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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

リチャード・ジュエル

2020-01-25 16:22:14 | 映画(ら)
評価点:78点/2019年/アメリカ/131分

監督:クリント・イーストウッド

憧れから失意へ。

1996年、アトランタ・オリンピックにアメリカはわいていた。
開催期間中、同じジョージア州の公園で警備していたリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)は、不審な荷物を発見する。
何もないだろうという同僚たちの声を退け、マニュアル通りに手続きを始めると、爆発物だと分かる。
必死に逃がそうとしているところに爆発が起こる。
英雄としてもてはやされたジュエルだったが、捜査は彼を第一容疑者として取り調べを始める……。

イーストウッドの「アメリカン・スナイパー」をはじめとしたノンフィクションを元にした映画化作品群の最新作。
アトランタオリンピックのことなので、記憶に新しい人は多いだろう。
こういう皆が知っている出来事を映画化するのは勇気が要ることだ。
当時の様子を克明に再現することを迫られるし、「再現されているかどうか」が評価の基準になってしまうからだ。

それでいて、単なる再現だとテレビ番組と変わらなくなってしまう。
映画として見せる力も必要になり、ハードルは上がる。
日本で見る私たちよりも、本国での目線はより厳しいものになるだろう。
そして、なぜ今それを映画化するのか、という現代性、テーマ性も求められる。

しかし、こういうことをさせてやり遂げてしまうのが、イーストウッドだし、彼を取り巻くチームの底力だ。
主演はポール・ウォルター・ハウザーと、「ジョジョ・ラビット」でも出ていたサム・ロックウェル。

私はこの事件についてほとんど記憶がない。
予備知識も入れずに見に行った。
だから事件を追体験するというよりは、どういうオチになるのか、どこまでをどのように切り取るのか、まったく分からない状態で見た。
多くのアメリカの観客とは条件が違う、ということは書きそえておこう。

▼以下はネタバレあり▼

誰もが権威に憧れる。
人に影響力を与えることができる人間や組織の一員になりたいと思う。
メディアに取り上げられて、英雄視してもらいたいと思う。
仕事で一旗あげたい、賞賛されたいと考える。
それは誰もが共感するところだろうし、この1990年代よりも私たちのほうがよりその意識は強いだろう。
この映画が、今この時代に映画化される理由は、非常に明確だ。

私は劇中、ずっと嫌な気持ちになっていた。
決まりの悪い、もやもやした気持ち。
イライラと、ハラハラと、不安と恐怖に駆られた二時間だった。
誰もがこの緊張感を味わうことになるだろう。
それが、この映画が現代的なテーマを有していることの現れだ。

この映画は、こうした誰もが持っている、権威への憧れから、権威への失望、権威への失意を描いた作品である。
リチャード・ジュエルはその中心にある。
リチャードは、法務執行官になりたいと考える、善良な市民である。
法を遵守し、人々をよい方向に導くことが最良であると考えている。
だから、警察官に憧れ、法律を熟知し、銃やライフルに詳しい。
相手との距離感が掴めない、コミュニケーションがうまくとれない、というような面があるものの、それは純情すぎるから。

彼はアメリカや州を大切にする、愛国者である。
だが、仕事はうまくいっているとは言えず、不遇にある。

爆弾を見つけ人々を逃がしたことによって彼は一躍時の人になる。
メディアにもてはやされて、表舞台に立つ。
当然、被害者に対する悲しみを抱きつつも、今自分がいる境遇が信じられずに戸惑う。
それは同じ境遇になれば、誰もが感じる高揚だろう。

しかし、記者のキャシー(オリヴィア・ワイルド)もまた賞賛に憧れる人間の一人だった。
彼女はあらゆる手を使ってFBIから情報を聞き出し、「第一容疑者」としてジュエルが上がっていることを突き止める。
彼女のすっぱ抜いたときの様子は、リチャードのそれと近いものがある。

英雄として注目された者が、容疑者として追及される。
これほど大衆が喜びそうなネタは他にない。
内輪からこの情報が漏れてしまったことで、FBIはなんとしてでも「犯人」にしてしまわなくてはならなくなる。
ここにも、権威が持つ「間違うことが許されない」緊張が絡む。
権力がない人は権力に憧れ、権力のさなかにある者は、権力を行使することを求められる。

ともに、権力や権威がもつ重さである。
もちろん、メディアの怖さや、FBIという捜査当局のおごりなどを指摘することはできる。
だが、私にはどうしても、リチャードも、キャシーも、その他のメディアも、ショー捜査官も、すべてが権威に目がくらんでしまった人間たちであるように映る。
当然、メディアに踊らされて真実を見ようとしない、大衆も同じだ。
ヒーローであろうと、容疑者であろうと、人々はその影響力の大きさに憧れる。
批判も賞賛も、その渦中にいる者への嫉妬であり憎悪であり、根っこは同じだろう。

だからこそ、この物語の終盤に放つ、ジュエルの言葉が強く響く。
「私は警察官に憧れていた。だが、今回のことでその気持ちがなくなってしまった。
無実の男を取り調べている間に、守れるはずの命が危険にさらされているのだ」

この映画を簡単に悪者を探そうとする思考を止めてしまうのは、誰もがこの映画の登場人物のようになる危険性があるからだ。
権威を持たないものも、もつものも、誰もがこの陥穽の可能性がある。

上映中、ずっと気分が悪く、居心地が悪い緊張感を味わってしまうのは、誰もが当事者であるからだ。
真犯人が捕まったからといって、この映画は安易なカタルシスは与えてくれない。
明日、私が冤罪で捕まってしまうかもしれない。
あなたが、持っている権威が暴走してしまうかもしれない。
SNSが一般的になった今、だれもが権威をもつ可能性と、権威によって自分が損なわれてしまう可能性を持つ。

この映画で一人だけその権威に染まらずに、やるべきことをし続ける人物がいる。
サム・ロックウェル演じるワトソンだ。
彼は「権威を帯びると自分を見失ってしまう人間が多い。そうはなるな」と忠告する。
彼だけが、この映画のトリックスターであり、ワイルドカードである。
彼がこの映画をコントロールすることで、物語が展開していく。
真のヒーローはワトソンであり、サム・ロックウェルである。


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