悪評まみれの聖火リレーは、よく考えると貴重な機会を与えてくれた、と思う。
長野での79番目の走者、有森裕子さんは語った。「なぜこうしたことが起きたのか、解決するにはどうしたらいいかを一人一人が考えることが大事だ」と。
中国が国家の威信をかけた壮大なリレーを計画しなければ、チベット問題が世界に広く発信されることもなかっただろう。政治的な思惑を込め、政治的に利用しようとしたばかりに、政治的なしっぺ返しを受けたと言える。
そして、各国での様子を見ていて気がついた。整然と、問題も起きずに終わった国ほど、自由にものが言えない息苦しい国なのだ、と。
たとえば、今週初めの北朝鮮。歓迎一色に包まれ、朝鮮中央通信は「デモは完全に管理された」と伝えた。あの国では、すべてを国が統制している。一方、フランスや英国、日本、韓国はいろいろあったが、開かれた健全な社会ならではの光景だったのかもしれない。
「抗議、妨害などがあればすぐに逮捕する」と当局が警告したタンザニアや、一般市民を締め出したインドなどはまだまだである。走者が倉庫の中にこそこそ隠れた米国も、同時テロ以来、疑い深くなり、何かにおびえ続けている姿を象徴していた。
聖火は中国に入った。国をあげての祝賀ムードの中で、「農民工」と呼ばれる人たちの劣悪な生活に代表される格差拡大や役人の腐敗など、さまざまな不満も渦巻いているという。中国でのリレーでそうした抗議行動を見たいと思うのは、妄想だろうか。(編集局)
毎日新聞 2008年5月2日 東京朝刊
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