◇批判封じられ、白け蔓延--市民「ソ連時代と同じ」
2日のロシア大統領選挙で、プーチン大統領側近のメドベージェフ第1副首相が初当選した。8年ぶりの政権交代となるが、米国の予備選挙とは対照的に、不気味なほどに白けた空気が年始以降、この国を覆っている。プーチン氏が昨年末に第1副首相を後継者に指名した時点で結果が決まったからだ。
過去8年間、強権体制を敷いてロシアを大国に復興させたプーチン氏。2期目の任期満了となる5月に退くが、退任後は首相として権力の中枢にとどまる考えだ。「プーチン時代は始まったばかり」と喜ぶ政権派のアナリストもいる。だが、私だけでなく、「同じ人物による長期支配はうんざり」というのが一般市民の本音ではないだろうか。
「プーチン首相・メドベージェフ大統領」の新体制がうまくいく保証はない。そう予感させられる経験を私は身をもってした。
先月、私の妻が当地で出産した。妊娠35週目の深夜に突然出血し、救急車を電話で呼ぼうとした。急患の場合、産院が救急搬送しか受け入れてくれないからだが、来たのは3時間後だった。最初は「車がない」と拒否され、市内の救急隊をたらい回しにされた。
自宅に到着したのは女性の救急隊員1人だけ。この隊員と私、駆けつけてくれた友人のロシア人女性の3人で3階の自宅から担架で妻を運んだ。救急車の車体には「国家プロジェクト」のシンボルマークが描いてあった。メドベージェフ氏が過去2年間取り組んできた医療拡充などの社会政策だ。この予算で配備された車両だったのだ。
産院では、「少し遅れていれば、胎児は危なかった」と言われた。この話をプーチン、メドベージェフ両氏の出身地、サンクトペテルブルクの知人にすると、「首都でさえそんな体たらくなら、地方都市、まして田舎ではどうなるのか」と皆一様に口をそろえた。
「国家プロジェクトを成功に導いた」。プーチン氏は、事あるごとにメドベージェフ氏を称賛する。新たに導入された最新医療設備と、視察するメドベージェフ氏……。国営テレビが伝えるのは、前進し続けるロシアの姿だ。同氏のお陰で「減少傾向だった出生率がプラスに転じた」とも喧伝(けんでん)されている。
モスクワの知人の高齢者は「ソ連時代と同じ。テレビが映す『すばらしい世界』を見て、誰もが『自分だけ不幸だ』と思っている」と話す。別の知人の舞台俳優は、「ロシア人は火山と同じ。忍耐力は強いが、がまんの限界を超えれば一挙に噴火する」と、不吉なことを口にした。
そうした私の周囲の人々の声とは裏腹にプーチン大統領は、政権末期の今も7割の高支持率を維持している。石油価格高騰に支えられ、資源輸出国として高成長を遂げたこと、国民の平均月収も8年前の約7倍(約6万円)になったことなどが背景だろう。
その半面、貧富の格差は広がり、反体制派弾圧や徹底したメディア統制により、息苦しさは増すばかりだ。官僚の腐敗は慣習化しており、当局からのわいろ要求や嫌がらせに市民は苦しんでいる。
腐敗問題はプーチン氏も自覚している。2月にクレムリンで行った演説で、消防や衛生当局の役人が次々と中小企業家らにわいろをたかる様を「ひどい」と嘆いた。メドベージェフ氏も「腐敗との戦い」や、国民の経済活動の「自由」を保証すると公約した。
この公約が実現すれば、プーチン氏による長期支配への納得も得られよう。だが、腐敗問題は、8年もかけて解決できなかったと大統領自身が認めている。人ごとのように嘆くその姿に、「無責任」と感じた人は少なくないはずだ。
だが、そんな批判の声は表には出ない。メディア統制で反対意見は封じられてきた。その結果、「決めるのは上」というシニカルな気分が蔓延(まんえん)しているように思う。高い支持率も「ほかに選択肢がないから」と消極的な支持をする人々に支えられているのが内実だろう。
モスクワ大のシェストパル教授(政治心理学)は、「国民無視のやり方に人々はいら立っている。権力側は、市民社会を取り込む仕組みを考えないと、いずれ国民の信頼を失い、大きな困難に直面することになる」と指摘する。
ロシアに5年以上滞在し、強く感じるのは、この国には、我々と通じ合える、ごく普通の神経や感情を持った人々が住んでいることだ。「異質な国」ではない。市民の思いが為政者とは別であることは知っておいた方がいい。
毎日新聞 2008年3月4日 東京朝刊
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