わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

基本は相通じる=榊原雅晴

2009-03-09 | Weblog




 さる裁判所のお手洗い。古参の司法記者が用を足していると、転任間もない裁判官が隣に並び、立ち話になった。しばらくして裁判官が切り出した。

 「例の○○事件ですが、今までの新聞記事のスクラップ帳を見せてもらえませんか?」

 前任判事から引き継いだ某刑事事件の審理経過を、手っ取り早く知りたいらしい。

 予想もしない申し出にその記者はびっくり。小用の狙いを危うく外しかけたという。

 手続きに基づいて提出された証拠によって事実認定するのが裁判官の役目である。「新聞報道などは予断を与える“雑音”に過ぎない」と考えてか、記者との接触を避けたがる人が珍しくなかった。だから、くだんの記者は「(担当事件の)記事を読んでみたい」と声をかけられて驚いたのだ。

 被告が無罪を訴えるような裁判は長期化し、記録も膨大になる。調書の山を前にして、「とりあえず概要を把握したい」と思ったとき、新聞記事は打って付けの材料だったに違いない。

 もちろん、直接の証拠と伝聞とを厳しく区別できる事実認定のプロとしての自信があればこそだろう。

 5月から裁判員制度がスタートする。一般市民から選ばれた裁判員に過度の負担がないよう、事前に証拠類を整理するなどの工夫がこらされるという。

 しかし、膨大な証拠を整理し、分かりやすく提示するのはなかなかの難題。負担軽減が先に立ち、肝心の真相解明がおろそかになっては本末転倒だ。

 簡潔で分かりやすく、それでいて勘所は丁寧に。裁判も新聞づくりも、基本は相通じる気がする。(論説室)




毎日新聞 2009年3月8日 大阪朝刊


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