【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

火神主宰 俳句大学学長 Haïku Column代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

日本人の心になりきった小泉八雲

2015年06月08日 20時45分40秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

総合文化誌「KUMAMOTO」第11号
NPO法人 くまもと文化振興会
2015年6月15日発行

《はじめての小泉八雲》

日本人の心になりきった小泉八雲

                  永田満徳

初めに

木下順二の小泉八雲研究は、旧制熊本中学五年(順二18歳)の時、『江原』(1932年12月)に発表された「研究 ラフカディオ・ハーン 其の研究の一班」と題する長文の論文に見ることができる。順二の八雲観は「外国人のバタ臭味から完全に脱却して日本人の心になりきつた強い意味を示す「染(ぢ)み」だ」と言い切ったところに最大の功績がある。しかし、八雲に対する評価において、八雲の文学が「日本人の心になりきつた」という言葉は何も順二に限らず、多くの論者が指摘するものである。ただ、『夕鶴』で国民的劇作家になった順二にとっては、この研究が順二の民話劇に影響を与えた点では大きい意味を持っている。

一 東洋への愛

八雲が西洋人でありながら、順二をして「日本人の心になりきつた」と言わしめるほどの、日本理解を示しえた理由の説明として最も的確なのは、教え子である田部隆次の「母親のおぼろげな記憶はいつもやさしく、思慕の愛情にあふれており、後年、ハーンが東洋の一切の事物を愛す原因となった。ハーンによるとたまたま『生まれた場所が東洋で血も半分は東洋であった』からである」という文章であろう。八雲の東洋への「愛」に影響を及ぼしたのは「母親」であるという田部の恩師に対する理解は、ロジャー・スティール・ウィルソンが「ハーンの西洋文明に対する疑問と不信」(注1)において、「シンシナティで見捨てられた青年だった頃、彼の父は、酉洋のすべて悪いもの、彼の母の東洋の遺産は、良くて正しいことすべてを体現していた。彼は若い記者になった時、これらの二つの世界にひっかかっていた。非同情的な現代文明の犠牲者へのハーンの感情はこれらの状況から起っているのだろう」と述べ、「母の東洋の遺産」に触れていることと大差がないことからも納得できる。ただ、八雲の日本の文化に違和感なく入り込めた根本的な要因では、この母の存在以上に重要なのは「コノート出身の乳母」である。

二 ケルト文化と俳句

ポール・マレーが「ハーンのイェーツとの文通を通してダブリンで小さい少年だった時ハーンはアイルランドの妖精の話や幽霊の話をしてくれるコノート出身の乳母を持っていたことを私達は知る。このようにして一生続く民俗的なことへの関心が始まったのである。実際、アイルランドを含めた前工業的世界の多くでは普通のことである妖精の話は、ハーンが後に日本分析の中心にした日本の古代宗教の神道とある点で似て、生きているものに、平行して存在し、時々作用を及ぼしているあの世からなっている」と「講演」(注2)で話しているのは注目に値する。八雲の経歴を閲(けみ)するまでもなく、父の生地であるアイルランドのタブリンに二歳から四歳に掛けて住んでいたことは周知の事実である。わずか二年間であったけれども、「三つ子の魂百まで」という言葉がそっくり当て嵌まるように、「コノート出身の乳母」による「アイルランドの妖精の話や幽霊の話」は深く刻み込まれることになる。
ポール・マレーが同じ講演で話していている「ケルトの妖精の信仰は『ロマンティックで詩的で、またものすごい』想像力に起因している。彼のアイルランドの農民生活の見解はまた明治前の日本の神道に基本を置いた精神にかなり似ている」という部分を参考にして、ケルト文化と俳句との繋がりを考えるとすれば、日野雅之が『大谷繞石』(注3)のなかで触れている「アイルランドの樹木や岩や川に魂があるというアニミズム(精霊信仰)を大切にしたケルト文化の妖精の話を乳母から聞いて育ったハーンにとって自然を詠む日本の俳句はケルト文化と共通するものがあったと思われる」という文章は大いに共感できる。

三 日本の韻文(俳句)

そこで、八雲と日本の韻文、特に俳句の関係を考察してみたい。
そのためにはまず、俳句の基礎知識として挙げなければならないのは季節・季語・季感の問題である。「俳句への一歩」(注4)を基にして説明するとする。日本人は知らず知らずのうちに季節に敏感になっている。例えば、「風鈴」の音色に涼しさを感じる消夏法などは、日本の季節・風土がつくりあげた感性によるものである。日本文学と季節・季語では、日本文学が古来季節と深い関わりを保ちながら形成されてきた。季節を「季語」という美学に置きかえて文学に作り上げたのが俳句と考えてよい。就中(なかんずく)、重要なのは季語の働きである。一句の中には、季語が必ず一つある。季語が作品の中で作用しているはたらき・色あい・雰囲気などと季語の背景(成立までの過程)や、季語の周辺(風土の中での存在性)をも含めて詠み、味わう。その季語を総合的に網羅したのが「歳時記」である。膨大な量の季語群に丹念に眼を通してゆくと、日本人の生活美学が作り上げた美しい季語に出会うに違いない。時候・天文・人事・宗教・動物・植物というものが採り上げられていて、百科全書の観がある。

四 俳句鑑賞

俳句鑑賞において、日本人と八雲を比較してみると、八雲の日本の韻文、特に俳句への理解の特色が見えてくる。

① 日本人の場合、ここでは、「俳句への一歩」の鑑賞文より抜き出し、A~Cの記号を付けて、分析しやくする。
金亀子擲つ闇の深さかな  高浜虚子
A いろいろ種類もあって、紫金色・赤鋼色・黒褐色などある。夏の夜など、うなりながら灯に飛んで来て、ポタリと落ちたりする。拾って窓外へほうり出すと又やって来たりするし、なかには、つかまると死んだ真似をするものもあるという。
B この句の「金亀子」もまさに、こうした「こがねむし」で、灯を求めて戸外の闇からやってきた「金亀子」を作者は闇へほうり投げて帰してやったというのである。畳の上に落ちた金亀子を掌にとると、金亀子はジッとして動かない。そこで縁側までたっていって、漆黒の夏の闇に向かって、大きくほうり投げてやる。はじめはただの小石か物のように、投げられたごとく宙を進んだ金亀子は、途中から、翅をひろげて、いかにも重さのなくなった物のごとく、闇の奥へ飛びはじめ、座敷の灯の及ばぬ闇へと消えていったというのである。
C 何でもない、只のことがらを叙しているようではあるが、投げたものが地上にぶつからずに消えてゆくという、手応えのなさから闇の無限の深さを感じとったことにも留意したい。実際に金亀子を投げた経験が土台になければ作り得ない句といえよう。したがってこうした句は鑑賞する側も、その経験の有無によって、その感じ方に違いがあるかも知れない。【金亀子=夏】
日本人による俳句鑑賞にはある型(パターン)がある。まず、書き出しのAで、「金亀子」の昆虫学(学問)的な習性と内容などを説明し、Bでは、句の状況を具体的に述べて、Cにおいて初めて、虚子の句の鑑賞に及び、名句たる所以を説き明かす。A・Bは客観的な記述に徹し、Cは鑑賞者の力量が試されるところで、どちらかというと、主観的な記述となることが多く、どれだけ納得させきれるかが問われる。

② 八雲の俳句鑑賞
八雲は俳句については、長澤純夫編訳「小泉八雲 蝶の幻想」(注5)のなかで、「俳句に関するほとんど唯一のものと思われる約束事は――別にそれはきびしいものではないが――俳句はことばで描いた一幅の小さな絵でなければならない、――見たり感じたりしたものの記憶を再生させるものでなければならない、――感覚上のある経験に訴えるものでなければならないということである。これから、わたくしが引用する俳句の大多数のものは、まさにこの要求を満たしており、読者は実際にそれらが絵であることを――浮世絵派の手法による小さな彩色版画であることを発見するであろう」と言い、「俳句のほとんどいずれも、日本画の巨匠の手によれば、ほんのわずかな筆致で、ことごとくこれを見事な絵にしてしまいうる作品である」とまで述べているのは、今日の俳句の認識とほぼ同じで、異なるところがない。この文章からは八雲が俳句の本質を知り、並々ならぬ理解を示していることを物語っている。 
それでは、八雲の俳句鑑賞の一例として、「小泉八雲 蝶の幻想」のなかの「蟬」を取り上げる。ハーンの愛弟子の一人で執筆資料の提供者、協力者として長年ハーンのために尽くした大谷正信の手により、編纂、訳註が付せられて、大正十 (一九二一)年、『小泉八雲・蟲の文学』と題した、瀟洒(しょうしゃ)な小型の美本として北星堂から刊行された十篇の英文と、新たに加えた「蝶の幻想」は、『シンシナティ・コマーシャル』紙(一八七六年五月九日付)所載の原文を、そして「蚕」は『霊の日本』(一八九四年初版)を底本になされた。「蝶」をはじめ、後の「蟬」「蜻蛉」「螢」などは『怪談』(明治三七(一九〇四)年)に収録されている「虫の研究」の一章である。なお、A~Fの文章は本稿の分析に必要な部分のみを抜粋している。
「蟬」
A 日本の文学では、陸運という名で知られている中国の著名な学者が、蟬の五徳という(中略)面白いことばを書き残している。
B これを、今から二千四百年前の昔に書かれた、アナクレオンのあの美しい蟬の讃歌と比較するとき、ギリシアの詩人と中国の賢人との間に、思想上の数々の一致点を発見して驚く。
C 一方、日本の詩人たちは、これとは反対に蟬の声よりも、夜鳴く虫の声をより賞美する傾向がある。もちろん、蟬を詠んだ詩歌は日本にも無数にある。しかしその鳴く声をほめたたえたものはきわめて少ない。もともと日本の蟬は、ギリシア人の知っているそれとは、非常に違っている。日本の蟬のなかにも、たしかに音楽的に鳴くものもいるにはいるが、大多数のものは驚くほど騒々しい。彼らの鳴き騒ぐ声は、あまりにうるさいため、夏の季節の大きな苦痛の一つに思われているくらいである。
D 蟬に関する日本の詩歌は、おおむね非常に短いものが多く、わたくしの集めたものも、十七音節の俳句でほとんど占められている。そしてその俳句も大部分は蟬の声を――というよりも、蟬の声が作者の心にもたらした感興を詠んだものが多い。
E 蟬を詠んだ日本の詩歌には、哲学的な作品はそう多くない。
F 八雲の一句鑑賞
   やがて死ぬけしきは見えず蟬の声  芭蕉
この小さな句の中に秘められている思想は、虫の声の哀れさとともに、自然の寂寞のなかから訴えてくる夏の憂愁を、多少なりとも説明しているのではないかと、わたくしは思う。こうした幾百万という小さな生きものたちは、無意識のうちに東洋の古代の叡(えい)知(ち)を――諸行無常を説く永遠の経典を説き教えているのである。
 そもそも、八雲に対して俳句の指南役を務めたのが島根時代の教え子で、俳人の大谷正信(繞石)であり、英語圏の読者に向けての紹介文であることを差し引いてみても、八雲らしい俳句観が披瀝されている。AとBに見られる中国文学、ギリシア文学、CとDにおいては和歌にも言及して、比較文学的な考察を試みていて、八雲の博識ぶりが充分に窺えるものである。特徴的なことは、俳句の世界に「哲学」や「思想」、あるいは「諸行無常」といった宗教を持ち出して説明しているところである。Fでは、「寂寞」「憂愁」などの言葉を用いて、日本人の情緒を明らかにしている点は日本人の鑑賞文にあまり見られないものである。情を排し、「こと」ではなく、「もの」を詠むのが俳句であるからである。

終わりに

八雲の韻文、特に俳句に関する文章から浮かび上がってくるのは、いみじくも、アラン・ローゼン氏が「ラフカディオ・ハーンの科学的論説 Ⅰ」(注6)のなかで、ハーンは「英語圏の読者に向けて外国の文学作品を発見し、翻訳し、紹介する役割を果たす者となる夢を常に持ち続けていた。また、ハーバート・スペンサーなどによる社会哲学や、神道や仏教などの宗教にも、ハーンは深い関心を抱いていた。しかし、人文学の分野に対して純粋に文学的な取り組みをしているときにおいてさえ、科学は脇に押しやられることはなかった。また逆に、科学的な分野における論説においては文学的な色合いを指摘することができる」と述べているように、科学的分析力と文学的感性との適度のバランスの上に立って、俳句を理解し、鑑賞していると言わなければならない。
 
注1 『現代に生きるラフカディオ・ハーン』2007・3、熊本出版文化会館
注2 島根大学、1995・11・5
注3 2009・9、今井出版
注4 平九年七月、俳人協会
注5 1988・9、築地書館
注6 (『ハーン曼荼羅』、2008・11、北星堂)
                  (ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)


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