■<集団就職>歴史的背景
日本社会に「集団就職」という概念が現れたのは、戦前に高等小学校を卒業した人達が集団で就職する例があったといわれています。戦中には「集団疎開」という概念で都会の年少者を「戦災から守る」ことを理由に、国策で地方へ集団で疎開させる(追いやる?)事業が実施されました。
「集団」で大量の人間を一定の目的をもって移動させる。しかも国策で。そこには集団で移動させられる当事者の思惑とは離れた恣意的なものが見えてくるのですが。
労働の一形態として「出稼ぎ」自体は戦前から広く行われていましたが、おもに農閑期の酒造や炭鉱など一次産業に限られていたようです。しかし、1950~60年代の大きな産業構造の変化に伴い、出稼ぎ先はいわゆる「太平洋ベルト地帯」での製造業や建設業へとシフトしていきます。東京オリンピックを契機とする建設ブームは、出稼ぎが「都市部への人口流入」の先駆けとなりました。
一方で、出稼ぎという上京者は都会の片隅で黙々と道路やビル、製品を作り続けていきます。やがて製造業での臨時雇いには外国からの出稼ぎ者が増え、さらに今日では派遣の労働者によって職場は占められていきます。ここに流動的な就労形態と「貧困の構造」があります。
戦後期に工場生産システムが大量生産の時代に入り、製造業界で単純労働力を必要としていた1960年代を中心とした高度経済成長期の「集団就職」が一般的です。戦災などで敗戦とともに激減した都市人口。一方で農村に行き場のない労働力が大量に存在していました。その若い労働力を吸収するかたちで、家族経営が多かった小売業や飲食業も家族以外に補助的な労働力を求めていました。
賃金も農村部より都市部の方が高く、大量の中卒者が毎年地方の農村から大都市部に移動、三大都市圏の転入超過人口の合計が40万人~60万人となりました。<日本の近代>は農村と都市の間を労働力が行き来した歴史です。
■産み落とされた「金の卵」
日本は戦後復興から一気に高度経済成長へと突き進み未曾有の好景気に沸きました。都市の中小企業や個人商店などは深刻な労働力不足に見舞われていまして、若い労働力を求め争うように地方の若者たちの採用競争が繰り広げられ、中卒者が「金の卵」ともてはやされるようになったのは60年代前半からです。1964年の東京オリンピック開催を目前に控え、日本が高度経済成長に入ると中卒者への求人需要は加速度的に高まりました。
それまでの求人者と求職者の立場が逆転。企業側は「金の卵」獲得に必死となり、生徒たちの「青田刈り」まで行うようになったのですが、「金の卵」といわれながらも、その多くは上野駅から零細な商店や工場に散っていたのです。
業界団体や商店街などの地域団体が、地方の職業安定所協力し採用条件を整え一括採用に近い形で採用を行っています。作家・出久根さんが「集団就職を考案し実行した先覚者は、世田谷区の桜町商店街」と指摘していましたが、まさしく「商店街などの地域団体」が<集団就職>を仕掛けたのです。
洋服業、クリーニング業、美容・理容業などの業界団体が合同で求人票を出す場合が多く、男子は機械工、女子は繊維関係などへの就職が多くみられました。1965年(昭和40年)春、東北地方の中卒者約5万人のうち60%を超える3万人以上が県外に就職していますが、うち2万人が京浜地方へ流入しています。
■大量輸送機関「集団就職列車」
青森発の<集団就職列車>が走り始めたのが1954年(昭和29年)です。労働省(当時)が「計画輸送列車」と呼んだ集団就職列車は1975年までの21年間にわたって全国各地の中卒者を東京・名古屋・大阪などの大都市に送り続けてきました。
学校や職業安定所を通じて京浜・中京・京阪神地区などに採用された中学卒業者を乗せた臨時特別列車<集団就職列車>は、最初のうちは関係する県が、後に交通公社(現・JTB)が企画して国鉄(現・JR)の協力によって運行されました。
都会に住む若者の採用が困難になってくると零細企業や事業者は地方へと目を向けるようになったのですが、しかし零細企業や事業者たちが単独で地方出身者を採用することはコストの面で難しく、合同で地方出身者の採用を行う「集団求人」が考えられました。このような一括採用に対応して都会へ向かう地方出身者の就職者たちをまとめて運んだのが<集団就職列車>の始まりだったのです。
つまり<集団就職列車>というのは、国(労働省)及び学校や職業安定所、業界団体や商店街などの地域団体が一体となった「国策」として実施された巨大プロジェクトだったわけです。すなわち戦中の「集団疎開」となんら変わらぬ概念で彩られています。
都会に出て就職しようとしている地方の中卒者にとって、職業安定所がなかに入っていることで安心して就職先を決めることができたのです。当時は約束と異なり労働条件が悪く賃金が低いなどの就職時のトラブルが多発していました。それだけに雇用者・従業者双方にとって「集団就職」は良縁と思われたのですが…。
日本社会に「集団就職」という概念が現れたのは、戦前に高等小学校を卒業した人達が集団で就職する例があったといわれています。戦中には「集団疎開」という概念で都会の年少者を「戦災から守る」ことを理由に、国策で地方へ集団で疎開させる(追いやる?)事業が実施されました。
「集団」で大量の人間を一定の目的をもって移動させる。しかも国策で。そこには集団で移動させられる当事者の思惑とは離れた恣意的なものが見えてくるのですが。
労働の一形態として「出稼ぎ」自体は戦前から広く行われていましたが、おもに農閑期の酒造や炭鉱など一次産業に限られていたようです。しかし、1950~60年代の大きな産業構造の変化に伴い、出稼ぎ先はいわゆる「太平洋ベルト地帯」での製造業や建設業へとシフトしていきます。東京オリンピックを契機とする建設ブームは、出稼ぎが「都市部への人口流入」の先駆けとなりました。
一方で、出稼ぎという上京者は都会の片隅で黙々と道路やビル、製品を作り続けていきます。やがて製造業での臨時雇いには外国からの出稼ぎ者が増え、さらに今日では派遣の労働者によって職場は占められていきます。ここに流動的な就労形態と「貧困の構造」があります。
戦後期に工場生産システムが大量生産の時代に入り、製造業界で単純労働力を必要としていた1960年代を中心とした高度経済成長期の「集団就職」が一般的です。戦災などで敗戦とともに激減した都市人口。一方で農村に行き場のない労働力が大量に存在していました。その若い労働力を吸収するかたちで、家族経営が多かった小売業や飲食業も家族以外に補助的な労働力を求めていました。
賃金も農村部より都市部の方が高く、大量の中卒者が毎年地方の農村から大都市部に移動、三大都市圏の転入超過人口の合計が40万人~60万人となりました。<日本の近代>は農村と都市の間を労働力が行き来した歴史です。
■産み落とされた「金の卵」
日本は戦後復興から一気に高度経済成長へと突き進み未曾有の好景気に沸きました。都市の中小企業や個人商店などは深刻な労働力不足に見舞われていまして、若い労働力を求め争うように地方の若者たちの採用競争が繰り広げられ、中卒者が「金の卵」ともてはやされるようになったのは60年代前半からです。1964年の東京オリンピック開催を目前に控え、日本が高度経済成長に入ると中卒者への求人需要は加速度的に高まりました。
それまでの求人者と求職者の立場が逆転。企業側は「金の卵」獲得に必死となり、生徒たちの「青田刈り」まで行うようになったのですが、「金の卵」といわれながらも、その多くは上野駅から零細な商店や工場に散っていたのです。
業界団体や商店街などの地域団体が、地方の職業安定所協力し採用条件を整え一括採用に近い形で採用を行っています。作家・出久根さんが「集団就職を考案し実行した先覚者は、世田谷区の桜町商店街」と指摘していましたが、まさしく「商店街などの地域団体」が<集団就職>を仕掛けたのです。
洋服業、クリーニング業、美容・理容業などの業界団体が合同で求人票を出す場合が多く、男子は機械工、女子は繊維関係などへの就職が多くみられました。1965年(昭和40年)春、東北地方の中卒者約5万人のうち60%を超える3万人以上が県外に就職していますが、うち2万人が京浜地方へ流入しています。
■大量輸送機関「集団就職列車」
青森発の<集団就職列車>が走り始めたのが1954年(昭和29年)です。労働省(当時)が「計画輸送列車」と呼んだ集団就職列車は1975年までの21年間にわたって全国各地の中卒者を東京・名古屋・大阪などの大都市に送り続けてきました。
学校や職業安定所を通じて京浜・中京・京阪神地区などに採用された中学卒業者を乗せた臨時特別列車<集団就職列車>は、最初のうちは関係する県が、後に交通公社(現・JTB)が企画して国鉄(現・JR)の協力によって運行されました。
都会に住む若者の採用が困難になってくると零細企業や事業者は地方へと目を向けるようになったのですが、しかし零細企業や事業者たちが単独で地方出身者を採用することはコストの面で難しく、合同で地方出身者の採用を行う「集団求人」が考えられました。このような一括採用に対応して都会へ向かう地方出身者の就職者たちをまとめて運んだのが<集団就職列車>の始まりだったのです。
つまり<集団就職列車>というのは、国(労働省)及び学校や職業安定所、業界団体や商店街などの地域団体が一体となった「国策」として実施された巨大プロジェクトだったわけです。すなわち戦中の「集団疎開」となんら変わらぬ概念で彩られています。
都会に出て就職しようとしている地方の中卒者にとって、職業安定所がなかに入っていることで安心して就職先を決めることができたのです。当時は約束と異なり労働条件が悪く賃金が低いなどの就職時のトラブルが多発していました。それだけに雇用者・従業者双方にとって「集団就職」は良縁と思われたのですが…。