わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

師匠とその弟子=藤原章生

2008-03-18 | Weblog

 師とのやりとりは、わずか5分だった。「君は広島だったな」。昭和20(1945)年5月、京大で冶金(やきん)を学んでいた水田泰次さん(82)は、主任教授の西村秀雄さんに呼ばれ、そう聞かれた。教授室には故湯川秀樹教授もいた。「西村さんに、親は市内におるんかと聞かれ、そんならすぐ疎開しなさい、他の人に言う必要はないと言われ、その日の夜行で広島市に帰ったんです」。新型爆弾といった話は出なかったと記憶しているが、「先生の口調にただ事ではないと感じ、両親をせかし、大八車で県西部の廿日市(はつかいち)に疎開させたんです。お陰で家族は被爆せずにすんだ」

 戦後、水田さんは被爆者に申し訳ないという思いから、何も話せないまま、西村教授は物故した。教授は冶金学の世界的権威で、戦前から欧米の学者と交流していた。それでも、教授が何を、どう知り、なぜ広島出身の弟子にだけ疎開を勧めたのか、それは今も分からない。

 広島の旧制中学の同窓生で京大の物理を出た森一久さん(82)は、水田さんの話を聞き、湯川博士のことがようやくわかった気がした。「湯川さんは弟子がたくさんいるのに、東京で就職した僕をずっと可愛がってくれた。僕は被爆し、家族5人を亡くしている。『なぜ教えてやれなかったのか』という後悔があったんじゃないかと思うんです」

 あの日、湯川博士は友人だった西村教授の教授室で「何もしゃべらず、じっと話を聞いていた。証人のつもりだったんやないかと思う」と水田さんは振り返る。博士はその話を誰かにしたのか。痕跡は見つからない。(夕刊編集部)




毎日新聞 2008年3月16日 東京朝刊


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