MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2571 「ドリトス理論」を考える

2024年04月14日 | うんちく・小ネタ

 スーパーマーケットやコンビニの棚で、自らの存在感を主張するスナック菓子の袋たち。ポテトチップスやポップコーンの袋が並ぶ中、特に(日本離れした)ラテン系のパッケージで食欲を煽るのが、トウモロコシを原料とする「ドリトス」と言えるでしょう。

 ドリトスは、世界最大のスナック菓子メーカーであるフリトレーが、1966年にアメリカで発売を開始。現在では世界55ヶ国で販売されている、(いわゆる)トルティーヤチップスの代表選手です。

 製法は、コーンをすり潰して薄くのばした生地をオーブンで焼いてから油で揚げるとのこと。パリっとした独特の食感と香ばしさが特徴で、ディップなどを用意すれば、ちょっとしたパーティなどに出しても恥ずかしくないおつまみにも生まれ変わります。

 以前は都内の高級スーパーなどでしかお目にかかれない(輸入)スナックでしたが、1987年にカルビーの商標で知られるジャパンフリトレーが国内販売を開始して以降一般家庭にも次第に浸透し、最近では(以前はかなり大きかった)袋も小さくなって気軽に手を伸ばせる存在として認知されるようになっています。

 ポテトチップスよりも少し硬い独特の歯ごたえが病みつきになるドリトス。個人的には、インパクトのある赤い袋のメキシカンタコス味が好みですが、撮りためたビデオなどを見ながら夜中にビールと共に一袋を開けたりすると、「やっちまったぜ…」という不健康な罪悪感に襲われるのも事実です。

 次に買うときは、もう少しソフトな「タコス味」にしようかな…などと考えていた折、2月25日の総合情報サイト「Forbes JAPAN」に、ニューヨーク市立大学教授のBruce Y. Lee氏が、『不健全なモノや人に依存してしまうのはなぜ? ネットで話題の「ドリトス理論」を考える』と題する論考を寄せているのを見かけたので、参考までにその一部を小欄に残しておきたいと思います。

 SNSへの依存やろくでもない彼氏と縁を切れない状況と、人気のトルティーヤチップス「ドリトス」との間には、一見何の関係もなさそうに見える。しかし、最近TikTokで拡散した「ドリトス理論」に関する投稿動画は、こうした不健全な関係性について(改めて)考えさせてくれるものだと、リー氏はこの論考に綴っています。

 氏によれば、(現時点で)9万2600件以上の「いいね」を集めているこの動画では、アカウント主の女性が、ドリトスをはじめとするチップス系スナックの魅力を次のように説明しているとのこと。

 「ポテトチップスって食べだすと止まらなくなるよね。それは、その体験のピークが味わっているさ中に起こるから。食べた後じゃなくてね」。そして(続けて)「体験が終わってしまえば、そこには何も残らない」と断言しているということです。

 たしかに、ポテトチップスを一袋むさぼり食べた後に、空になった袋をしげしげと見つめて「食べられて本当によかった。これで社会的地位やキャリア、健康にもよい影響があるだろう。魂もレベルアップするはずだ。最高じゃないか!」と思うことは、まずないとリー氏は言います。

 薄いチップスを1枚、また1枚と噛み砕く際には、(確かに)つかの間の喜びを味わえたかもしれない。しかし一度胃袋に入ってしまえば、頭に浮かぶのは「あれ? あの味はどこに行っちゃったんだろう。次に食べるスナックの袋はどこにあったっけ?」といようなうこと(だけ)だというのが氏の認識です。

 本格的な食事なら、食後に満足感が残る。だが、満足感を得られないチップス系スナックの場合、次から次へと手元の袋が空になるまで口に運び続けてしまいかねないということです。

 勿論こうしたスナックは栄養満点とは言いがたく、一気食いは塩分とカロリーの過剰摂取という不健康な習慣につながる。甘い菓子や炭酸飲料、アルコール飲料などでも同様だと氏は話しています。

 しかも、この現象は飲食に限らず、依存性のあるさまざまな行動にも当てはまる。たとえば、デートや交際のパターンがそれ。新しいパートナーとの初セックスがたまらないという人もいれば、自分のためにならなくてもドーパミンが瞬時にどばっと出るような相手や状況に引きつけられる人もいる。ドラマチックに乱高下する関係性に心揺さぶられるという人もいるというのが氏の見解です。

 こうした絶え間ない「もっと欲しい」という衝動が、交際相手をとっかえひっかえしたり、波乱に満ちた恋愛関係にはまったりする原因となっている可能性がある。氏によれば、安定していて一貫性があり、究極的に高い満足感を得られるパートナーではなく、不適切な相手との付き合いを求めてしまうのもそのせいかもしれないということです。

 そして、おそらくソーシャルメディアにも、(こうした)同じ「依存を引き起こすリスクがあるのだろうと氏は指摘しています。

 たしかに、投稿の中には琴線に触れるものがある。だが、一過性の感情以上の何かが心に残るような投稿がどれだけあるだろう。携帯端末を置いてトイレに行ったり、寝たり、家族と団らんしたりする気になれるほどの満足感をもたらす投稿は、そんなにあるような気はしない。結果、満たされない心を抱え、SNSから得られる一時の感動を求めて、スマートフォンの画面を延々とスクロールし続ける羽目になるということです。

 こうした「ドリトス理論」は、依存のメカニズムの一要素のみを取り上げたにすぎない。何かに依存したり、悪い習慣をやめられなかったりする要因は、他にもいろいろ考えられるからだと氏は言います。

 しかし、この「理論」は、自分の行動を新たな視点で振りかえるのに役立つ。それは(何であれ)「ドリトスを一袋食べ尽くす」ような状況に陥りつつあるときには、自問してみる必要があるということ。それは、「これが全部終わった後に、自分はどう感じるだろう?」というもので、その答えが「それほどよい気分じゃなさそうだ」だった場合は、やめておくのが得策かもしれないというのが、氏がこの論考で示した結論です。

 夜中に、しょっぱいドリトスを一袋完食し、手に就いた赤いスパイスを舐めながら強い後悔を感じたことがあるのは(恐らく)私だけではないでしょう。

 実際、あの「背徳感」がまた「たまらない…」と感じる「M感」も分からないではありませんが、できることなら(ずるずると)繰り返したくはないものだと、氏の指摘を読んで私も改めて考えたところです。



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