さて。将来的な思惑を胸に高校へ通いながら学友と映画館や街中へと彷徨っておりました頃、私たちと同じ世代の若者が<新たな時代>を切り拓くために、水面下では<巨大な準備>が進められていました。
それは、1960年代も半ばになると資本主義社会が高度に発達し「高度経済成長」といわれながら、一方で様々な社会的矛盾が噴出し、最高学府といわれる大学に在籍する学生のなかに現状の――すなわち、「ブルジョア体制に包摂された大学がもつ本質的矛盾」をえぐり出す闘争が、「権力との必然的な全面対決」へと拡大していくことで<大学闘争>として現れてくるのです。
とりわけ戦後最大の闘いといわれた「60年安保闘争」から5年余を経て、この闘争の総括を経たなかで大学を中心に新たな闘いに向けた準備が行われていたということです。それは60年代後半にみられる全国的な大学闘争として<燎原の火>のように燃え広がりました。だが、国は機動隊を投入することで力により圧殺、一連の闘争を鎮圧しました。
しかし、それから40年余を経て今日の大学は「学生運動」を一切許さない管理強化の「塀の中の学問」、若しくは<産学協同路線>に基づいた「企業向け予備軍養成機関」と成り下がっています。果たして最高学府といわれる大学は、企業向けの「予備軍養成機関」として設けられていたのでしょうか。

さらに言えば、堤未果が『ルポ・貧困大国アメリカⅡ』(岩波新書)で明らかにしたように現在の米国の大学は、大学間の格差が広がるとともに学生の納める学費が異様に増大し学資ローンが拡大。これに伴い大学とクレジット会社が提携し学生に学資ローンを安易に貸し付ける行為が広がっています。
そのことは他国、米国の問題ではなく今日の日本の大学の現状なのですが、その萌芽はすでに1960年代に始まっていたのです。
■全学連の再建
1966年12月。全国35大学、71自治会、代議員182名ほか1800名の学生が結集して、明治大学記念会館など2会場で3日間にわたって『全学連再建大会』が開催されました。この大会をリードしたのは社学同、社青同解放派、革共同中核派の3組織(党派)で、後に<三派全学連>といわれます。
大会2日目に「総括討論」が行われ、60年安保闘争とそれ以後の運動の総括を巡って激しい論争が展開されたのですが、次の<共通事項>をもって本大会が確認されていきます。
「基本スローガンは<侵略と抑圧に抗し、学生の生活と権利を守れ>であるが、市民主義的理念に基づく安保闘争の無批判的継承であってはいけない。ブルジョア・イデオロギーの浸透、社共の無力化、学生戦線の分裂、学生大衆の遊離とアパシー(⇒無気力、無関心)、学生運動への集中的な攻撃という現時点の特徴は、従来の全学連指導路線の転換を要請している」
しかるに、「①我々の闘いは、政府・支配者階級の攻撃に対し、学生・人民の生活と権利を守る闘いであること。②この闘いは弾圧と、孤立に耐え抜く実力闘争以外に貫徹しえない。③そのための闘争組織を作り、闘いの砦=自治会に結集して闘う」というもの。
――まさしく、今後展開される国家権力との「闘争宣言」に等しい内容です。
この大会が開催された1966年というのは、全国の大学における学園闘争が拡大し深化していた時期でした。横浜国立大学(横国大)が全学スト、慶大でハンスト開始、立教大の学館・生協闘争ほか中央大、東大、青山大、明大、京大など激しい闘いが繰り広げられていました。なかでも明大では「学費値上げ反対闘争」が果敢に闘われています。
当時の大学闘争の背景について、蔵田計成は『安保全学連』のなかで次のように記述しています。

「…大学は、すでに65年代において帝国主義的再編の波に洗われ、その支配秩序は学園キャンパスの末端まで貫徹されようとしていた。大学自体がブルジョア支配機構の一部に包摂され、その機構を通じて体制イデオロギーと人材が再生産されていた。…中卒・高卒労働者を支配し管理する中堅労働者が資本の要請するところとなり、大学はそのための<生産工場>と化した」
そして「マス・プロ大学こそ、まさにこの<労働者再生産工場>だった。大学はこの<工場>を増改築し、新設していかなければならなかった。だからこそ授業料値上げは、その設備投資経費の財源だった。大学が資本制国家の要請によって存立を規定されていれば当然のことである――」と。
1960年代半ば、学生は「我々は何故学ぶのか?」という根源的な疑問、問いかけから大学内での矛盾点を告発し、やがてキャンパスを出て街頭での闘いへと発展させていきます。
『全学連再建大会』で確認された国家権力との「闘争宣言」を実践的に展開する時期に向けて、学生戦線・労働戦線とも満を期して準備していました。あとはどの時点で爆発させるのか。1967年前半、その時期を前に<嵐の前の静けさ>の状態にあったのです。
⇒<第2章>へ続く
それは、1960年代も半ばになると資本主義社会が高度に発達し「高度経済成長」といわれながら、一方で様々な社会的矛盾が噴出し、最高学府といわれる大学に在籍する学生のなかに現状の――すなわち、「ブルジョア体制に包摂された大学がもつ本質的矛盾」をえぐり出す闘争が、「権力との必然的な全面対決」へと拡大していくことで<大学闘争>として現れてくるのです。
とりわけ戦後最大の闘いといわれた「60年安保闘争」から5年余を経て、この闘争の総括を経たなかで大学を中心に新たな闘いに向けた準備が行われていたということです。それは60年代後半にみられる全国的な大学闘争として<燎原の火>のように燃え広がりました。だが、国は機動隊を投入することで力により圧殺、一連の闘争を鎮圧しました。
しかし、それから40年余を経て今日の大学は「学生運動」を一切許さない管理強化の「塀の中の学問」、若しくは<産学協同路線>に基づいた「企業向け予備軍養成機関」と成り下がっています。果たして最高学府といわれる大学は、企業向けの「予備軍養成機関」として設けられていたのでしょうか。

さらに言えば、堤未果が『ルポ・貧困大国アメリカⅡ』(岩波新書)で明らかにしたように現在の米国の大学は、大学間の格差が広がるとともに学生の納める学費が異様に増大し学資ローンが拡大。これに伴い大学とクレジット会社が提携し学生に学資ローンを安易に貸し付ける行為が広がっています。
そのことは他国、米国の問題ではなく今日の日本の大学の現状なのですが、その萌芽はすでに1960年代に始まっていたのです。
■全学連の再建
1966年12月。全国35大学、71自治会、代議員182名ほか1800名の学生が結集して、明治大学記念会館など2会場で3日間にわたって『全学連再建大会』が開催されました。この大会をリードしたのは社学同、社青同解放派、革共同中核派の3組織(党派)で、後に<三派全学連>といわれます。
大会2日目に「総括討論」が行われ、60年安保闘争とそれ以後の運動の総括を巡って激しい論争が展開されたのですが、次の<共通事項>をもって本大会が確認されていきます。
「基本スローガンは<侵略と抑圧に抗し、学生の生活と権利を守れ>であるが、市民主義的理念に基づく安保闘争の無批判的継承であってはいけない。ブルジョア・イデオロギーの浸透、社共の無力化、学生戦線の分裂、学生大衆の遊離とアパシー(⇒無気力、無関心)、学生運動への集中的な攻撃という現時点の特徴は、従来の全学連指導路線の転換を要請している」
しかるに、「①我々の闘いは、政府・支配者階級の攻撃に対し、学生・人民の生活と権利を守る闘いであること。②この闘いは弾圧と、孤立に耐え抜く実力闘争以外に貫徹しえない。③そのための闘争組織を作り、闘いの砦=自治会に結集して闘う」というもの。
――まさしく、今後展開される国家権力との「闘争宣言」に等しい内容です。
この大会が開催された1966年というのは、全国の大学における学園闘争が拡大し深化していた時期でした。横浜国立大学(横国大)が全学スト、慶大でハンスト開始、立教大の学館・生協闘争ほか中央大、東大、青山大、明大、京大など激しい闘いが繰り広げられていました。なかでも明大では「学費値上げ反対闘争」が果敢に闘われています。
当時の大学闘争の背景について、蔵田計成は『安保全学連』のなかで次のように記述しています。

「…大学は、すでに65年代において帝国主義的再編の波に洗われ、その支配秩序は学園キャンパスの末端まで貫徹されようとしていた。大学自体がブルジョア支配機構の一部に包摂され、その機構を通じて体制イデオロギーと人材が再生産されていた。…中卒・高卒労働者を支配し管理する中堅労働者が資本の要請するところとなり、大学はそのための<生産工場>と化した」
そして「マス・プロ大学こそ、まさにこの<労働者再生産工場>だった。大学はこの<工場>を増改築し、新設していかなければならなかった。だからこそ授業料値上げは、その設備投資経費の財源だった。大学が資本制国家の要請によって存立を規定されていれば当然のことである――」と。
1960年代半ば、学生は「我々は何故学ぶのか?」という根源的な疑問、問いかけから大学内での矛盾点を告発し、やがてキャンパスを出て街頭での闘いへと発展させていきます。
『全学連再建大会』で確認された国家権力との「闘争宣言」を実践的に展開する時期に向けて、学生戦線・労働戦線とも満を期して準備していました。あとはどの時点で爆発させるのか。1967年前半、その時期を前に<嵐の前の静けさ>の状態にあったのです。
⇒<第2章>へ続く