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太田裕美について少し真面目に語ってみようか

35年の時が過ぎ、太田裕美についてあらためてもう一度考えてみようと思っています。

失恋魔術師

2009年12月12日 | アルバム「背中あわせのランデブー」
またもや昔話から始まる。永島慎二という漫画家がいた。新宿のフーテン族を取り上げた「フーテン」や、売れない漫画家を主人公にした「漫画家残酷物語」が有名だ。どちらもいくつかの短編をまとめたものなのだが、一作ごとに画風ががらがら変わっていて、同じ作家が描いたものとは思えないほどだった。大学生活を送っていたころ、どちらも文庫本サイズで出版されていて、私はけっこう好きだった。

その永島慎二の「黄色い涙 若者たち」を原作にしたTVドラマが、NHK銀河テレビ小説の「黄色い涙」で、1974年11月に放送された。調べてみたら、1974年11月25日から1974年12月20日まで、土日をのぞいて毎日20分放送していて、全20回だった。1974年というと私は高校2年生で、その冬ということになる。小椋佳の「海辺の恋」が主題歌で、もしかしたら私はこのドラマで初めて小椋佳を知ったのかもしれない。「海辺の恋」は佐藤春夫の詩に小椋佳が曲をつけている。

このドラマの中で、森本レオと下條アトムが4人の若者のうち2人を演じていて(調べたら、残りの2人は岸部シローと長澄修だった)、失恋したのだったか下條アトムがりんごをかじりながら泣き崩れるシーンをいまでもよく覚えている。原作の漫画のほうでは、若者の一人がランボーの詩を暗唱する場面があって、私がランボーの名前を知ったのはもしかしたらこの漫画からかもしれない、そうではなく中原中也の関連かもしれない。いずれにしろ、永島慎二の作品と中原中也の作品はどこかでつながっているところがある。

さて、本題はここからだ。そんな永島慎二がある時期「旅人くん」という漫画を「ガロ」に連載していた。1973年から1975年あたりらしい。「旅人くん」というのは先に手荷物をぶらさげた棒をかついで旅をする少年で、漫画自体はスジがあるようなないようなよくわからん漫画だった。旅人くんがときどき一言言ってさってゆくのだが(違ったかなぁ)、その言葉が意味があるようなないような、警句のような箴言のような一言で、迷いに迷っていた永島慎二が悟りでも開いたか? と私はびっくりした。この不思議な漫画「旅人くん」の世界と「失恋魔術師」の世界がなんか似ているなぁと思った。なんというか「大人の童話」みたいな世界だ。やあ、わけのわからないところからやっと太田裕美にたどりついた(笑)

「バ・ス・は・い・ま~ ひ・ま・わ・り・ばたけを~」と、このころ太田裕美はよく一語一語を区切って歌うことが多くなっていたが、この曲もそんな歌い方で始まる。恋を失恋で終わらせる? 失恋すると登場する? 失恋魔術師という伯父さんがいて、そいつが彼と待ち合わせしている彼女に「やれ失恋だ、やれ失恋だ」みたいにうるさくつきまとう。

1番ではバスの中でその失恋魔術師に声をかけられ、2番ではバスを降り待ち合わせ場所に向かう彼女のあとをその失恋魔術師がおいかけ、3番では珈琲ハウスに到着しても彼の姿が見えず、4番で遅れて彼がやってきて、一件落着みたいなショート・ショートである。

男女のかけあい形式だが、女性の相手は失恋魔術師という伯父さんでなかなか風変わりだ。なぜ太田裕美がこの時期にこういう曲を歌っているのか私にはさっぱりわからないが、吉田拓郎がどういう顔をしてこの曲を作曲していたのか想像すると興味深い。でもまあ、たくろうはけっこうアイドル好きなんだよなぁ。

作詞:松本隆 作曲:吉田拓郎 編曲:鈴木茂

バスは今 ひまわり畑を
横切ってあなたの街へ
隣から だぶだぶ背広の
知らぬ人 声かけるのよ
お嬢さん 何処ゆくんだね
待ち人は来やしないのに
いえいえ 聞こえぬ振りをして
知らん顔して 無視してるのよ
その人の名は アー失恋
失恋魔術師
失恋魔術師

(略)

シングル「失恋魔術師」は1978年3月21日にリリースされ、1978年2月25日発売の「背中あわせのランデブー」収録なので、アルバムのほうが先行している。

TVドラマ「黄色い涙」はNHKにマスターテープもないようだが、民生機器で録画したものがNHKライブラリにはあるようだ。もう一度見てみたいなぁ。なぜ下條アトムは泣いていたんだろうか。


カーテン

2009年12月11日 | アルバム「12ページの詩集」
「ゴオ ゴオ ゴオと雪の銀河をぼくはまっしぐらなんです」(抱きしめたい)、「とっておきの微笑 ぽつん」「いっちょうらの涙を ぽつり」「ふけもしない口笛 ひゅうひゅう」(あしたてんきになあれ)

いずれもはっぴいえんど時代の曲で、松本隆はこのころ擬声語を歌詞にいかそうと苦心していた。この影響なのか大瀧詠一も「颱風」で「どどどどどっどー どどどどどっどー みんな吹きとばす」と宮澤賢治のような歌詞を書いている。

太田裕美作品になると松本隆のこの嗜好は息をひそめ、あまり擬声語は使っていない。歌謡曲で擬声語をじょうずに使うのはむずかしいのだろう。記憶に残りやすいところでは「路面電車でガタコト走り」で始まる「茶色の鞄」くらいだろうか。そんな松本隆作品でひさびさに登場したのが「カチンと凍ったため息」である。「カチン」も「ガタコト」も歌の中で聴くのはこれからもなさそうだ。

「12ページの詩集」で「青い傘」と「君と歩いた青春」の間にはさまれているのが「カーテン」で、松本隆作詞、ケン・田村作曲となっている。ケン・田村ってだれだ? と思って調べてみたら、あまり情報がない。どうも福岡出身の日系三世らしく(茅ヶ崎生まれという説もあり)、筒美京平の「弟子」という説もあった。弟子かどうかはともかく筒美京平人脈ではあるらしく、この曲の編曲は筒美京平が担当している。

ケン・田村は「LIGHT ACE」「FLY BY SUNSET」の2枚のアルバムを残してまたどこかへ行ってしまったらしいが、「LIGHT ACE」のジャケットの帯に「ウエストコーストからすごい男がやってきた。」とあるくらい(笑)で、なかなか不思議なミュージシャンである。「FLY BY SUNSET」(1982年)は紹介文によれば「アーバンなLAサウンド」とかで、私の苦手な音楽なのだが、鈴木茂と後藤次利のアレンジらしく、メンツはよさそう。いくつかの曲はYouTubeで聴くことができた。

さて「カチンと凍ったため息」の「カーテン」だが、真冬の晴れた日に別れ話をして帰って行くか、同棲していたのが出ていったかする彼の後姿を見送る女性を描いている。冬の寒空で雪の積もった道の上で引っ越しというのもなんなので、別れ話をしにきて帰るのかなぁ。部屋に一人取り残され失意の中の彼女だが、悲しくはあっても暗い感じはしない。ただ破れた心を癒す空間が欲しいと願っている。タイトルどおり、冬のひんやりした風の中で揺れるカーテンのような曲と太田裕美の声である。

ひとつひっかかるのが、「友だちにさえ 触れ合わなければ 傷つく事も無いでしょう」である。普通、失恋とかした場合、友だちは慰めてくれる存在として登場してくるのだが、この曲では友だちは自分を傷つける存在として扱われている。なぜ? 女性にとっては友だちはそういうものなの? まさか友だちと彼がなにか関係があったとか? そうとも思えないので、とにかくだれでも触れてほしくないという感じなのかなぁ。

作詞:松本隆 作曲:ケン・田村 編曲:筒美京平

冬が渦巻く青空
カチンと凍ったため息
鎧戸から覗く雪道
あなたの背中を追った
揺れている私はカーテン
泣き顔も見せません
誰も入り込めない
心の壁が欲しいの

(略)



仮・こけてぃっしゅ

2009年12月09日 | アルバム「こけてぃっしゅ」
さて「こけてぃっしゅ」である。どうも私にとってこの「こけてぃっしゅ」というアルバムが鬼門のようなのである。このアルバムさえなければ、「背中あわせのランデブー」とか、「エレガンス」とか、いい悪い好き嫌いはさておき、なんとかついてゆけただろうし、同じ夏の感じでも「Feelin' Summer」とかまでくれば「いい感じ」に思えるので、まあその後もなんとかなったのだが、このアルバム一発で「もういいや」状態になってしまったのである。

「カジュアル」だの、「きれいなおねえさま」だの適当に名づけているが、じつのところそんなパブリックイメージはその当時もそれほど重要でなく、この「こけてぃっしゅ」というアルバムの音楽がピンと来なかったのだ。ましていまや50過ぎのおじさんである。アルバムジャケット見たって「きれいなネーちゃんじゃん」程度のことしか思わない。いま聴いてどうかなのだが、やっぱりピンと来ない。困った.....

なぜ困るかというと、この「こけてぃっしゅ」を高く評価する人が多いからである。松本隆もインタビューで「いい!」と言っている。まあこのさい松本隆がどう言おうと知ったことではないが、困るのは太田裕美本人もそれに同調するようなことを言っているらしい....ま、このさい本人もなにを言おうと横に置いておくかぁ(笑)

問題なのはやはり多くのファンである。中には松本隆や太田裕美が気にっているというだけで盲目的に従うファンもいるのだろうが、圧倒的大多数のファンは、私なぞより耳が肥え、音楽的教養も豊富な方たちである。太田裕美のファンというほどでもないという人も多いだろう。そのみなさんが評価しているのである。中には「最高傑作」とまで評価する人もいる。弱った......

これはきっと私の耳か、脳かがおかしいに違いない。そう思って繰り返し繰り返し聴くことにした。私はいま音楽を聴きながら仕事することができる。たしかに耳障りな音楽というわけではない。まあ快適な曲が多い。多いのだが、右から左へすり抜けて行く。実際には両耳で聴いているのだから、耳から入ってどこか亜空間へ消えていってしまう。一片の言葉も、ひとひらの旋律も残らない。ますます弱った......

やっぱこれは自己暗示をかける以外ない、と「『こけてぃっしゅ』はすばらしい」と10回唱えてから聴いてみた。う~ん。正座して聴いてみるか、そうだスピーカーで聴いているからいけないのだ、と思い携帯機器に録音して街を歩きながら聴いてみた。う~ん。水ごりでもするか.....

「だいたい邦楽は洋楽に近づくと、それなら洋楽聴いたほうがよくないかとなって、つまらくなるんだよな。歌謡曲とかニューミュージックでも邦楽でしか手に入らないから存在価値があるんだよな」というへ理屈も考えてみるが、このアルバムに近い洋楽が思い浮かばない。なんかこういうはっきりしない音楽を私は嫌いなのかもしれない。それでは高評価しているみなさまに申し訳ないので、しばらくは一日に一回聴くことにしよう。

とりあえずここで止まっていると先に進まなくなるので、またいつか「『こけてぃっしゅ』はすばらしい」と思える日がきたら、とりあげることにしよう。なんか四国巡礼のような感じになってきた。

仮・十二月の旅人

2009年12月08日 | アルバム「十二月の旅人」
「ジョンが死んじゃったよ」そう言って友人が訪ねてきたのは、その日の夕方だった。驚いてラジオをつけたらジョンの曲をずっと流していた。ウオッカを買いに行って二人でラジオを聴きながら夜更けまで飲んでいた。FENを聴いていたはずだが、いつまでもいつまでもジョンの曲を流していたような記憶がある。

ジョン・レノンが射殺されたのは1980年の12月8日夜10時50分ころだが、日本時間では12月9日午後0時50分ころ。その日の午後3時ころNHKのニュースで第一報が流れたようで、YouTubeにそのときのニュース映像があった。

正直なところ、当時の私はオノ・ヨーコという女性があまり好きではなく、ジョンの音楽も聴いたり聴かなかったりしていたが、後輩が買ってきた「Double Fantasy」を聴いてしばらくあとでの出来事だったため、よけいに驚いた。

私の周囲にもまだまだThe Beatlesの熱心なファンがいて、なぜか彼らは一浪か二浪している学生だったが、みな世代的にはかなり下の世代だ。私はと言えば、小学生のころ、隣の大学生のおにいちゃんが大きな音量で「Let It Be」をかけていて、英語がわからない私は「Let It Be」を「エルビー」と覚えて歌っていたような年齢である。こんな私たちの世代でも、好き嫌いはともかくジョン・レノンが射殺された事件はかなりショックだった。

佐野元春はその夜ハートランドのギタリストの伊藤銀次からの電話でジョン・レノンの死を知ったらしい。Bruce Springsteenはツアーの最中だったらしく、12月9日のオープニングでジョン・レノンについてと、自分がなぜいまステージに立って演奏を続けなければならないと感じてるかを説明したという。

甲斐バンドは武道館でのコンサートの真っ最中で、アンコール前に控室に戻ってきて、スタッフと談笑しながら、なにげなく手に取った夕刊紙の見出しの「ジョン・レノン 射殺される」を見て甲斐よしひろが信じられない顔をする。彼は何度も顔をふってから十字を切る。夕刊紙を破き、何度もその新聞を固く握りつぶす。ステージに戻ってから歌い始めるのが「翼あるもの」だった。そんな姿もYouTubeで見ることができる。

それこそ松本隆や大瀧詠一らの世代が受けた衝撃は想像以上だろう。太田裕美の13枚目のアルバム「十二月の旅人」はそんな1980年12月9日の3日後の1980年12月12日に発売されている。調べたところ1980年12月9日は火曜日で、12月12日は金曜日ということになる。1980年代しょっぱなに起こったこの事件のとき、太田裕美はどこでなにをしていたのだろうか。

茶いろの鞄

2009年12月07日 | アルバム「手作りの画集」
「茶いろの鞄」はシングル「赤いハイヒール」のB面として1976年6月1日に発表されている。アルバムなら「手作りの画集」(1976年6月21日)の最後に収録されている曲だ。

「茶いろの鞄」の素材は「青春のしおり」と似ていて、たぶん高校時代を振り返るような話になっている。ただ、「青春のしおり」がCSNYとかウッドストックとか登場することで、「生き方」みたいなものが問われた時代が背景になっているのに対して、「茶いろの鞄」では「のばした髪」や「煙草かくして代返させてサボった」りしているが、そこまでの背景はなく、まあ、いわゆる不良の話である。「人間らしく生きたいんだ」とか歌詞に登場してくる「あいつ」は言っているようだが、思春期のそんなころはそんな台詞のひとつも吐いてみたくなるものである。

全共闘運動が活発だった当時、高校全共闘というものがあって、都内のいくつかの高校はかなり激しかったようだが、もちろん私はそれを知らない。この高校全共闘で活動した著名人として、坂本龍一(1952年1月17日生)や四方田犬彦(1953年生)、矢作俊彦(1950年生)らの名前をみかけることができる。松本隆(1949年7月16日生)よりもあとの世代のようにも思えるが、「青春のしおり」にそういった背景が実際あったかどうかはわからない。

太田裕美公式オフィシャルサイトの中で、「青春のしおり」のなかでCSN&Yを登場させたことについて尋ねられ、松本隆本人はCSN&Yでは「変わりはしない」(まあ影響を受けなかった程度の意味か)とし、影響を受けたのはビートルズであるとしたあとで、「ちゃんとユーザーを考えてるよね、当時の」と答えている。「ユーザー」という言葉に私は違和感を感じるが、それはともかく、「青春のしおり」でCSNYを登場させたように、「茶いろの鞄」ではユーザーにあわせて高校の管理システムみたいなものがターゲットになっているようだ。

作詞:松本隆 作曲:筒美京平 編曲:萩田光雄

路面電車でガタゴト走り
橋を渡れば校庭がある
のばした髪に帽子をのせた
あいつの影がねえ見えるようだわ
人は誰でも振り返るのよ
机の奥の茶色の鞄
埃をそっと指でぬぐうと
よみがえるのよ 懐しい日々

学生服に煙草かくして
代返させてサボったあいつ
人間らしく生きたいんだと
私にだけは ねえやさしかったわ
もう帰らない遠い日なのに
あの日のままね茶色の鞄
大人になって変わる私を
恥ずかしいよな気持にさせる

(略)

あらためて「茶いろの鞄」の歌詞をながめていて、ふと荒井由美の「卒業写真」を思い出した。曲調も歌詞の内容もまったく違うのだが、なんとなく関係あるような気がしている。

作詞・作曲:荒井由美

悲しいことがあると 開く革の表紙
卒業写真のあの人はやさしい目をしてる
町でみかけた時何も言えなかった
卒業写真の面影がそのままだったから
人ごみに流されて 変わってゆく私を
あなたはときどき 遠くで叱って

(略)

「青い傘」に「かわい」さんが「この曲の詩に対抗して松本隆氏は『九月の雨』を書いたのでしょうか?」と問いかけてきていただいた。私としてはまったく思いがけない問いだったが、それ以降、荒井由美と松本隆の歌詞の関係がみょうに気になっている。もちろんこれはどちらかがパクったというような話ではなく、できあがった曲はまったく似通っておらず、相似点を探すほうのがむずかしいのだが、テーマみたいなものがなんか似ているような気がする。とくに松本隆は荒井由美の世界をかなり意識していたのではないかと思えてならない。もっとも、あの当時、荒井由美の作品世界を無視するほうがむずかしい状況だったのだとも思う。

荒井由美の「卒業写真」は、1975年2月5日にHiFi-Setのシングル盤として発表され、1975年6月20日にアルバム「COBALT HOUR」で荒井由美がセルフカバーしている。WikiPediaによるとその後もカバーするミュージシャンが数多く、2000年以降で11人もいる。「卒業写真」に登場する「あなた」は同性だったいうことを今日私ははじめて知った。