わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

見えるもの=萩尾信也

2009-03-09 | Weblog




 「最近、街で体の不自由な人が目につくようになった。人数が増えたというよりも、以前は視界に入っても気に留めることがなかったように思う」

 54歳の友人の感懐だ。元国会議員、ビジネスでも財を成したが2年前に体調を崩して以来、化学物質過敏症による顔面神経まひが続いている。「風景が違って見えるようになった」のは、そんな病を得てからだ。

 視覚、聴覚、嗅覚(きゅうかく)、味覚、触覚の五感のうち、視覚は脳に届く情報量の9割近くを占めている。とはいえ脳や目の専門家によると、その見え方には折々の心象や経験が投影されて各人各様に違うらしい。

 <ヒトはまったく同じ環境に住んでいるように見えて、それぞれに別の意味を見いだし、自分なりの「環境世界」に住んでいる>。認知症の患者に数多く接してきた大井玄医師は近著「『痴呆老人』は何を見ているか」にこう記している。

 <眼は視覚的な世界のほんの一部だけを関心の対象として提示し、そのかけらからわたしたちは世界を構築している>。これは、目の大全ともいうべき「見る」の筆者、サイモン・イングスがつづった言葉だ。

 人は見た目にとらわれ、それを現実の世界だと思い込むきらいがある。いら立たしい時には、ちまたの風景にもトゲを感じ、幸せいっぱいの時には世の中も輝いて見えるように、「主観の世界」を生きている。要はそれを自覚しているか否かだ。

 サンテグジュペリの名作「星の王子さま」で、キツネも王子に言っている。「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」(社会部)


 

毎日新聞 2009年3月8日 東京朝刊


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