〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
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『城の崎にて』について丸山さんから質問頂きました

2019-01-11 09:53:30 | 日記
あけましておめでとうございます。
約二か月間も更新を怠っており、その間当ブログにご訪問頂いた方、
申し訳ありませんでした。

新潟の丸山さんから、『城の崎にて』に関して次のような質問を頂きました。
丸山さんからは『城の崎にて』について以前にもご質問頂いております。
そのときの質問はこちらから⇒



『城の崎にて』「自分」のまなざしについて(質問)

 田中実先生。『城の崎にて』についてさらに次のように考えました。
 小説では、「自分」は「死に対する親しみ」を持つと述べる前に、青山墓地の土の下を想像するわけですが、その部分の記述こそ死んでいる人間を半ば生きている人間のように扱っています。たとえば、「仰向けになって寝ている」「青い冷たい堅い顔をして、背中の傷もそのままで」などとありますが、実際には火葬でしょう(?)し、土葬であっても腐敗が進んでいるから、このようには書けないはずです。つまり、「自分」にとって、そのような「リアル」は関係ないわけです。「それももうお互いに何の交渉もなく」とも述べていますが、「交渉」の有無を見てとるあたりが、生者を見る視線と同じです。 
死んでいる者を生きている者を見る視線で見ています。
 「死に対する親しみ」は、後で「死後の静寂に親しみを持つ」と焦点化されますが、墓の下の静かさ、死後の静かさの、この「静かさ」という語は、「自分」という生者の願望の、死者に対する投影と捉えてよいと考えます。死者そのものには「静かさ」は全く関係ないはずで、「静かさ」というのは、生きている人間世界でこそ(生きている人間が)用いる言葉だからです。ここにも死んでいる者を生きている者と同様に見てとる視線があります。
 生きている者と死んでいる者を同じように(等質・等価に)見る語り手「自分」の視線が小説の最初から強調されていると読みました。
 次に蜂の死骸の場面ですが、「朝から暮れ近くまで毎日忙しそうに働いていた」とあって、最初から小動物を人間と同じように見ています。次に蜂の死骸が出てきますが、小説を最後まで読んだ上での再読というかたちで、この蜂の死骸の場面を捉えると、この「一匹の蜂」の死も、実はいもりと同様、「偶然」であって、いわば、どの蜂でもよかったわけです。「ほかの蜂はいっこうに冷淡だった。巣の出入りに忙しくそのわきをはいまわるが全く拘泥する様子はなかった」とあり、ここはまさに人間世界でも起きている同様の現象が重ね合わせられるところですが、この「一匹の蜂」の死があるからこそ、ほかの生きている蜂の活発な活動があると言えるような気がします。『范の犯罪』を読んだ上で、この蜂の死骸の場面を再読すると、そう言えるように思うのです。数々の蜂の死に支えられながら、「類」として蜂は生き延びていく。その「数々の蜂の死」の順序などは、まさに「偶然」です。そんな風にも読めてくるのです。
 一般的に『城の崎にて』という小説では、偶然死んでしまったいもりの死に収斂されるような読みの授業がなされています。つまり、偶然性に支配・左右されるような生き物の寂しさを痛感した、というように、です。そして、そこで授業としては終わりになっています。
 「偶然」だから、誰であってもよかった、「誰」になったかはまさに「偶然」、『范の犯罪』で言うなら、范でも范の妻でもよかった、取り替え可能、ということになりますが、片方の死が片方の生を支えている、という観点が必須ということでしょうか。「偶然」に支配されていると言うより、巨視的には「偶然」を含んで「類」としての生の存続がある、言い換えれば、「死」を含んで「生」があるということでしょうか。
 そうなると、生も死も等価であるという地平が見えてくるような気がします。
 以上のように読んだり、考えたりしたのですが、いかがでしょうか。田中先生のご評言がいただければ幸いです。


次の記事でお返事したいと思います。
コメント
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