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MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯335 「エコキャップ運動」が教えてくれること

2015年04月20日 | 社会・経済


 ペットボトルキャップのリサイクルを通じて途上国の子供向けにワクチン代を寄付する運動を展開しているNPO法人が、一昨年の9月以降(キャップの受付を続けているにもかかわらず)1年半以上にわたりワクチン代の寄付を中断していることが判明したとの報道がありました。

 大手各紙によれば、中断期間のリサイクル業者へのキャップの売却益に関し同法人の理事長は、「障害者の雇用創出のため、キャップの計量、分別作業などを行う施設の整備に収益金を活用した」と釈明しているとのことですが、得られた利益の使途については未だ具体的に明らかにされていないようです。

 もともとこの(いわゆる)「エコキャップ運動」の目的は、ボトルキャップのリサイクル活動による環境意識の啓発や、寄付を通じた貧困問題への理解促進などにあるとされています。

 しかしその一方で、以前からこの運動に対しては、(1) キャップを輸送するために大量のCO2等が排出され逆に環境に悪影響を与えていること、(2)キャップ素材の分別や洗浄に要するエネルギーコストが高く運動がもたらす環境負荷が必ずしも「エコ」になっていないこと、などの指摘がなされていたということです。

 また、この事業の運営に関しては、(3)1kg(約400個)あたり15円で売却されているキャップ素材が市場では1kgあたり200円以上で取引されており、提携するリサイクル事業者に大きな利益をもたらしている可能性が高いこと。さらに、(4)例えばキャップ6kg(2,400個)で得られる寄付金額は60円に過ぎない一方で、このキャップを事業者に送るためには500円以上の輸送費を輸送業者と協会に支払う必要があるなど、寄付額に対するコストが極端に高い(非効率である)ことなどが問題視されていたということです。

 さて、今回、この運動を主宰する法人がワクチン提供のための寄付を行っていないことが明らかとなったことで、キャップの回収に取り組んだ人々などから厳しい批判を集めているのは(いずれにしても)ある意味仕方のないことだと言えるでしょう。

 しかしそれはそれとして、私にはこの運動への違和感として、以前から「何故、わざわざボトルキャップのような(妙な)ものを集めさせるのか?」という素朴な疑問がありました。

 4月17日の経済情報サイト「日経ビジネス」では、あたかもそれに答えるかのように、コラムニストの小田嶋隆氏が、そもそもの話として日本でこのような「善意の蒐集」という形での「社会貢献」が好まれる理由について、興味深い論評を展開しています。

 この論評において小田嶋氏は、大勢の人間がペットボトルのキャップを集めることで善意を表現しようとするこの運動に関し、「一種の薄気味の悪さを感じる」と(ある意味にべもなく)断じています。私たちは、どうしてキャップのような「瑣末」なものを集めて善意の城壁を築こうとするか。

 氏が指摘するように、慈善なら慈善で、もっと効率の良い方法はたくさんあるはずです。例えば、病気に苦しむ貧しい子供たちにワクチンを寄付するのなら、単純な話としてお金を集めるのが一番手っ取り早いのは明らかです。お金であれば配送にも集積にも一切手間がかからず、何よりすべてが明朗になります。また、寄付を送る者と受け取る者の間に余計なコストも発生しません。

 ボトルキャップのような「モノ」を媒介させた寄付活動では、あらゆる段階でいちいち個別的な作業やコストが発生すると小田嶋氏は説明しています。こうした「モノ」は、カサ(物理量)のわりに経済価値が低い。蓄えておくための倉庫代がかかるし、運べば輸送費がかかる。選別や集積にもいちいち労力が要るということです。

 それなのにどうしてわざわざ「キャップ」(のようなもの)を集めるのか。

 覚えていない人も多いかもしれませんが、その昔、缶飲料のプルタブを集めて車椅子を寄付するという社会運動がありました。また、これと似たような存在として、全国の小学校が競って行っていた「ベルマーク運動」のようなものを思い浮かべる人もいるかもしれません。

 日本の社会が経験してきたこうした慈善活動としての社会運動を振り返り、日本人は「善意」について考える際、それがどんなふうに役立ち、どんな人々に対してどのようなベネフィットをもたらすのかについてはあまり興味がないのではないかと、小田嶋氏はこの問題に切り込んでいます。

 日本の社会においては、運動の「効果」よりも、どちらかというと善意を提供する側の人間の「思い」がどのようにして糾合されるのかに重きが置かれている。 例え効率の悪い作業であっても、そうした(効率の悪い)作業によって培われる「一体感」というようなものの方が、より重要視されているのではないかという指摘です。

 例えば、「千羽鶴」のようなものがあると、小田嶋氏は続けます。

 千羽鶴は、それを折る人々の「思い」を届けるためのツールとして重宝されている。また、人々を一致団結させるための素材として活用されてきたと氏は考えています。

 さらに言えば、戦時中、出征する兵士に贈られた「千人針」も、そうしたツールのひとつであったかもしれない。銃後の女性たちが一針ずつ心をこめて縫った針の跡を激戦地に赴く兵隊さんに捧げたという物語の構造が、数十年の歳月を経て「エコキャップ運動」に繋がっているのではないかというのが、この問題に対する小田嶋氏の認識です。

 氏は、私たちが暮らす日本の社会が、その奥底の部分でこうした「圧力を基礎とした呪力」で出来上がっているのではないかと考えています。

 私たち日本人は、「汗」や「涙」そして「家族愛」などを基調とした情緒を刺激する「いい話」に弱い。「善意」から出発した話であるのなら、多少論理的に不整合があったとしても「いい話」としてまるごと肯定してしまう脇の甘さが、日本人にはあると小田嶋氏は説明しています。

 この「エコキャップ運動」も、恐らくは悪質な詐欺とはまた違うものだろうと小田嶋氏は考えています。

 おそらくは、今回の事件も主催者や運動参加者の「善意」が空回りした結果に過ぎないのだろう。しかし、だからこそこの話は「薄気味が悪い」と、氏はこの論評をまとめています。

 いまから80年ほど前に当時の日本人を戦争に導いたのも、明確な悪意や意図された侵略的野望などではなく、社会に対する単純な善意や後戻りのきかなくなった忠誠心が主導する一体感であったことは想像に難くない。そのことを思えば、ささいな行き違いに見えるエコキャップ運動の空回りも、実は軽く考えて良い出来事ではないかもしれないと小田嶋氏は指摘しています。

 リサイクル活動やチャリティの意味が理解できないわけではありません。しかし、社会のシンプルな「思い」を想定外に膨張させないためには、ものごとを少し斜に構えて見る眼差しが、常にどこかに必要とされているのかもしれません。

 私たちは「ゴミ」のようなものを集めることを通じて、実は周りの人々と(盲目的に)「ひとつ」になりたいと願っているのではないか。そして、一人の独立した個人であるよりは、より大きな集合の中のひとつの切片であることを望んでいるのではないか。

 群れてあること、共感で繋がることの居心地の良さを求めるばかり、物事の本質を見失うようなことがあってはならない。…そう自戒する今回の小田嶋氏の論評を読んで、時に情緒や空気から自らを律することの大切さを、私自身も改めて考えさせられたところです。


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