〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

7月の講座のお知らせ

2022-07-23 16:48:26 | 日記
朴木の会の7月の講座のお知らせが来ましたので、掲載致します。


7月30日(土)に、田中実文学講座を開きます。

 今回のテーマは「「近代小説の《神髄》」を求めて」です。
 はじめて方も歓迎します。大勢の皆さんのご参加をお待ちしています。

作品      指定なし
講師      田中実先生(都留文科大学名誉教授)
日時      2022年7月30日(土)午後1時半から午後3時
参加方法    zoomによるリモート
申込締切    2022年7月30日(土)12時まで

参加をご希望の方は、お名前、所属をご記入のうえ、下記のアドレスに申し込んでください。申し込まれた方には折り返しメールでご案内します。
dai3kou.bungaku.kyouiku@gmail.com  

主催   朴木(ほおのき)の会
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黒瀨先生へのコメントに対する続き、〈第三項〉論のこと

2022-07-23 09:04:33 | 日記
黒瀨先生のコメントの核心の根底には、やはり〈第三項〉の問題があります。
そこでいつも言っていることを確認し、繰り返しておきます。

近代小説・童話を読む際もまた、私は常に〈第三項〉論の立場立ちます。
これは広く外界、世界一般の対象を捉える時も原則的に同様です。

捉えた客体の対象は常に主体である自分の捉えた客体です。
客体そのものではありません。
ところが、例えば目の前のリンゴは誰にとってもリンゴであり、
それ以外の果物ではありません。
しかし、これを客体の対象として、そのリンゴとは何かを問うた時、
自身の中でも様々な想いが起きます。
いわんやこれが文学作品においておや、です。

客体の対象の文学作品の文章は常にその時の主体に捉えられた客体の対象であり、
客体の対象の文章そのものではありません。
すなわち、客体の対象のとは常に自分の捉えている対象の文章であります。
私は客体の対象の文章そのものをオリジナルセンテンスと命名し、
自分の捉えている客体の文章をパーソナルセンテンスと呼んでいます。

私達の目に見えて知覚できる文字の連なりである実在する文章を読んでも、
常にそれは永遠に沈黙するオリジナルセンテンスに過ぎません。
これに向かって読み続けていく、これが、私の立場です。
主体と客体と相関で捉えるのでなく、主体と客体の相関の外部である
〈第三項〉とのこの三者との相関で、自身の読みを更新してきます。
永遠の沈黙の〈第三項〉に向かって進むのです。
コメント (7)
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黒瀨先生の質問と私の応答

2022-07-23 06:26:58 | 日記
7月18日付けの記事に対して、コメント欄に黒瀨先生から以下のような
興味深い質問を頂きました。
これを広く皆さんと共有したく、私の応答と併せてここに再掲致します。

「心象」という言葉をめぐって (黒瀬 貴広)
2022-07-21 20:52:40
私の拙い文章を位置づけていただき,感謝申し上げます。

私も,田中先生の『注文の多い料理店』論を再読いたしました。
そのうえで,お聞きしたいのは,田中先生は「心象」(あるいは心象スケッチ)
という言葉をどのように捉えているのか,ということです。
広告ちらしの「たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである」という言葉を
字義通り受け止めれば,これをリアリズムの文脈で引き受けることも可能です。
しかし,『注文の多い料理店』は,まさにこのリアリズムの枠組みを壊すように
〈語り手〉が語っていることを読むところに確信があると考えます。
この「心象」という言葉は何を指すのか,お聞きしたいです。
なお,この質問は「春と修羅」の「序」をどのように考えるか,
ということと密接に結びついていると考えています。

「わたくしといふ現象」をめぐる賢治の闘いに関しも,お話をお聞きできれば幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。


黒瀨君へ、「心象」とは (田中実)
2022-07-22 06:49:27
黒瀨君、コメントありがとう。

主観的現実の外部に客観的現実の真実があるというリアリズムは一種の観念、
イデオロギーの産物です。近代社会はこれを信じて来ました。その典型が「唯物史観」です。

賢治はそうではなくて、賢治の「心象」とはまさしく自身の知覚応じて現れた
外界の出来事を主体の表れと認識し、これが大宇宙に通底していることを確信しています。
それではそれはリアリズムとどう違うのでしょうか。
それをよく教えてくれるのが、大森荘蔵の言う「真実の百面相」の理論です。

人類は人類の持つ媒体(言語)で世界を捉えます。
メダカはメダカの媒体で世界を捉え、捉えられる客体の対象は全て人間なら人間の、
メダカならメダカの主体によって捉えられた客体の現象であり、
それは客体そのもの、外界そのものではありません。
客体及び外界そのものは永遠に主体には捉えられない、
主体と客体の二項では捉えられない、その外部の〈第三項〉なのです。
このからくりが賢治には捉えられています。

その意味で、その人の主体にとってはその人に現れた客体のその出来事しか
客体は存在しないのです。
賢治はこう捉えて、「心象」をスケッチします。
すると、それが賢治にとっての宇宙全体ですね。
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今月の講座のお知らせ

2022-07-19 14:29:31 | 日記
 今月の講座は今週の土曜日にするかなと思いながらも、月末30日に甲府に参ります。時間の設定はいつもの通りの予定ですが、また正式には改めて係の方からご連絡します。

 いつもの事ですが、近代小説・童話の原理を予め、ご質問を頂けるなら、これを踏まえながら、進めていきたいと思っています。
 昨年に続きここれらに限らず、今年の三月「近代小説の神髄―「表層批評」から〈深層批評〉へ―」の後、明治図書の「「読むこと」の原理へ―あまんきみこ[あるひあるとき」を例にして―」が遠からず公表にになりますが、これまでの半世紀の論をしばらく振り返り、30日には、原理論をさらに考えてまいります。どうぞご参加ください。またブログ書きます。


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「永訣の朝」を読んで

2022-07-19 06:57:50 | 日記
 古守やす子さんの宮沢賢治[永訣の朝」の実践報告の文章が送られてきたので拝読、高校生の反応がそれぞれ、そのどれもが一つひとつ、なるほど・なるほど・と思わせ、嬉しく思いました。
 そこで改めて、今朝も「永訣の朝」を読み直して、ああそうか、とこれにしばらく読み終わってぼっとして庭を見ました。
 「永訣の朝」もまた、私には、「背理の輝き」を感じたのです。ここでの「わたくし」は激烈の悲しみがこの詩の中で、すきとおった本当の食べ物になって、透明な光に輝いている、詩の極み、文学の極みが背理に輝くと感じました。
 「わたくし」はあくまで、自分の人生のすべてを懸けて、妹の死にいく姿に哀しみの極みに立たれています。この放り出されている極限的痛みを感じながら、それは同時にこの詩の中で、天上のアイスクリームになってとし子と一体になっている祈りのこ言葉になって、輝くのですね。不思議と言えば不思議、これが賢治文学かなと感じています。
 望月先生が全国大学の発表で、この詩に関して、童話集『注文の多い料理店』の「序」について指摘されていたことを思い起こしました。
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