〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

古守さんのコメントにお答えします

2019-04-05 20:44:15 | 日記
 古守さんが、先日私が山梨で行った講座の内容を要約して下さって、質問を頂いていますので、そのまま以下に再掲させて頂き、これにお答えしたいと思います。

「走れメロス」の講座 (古守やす子)
2019-04-04 09:32:58
 3月30日の山梨県立文学館での講座は、良い意味で呆然としてしまうような衝撃的な内容でした。
 この講座で「走れメロス」を取り上げると伺って以来、田中先生の過去の「走れメロス」論を再読し、メロスが一度ならず刑場に戻りたくないというセリヌンティウスへの裏切りの気持ちを持っていたこと、そのことに無自覚なまま語り終える〈語り手〉を、先生が〈迂闊な語り手〉と呼び、〈語り〉の破綻を指摘されたことを、私なりに理解して臨みました。
 しかし、この講座で先生は〈迂闊な語り手〉を撤回、〈語り手〉は全て承知で「いのちの行方」を語っていたとされる御論を展開され、「作品の価値を引き出す」と論じられ、驚きました。

 メロスの「無意識」の領域が王であるということ、そして、メロスとセリヌンティウスは立場は「意識」が共通の同一人物(分身)ということ、(つまり〈メロス・セリヌンティウス〉と〈王〉は、キャラクターこそはっきり分けて描かれているものの、三位一体=一人の人物であるということ)、この捉え方は目から鱗でした。

 メロスは疲労困憊で動けなくなった時、「人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法」と無意識の領域が表面化します。まさに王の意識です。この領域にあるのが「しばらくは、王とのあの約束をさえ忘れ」祝宴に興じ、「少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていた」いと思い、「そんなに急ぐ必要も無い」と「ぶらぶら歩いて」行くメロスです。安藤宏氏や田近氏が不問にしようとしたメロスの心ですが、やはりこの部分は重要だと再確認しました。

〈語り手〉は、王と表裏一体のメロスが、王になった後、元のメロス(セリヌンティウスの「命」を救うためという、命を問題にする王と表裏一体の次元のメロス)に戻らせるのではなく、「人の命も問題でない」「もっと恐ろしく大きいもの」という、命以上の大切なもの(命を超えるもの)を問題とする奇跡の世界、異次元空間にメロス(同時にセリヌンティウス、王)を連れて行くのだ、という御論にただただ圧倒されました。
 命を超えるものとは、永遠の信頼でしょうか、魂でしょうか、神でしょうか…。

 ただ、最後にメロスとセリヌンティウスが交わす言葉の「途中で一度」「たった一度だけ」は、私の中ではやはりまだひっかかるのですが…。メロスは(セリヌンティウスも)「単純な男」のままで、変わっていないのではないかと。二人の言葉がぴったり一致していることはまさに二人が一心同体であることを表していると思います。


 先生は、この作品は「近代の物語小説」として読むことが必要(そう読むことが作品の価値を引き出す)とおっしゃって、近代小説(の真髄)を読む読み方とは峻別することを強調されました。そこのところがまだよく理解できなかったので、詳しくお聞きしたいと思いました。

 なお、講座の中で「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラは次元を超越したところで結びついていると話されたのが、断片的にですが強烈に印象に残っています。


 以上が古守さんの文面です。



ご質問の第一は、「命を超えるものとは何か」です。直接的には絶対的に信頼されていると感じることですが、私はここではそれはギリシャの神ゼウスの心に適うものと考えます。それが奇跡を起こさせ、太陽の沈むより十倍早くメロスを走らせます。絶対的に信頼されると感じる事とは、奇跡を可能にします。それがギリシャの神、ゼウスの心に適うのです。
 
第二はメロスとセリヌンティウスがそれぞれ「途中で一度」、「たった一度だけ」と告白する場面がまだ引っかかると言われています。
 はい、私もこれと格闘しました。メロスの妹の結婚披露宴の宴席での「一生このままここにいたい」という「心」は、実は、セリヌンティウスの死を意味します。それにつながるのです。確かに、末尾の刑場でセリヌンティウスに詫びる場面で、これが不問に付されています。単に忘れたで済む問題ではありません。これをどう考えればよいのか、わたくしは以前、「迂闊な語り手」を問題にし、今回、これを撤回しましたが、確かに、難問ですよね。行為で裏切るだけでなく、「心」で裏切ること、これが問題のはずです。〈語り手〉がこの「心」に対し単に「迂闊」でなかったとすれば、どう考えたらよいのか、今はこう考えています。

 メロスは冒頭から結末まで、自分自身の無意識の欲望の在り処を捉える機会はなかった、自己省察とは無縁な存在として語られています。〈語り手〉はメロスが奇跡を起こすのに、端的に鮮明に向かわせたい、これを分かりやすく明快に語りたいのです。
 披露宴の席で、メロスが故郷にそのまま残りたいと思うことが実は、セリヌンティウスを見殺しにすることになる、これは極めて重要な問題ですが、メロスの無意識の領域なので、メロス自身は最後まで意識化できません。『走れメロス』の〈ことばの仕掛け〉とは、メロスの無意識を王の意識が顕在化しているところにあります。
 王は「命が大事だったら、おくれて来い。」とささやきます。王にはメロスの気付いていないメロスの無意識、「人を殺して自分が生きる」を「人間世界の定法」として生きていたのです。恐らく二年前までは王はほとんどメロス的人物だったはずです。それが己の信頼する人物にしたたかに裏切られ、その傷の深さが激しい憎悪となって、相手を殺すのです。王は強く人を信頼したい、その思いの裏返しが現在の王なのです。メロスの意識の底、無意識にはこの王の意識があり、これが宴会の席で「一生ここにいたい」という意識として現れます。翌日、川を渡り山賊と戦って、精魂尽き果てた後、身体が動かなくなると、それまで隠れていた無意識が意識に浮上し、「人を殺して自分が生きる」のが人間の定法だと世界を捉えることになります。
 〈語り手〉はそうしたメロスの隠れた無意識の領域を王に体現させてこの物語を語っているのです。この点が今回私の解釈が変わった点です。
 疲労困憊の極、眠りこけていたメロスは目が覚め、身体が動くようになります。すると、今度はセリヌンティウスに信じられているという思いが体中にみなぎります。ここからメロスの頭は「からっぽ」、「わけのわからない大きな力」が働き、間に合う、間に合わなないという世の掟も、いや、「人の命も問題ではない」世界にメロスは入り込み、奇跡が起こります。
 刑場に着いたメロスがセリヌンティウスに「一生ここにいたい」と言う自身の無意識を不問に付していても、既に王は「人を殺して自分が生きる」という人間の定法を体現しているために、「途中で一度悪い夢を見た」とメロスが告白すると、王も改心さえすれは、王とメロスは条件は同じ、仲間です。〈語り手〉はメロスのみならず、王の改心を語りたいのです。すなわち、メロスの無意識の裏切りは不問に付されているように見え、〈語り手〉は既にこれを王によって体現させていて、その王が改心する条件を揃えて、この問題を語っていたのです。
 メロスが極度に単純でのんきに過ぎる人物として語られているのは、王との相関関係として仕掛けられていたのです。


三番目の問題はまたの機会にしましょうね。
コメント
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