熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

現在不定期かつ突発的更新中。基本はSFの読書感想など。

四色問題その他の物語

2006年07月04日 | SF
前回に引き続き『ベータ2のバラッド』収録作から、
表題作以外で読み終わったものについての感想。

『四色問題』
バロウズ読んでないもので、文体模写といわれても何がなにやら。
まあいろいろと小難しい話が書かれているものの、実のところは
NWのセルフ・パロディじゃないの、というのが私の見方。
四色問題にかこつけて、バラードの「内宇宙への道はどちらか?」を
大っぴらにパロディ化してしまったのが、本作ではないかと思うのだ。
五色目の場所はどこかを延々論じまくったあげく「そんな場所はない」と
バッサリ斬り捨てたり、国を挙げての数学的証明事業がいつの間にやら
カバラ装置の開発事業になってしまったり、セックス・テンソルに乗って
内宇宙から大艦隊が飛来したりと、もうやりたい放題である。
話が進むにつれて、作中に出てくる「パルプSF誌」が「パルプカバラ誌」
に化けてしまうあたりなど、「SFとは何か」というNW的論争に対する
ベイリー流の皮肉ではないかと勘ぐりたくなるところだ。

確かに奇作・怪作の名にふさわしい珍品ではあるのだが、実は内輪受けの
軽いスラップスティック・コメディと見るならば、あまり持ち上げるのも
どうだろうという感じ。
どうせなら巻頭に「内宇宙への道はどちらか?」を掲載して、その直後に
『四色問題』を載せてくれれば、まさしく「NW史改変アンソロジー」として
不動の評価を得られたかも知れないと思ってみたりして。
まあそれは編者の意図とは全然関係ない話なのだけれど。

『降誕祭前夜』
華やかさはかけらもないながら、実在しない光景をまるでそこにあるが如く
鮮明に描き出して見せるのが、ロバーツの真骨頂。
その文章は、さながら渋いモノクロ映画を見ているかのような味がある。
淡々とした筋運びの中にじわじわと不穏な空気が高まってくる展開は、
まさに英国ゴシック小説の正当な系譜を感じさせるものだ。
歴史改変や異様な社会制度というテーマは別段目新しくもなく、話自体は
極めて真面目な文学派SFなのだが、この異端の作品集の中にあっては
その真面目さがかえって独自の存在感を放っているという良さもある。
SFマガジンあたりに載っていたら、まず2度と日の目は見なかっただろう。
この手の小説はやはり「ゴシック叢書」の版元から出されるのがふさわしい。

もう一つ面白かったのは、英国人にとっては「ナチズム」による支配体制が
未だ根深い恐怖として残っているのだと再認識させられたこと。
最近『V・フォー・ヴェンデッタ』を読んだせいもあるが、全体主義の台頭で
恐怖政治がもたらされる事への恐れと反発は、他のどの国にも増して強いと
感じさせるものがある。
その恐怖心と反発心が、「もしドイツが戦争に勝っていたら」という物語を
繰り返し生み出す土壌となっているのだろう。
ちなみにこれをアメリカ人の場合に置き換えるなら、真珠湾と核の呪縛に
今も捉われている、ということになるのだろうか。まあ単なるイメージだが。

『プリティ・マギー・マネーアイズ』
歓楽の街ラスベガスを舞台に繰り広げられる、聖なる娼婦と心優しき負け犬の
奇跡と愛と絶望の物語。
男と女の悲哀としたたかな駆け引きの顛末を、ギャンブルというテーマを通じて
一気呵成に書き上げた佳作である。
女の情念と街の熱気が絡み合うことで生みだされた幻が、一人の男を捕らえて
蟻地獄のように引きずり込んでいくという、一種の都市小説とも読めるだろう。
まあ一番カッコいいのは、まるでペンならぬペニスを握っていきり立つかの如く、
ハイテンションでドライブしまくるエリスンの文体に尽きるのだが。
原文はもっとぶっ飛んでいそうな気もするが、この幻の作品を日本語で読めるのは
とにかくありがたいことである。
翻訳者の伊藤氏のご苦労には、最大限の敬意と感謝を表したい。

この話を読んでいて、リーミイの『サンディエゴ・ライトフット・スー』を思い出した。
別に似ているというわけではないが、これも女の妄執とせつない悲しみを描いて
忘れがたい作品である。
できればリーミイもどこかで復刊して、ぜひ読み比べるチャンスを与えて欲しい。