<第3章>社研部、動く。
〔2回〕 『二十歳のころ』から
私が1968年に<20歳>になったのは、私のせいではありません。ただ、誰もが<20歳>になったときに置かれている環境や男女の違い、出逢った人々、また遭遇した<時代>というのは、その後の生き方を大きく変えていくのではないでしょうか。
でも、<20歳>になるというのは不思議なものですね。前日までの「19歳」とは何も変わらないのに、何故か気持ちにプレッシャーを感じるとともに解放された<何か>を感じるのですね。それじゃ<20歳>が大人かといえば、まだ自覚がない。この点は女性との違いかもしれませんが。
手許に『二十歳のころ』という新潮文庫Ⅰ・Ⅱの2巻があります。各界で活躍する著名な方から大学の教授、長崎の被爆者、街のホームレスに至るまで「20歳の頃に何をしていたのか、何を考えていたか」をインタビュー形式で取材したものをまとめた内容です(立花ゼミ「調べて書く」共同制作)。⇒画像をクリックすると拡大

回答者は年代別に並べられ、ご年配の方々では川上哲治(元読売巨人軍監督=20歳を迎えた年:1940年=以下同)、鶴見俊輔(評論家:42年)、水木しげる(漫画家:42年)、ジョージ川口(ジャズドラマー:47年)など。現在でも活躍されている方々では黒柳徹子(女優:53年)、山田太一(作家・脚本家:54年)、大江健三郎(小説家:55年)、横尾忠則(美術家:56年)、松本零士(漫画家:58年)などがおられます。
また、先輩格では立花隆(評論家:60年)、加藤登紀子(歌手:63年)、米長邦雄(棋士:63年)の各氏。私たちと同世代では赤川次郎(作家:68年)、糸井重里(コピーライター:68年)、二木てるみ(女優:69年)、萩尾望都(漫画家:69年)の各氏。やや下がって坂本龍一(音楽家:72年)、野田秀樹(劇作家・演出家:75年)、福島瑞穂(参議院議員:75年)などの各氏がおられます。
ここで各氏の「20歳の頃」を紹介したいのですがスペースの関係でできません。ただ、私たちと同世代の方々は、後に「団塊の世代」といわれた戦後ベビーブームの全盛期?に生まれたことから小学校から中学、高校と教室に溢れるばかりの生徒数のなかで、「受験戦争を勝ぬいていかなければならなかった」と述懐されています。また大学入って何らかのかたちで学生運動とは無縁ではなかったようです。
各氏、それぞれ苦悶した青春時代をおくられていますが、なかでも棋士・米長邦雄さんは60年安保のころ高校生で社研部の部長として、「国会を取り囲んだ高校生のひとりでした」と語っています。米長さんは<20歳>になって「棋士として強くなろうと努力する」とともに「悲願千人斬り」という目標をたてて実践していたとか。ミツマメ君なぞ「千人斬り」どころか何人ものオナゴから斬られ斬られて、背中は傷だらけ…何のキズかって?それ以上は聞かないで~!
え。千人斬りってな~に…ですって? その解答は本書を読みなさいね。ただ米長さんは<千人斬り>について「一対一の女性というのは非常に敏感なんですよ。理屈じゃない。目と耳から入ったものは通用しませんからね。裸ですから…」と語っています。フムフム。。。なるほど…。また、音楽家・坂本龍一さんは「…友人が必要だったのは、自己が確立していなかったから」との発言に興味ひかれるものがあります。
■「調べて書く」ということ
ところで、この本『二十歳のころ』というのは、評論家として活躍している立花隆さんが1996年秋から98年にかけて東京大学教養学部で開講していた、「調べて書く」というゼミナールで行われた「共同作品」ということです。
立花隆さんは、本書のなかで「『調べて書くこと』が大切である」ことを次のように記述されています。「人を動かし、組織を動かし、社会を動かそうと思うなら、いい文章が書けなければならない。いい文章とは、名文ということではない。うまい文章でなくてもよいが、達意の文章でなければならない。文章を書くということは、何かを伝えたいということである。自分が伝えたいことが、その文章を読む人に伝わらなければ何もならない」さらに、「調べることと書くことが、一生の生活のなかで最も重要とされる知的能力だからである」と。
『調べて書くこと』は、立花さんのようなジャーナリストにだけ必要とされるものではなく、「現代社会において、あらゆる知的職業において一生の間必要とされる能力である」それは、「近代社会は、あらゆる側面において基本的に文書化されることで組織されているからである」と結ばれています。
立花隆さんが言われるように、今日の社会は「基本的に文書化されることで組織されている」という観点は重要ですね。ただ、「書く」ことの怖さもあります。何故なら「書いた」ことで、「何かを伝えたい」思いや思想性が<独り歩き>してしまうことです。一旦、印刷物として広く配布され大勢の人々の目に触れたときに偏った見方、間違った理解の仕方をされるからです。時には発信した情報や思想性が、真逆に捉えられることがあります。それだけに、「調べて書くこと」を行う際には、「調べる」ことへの感性と分析力、「書くこと」の筆致が問われます。
ところで立花隆さんは、農本主義を掲げ愛郷塾を創設し「5・15事件」に関わった橘孝三郎の従兄弟の子にあたるのですね。(⇒農本主義に関しては『五・一五事件』=保阪正康著=を参照)

■社会の扉
私が68年に<20歳>を迎えたとき、当時の生活基盤である新聞販売店で<叛乱>が起きて従来の受け身的なものの考え方に対し、ある一定の<主体性>をもった思考回路が誕生しました。それまでは、何も考えずに新聞を配り登校するという反復行動を行っていたわけではないのですが、なにか「情熱をかける生き方」というようなものがどのようなものであるのか判然としない日々を過ごしていたわけです。ですから新聞店の<叛乱>事件(そう私のとっては事件でしたが)に出会ったからといって、この「事件」を通して今日明日なにかが始まるというものではありませんでした。
しかし、<1968年>という年は、世の中が「70年安保改定」を巡って騒然としており、遥か何千キロも離れたベトナムで本格的な戦争が行われていて若者が何人も死んでいる現実。自分の体内で「私と、このことに何の関わりがあるのだろう」と思いはしても、「安保=ベトナム戦争=新聞配達と学校の世界の私」がどのように繋がっているのか判然としません。それは、世の中一般の人々の胸中にわだかまる想念だったのかも知れません。確かにベトナム戦争の戦況報告や、反戦闘争に学生が機動隊と激突していることがメディを通じて連日、報道されてはいましたが「自分の生活にどのように結びつくのか」、そのヒントすらみつかりません。
でも不思議なもので、私が1968年に<20歳>を迎えたとたんに社会の方から、扉を開いてきたのです。そのキッカケとなったのが新聞店の<叛乱>事件であり、学内でのクラブ活動としての「社研部」でした。
〔2回〕 『二十歳のころ』から
私が1968年に<20歳>になったのは、私のせいではありません。ただ、誰もが<20歳>になったときに置かれている環境や男女の違い、出逢った人々、また遭遇した<時代>というのは、その後の生き方を大きく変えていくのではないでしょうか。
でも、<20歳>になるというのは不思議なものですね。前日までの「19歳」とは何も変わらないのに、何故か気持ちにプレッシャーを感じるとともに解放された<何か>を感じるのですね。それじゃ<20歳>が大人かといえば、まだ自覚がない。この点は女性との違いかもしれませんが。
手許に『二十歳のころ』という新潮文庫Ⅰ・Ⅱの2巻があります。各界で活躍する著名な方から大学の教授、長崎の被爆者、街のホームレスに至るまで「20歳の頃に何をしていたのか、何を考えていたか」をインタビュー形式で取材したものをまとめた内容です(立花ゼミ「調べて書く」共同制作)。⇒画像をクリックすると拡大

回答者は年代別に並べられ、ご年配の方々では川上哲治(元読売巨人軍監督=20歳を迎えた年:1940年=以下同)、鶴見俊輔(評論家:42年)、水木しげる(漫画家:42年)、ジョージ川口(ジャズドラマー:47年)など。現在でも活躍されている方々では黒柳徹子(女優:53年)、山田太一(作家・脚本家:54年)、大江健三郎(小説家:55年)、横尾忠則(美術家:56年)、松本零士(漫画家:58年)などがおられます。
また、先輩格では立花隆(評論家:60年)、加藤登紀子(歌手:63年)、米長邦雄(棋士:63年)の各氏。私たちと同世代では赤川次郎(作家:68年)、糸井重里(コピーライター:68年)、二木てるみ(女優:69年)、萩尾望都(漫画家:69年)の各氏。やや下がって坂本龍一(音楽家:72年)、野田秀樹(劇作家・演出家:75年)、福島瑞穂(参議院議員:75年)などの各氏がおられます。
ここで各氏の「20歳の頃」を紹介したいのですがスペースの関係でできません。ただ、私たちと同世代の方々は、後に「団塊の世代」といわれた戦後ベビーブームの全盛期?に生まれたことから小学校から中学、高校と教室に溢れるばかりの生徒数のなかで、「受験戦争を勝ぬいていかなければならなかった」と述懐されています。また大学入って何らかのかたちで学生運動とは無縁ではなかったようです。
各氏、それぞれ苦悶した青春時代をおくられていますが、なかでも棋士・米長邦雄さんは60年安保のころ高校生で社研部の部長として、「国会を取り囲んだ高校生のひとりでした」と語っています。米長さんは<20歳>になって「棋士として強くなろうと努力する」とともに「悲願千人斬り」という目標をたてて実践していたとか。ミツマメ君なぞ「千人斬り」どころか何人ものオナゴから斬られ斬られて、背中は傷だらけ…何のキズかって?それ以上は聞かないで~!
え。千人斬りってな~に…ですって? その解答は本書を読みなさいね。ただ米長さんは<千人斬り>について「一対一の女性というのは非常に敏感なんですよ。理屈じゃない。目と耳から入ったものは通用しませんからね。裸ですから…」と語っています。フムフム。。。なるほど…。また、音楽家・坂本龍一さんは「…友人が必要だったのは、自己が確立していなかったから」との発言に興味ひかれるものがあります。
■「調べて書く」ということ
ところで、この本『二十歳のころ』というのは、評論家として活躍している立花隆さんが1996年秋から98年にかけて東京大学教養学部で開講していた、「調べて書く」というゼミナールで行われた「共同作品」ということです。
立花隆さんは、本書のなかで「『調べて書くこと』が大切である」ことを次のように記述されています。「人を動かし、組織を動かし、社会を動かそうと思うなら、いい文章が書けなければならない。いい文章とは、名文ということではない。うまい文章でなくてもよいが、達意の文章でなければならない。文章を書くということは、何かを伝えたいということである。自分が伝えたいことが、その文章を読む人に伝わらなければ何もならない」さらに、「調べることと書くことが、一生の生活のなかで最も重要とされる知的能力だからである」と。
『調べて書くこと』は、立花さんのようなジャーナリストにだけ必要とされるものではなく、「現代社会において、あらゆる知的職業において一生の間必要とされる能力である」それは、「近代社会は、あらゆる側面において基本的に文書化されることで組織されているからである」と結ばれています。
立花隆さんが言われるように、今日の社会は「基本的に文書化されることで組織されている」という観点は重要ですね。ただ、「書く」ことの怖さもあります。何故なら「書いた」ことで、「何かを伝えたい」思いや思想性が<独り歩き>してしまうことです。一旦、印刷物として広く配布され大勢の人々の目に触れたときに偏った見方、間違った理解の仕方をされるからです。時には発信した情報や思想性が、真逆に捉えられることがあります。それだけに、「調べて書くこと」を行う際には、「調べる」ことへの感性と分析力、「書くこと」の筆致が問われます。
ところで立花隆さんは、農本主義を掲げ愛郷塾を創設し「5・15事件」に関わった橘孝三郎の従兄弟の子にあたるのですね。(⇒農本主義に関しては『五・一五事件』=保阪正康著=を参照)

■社会の扉
私が68年に<20歳>を迎えたとき、当時の生活基盤である新聞販売店で<叛乱>が起きて従来の受け身的なものの考え方に対し、ある一定の<主体性>をもった思考回路が誕生しました。それまでは、何も考えずに新聞を配り登校するという反復行動を行っていたわけではないのですが、なにか「情熱をかける生き方」というようなものがどのようなものであるのか判然としない日々を過ごしていたわけです。ですから新聞店の<叛乱>事件(そう私のとっては事件でしたが)に出会ったからといって、この「事件」を通して今日明日なにかが始まるというものではありませんでした。
しかし、<1968年>という年は、世の中が「70年安保改定」を巡って騒然としており、遥か何千キロも離れたベトナムで本格的な戦争が行われていて若者が何人も死んでいる現実。自分の体内で「私と、このことに何の関わりがあるのだろう」と思いはしても、「安保=ベトナム戦争=新聞配達と学校の世界の私」がどのように繋がっているのか判然としません。それは、世の中一般の人々の胸中にわだかまる想念だったのかも知れません。確かにベトナム戦争の戦況報告や、反戦闘争に学生が機動隊と激突していることがメディを通じて連日、報道されてはいましたが「自分の生活にどのように結びつくのか」、そのヒントすらみつかりません。
でも不思議なもので、私が1968年に<20歳>を迎えたとたんに社会の方から、扉を開いてきたのです。そのキッカケとなったのが新聞店の<叛乱>事件であり、学内でのクラブ活動としての「社研部」でした。