〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

続けて周さんにお答えします。

2018-09-17 14:55:47 | 日記
昨日の会にご出席の先生方へ、周さんにお答えする形で、

 「私」は閏土に出会って以来、筋向いの評判の美女楊おばさんをも全く眼中にしない生き方をするようになった、関心興味は銀の首飾りの小英雄に絞られる生き方をしていたのです。
 ここで言っておきます。〈近代小説〉は物語の内容、ストーリーである語られた出来事を読むだけでは捉えられません。視点人物のまなざしの外部である対象人物のまなざし、パースペクティブを捉えるのです。何故、楊おばさんがあれ程怒っているのか、彼女の人格自体がただ、やけになっているから言いがかりを付けているのではありません。会った直後、彼女は「私」のことを懐かしがっています。これが踏みにじられたのです。「私」は完全にかつての美女のことを憶えていませんから。「空白の十年」とは閏土の出会いから故郷を離れるまでの間、「私」の十代は筋向いの評判の美女のことが眼中にない十代、これを仮に「空白の十年」と呼びました。城壁の外部である海辺の農民の子供、小英雄閏土とは、実は父親そっくりと化す宿命の小英雄でしかなかったのです。「私」の内面が瓦解せざるを得ないのはここに要因があります。
 こうした読み方は視点人物のまなざしの枠組みを読むだけでは絶対に捉えられません。
方法論として、最低〈語り―語られる〉相関を捉え、その相関のメタレベルに立つ必要があります。「物語論」=ナラトロジーは最低必要です。一人称小説ですと、〈語り手〉は語られた物語空間に内包されています。物語に実体として登場する生身の語り手として登場しています。だから、これを相対化する〈機能としての語り手〉の位相を必要とするのです。これが欠如すると、視点人物のまなざしの物語りになり、ドラマ・劇が消えます。ここには視点人物と対象人物の間に見えない、すれ違いの劇が隠されているのです。これが残念ながら、現在、国語教育界や中国でも、読まれていません。今回、指導書をざっとですが見て、悲憤慷慨せざるを・・・いや、もっと正直に言うと、予想通りでした。

 周さんの「認識ののレベルではなく、存在のレベルで語り出した」という指摘は不適当、手に入れたばかりのマルクス・ガブリエルの「新しい実在論」を、ここに張り付ける言い方になっています。
 この小説が「奇跡の名作」たる所以は望月さんのご質問でお応えしています。周さんの「三」の質問はその通りです。パラレルワールド・「不思議な画面」を背景にした閏土は謂わばもう一つのデクノボーである閏土の矛盾の結晶、これが消えることが相対主義の最後の底を浚う秘密の鍵です。
 望月さんに言ったことを繰り返します。鉄の部屋の鍵は内側にあり、外からしか開きません。
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ご質問にお答えします。

2018-09-17 11:08:13 | 日記
 お待たせしました。
 昨日の韮崎でのお話が終わり、今日、ご質問にお答えします。
望月さんの御質問、
 ある部分の解釈は全体との有機的な関連のcontextに寄りますから、部分の解釈だけを独立して競い合うのはナンセンスと私は考えています。作中の〈ことばの仕組み〉はいかなるグランドセオリーを持っているかによって、拘束されます。従って、以下の個々のご質問は全て相互に関って、力学の中にあります。
 1、「私」が何者か、冒頭、「私」は己の心境に応じて対象が現れることを受け入れています。捉えられる客体の対象の出来事は主体のフィルターに応じて現れる、この当たり前のことが当人はよく分かっています。眼前の対象世界の出来事は相対的に現れることを承知しています。
 紺碧の色は原文では深藍色、これをどう解釈するか、問われるところですね。ルネ・マグリットの絵の如く、昼にして夜という「不思議な場面」と解釈すると、相対主義は透徹した「底抜け」となって、文字通り「不思議な画面」が現れることを可能にします。
 夜の「金色の丸い月」だと特別「不思議」ではありませんよね。作品はより優れた作品と読まれ、位置付けられることを求めています。「私」を透徹した相対主義者ともし考えてよければ、末尾の恐ろしいほどの認識のうねりが現れます。 
 2、「私」のイメージに閏土が消えるのは、「美しい故郷」を喪失し、相対主義の「底抜け」が徹した姿を示していると私は考えています。
 3、私達は私達の「鉄の部屋」を想定すると、この話はおとぎ話ではなく、際立った、恐ろしい奇跡の名作に転換する可能性の一つを手に入れると思います。
はい、自身の世界観認識を問うことが必須と考えています。
4、「私」は己の「偶像崇拝」という観念を根こそぎはぎ取ります。とすると、もう相対主義という拠点、「心境」も失い、自己倒壊の極点に立つ。謂わば、それは希望は絶望に相等しい思考自体に留まることが出来なくなっています。自身の生のよりどころ、拠点を完璧に喪失したと考えましょう。謂わば、「底抜け」の完成と考えると、もはや、それまでの「私」の世界観認識のレベルをさらに抉り、残滓すら抉る、それを「極北」と読んでみました。カギは「私」の中にあり、扉は外から開きます。歩く人が多いかどうか。
5、「沈黙」を十全に受け入れるためには、そこに辿り着くには多大な言語、もしくは饒舌を要します。「沈黙」はその果てです。
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