いていたのですが、その音色は、とても地方色豊かで、一瞬そこが被災地であることを忘れてしまうほどでした。

そして、彼らが時折浮かべる澄んだ笑顔。人は状況がどうあれ笑えるのだ。

そして我々ですが、砂かきの作業は炎天下厳しいものがありましたが、他のボランティアの参加者の方とも打ち解けることができ、こちらも高校の部活のように楽しいボランティアでした。

今回のボランティアツアー、僕のようなボランティア初心者にはとても入りやすいものでした。主催者自身も、このボランティアツアーは『ゆるさ』がいいところであるみたいなことをおっしゃってました。

自分も国立市でボランティアバスツアーを企画してはどうかと6月議会で質問させていただきましたがみごとに却下されました。残念なことですが、今回改めて思ったのが、結局本人のやる気だなと。

このボランティアバスツアーの主催者の方は、震災後思い立ってゼロからNPOを立ち上げたそうです。本業も忙しいのに大したものだと思いました。今回のバスツアーでも、参加者が20名近くいて剰余金は1000円位しか出ていないそうです。まあ、普通に考えて4500円で昼食ドリンク付きそして温泉も付いてペイできるはずがありません。

このバスツアー、震災ボランティアの入り口としては、とても良いツアーだと思います。8月22日(月)と9月11日(日)にもあるようですから、お時間ある方は参加してはいかがでしょうか。

普段は立川集合のようですが、多摩地区で参加者が国立の方のみだったら、国立集合にしてくれそうな気もします。


念のため、連絡先を記しておきます。

NPO ゲットライブリー

代表 浅野

TEL:070-6486-6769
E-Mail:get-lively@willcom.com

http://www.tvac.or.jp/tuna/22199.html


写真は、ボランティア先の高校にて被災の犠牲者の方々に対して黙祷をさせていただいた時の一枚。ボランティア終了後、被害の大きなところに行きました。どこの家も土台から上がなくなっており、遠くから海が見通せる哀しい光景でした。土台だけになった家のたもとにご遺族が植えられたであろう赤い花が何輪かぽつんと咲いていました。あの花は、一生忘れないと思います。