わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

政治報道の志=与良正男

2009-02-23 | Weblog




 日本の政治をみすぼらしくしている責任の一端は私たちの政治報道にもあるのではないか。かねてそう自問している。

 例えば定額給付金を含む第2次補正予算が成立した際、注目された衆参の両院協議会。毎日新聞は社説で「両院協を予算案修正の場とみなし、給付金の削除や削減を求めるという今回の野党の対応は、ねじれ克服の一つの方法だ」と評価した。

 ところが、読売新聞社説は「両院協を審議引き延ばしに使うな」と民主党を批判する。理由はといえば「そもそも、合意が得られるような仕組みにはなっていない」からだという。

 このほかの新聞、テレビも大半は議論の中身や評価は二の次で、与野党の思惑だの駆け引きだのをしたり顔で解説するだけだった。民主党が引き延ばしを狙ったのも確かだが、報じる側も安易に「両院協は与野党が決裂するのが当たり前」、つまり「単なる儀式」と、はなから決めつけていたのではないか。

 憲法を素直に読めば両院協は衆参で議決が異なった場合の合意形成の場として用意されている。メンバー構成など現実には合意できる仕組みになっていないというのなら、まず「仕組みを変えよう」と提起するのが私たちの仕事だと思うのだ。

 先日、ある党のベテラン職員からこんなメールをもらった。

 「最近のメディアは、げすの勘ぐりみたいなものを前面に出すことが、建前を排して真相を突くことだと勘違いしているようです。本来の理念に立ったうえで批判すべきは批判し、改革すべきはその方向を示す、といった書生っぽさが必要では」

 そう。私たちの志が低くなれば政治不信を助長するだけだ。(論説室)




毎日新聞 2009年2月5日 東京朝刊


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