〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

古守さんからのコメント

2021-07-19 01:00:00 | 日記
古守さんから、以下のようなコメントを頂きましたので、
記事で取り上げさせて戴きます。
これについてのお返事は、また改めて記事にしたいと思います。

ブログ拝読
朴木の会の御講演のブログ(7/15)を拝読し、
衝撃をお伝えしたいと思いながらコメントを書けないでいるうちに、
午前中、石川さんのコメントと先生の御回答を興味深く拝読しました。

先生がおっしゃる “「私」=「私」という近代的自我史観ではなく、『私』=「私」+反「私」、
もっと端的に言うと、「私」=反「私」であるという矛盾、
パラドックスを手に入れること” は特に考えさせられました。
“反「私」”は、昨年11月の朴木の会の講座で『一人称単数』のお話をされた時に
初めて伺った言葉で、その時は漠然としか理解できなかったのですが、「私」を超えた、
しかしながら深いところで「私」とつながっている(全てを包括する)領域
(超「人為的」な「不条理」=「地下二階」=〈第三項〉=「闇」)の「私」のことで、
その領域の反「私」を抱えて『私』であるということと、
先生の説明を何度も伺いながら少しずつ理解しています。

石川さんのコメントに“「なめとこ山の熊」の世界観のように、個が個でありながら、
同時に全体でもあると感じられるような世界が未来に出現するのか”とありました。
「個が個でありながら、同時に全体」こそ、『私』=「私」+反「私」の世界観で、
先生のブログの中の“人と人、あるいは人と他の生き物の間に、
双方の「魂」と「魂」を響き合わせること”につながるものと思いました。
賢治や春樹が作品として提示していること(遡れば鴎外や漱石から)、
また、先生がブログで指摘されるように、
気鋭の思想家・哲学者が共通して「魂」を希求しているということ、それらを合わせると、
きっと(その気になればすぐにでも)実現できる気が私にはするのですが…。
けれども、この世界観が賢治が依拠した仏教の世界観でもあるのなら、
実現は気が遠くなるような年月を必要とする果てしない先のことなのかとも思います。
その中で私たちは、今できることを精一杯しなくてはいけないということでしょうか…。

先生のこの度のブログで、日本の近代小説が、近代リアリズムをベースに、真実の自己を発見し、
社会と闘い、そこに生きる価値を追い求めたけれども(=近代小説の本流)、
同時にリアリズムを相対化し、
これを超える不条理の領域に挑んだ(=《近代小説の神髄》)のが、
鴎外、漱石、賢治、志賀、芥川、三島、川端…村上春樹という作家達であるということ。
この「日本の近代小説」の捉え方がとてもよくわかりました。

《近代小説の神髄》=〈作品の意志〉に向かいながら(難しいのですが)、
この社会をどう生きていくかということが、私自身に今できることなのかと思っています。
コメント
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