〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

張さんの質問にお答えします

2018-09-05 11:25:53 | 日記
張さんから次のような質問が来ましたのでお答えします。

先生:

大変お待たせしまして、申し訳ございませんでした。
土日は子供も一緒だから、集中すらできないながら、何度も先生のご論文と難波先生のご論文を対照しながら、読ませていただきました。相変わらず難しいですが、難波先生のご指摘で、第三項論の難しい所以、その背負っている重荷が少しずつ分かってきましたと同時に、そのすごさと素晴らしさもさらに感じました。第三項論と新しい実在論とは通底していますが、客体そのものは認識論ではなく存在論の領域で考えるべきだと難波先生は主張されていますね。この辺のことはまだ十分理解できていませんので、また考えさせていただきます。
次は先生のご論文を読んだ後の感想、というより、質問です。
まず、条理、不条理も通常の言い方で、通常理解できないようなことは不条理で、ご論文の中では主にパラレルワールドのことを指しているでしょうか。
次は、近代小説の定義「近代小説=近代物語+語り手の自己表出」ですが、ここでの「語り手」というのは作中の生身の語り手だと理解してよろしいでしょうか。そして、〈機能としての語り手〉は実は読み手が構造したもので、場合によっては、関係概念の作者と重なることもありますね。
そして、『舞姫』の主人公の言う「きのふの是はけふの非」という言葉は先生はいつも引用されて、それは太田豊太郎が「生活上の分類」だけで時代や世界を捉えていない証拠だと指摘されています。中国語のなかには「昨是今非」という言葉もありますが、私も私の周りの人間も時には当然のように使っていますが、世界観認識との結びつきは一回も考えたことはありません。やはりなかには第三項がある先生のことだから、そういう風に作品を読むのですね。第三項の知らない人にはとてもできないことだと思います。そして、第三項の十分理解できている人であっても、必ずしもそういう風によむとは限らないとおもいます。小説を読むことは自分を読むことであり、読み手が違うと、現象した〈本文〉も違うはずです。同じ読み手であっても、読みは一回性のもので、読むごとに現れてくる〈本文〉は違います。原文が永遠に到達できないけど、あるから、読みは一定のベクトルがあり、読み手は自己倒壊されつつあるわけですね。しかし、こうできるにはやはり第三項論が必要でなければなりませんか。私の考えでは、第三項論のわからない人であっても、意識はしていないかもしれないが、読みの繰り返しによって自己倒壊しているかもしれないと思われます。なぜなら、小説にはそれなりの力があるからだと思ってい ます。
もう一つ、実は、これは長く疑問を持つ問題ですが、きわめて素人的な質問かもしれませんが、近代小説は近代でしかない、難波先生のご論文のなかにも、「近代が来ない限り先に見た自覚的な仕掛けを持つ「小説」は表われなかった」と書かれていますが、その所以はわかりません。あと、そもそも言葉が誕生してからの人類有史以来、人間は他者との対峙がすでに始まったと思いますが、どうして、近代小説しか、その他者問題を抱えなければなりませんか?
最後に、新しい実在論は「存在しないものもすべて存在している」「存在は常にそれが存在する意味の場と共に現れるのであり、常にセットなのである」と主張します。つまり、五感で捉えられないものも存在する、リアリズムで捉えられるものは世界ではないということですか。「意味の場」というのはよくわかりませんが、「意味」はやはり主体がつけたものだから、存在は主体と同時に存在し、第三項論でいえば、客体は主体に応じて現れてくると、理解してよろしいですか。
わからないものはまだ山ほどありますが、少しずつ解明できるように頑張りますので、先生、よろしくお願いいたしますね。

張秀瑩



 土曜・日曜と読んで下さり、ありがとうございました。
 読んだ瞬間、お返事をしようかと思いながら、しばらく考えていました。
 張さんの九月以降は大連の大学にお戻りなのですか。いよいよ、博士論文の本格的に取り掛かる時期に来られたのかなと思っています。

ともかく、御質問のこと、実は、これは根源的にして重要、張さんの真正面から取り組む、その姿勢に敬意を抱きます。
ありがとうございました。


 難問は村上春樹の示した構図、
 「地下一階」と「地下二階」の相違は如何して峻別できるか、人類はこの難問に自覚的になるかどうかが、山登りの岐路だと考えます。
 両者は地上にいる我々人類にとって、我々はそこからこの問題を考えますから、どちらも意識を超えた領域です。以下は一つの考え方に過ぎませんが、今僕らは、前者は大森荘蔵の言う「生活上の分類」で捉えられますが、「地下二階」は「世界観上の真偽の分類」を必要とすると考えてみましう。
 すると、地上の意識できる領域および無意識の「地下一階」までの領域は「生活上の分類」で捉えられます。
 合理的に物事を考えることの出来る実在する客体の現実領域、自然主義リアリズムの通用する領域、これは言うまでもなくこの世の世界の出来事ですが、たとえどんなこの世ならぬ虚構の世界を想定しても、この現実世界を足場にして様々なイメージなお話・出来事として物語化して語っています。だから、この世の世界はそうした夢の物語世界も含みます。すなわち、我々の生きるこの世の現実の世界は現実であるか、非現実の虚構の来事事であるかに限らず、現実と虚構の、その双方から成立しているとも言えます。
つまり、「地下一階」までは直接知覚できなくとも頭で考えられ、想像できる、虚構化もできる領域、所謂これまでの文学史上にある「虚構と現実」、あるいは「芸術と実生活」として考えられた領域なのですが、「地下二階」はその現実と虚構の二元論の領域の外部、非現実にして不合理、ここが「地下二階」不条理の領域です。
 例えば、人間は自分が虎になったり、ネズミになったりすることを想像し、そこであれこれ考え、感じることは許され、可能です。
しかし、実際には人は決して虎にもネズミにもなったりしません。どんなことも宇宙の物理法則にしたがったうえでの様々な想像力が働きます。これに反すると、ナンセンスと言わざるを得ません。この現実からはナンセンスでタブーの領域に不条理の文学の入り口があると考えます。このナンセンスが結局、「世界観上の真偽の分類」には適い、不条理文学をなします。
 これは村上春樹が言うように、「地下二階」はもう現実では「頭では考えられない」ところ、しかし、その現実の外部に躍り出ると、そこで「頭で考えている」、これが不条理の領域、すでにご案内の通り、村上の「同時存在」=パラレルワールドの拓くのもこのレベルです。
 すなわち、人の生きる世界は「生活上の分類」で捉えている、それは「世界観上の真偽の分類」で捉える領域ではない、こう考えておきましょう。その点、後者は不要とも言えます。


〈近代小説〉は物語を超える
 私は日本の近代小説を「物語+〈語り手〉の自己表出」と定義しました。それは物語をメタレベルで捉える〈語り手〉を日本の近代小説が要求していると考えているからです。言い換えると、近代のリアリズムを受容するのみならず、これを超えようとしていたと考えているから、と考えるからです。リアリズムもまたひとつの人類の物語に過ぎない、リアリズムは科学的真実を拓く手段と考えられているが、それも、ある条件の下のこと、近代小説は近代的リアリズムが物語に過ぎないのなら、それ自体の枠組みを当初から克服しようとしていた、これが近代小説の神髄だったと考えるのです。
 日本の近代小説はキリスト教を根幹にした西洋文明の近代科学に触れて誕生します。物語ることそれ自体を相対化し、そのメタレベルに立って、語ることそれ自体に孕まれる出来事の虚偽を超えんとした、この克服でもあったと考えます。


 そこで、〈読むこと〉の原理の問題です。
 そもそも〈語り手〉は作中直接現れようと現れまいと、物語とは必ず〈語り手〉が語っています。〈語り―語られる〉構造を持ちます。従って、近代小説を読む際、その物語の構造分析(ナラトロジー)の解明がいつかは要請されます。それは今日まで内外で方法論として求められてきました。その集大成がジュネットの方法論です。
 私の〈語り〉論はこの所謂ナラトロジーという方法論を斥け、語る行為をメタレベルで捉え直し、〈語ること〉の虚偽を超える〈第三項〉論が必要と考えています。何故なら、語られることで現れている出来事は常に主体のまなざし、パースペクティブに応じて現れ、主体が消えれば、客体の対象領域も消える、主体と客体は同時に現象して、主体の前に対象領域が現れる現象だからです。ということは別の主体には別の対象が現れる、対象領域は主体の一回性によるものであります。これは「生活上の分類」で捉えられていますから、これが相対化されること、「世界観上の真偽の分類」に晒される必要があります。
 

 『舞姫』を問題化して考えてみましょう。
 この作品は、日記の書けない、日記以前のつぶやきの如き留学生の帰国の際の手記です。出発の五年前とはまるで変貌しています。「きのふの是はけふの非」という一人称の手記の書き手が〈語り手〉であり、この生身の〈語り手〉である太田豊太郎の感慨は単に日常の想いをあれこれ語るのではなく、自身の獲得したヨーロッパでの近代的自我、「まことの我」に目覚め、「まことの愛」に生きたはずが、結局はそれは虚妄だったとの感慨に襲われ、身体の機能もマヒする感覚にあるところから沸き起こってくる思いが綴られています。これは書くことそれ自体、責任の取りようもない、とりあえずの方便なのです。これを読み手は『舞姫』というタイトル、鷗外森林太郎という署名者によるものとして読まされていて、日本の読者共同体がこの構造・枠組み自体が見えないまま、筋・ストーリーを読む、「額縁小説」の類で読んできたのです。
 すなわち、妊娠した愛する恋人を発狂させ、心ならずも棄てて帰国する自身の運命に手記の書き手は立って、謂わば、我を失っています。「地上一・二階」にあって、「地下一階」の自身に向き合いきれないのです。だから、良友相沢を憎むというアンビバレンツを顕わにして終わる手記を書いたのです。手記の書き手はクライアント、残念ながら、まだ『舞姫』研究の現在はこうしたことを受け入れていません。
 『舞姫』と署名した鷗外森林太郎とは〈語り〉を統括する主体であり、〈語り手〉は生身で、この作中の物語の時空間に登場しますが、生身の語り手は常に〈語り手を超えるもの〉=〈機能としての語り手〉によって語られている、これは物語論の基本です。
 ナラトロジーでもこれは十分わかっているはずです。

 〈機能としての語り手〉には生身の〈語り手〉の識閾下の「地下一階」が見え、物語の登場人物生身の〈語り手〉太田自身には見えない領域が捉えられているのです。これが捉えられることで、太田にとっての〈わたしのなかの他者〉であるエリスや天方伯爵の領域・位相が〈機能としての語り手〉のレベルから、くっきりと語られています。これが当人には見えません。詳しくは『日本文学』八月号の拙稿をご覧ください。
 

 繰り返しますが、これまで『舞姫』研究の大勢は手記の〈語り手〉である太田の無意識の領域を読まないで、筋を分析しています。『舞姫』は一人称の生身の〈語り手〉が登場するから、これを語る〈機能としての語り手〉を想定し、この〈語り―語られる〉相関を考えることが肝要です。母の諌死の遺書を無意識下に封じることで、「まことの我」に関わるまことの愛であるはずのエリスとの恋愛生活が維持されるのですから、無意識下に封じるしかなかったのです。母が諌死までして伝えようとした教えは相澤という友人を通して、豊太郎に迫るのでが、それを保留したまま、エリスとの恋愛生活、「憂がなかにも楽しき月日」を送るのです。
 生身の〈語り手〉は自身の無意識、「地下一階」を捉えていないから、辛うじて、毎日を送っていたのです。
 太田のエリスへの愛が成熟せず、結晶化しない理由はここにあります。その逆、幼かったエリスは成熟した女になるのです。
 太田にはエリスも天方も何者か、見えていません。
 


〈語ること〉とはその語る主体がその瞬間に現れた出来事、その一瞬はその主体にとって真実であっても、次の瞬間に裏切られ、それが〈機能としての語り手〉のレベルからは他者には別の現象に映り、虚偽となる、このメカニズムを読み解くところに、「生活上の分類」ならぬ「世界観上の真偽の分類」があります。〈語り〉には語る主体のパースペクティブを相対化する〈他者〉を語ることが必須なのです。でなければ虚偽に陥ります。単に「生活上の分類」に終わるのです。


 長くなりすぎましたね。これから、戻って、もう一度、考え直しましよう。近代文学研究は今、読みの革命の時期に来ています。今度は魯迅の『故郷』で周さんの疑問に答えます。張さんの疑問にはまだ応えきれていません。私の想いが先行し過ぎました。ごめんなさい。

 
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田中先生の「故郷」論について (周非)
2018-09-11 14:08:22
田中先生は、〈近代小説〉の真髄を「不条理」だとします。この立場から、田中先生の「故郷」論を考えると、「故郷」にとって何故〈語り手を超えるもの〉が必要なのかは分かると思います。
「故郷」の語り手は、相対主義の極致に至り、昼にして夜のパラレルワールドを語りますが、ここまでだと、やはり語り手の「不条理」に対する認識の中に留まっていて、作品自体は「条理」の話になると思います。
〈語り手を超えるもの〉によって、語り手の認識が更に相対化され、「不条理」を認識のレベルではなく、存在のレベルで語り出したと思います。
先行研究の中で、「故郷」の語りは自己相対化する認識を欠けていると批判する論がありますが、それらの読みは、二重に足りないと思います。
まず、生身の語り手のレベルから言うと、語り手が故郷から離れたその二十年間で何をしたかというところを考えていないと思います。
それに、生身の語り手を更に相対化した〈語り手を超えるもの〉を読み取れていません。
以上、私の感想ですが、先生、このように理解してよろしいでしょうか。
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