【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

火神主宰 俳句大学学長 Haïku Column代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

第15号【首藤基澄「俳句」】

2016年06月09日 20時19分52秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2016年6月15日発行
はじめての首藤基澄「俳句」

~連想と直感による生の実相~

永田満徳

 首藤基澄は『己身』(平成五年十一月、角川書店、熊本県文化懇話会賞)などの句集を出している俳人である。その一方、『「仕方がない」日本人』の他に、多くの研究書を書いている文学研究者である。
 坪内稔典をして「近代文学の方法を俳句で実践した」と言わしめた首藤俳句について論じたいと思っていた。ここにその手掛かりを得ることのできる『わが心』(私家本)が上梓された。『わが心』は遺句集と遺稿集とで編集されていて、遺稿集は自注自解である。この書からは首藤基澄が目指す俳誌「火神」の「本会は写生を基本とし、直感・連想によって自然・生の実相にアプローチする俳句」の方向性がつぶさに見て取れる。
 「火神」の揚言に正岡子規が発見し唱えた「写生」を出発点に据えるのは、観念的で空疎にならないための、現代俳句を詠む場合の基本である。特徴的なものは「生の実相」という、何かと問われればすぐに答えられない言葉である。
 首藤俳句で見てみると、「櫨の実やこころにかかる煤のごと」の自注自解では「櫨の実」の「うす汚れた感じ」を「自分のこころ」と重ねられている。「孤寂なるいのち」とも言い換えられ、「私の生に密着した句」として提出されるところに最もよく特色がある。この「生」、あるいは「心」に依拠するのは、「日頃孤心に向き合い、他に頼らず己身が本尊と、自立して生きよう」とする姿勢から生み出されるものである。これが「生の実相」である。
 首藤俳句は「写生」の眼を通して、「生」と不可分の関係にある「心」、つまり首藤が研究の場で心掛けている「抓れば痛いわが身」の「直感」に呼応し、さらに「連想」の過程で反芻に反芻されて、ようやく一句が成り立つしろものである。首藤俳句の成り立ちを見たとき、句の背景に思い及ばなければ真の理解に至ることはできないことが分かる。
 その首藤俳句の背景としては言うまでもなく、文学研究で培われた膨大な素養である。例えば、

   油照り駝鳥の頭ぼろぼろに
   道遠く光雲像の髭の冷え

などは、高村光太郎研究の第一人者の面目躍如たる発想がある。前者は光太郎の有名な詩「ぼろぼろな駝鳥」から得たもので、「夏の一番暑いとき」「じっと耐え、ことばを紡ぐ外ない」と述べられていて、句の背景が光太郎の詩であることが明らかにされている。後者は「道程」の詩を思い、「光太郎の苦難に満ちた道程を、この時私は論理的にではなく感覚的に捉えていた」と書かれていて、句の発想の原点が示されている。

   海苔巻に風のかたみの花樗

 福永武彦の小説『風のかたみ』の題名が句に詠み込まれて、福永武彦研究者として「『風のかたみ』には私の好みが反映している」と言い、三木露風作詞の日本歌曲「ふるさとの」の情感がからみ、句中の「風のかたみ」が「実存を意識させることば」であるというのである。小説『風のかたみ』が孕んでいる王朝ロマンの内実の重みを知ってこそ、この句を味わうことができる。

   遠方のパトス冬夜にしみる音

 福永武彦の『遠方のパトス』という短編小説の題が使われて、「パトス(情熱)に『遠方の』という修飾語が来て、静かに持続するかたちをとる」との見解が述べられている。首藤俳句を読み解くには、首藤の知的ワールドに肉薄できるだけの素養が必要であるということである。
 次に来る背景は、特に父を素材とした句群である。父の「意外な美意識」や父のタイプのことは、「父」の詞書のある「鎌の柄に振花結はへ立話」の自注自解に述べられていて、詳しくはそれに譲ることにする。文芸の世界では母恋こそすれ、父への思慕は極めて少ないので、異色である。

   独活の花父の投網は低く飛び

 父の「投網」の流儀への賛仰の句といっていい。「私も子供の頃やってみたいと思った」とあるように、子供心に宿っていた想いが蘇っているのである。

   峡を行く汽車鷹揚に父の稲架

 「鷹揚な父」への思慕が背景になっていることが印象深く刻み込まれる。この句の自注自解に「私の郷里は大分県大野郡大野町」として紹介されている。「父」と「故郷」とは分かちがたく結び付いているのである。
ところで、首藤が「連想」と同じく、「直感」を重視するのは、例えば「エロス」を感じる句に見られる。

   オートバイ黒き裸身を這ふ花片

「 オートバイ」を「裸身」と詠むのは、「オートバイの黒光りするボディのふくらみにエロチックな美を感じ、『裸身を這ふ』となった」からである。確かに「黒光りするボディのふくらみ」に「エロス」を感じる感覚は理解できる。

   しどけなき裸身や春の霜柱

 同じく「裸身」の措辞が出てくるこの句は独特である。この句の場合、「北外輪のミルクロードで見た霜柱に私はエロスを感じた」とあるように、直感的に「エロス」を感じる繊細で若々しい感性が窺える。
首藤俳句はそれこそ、全身全霊から描き出される「生の実相」であり、首藤ワールドを推し量り、鑑賞すべきものである。つまり、「連想」の背景と「直感」の手法が分かって初めて分かる俳句が首藤俳句ということになる。
俳句は一句で理解が完結するものである。しかし、一句に込められる詞藻の豊かな首藤俳句を理解するには、『我が心』「遺稿集」の自注自解は有益である。そのことを如実に教えてくれた功績は大きい。
                          (ながた みつのり/熊本近代文学研究会)

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