これまでの文学講座では、近代小説の神髄につてい考えてきました。
明後日の講座ではこれを『金閣寺』で考えましょう。
小林秀雄は『金閣寺』をあれは小説ではない、
「抒情詩」だとその魔的な魅力を極めて鋭く指摘しています。
まず、これを理解するのが大変です。
ところが、三島はこれを肯いながら、実は、これがいかに「抒情詩」ではなく小説なのかを
そっと漏らしています。
批評家の王座にいる小林にも、『金閣寺』が近代小説の《神髄》であることは通じていなかった、
ここが問題の発端です。
以前から問題にしている、「蝶番」の位置の問題です。
以前あまんきみこの『白いぼうし』論で、これについては詳しく説明しましたが、
この問題は文学研究者や国語教育の専門家にも容易には通じにくい、
我々の文化の通念、世界観の常識を超えています。
三島の小説論はリアリズムの文学の世界観を超える、
近代小説の神髄に関わる難問(アポリア)です。
『金閣寺』は末尾、主人公溝口が放火犯と化して「生きよう」とする物語ですが、
冒頭、その放火犯が生身の〈語り手〉に変貌しているという仕掛けが施されていました。
それは誰にでもわかるのですが、
実は、そこにはもう一つ、隠されていたことがあります。
それは、その生身の〈語り手〉のメタレベルに立つ〈機能としての語り手〉が全体を構成し語っていたことです。
こうしたことは近代小説の根幹に関わり、
小林秀雄に限らず、今日の文学研究の学問界でも批評の世界でも、
管見の限りは理解されていません。
詳しくは当日お話しします。
またブログでも今後、併せて書き進めていきましょう。
明後日の講座ではこれを『金閣寺』で考えましょう。
小林秀雄は『金閣寺』をあれは小説ではない、
「抒情詩」だとその魔的な魅力を極めて鋭く指摘しています。
まず、これを理解するのが大変です。
ところが、三島はこれを肯いながら、実は、これがいかに「抒情詩」ではなく小説なのかを
そっと漏らしています。
批評家の王座にいる小林にも、『金閣寺』が近代小説の《神髄》であることは通じていなかった、
ここが問題の発端です。
以前から問題にしている、「蝶番」の位置の問題です。
以前あまんきみこの『白いぼうし』論で、これについては詳しく説明しましたが、
この問題は文学研究者や国語教育の専門家にも容易には通じにくい、
我々の文化の通念、世界観の常識を超えています。
三島の小説論はリアリズムの文学の世界観を超える、
近代小説の神髄に関わる難問(アポリア)です。
『金閣寺』は末尾、主人公溝口が放火犯と化して「生きよう」とする物語ですが、
冒頭、その放火犯が生身の〈語り手〉に変貌しているという仕掛けが施されていました。
それは誰にでもわかるのですが、
実は、そこにはもう一つ、隠されていたことがあります。
それは、その生身の〈語り手〉のメタレベルに立つ〈機能としての語り手〉が全体を構成し語っていたことです。
こうしたことは近代小説の根幹に関わり、
小林秀雄に限らず、今日の文学研究の学問界でも批評の世界でも、
管見の限りは理解されていません。
詳しくは当日お話しします。
またブログでも今後、併せて書き進めていきましょう。