わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

命綱が切れた時=磯崎由美

2008-12-12 | Weblog

 若年認知症の人たちを取材していると、仕事というものがいかに深い所で人を支えているかを教えられる。ある元サラリーマンは赴任した地名を手帳に克明に記し、その場所の絵を描いていた。他の記憶が薄れても、仕事のことを尋ねると満たされた顔で話してくれる。別の男性は退職させられたとたん、症状が一気に進んでしまった。

 仕事は収入を得る手段であるだけでなく、個人を社会とつなぐ命綱なのかもしれない。どんな職業であれ、働くということは誰かがいて初めて成り立つ。その綱が切れて社会から完全に孤立した時、負の感情が恐ろしいまでに膨らむことがある。

 東京・秋葉原の17人殺傷、大阪の個室ビデオ店放火、元厚生事務次官宅連続襲撃。今年起きた三つの凶悪事件はどれも職を失ったり解雇を恐れる男たちによるものだった。一昔前の貧困による犯罪とは異なり、3人は経済的にも不自由のない環境に育っている。だが転落や挫折で強いコンプレックスを抱き、恨みをぶつける具体的な相手すらいない。それが無差別的な凶行につながったように見える。

 小泉毅容疑者は動機について「犬のあだ討ち」と繰り返すが、解雇された時の「なんでおれをクビにするんだ」という言葉が気になる。劣等感は人に容易には語れない。ネットで自分の弱さを吐露した秋葉原事件の被告は非正規雇用が増えた時代の20代だが、40代の小泉容疑者は仕事で否定されたことを絶対に認めたくないのではないか。

 出口の見えない不況の中、雇用は脅かされていくばかりだ。先に待つのは貧困の拡大にとどまらない。孤独の暴走による結末は、いつもあまりにむごい。(生活報道センター)





毎日新聞 2008年12月10日 東京朝刊

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