MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2087 ソーシャルディスタンスの功罪

2022年02月12日 | 社会・経済


 現代アートを切り口に、リベラルアーツの観点から社会の仕組みや人間関係を考察し、世界のクリエイターや起業家の注目を集めている研究者が東京工業大学教授の伊藤亜紗(いとう・あさ)氏です。自ら『美学者』を名乗り、「目の見えない人は世界をどう見ているのか」「きみの体は何者か─なぜ思い通りにならないのか?」などの著書がベストセラーにランクイン。2019年にはMITの客員研究員に、2020年には、東京工業大学が開設した「未来の人類研究センター」の初代センター長に就任しています。

 氏は昨年12月27日のNewsweek日本版のインタビュー(「利他学を立ち上げ、いまの社会や科学技術のあり方を考え直す」)に応え、「東京工業大学でも研究の中心となっている科学技術は、本来人間が幸福に生きるためのものであったはずが、技術が高度になり細分化していくにつれ目的が見えにくくなっている」と話しています。科学技術やそれに基づく頭でっかちな(近現代の)ものの考え方が社会を個人の単位に分断した。会話や身体的コミュニケーションの中で育まれるべき感性の発達を妨げ、人々を幸せから遠ざけているというのが氏の認識です。

 氏は、2020年に著した「手の倫理」(講談社)の中で、人間関係の中で、「さわる」ことや「ふれる」ことの大切さに言及しています。ケアやスポーツ、教育、性愛などさまざまな局面で、「触覚」は独特の、そして大切なコミュニケーションを成り立たせるというのがこの著書で氏の指摘するところです。

 一方、2015年の「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(光文社)では、視覚障害者がどうやって必要な情報を得て外の世界とつながっているのかに着目。目の見える人と見えない人の情報の受け止め方や、身体の使い方の違いを考察しています。そして、(例えば)目の見えない人は歩く時、足を「サーチライト」のような感覚器として使っていることなどを明らかにしているところです。

 人と人との様々な関わりの場面で、身体感覚に基づくコミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超え相互的に豊かに深まる。そう考える伊藤氏が、1月30日の日本経済新聞掲載の特集「コロナ禍の思想(6)」に、「ノイズが生む他者との信頼」と題する興味深い論考を寄せていたので、参考までに小欄でもその内容を紹介しておきたいと思います。

 人類は今、「ともに集まる」共生の場を失っている。新型コロナウイルスがもたらした「他人の体は命を脅かすリスクだ」という認識は、新しい生活様式を生み出したと伊藤氏はこの論考の冒頭に記しています。

 外出自粛を前提に、マスクの着用やパーテーションの設置など社会的距離の確保が活動の条件になった。社会的動物としてのヒトの根幹に関わる営為が、大幅に制限されたと考えてよいと氏はしています。社会学者のノルベルト・エリアスは、「不快や不安を感じる範囲」の推移が文明化の過程だと説いている。それまでの人間関係が持っていた密接な接触を「不快」に思うことが近代化の一例だとしたら、コロナ禍で生まれた新しい生活様式は、文明化の一端であるとも考えられるということです。

 それでは、私たちは本来、他者とどのように関わり生きてきたのか。人間の体は元来小うるさいもので、急な咳や腹痛、臭い、何気ない手足の動きなど、体が無意識にノイズを発していると氏は言います。しかし、相手の感情を理解し、距離を縮めるにはこうしたノイズ(による情報)は欠かせない。生身で会い、自分自身にはコントロールできない部分を互いに受け止め合うことで、人々は信頼を育んできたというのが氏の認識です。

 信頼を生むために「接触」に求められるのは、相手を思いやった「ふれる」態度だった。「こうした接触は嫌ではないだろうか」と、反応を見ながら触れ方を変えていく。最初の計画を微調整する過程で、倫理や共生の場が生まれる。新しい思考や感情が触発されることもあり得る。人が共生する価値はこうした部分にあるというのがこの論考において氏の指摘するところです。

 しかし、コロナ禍により人々は接触の機会(そして文化をも)を失いつつある。危惧しているのは、私たちの人間関係が単なる情報伝達になりかねないことだと伊藤氏はこの論考に綴っています。

 例えば、オンラインを用いたコミュニケーションでは、リアルで会うより身体が発する情報が伝わりづらい。自分でコントロールした言葉や情報は伝わるが、こうした接触では貧困な人間関係しか生まれないこともあり得ると氏は言います。一方通行の情報伝達に終始する関係性では、「○○せよ」と普遍的な命令を下す道徳ばかりが重視される。双方向の関係で大切にされた個々の事情や共生の場はなくなり、そこで偶然生まれたノウハウや風土までもが失われかねないということです。

 確かに、新型コロナの感染拡大が世界的な社会問題となったこの2年間、「ソーシャルディスタンスの確保」の声とともに(間近でしか見られない)人の表情や握手の際の手の感触だけでなく、一人一人が持つ臭いや気配、たたずまいから来る雰囲気すら感じる機会が少なくなったような気がします。

 直接、確かめ合うことができない社会。そうした中で、人と人とが本当の信頼関係を気付くことはできるのか。しかし、悲観論に支配されてもいけない。もちろん生身の接触は人間関係に不可欠だが、危機の時代こそ新しい可能性にも目を向けるべきだと氏は言います。

 病人、海外在住者、死者…コロナ禍は遠隔でしか会えない存在も明らかにした。「空気や場所を物理的に共有せずとも、相手の存在に出会う」といった「感性」に磨きをかけることも(こうした機会)大切にしたいというのが氏の見解です。

(例えば)コロナ以降、心身の障害などで外出できない人が、自ら遠隔操作する分身ロボットを研究している人がいる。人型の小さなアバター(分身)を通して、関わる人も操作する障害者も、距離や障害を越えてお互いの存在を身近に感じられると氏はしています。同時に、ロボットが「ふれる」に近い接触を生む時代も遠くない。生身の関係至上主義も怖いもので、他者との出会い方は多様でいいはずだということです。

 コロナを克服した後、人々の振るまいや生活がどれほど元通りになるかは分からない。生理的な嫌悪感が文明化を促したとするエリアスの言葉が正しいならば、嫌悪感は私たちの価値観や行動様式を強く縛るだろうと伊藤氏は言います。しかし、そうして得られる(ノイズの少ない)「快適な関係」の代償として、私たちの社会が無意識のうちに失うものもまた大きいということなのでしょう。

 コロナ禍の時代、改めてそうした観点に立ち、接触の価値、特に「ふれる」が生む他者との信頼を後世に受け継ぎながらも、疫病下の多様な人間関係の育み方に耳を澄まさねばならないとこの論考を結ぶ伊藤氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。


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