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都立代々木高校<三部制>物語

都立代々木高校三部制4年間の記録

【8Ⅰ-07】 『ベトナムから遠く離れて』(その3) 

2016年12月05日 21時52分05秒 | 第8部 夏から秋へ
<第1章> 『下北沢通信』 闘争の構図 
〔第7回〕 『ベトナムから遠く離れて』(3)
  〔3〕 メタファーとしての『輝ける闇』

この世に「米穀配給通帳」というものが存在し、実際に使用した経験があるのは60歳代以上の方ではないでしょうか。この配給通帳は、先の大戦が始まって間もない1942年(昭和17年)に「食糧管理制度」(食管制度)のもとで米の配給を受けるために発行されていた通帳で、戦後10年を経過した昭和30年代初めの頃にも旅行で旅館に宿泊し米飯の提供を受ける際には、米そのものを持参するか旅行者用穀類購入通帳を提出しなければなりませんでした。その当時、近所の子供会から一晩泊りで海水浴へ行ったとき宿泊人数分の米を数個の大きな白い布袋に入れて持参した記憶があります。

私が上京し新聞配達店に住込みで働くようになった昭和30年代末にも、この米穀配給通帳は重要な役割がありました。それは、1960年代には米の配給制そのものは無くなっていましたが、食管制度上の規定では米屋から米を購入するときには必要でした。また、市町村長の公印が捺された公文書の性格が強く、世帯主・住所が記述されていましたので身分証明書としての役目も果たしていたのでしょう。別の見方をすると、米穀配給通帳を所持しないアウトローな生きざまをしている人達は、闇米に頼るしかなかったのでしょうか。
新聞配達店への入店に際し私は米穀配給通帳を提出した記憶がありますが、終戦から20年近く経っているのに戦中施行された食管制度を引き摺っていたのでしょう。なお、米穀配給通帳は1981年(昭和56年)に食糧管理法改正に伴い廃止されています。

――私が物心ついた4~5歳頃というのは先の大戦が終わって7~8年が経過した頃で、いまだ国全体が貧しい時代でした。もっとも私自身からすれば国が貧しいのか家庭が貧しいのか、はたまた周囲にモノがないのかはどうでもよいのであって、ただ与えられた生命を精一杯生きて周りの子供達と遊んで暮らし、ご飯時には丸いチャブ台を囲んでメシを掻き込むだけのひとりの男の子を演じていました。
幼い頃、両親が離婚して町中に住む親戚の家に預けられていた時期があったのですが、小学校低学年ながら笛吹童子や赤胴鈴之助、はたまたデビュー間もない石原裕次郎の映画などを観る機会がありました。日頃は白米に麦の混じった黒っぽい麦飯をボソボソと食べていたので、年に1~2度デパート最上階の大衆食堂で白米だけの銀シャリを食べる機会がありまして、「この世に銀シャリなどという美味な食い物があるのだ…」とウットリ。初めて食い物に対する格差に目覚めたものです。

祖母にいわせると「麦が入ったご飯は栄養があって身体にいいんだよ」とか、「ホウレン草やニンジンは血になって身体を作るんだよ」と昔、看護婦だったこともあり栄養に関す説教を垂れるのですが、何しろ銀シャリに目覚めた私にとっては馬耳東風。でも最近は麦や五穀米をセッセと食べているのですがね。しかし、子供というのは自らの性別、生まれた環境、時代などどれひとつとして選べない。ただ与えられた生命を精一杯生きるしかありません。
そんな与えられた環境で生きていくなか、時折、繁華街へ出る機会があって華やいだ街角の片隅にカーキ色の軍帽を被り白い着物を着た傷病兵がアコーデオンを弾いて物乞いをしている光景に出合うと、奇異な感じを受けたものです。片足や片腕が無くて松葉杖に寄りかかり腕には鈎状の義手を着けた傷病兵の出現は、幼心に「戦争の傷痕」を刻み込んだものです。従軍経験のある祖父からは時折、敵陣近くになると散開し匍匐前進していく様を物語風に聞かされたことがありましたが街角で見た傷病兵の姿とは結びつきません。

――このようなことを、つらつら思い出したのは、開高健の『青い月曜日』を読みなおしているうちに開高が幼い頃生きた戦中戦後の<時代>と、私自らの幼年期を生きた<時代>の相違を改めて感じたからです。

■開高健は1930年(昭和5年)に大阪市に生まれました。敗戦濃い44年、14歳のときに通っていた旧制中学の校舎が兵営に代用されたことで授業は停止。駅の乗客整理や飛行場での雑用、火薬庫の造営などの学徒動員に駆りだされ、終戦時には国鉄龍華操車場で迎えています。
敗戦に伴い授業は再開されるのですが、13歳のときに父を病気で亡くし母子家庭として極貧の戦後混乱期を過ごしています。幾多のアルバイトを継続的に経験しながら旧制大阪高等学校に入学、49年(昭和24年)に大阪市立大学を受験し合格しています。

開高健は、この戦中の学徒動員に駆りだされ国鉄龍華操車場で迎えた終戦時の出来事と、戦後間もない時期を極貧の母子家庭として幾多のアルバイトを経験したことをベースに小説『青い月曜日』を記述しています。
『青い月曜日』とは、「英語の<ブルー・マンデー>からとったものだが、私にとっては少年時代と青年時代はいつもとめどない宿酔いであったように感じられる。<戦争>があってもなくてもそうだったのではあるまいかと思う。あれらの日々の記憶はいまだに私の皮膚に今朝のことのように入墨されて、ヒリヒリしながら残っている…(略)」(「あとがき」から)。

開高は昭和5年、いわゆる「昭和ヒトケタ」生まれです。私は先に「子供というのは自らの性別、生まれた環境、時代などどれひとつとして選べない」と述べたのですが、とりわけ出生した時代、年齢による経験度合いは共有できるものと異物を扱うほどの違いが表われると思います。
私は戦後間もない昭和23年(1948年)生まれですが、昭和22年から24年にかけて3年にわたって年間出生人口が毎年200万人を超えた時期の真ん中に生まれたことで、後にこの3年間の人口集中度合いを表して「団塊の世代」といわれた<超過密世代>を生きぬいてきたことになります。でも3歳年齢が上にいくと戦中若しくは戦後間もない頃に生まれているわけで、体験やものの考えが大きく異なります。また3歳下に離れると、これまた世代格差を感じます。

とかく「昭和ヒトケタ生まれ」の方というのは、世の悲劇を総て背負って生きてきたようなことを語られます。私が「昭和ヒトケタ生まれ」の方の苦難の体験を初めて耳にしたのは小学校の授業のときでした。それでも低学年のときの担任の教師は20代後半で、自らの兵役の大変さを多く語りましたが、高学年になると担任教師は20代半ばで、まさしく学徒動員に駆りだされ毎日の作業で重いものを持たされ「食べるものがなく毎日ひもじい思いをして、背が伸びなかった」とこぼしていました。

――本稿を書くにあたって開高健の<ベトナム戦争>に関する書籍を幾つか探すなかで、20数年前に読んだ『青い月曜日』を手に拾い読みしていました。しかし本書の文面を追っても何も引っかからない。脳ミソの奥が何にも反応しないのです。確かにこの20数年間、『青い月曜日』には凄いことが書いてあったな――との思いで満ち満ちていたのですが、さて再読となると20数年前に読んだ記憶が反応してこない。
そこで冒頭から改めて読み始めていくと拾い読みのはずが、ついつい本の中に引き摺り込まれて蟻地獄に落ちてしまったというわけです。ただ『青い月曜日』のなかには、「動員された駅の乗客整理作業の合間に駅を離れていたとき、米軍機が気まぐれに落としていった爆弾で駅舎が被弾し学友が巻き込まれた」といった箇所と、「戦後、食べるものが無くて昼食時には学友から離れて独り水道の水で腹を満たす、トトチャプで空腹を耐えていた」といった2ヵ所の印象は残っており、今回の再読でこの箇所は確認できました。

では何故、今回、「拾い読み」のはずが本の中に引き摺り込まれていったのかということです。本書は<二部構成>なのですが、以前、読んだときには「前半が戦中の学徒動員の時期、後半が戦後の動乱期の体験を綴っていた」と単純に考えていました。
しかし、開高健本人による本書「あとがき」を改めて読んでみますと、〔 この作品のロシア語版が出版されることになり、モスクワから翻訳者ポリス・ラスキン氏が来日しホテルで文学談義をしていると、私がベトナムへ行ったことを話して、そのために「音楽が変わった」と言った。ラスキン氏は大きくうなずいてしばらく考えこんでいたが、「なるほど。それで第一部と第二部では文体が違うわけですね。私は作品が発展したためだと思っていましたが、それだけではなかったのですね」この指摘は短いけれど鋭い。さすがと思わせられるところがあった。内心、私は脱帽した。〕と述べています。

――この「あとがき」のラスキン氏が指摘した「第一部と第二部の文体が異なる」こと、つまり開高が「ベトナムへ行ったことで音楽が変わった」と語ったことの確認が、どうしてもしたくなったということです。
そのためには開高自身のベトナム戦争への取材に伴う従軍体験が、自らの戦中・戦後の体験とどのように文学のなかで開花していったかを検証する必要に迫られました。何のことはない。結局のところ『青い月曜日』と、『輝ける闇』に始まる<闇三部作>を並行して読むことになってしまってね…いつしか一ヵ月が過ぎてしまったというわけ。

■『輝ける闇』から『夏の闇』へ
開高健の『略年譜』を追っていきますと、1964年(昭和39年)11月に朝日新聞社臨時海外特派員としてベトナムへ出発。翌65年(昭和40年)2月まで滞在しています。この間、数次の戦闘に従軍しているのですが、65年2月の従軍中にベトコンに包囲され九死に一生の体験をしています。帰国後、ルポタージュ『ベトナム戦記』を週刊誌に発表。
ベトナム戦争での従軍体験を元にして、この『ベトナム戦記』(1965年)が生まれ、『輝ける闇』(1968年)が発表されたのですが、『夏の闇』(1972年)は、『輝ける闇』の直接的な続編といえましょう。『輝ける闇』のもつ壮絶な体験が『夏の闇』を背後で支えているのですが、内容は私小説的な側面があります。



いわゆる<闇三部作>といわれる第一作『輝ける闇』、続く第二作『夏の闇』のあと、『花終る闇』(未完)が発表されたのは1990年、開高健が亡くなった翌年です。戦後青春期の自伝的小説『青い月曜日』が発表されたのは、『輝ける闇』(68年)の翌69年ですが、それだけに『青い月曜日』は、自らの戦中・戦後の体験にベトナム戦争での従軍体験が色濃く反映されているといえましょう。

開高は「米軍が直接に大量の投入が始まるのは、私がベトナムを訪問した翌年4月頃からです。後日になって判明したところではこの64年、65年頃のベトナムは瓦壊寸前の状態にあったわけですが、我が国ではほとんど報道されていませんでした。NHKも民放も新聞社もサイゴンに支局を持っているのは一社もなく、何か事件が起ると記者は香港やバンコツクからかけつけ、終るとそれぞれサイゴンから引揚げるというのが事実でした。ところが65年の2月末に私がサイゴンから引揚げてくると、新聞にも週刊誌にもベトナム問題専門家が氾濫して百家争鳴というありさまになっていたので驚きました」と述べていますので、開高の書くルポタージュはベトナム戦争の実態と帰趨を知るキッカケとなっています。このことは、その後の作家活動のなかで開高自身の鋭い認識を身に付けていくことになります。

ところで、『ベトナム戦記』が出版されると開高に対する批判として、評論家の吉本隆明(作家・吉本ばななの父)は『戦後思想の荒廃』のなかで、「開高健の『ベトナム戦記』を読んでみると、わが国の進歩的知識人の思想的な<国外逃亡>がどんなものであり、どのような荒廃にさらされているかを如実に知ることができる。何故、何のためにこの作家はベトナムに出かけて行ったのか。この著書を読み終わっても、何もわからないのである。…わざわざベトナム戦の現地に出かけて、ベトコン少年の銃殺死を見物しなければ、人間の死や平和と戦争の同在性の意味を確認できなかったとき、幻想を透視する作家ではなくただ眼の前でみえるものしかみない記者の眼しかもたない第三者にほかならなかったのだ」(1966年10月)と述べています。
また、新聞に掲載された無署名評によると「作者なりの現実参加の志は一応えがけているが、まだ十分な説得力をもっているとはいえない。第一<私>がほとんど正体不明で、宙に浮いているのは、どうしたことだろうか。このことは作品全体にかかわる根本的な欠陥である」と指摘しています。

開高健はエッセイのなかで、「私はそれまでにベトナムについて書いた自分の文章が一切なかったこととして、何もかもイロハから出発する気持ちで一つの作品を書きおろしの形式でやってみる決心をした。…『輝ける闇』のときすでに濃く頁のあちらこちらに現われているが、『夏の闇』では全面的に私はそれまで自分に禁じていたタブーを解禁することにした。抒情で書くこと、内心に寄添って書くこと、性を書くこと、フィクションの形式ではあるが告白を書くことなどである」(開高健全作品・エッセイ「頁の背後」から)と自身を語っています。

鷲尾小彌太は『人間・この闘うもの』と題し、『輝ける闇』を次のように指摘しています。
〔 開高は『輝ける闇』によって確実にひとつの分水嶺をこえたように思える。(略)…開高は、人間はまさしく戦ってきた存在だ、持つ人間は持つ故に、持たぬ人間は持たぬ故に戦ってきたし、また戦って行くだろうとみなす。理性なきに故に、また理性あるゆえに、エゴイスト、抑圧者、狂者、平和主義者、男、女、子供、それぞれはそれぞれの故に戦うという。戦いによって戦いを死滅させると公約するコミュニズムに対しては歴史的経緯において、事実において徹底的な懐疑を示す。そして戦争の愚劣・悲惨・消耗を描くと同時に、戦争のなかでの昂揚・堅固・愛情・相互理解をクッキリと描く。
「人間は大脳の退化した凶暴なる劣等の二足獣」というテーゼにのって<絶対の悪>を云々する視点は、たんに否定的措辞の地位に後退する。この戦いの外部に認識者の立つところ、「第三者」の席が予約されてあるわけではない。認識者は人民として戦うか。否。人民とともに戦うか。否。認識者として戦うことによってしか人民とともに戦えない。否、否、認識者は人民の意志に反しても戦う。人民とは何かを<見る>こと抜きに認識者・開高の立場はない。この点において戦うことを根絶することは不可能なのだ。これに反して戦争は、少なくとも具体的な戦争は停止可能である。だが停止不能の戦争もある。それがベトナム戦争だ。認識者はこのことをこそ指摘せねばなるまい。〕(『國文学』1982年11月号「開高健 時代精神のメタファー」掲載)――これもまた<闘争の構図>のひとつでしょう。


――1969年の<夏休み>も残すとこ2週間となって、「沖縄渡航」出航まであと1週間という日の朝。突如、都立代々木高校のことが新聞記事となったのです…。

⇒〔第2章〕へ続く。
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