岐阜県・神岡鉱山の地下にニュートリノ観測で知られるスーパーカミオカンデがある。昨年、この薄暗い地下施設を訪れた時に、ちょっと意外なものを目にした。小説家、池澤夏樹さんのサインだ。
先月、たまたま顔をあわせた池澤さんに聞くと、その話は小説にしたと言う。確かに、3月に刊行された「星に降る雪」はこの施設が舞台だ。スーパーカミオカンデは宇宙から飛来する見えない素粒子を水をたたえたタンクでとらえる。ここで働く主人公は、「向こう側」からやってくる星のメッセージを待つ。
小説の読み方も、「向こう側」への思いも人それぞれだろう。個人的に印象深かったのは主人公の孤独な静けさだ。地上の雑音を避け、ニュートリノを辛抱強く待ち受ける装置とイメージが重なる。
カミオカンデが超新星からのニュートリノをとらえたのは87年。スーパーカミオカンデがニュートリノ振動の証拠をつかんだのは98年。この現象はニュートリノに質量があることを示し素粒子の標準理論に書き換えを迫った。それでも、さらに精密な観測が必要で、次の実験の準備が進む。
ニュートリノの地下観測施設はカナダにもある。今月、両施設の代表が顔をそろえたシンポジウムでは「世界でひとつの次世代観測施設を」という将来構想も話題に上った。一方で、「基礎科学に風当たりが強い」というぼやきも日本の研究者から漏れた。
もちろん、素粒子の理論を書き換えても経済効果はない。それでも、私たちの生活を豊かにするメッセージがある。それは、ここから生み出される小説にとどまらない。(論説室)
毎日新聞 2008年5月31日 東京朝刊
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