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都立代々木高校<三部制>物語

都立代々木高校三部制4年間の記録

《序-2》講堂に浮かぶ<月の光>

2024年09月22日 23時24分16秒 | 第1部 入学そして新生活
〔最終章-序〕山のあなたの空遠く

《序-2》講堂に浮かぶ<月の光>

朝。リビングの片隅に位置する食卓から南に面した庭を眺めていると、8時を過ぎた頃からようやく朝陽がリビングへ斜めになって差し込んでくる。丘陵地の住宅街中腹に位置する我が家は東側に小高い山並みが陽の登るのを遮っているのか、周辺は明るく輝いているのにどうしてもリビングに朝陽が届くのが8時を過ぎてしまう。
――FMの音楽を耳に、ひとり紅茶カップを口にあて陽光をみつめていると何となく光が弱く感じる。9月も中旬を過ぎたというのに日中は相変わらず暑い日が続いているのだが、朝の光だけは<秋>を届けてくれる。

卓上にはトースト1枚と、横の皿には茹で卵を主人公にキャベツの千切り胡瓜などが盛られ、深煎り胡麻ドレッシングなんぞかけながらモサモサ口に運んでいる。いつだったかテレビドラマで紅茶に苺ジャムを入れてかき回しているシーンをみてから、時折、紅茶にジャムを入れることが習慣になってしまった。――このようなシーンを重ねていると日常生活に<幸せ>などというのは、箱に詰まったティシュのように幾重も重なって存在している。
しかし、それは背中合わせのところに何重にも包装された<苦渋の選択>を待っている書類の山との格闘が控えているからだろうと、常々感じる。我ながら何をそれまでして自分を追い込んでいるのか分からない。もっと年齢に相応しくノンビリ土いじりか囲碁仲間でもつくって旅行のひとつでも行けばいいのだが、それができない。

――17日は<中秋の名月>。庭に面した2階のベランダから東の空を望むと小高い山並みから顔を出した満月が鈍く金色の光を放っている。ときおり通過する車以外に音もなく<満月>と対面するかたちとなるのだが、暫くするとどうしても60年以上も昔に東北で経験した<満月の夜>を思い出さずにはいられない。

■講堂に浮かぶ<月の光>(1)
あれは9月下旬の夜。私は学校舎の講堂の只中に独りたたずみ、南側の大きな明取り窓から煌々と輝く<満月>に面と向かっていました。静寂のなかに<月の光>は講堂中央部の一角を浮き上がらせ、まさに私の心のなかを床面に投影させるような光景でした。それは宇宙から私を優しく包み込むように感じたものです。

その夜の前日、夕刻。家のなかの些細な出来事で相手に大声で「出ていきなさい!」と叫ばれたのです。私は相手の眼を暫く覗き込んだ後、勝手口から無言で出ていきました。しばらく歩いていくと薄手のシャツの片腕が先ほどのトラブルで引きちぎられたのか半分破けていました。人と会うと怪訝に思われるのでシャツを脱いだまま半袖の下着姿で、かねてからこの日が来るのを予見して一夜の宿となる場所を確保していたので、迷わずそこに向かっていました。

隠れ家となるのは学校の天井裏です。実のところ「出ていけ!」と言われたのは初めてではないのですが、今回はいつもと相手の様子が違う剣幕なので「長期戦」を覚悟して天井裏に直行しました。――いつも私は、相手が激高すると何も語らずただ黙って心を閉ざし時間が過ぎるのを耐えていました。私の日頃の行動が気に食わないのか何かにつけ小言を言われているのですが、私も中学生となり内心思うところもあるのですが、相手が<枠>のなかへ閉じ込めよう追い込もうとすることに鈍感なのか気が回らないのか、一向に相手の言うことを聞きません。それで益々気が高まって「枠へ、枠へ」へと追い込もうとします。その様相は、相手が可哀想なほどです。

中学3年生で身長は170センチ。あまりうるさく言われてぶん殴れば2メートルはぶっ飛んでいくことは分かっています。それではこの東北の田舎に居場所がありません。「私に対して、もっと会話をすればいいのに」と思うようになったのは、ずいぶん経ってからのことです。――隠れ家で一夜を過ごした翌日、昼間から辺りがにわかに騒がしくなり学校中で私を探している声が聞こえます。しかし相手と対峙し「長期戦」を覚悟しているので、この場所を一歩も出ることはしません。
やがて夕刻になり薄暗くなった屋根裏。三角の天井近くに設けられた30センチ四方の明取りガラスにへばりついた蜘蛛の巣。窓枠の隙間風に震えているのを見ていると、ふと「こんなちっぽけな出来事に自分が関わっていること」につくづく嫌になったものです。その一方で既に始まっている「仕掛けられた出来事」にどのような<落しどころ>を見出せばいいのか。「そうか。いまの自分は起きていることの主人公なのだ」と。すると私の考え行動が今後の事態を左右する。

--東北の9月下旬というのは朝夕上着がいるほど冷えます。身体には片袖が千切れた薄手のシャツと下着だけ。一昼夜何も食べていないのだが空腹は感じない。だが、もう一晩この場所で寝るのは寒いと考え物置に置かれている演芸会用の幕でも被ることを思いついて、初めて屋根裏から出たのは周囲が暗くなってから。校舎中央を通る一本の廊下に出ると講堂の方が明るく感じます。電灯の消えた講堂に入っていくと床の中央部が静寂のなかにも眩しいまでに輝いています。そして南側の明取りの大きなガラス窓を見上げると、四角に枠どられた夜空に<満月>が浮かんでいるのです――。

小中学校が併設され生徒100名ほどが通う校舎に付設された講堂は、決して広くはありません。その講堂の床に浮かぶ<月の光>の位置から真っすぐ<満月>を見上げると、「月は地球の何もかもを覗いているのか。人の生活、動物の営み草木の成長。そして雲に海に飛行機に船に。そうだよな。こんなチマチマした出来事などに捕らわれることはない、もっと雄大な気持ちをもたなくてはなぁ」と感じたものです。
しばらく月を見上げて物置へ向かおうとしたとき、宿直室の方から廊下を歩いてくる足音が聞こえます。私は身を固くして廊下へでる角の壁際に体をくっつけて立ったままの姿勢でいました。足音が近づいてきます――。

――あの夜から61年を経て同じ9月となりました。朝、紅茶カップを口にあて陽光をみつめ、夜2階のベランダから<中秋の名月>を眺めている。
あの夜の出来事はひとつの<事件>として集落中の話題となり、様々な人が私の所へやってきて様々なことを言うのですが、私は一切答えずただ笑みを浮かべて黙っていました。同級生がもっていた新聞記事に「A君が親の小言を苦にして家出」と書いてあるのを読んで、「何が家出か。オレは家を追い出されたのだぞ」と悪態をついたものです。

やがてこの出来事が、翌年春の高校進学の受験勉強を中断させ、<大都会・東京>へ単身向かうことになります。そして5年を経て<激動の渦中>へ迷い込み、さらに5年が経過して<ヤクザな世界>へ足を踏み入れることになるのです。その一連のことが<幸せ>であったのか<不幸>になったのか、よく分かりません。しかし、その原点となったのが、あの夜の「講堂に浮かぶ<月の光>」であり、明取りを通じて「私と対話した<満月>」であったのは確かです。

■国立博物館近くの喫茶店2階。上野のオアシス。


■代々木高校<三部制>上級生と会う
先月、8月下旬に東京へ一週間ほど滞在していました。<夏>に上京するのは一昨年以来2年ぶりです。年に1~2回上京しますが、いつも単身で都内をうろついています。2年前の夏は渋谷、下北沢、新宿の<山の手三角地点彷徨>を試みました。でも途中で何を間違えたのか代々木上原駅に降りてしまって、炎天下に代々木高校跡地へたどり着いたのです。
今回は会合が幾つか重なり事前に読まなくてはならない資料と、ひとつの会議で私が発言しなくてはならないので、その内容を練り上げなくていけない。ゆっくり資料を読める場として思いついたのは上野。博物館と美術館の片隅に休憩用の椅子やソファが設けてある。そこを利用することにしました。しかも高齢者は入場料タダだぜ。――でもね。ソファに座って資料を広げると「コト!」と深い眠りに陥るのサ。

■科学博物館「フーコーの振子」


――そして。会合は無事に終えて、明日は東京を離れるという日の昼間、珍しく代々木高校<三部制>の上級生と落合うことになりました。
待ち合わせ場所の池袋駅に降り立つと<大都会・東京>の北部副都心に相応しく、JR山手線を基軸に西武・東武両線が食い込み、地下鉄丸の内線・副都心線が地下にへばりつく感じ。私が生活していた50年前にはJR埼京線は存在してなかったようだが、赤羽駅で京浜東北線とクロスする。――時間があったので駅周辺を歩いてみようとしたのだが、あまりの暑さに閉口。地下街を一巡りしてデパート内を彷徨ってみました。さすがに副都心の中心街だけあって人々の往来は激しい。

今回の一件は、東京滞在一週間の前半は会合が重なっているが後半の空いた時間に、しばらく会っていない上級生のひとりと会うことを思い立ったことから始まる。上京の一週間ほど前に連絡を入れたのですが、電話口に出たのは上級生のお連れ合い。そこで耳にしたのは、本人は昨年亡くなっていたこと。私としてはお互い歳をとって「今生のお別れ」を交わすつもりの思いがあったのだが、「お別れ」を言う前に先方の方が先に旅立ってしまった。
電話口のお連れ合いは亡くなった彼とは代々木高校<三部制>午前部の同級生。お互い再婚なので、20年ほど前に彼の自宅を伺ったときは挨拶程度。電話では彼が長い闘病生活の末亡くなったこと、私が彼と一時期同じ仕事に赴いていたことなど一通りの話をしたのち、お互い代々木高校<三部制>に同時期在籍していたときがあったので当時の話に花が咲きました。そこで彼の闘病生活や代々木高校時代のことなどを語ろうと、上京時に会うことになったのです。

落合う約束の池袋駅には、お連れ合いの彼女が同級生を数人連れてきていました。デパート上階で会食をしながら話をしたのですが、私からみれば彼ら上級生の「ミニ同窓会」に付き合っている感じです。
ここで少し整理すると、彼らは私の2年上級で▼「1964年入学~68年卒業」となります。この<68年卒業組>には今回再会予定だった彼と、私が在校中に「社研部」をともに創設したシゲさんの二人が在籍していました。しかし二人とも事情があって1年留年して▼「1965年入学~69年卒業」組と一緒になっています。私は▼「1966年入学~70年卒業」ですから、彼とシゲさんと初めて会ったときには二人とも1年上級という関係でした。

<68年卒業組>は1964年入学で、その年の秋に戦後初めて東京オリンピックが開催されている。本来ならば私が中学卒業とともに高校入学予定の年でしたので、年齢的には現在<76歳>で同じ年齢です。ただ1968年卒業時には校舎が改築中で旧木造校舎のまま卒業したことになります。私は2年遅れでしたが旧木造校舎で2年、残る2年を新築なった校舎で学んでおり両校舎を全館利用できたことになります。
ただ<68年卒業組>は卒業闘争やPTA問題を置き土産に卒業しており、翌69年に継承したシゲさんが卒業時に我々<70年卒業組>へ繰延べて置いていったのです。「そんなの要らないよ」と言いたかったのですが、「68・69年両卒業組」からの外圧は激しく、その運動を継承した結果、1969年夏に「PTA解散」となってしまった。「おお~よくぞ3年がかりで頑張ったな!」と言われるところですが、私個人としては、ちっとも嬉しくない。だって「あいつがPTAをぶち壊した生徒だぜよ」と黒いレッテルが張られてしまったから。いや待てよ、そのことで<ポケット一杯の花>が集まったのか、ん。

――私は高校卒業後<冬眠生活>に入っていたので代々木高校関係者とは数名会っただけで、地方に移り棲んでからも上京の折ほとんど会っていません。それが今回、数名の上級生にいきなり会ったということは彼らが卒業して以来ですから55年ぶりとなります。卒業時の全員写真を見せてもらったのだが、いまは年齢を経ただけの姿。なかには杖を片手に歩かれている方もある。ただお会いしたなかで在校中に交際のあった方は一名だけで、他の方は今回初見ということでしょうか。皆さん在校中の話で盛り上がっていましたが、私は静かに話しを伺うだけ。ただ、我々の年齢となると亡くなられた方、病気で療養されている方の話が出ました。

自分が創りあげた代々木高校<ブログ>世界に10年もの間どっぷり浸かっていると、いきなり目の前に当の代々木高校生が55年、半世紀ぶりに登場してくるというのも不思議なものです。参加者のひとりの方が言われていましたが「代々木高校に在籍していた方、皆さんは凄いものを持っておられる」と。それは皆、<仕事と学業>を両立させ4年間もの長い期間「自分との闘い」に勝ち抜いてこられたからでしょう。

■8月下旬。上野公園から空を見上げると秋の気配が


■講堂に浮かぶ<月の光>(2)
――宿直室からの足音が止まる。
私に気づいて振り向いた教師は「お。」と言ったかと思うと、右の手で左腕をがっしり掴んで「絶対離さないぞ」という意気込みがあった。そのとき、何故か急に涙がこみあげて、教師の胸に顔を埋めて泣いたのだ。

――その時のシーンを後年、何度か思い出す。するとあの時をもって私は、空想と文学だけの<子供の世界>から、突如、現実を目の当たりにした<大人の世界>へと飛翔した感じがあったと思い描く。
何故なら「講堂に浮かぶ<月の光>」を見つめた夜から半年後に<大都会・東京>の真っただ中に立っていた。そこは、空想と文学だけの<子供の世界>では生きていけない、まさに15歳の自分には<大人の世界>が待っていたからだ。――ある意味、私は<大都会・東京>へ登場する準備が半年前の9月下旬の夜、「講堂に浮かぶ<月の光>」のなかに隠されていたのではないかと思う。



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