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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

MOON CHILD ムーン・チャイルド(V)

2009-01-06 21:27:51 | 映画(ま)
評価点:8点/2003年/アメリカ


監督・脚本:瀬々敬久
脚本:Gackt

全然かっこよくない。

21世紀目前の2000年12月。
ケイ(HYDE)は、ルカ(豊川悦司)をつれて海辺へと向かう。
2014年の中国日本人移民住居地区マレッパ。
ケイはショウ(Gackt)という少年と出会う。
2025年のマレッパ。ショウは大人になった。
しかし、ケイはその容姿をとどめたままだった。
Gacktはいつものように、義心会というマフィアの溜まり場に金を奪いに向かう。
しかし、そこに見知らぬ中国人が義心会に乗り込んでくる…

ストーリーが詩のようになってしまい申し訳ない。
物語時間の構成どおりに記述すると上のようになってしまう。
それはおいておくとして、本作はHYDEの記念すべき映画出演の第一作目である。
Gacktと元々仲の良かったことから、熱望されたことがきっかけとなって出演したらしい。
当然ながら、「下弦の月」を見た後の僕にとっては、彼の演技を問題にする気は全くない。

▼以下はネタバレあり▼

どんな映画かを問うよりもまず、「これが映画であるか」を問うほうが適切だ。
例えば、この映画を紹介するときの、僕のことばは、罠が仕掛けられていることを知っている人質が、助けに来た人に向かって、叫ぶ台詞に似ている。
「何があっても観ちゃだめだ~!」

……ともあれ、この文章を読んでいる人は、「ムーン・チャイルド」を観たという稀少な人々であるので、
それを前提にして文章をすすめよう。

この映画のモティーフは、大きく2つある。
1つは、永遠の命をもっているヴァンパイア。
そしてもう1つはマフィアとの抗争である。

ケイは、ルカに噛まれることによって、ヴァンパイアになる。
ヴァンパイアにもいろいろあるので、少し説明すれば、
1、日光に当ると死んでしまう。
2、人の血を吸って生きている。
3、基本的に不老不死。
4、瞬発力や跳躍力、腕力など超人的な肉体をもつ。
5、噛むことによって、相手をヴァンパイアにすることができる。
作中ではよくわからなかったが、ニンニクや、十字架、銀の釘を恐れるといった設定は、特にないようだ。
基本的には、オーソドックスなヴァンパイアだと言える。

ヴァンパイアの設定はいたって“ふつう”だが、問題は、ケイ自身の設定が掴めないということだ。
ケイは、自分をこわがらなかった少年ショウと暮らすことになる。
しかし、不老不死であるケイは、ショウが成長したとしても、実年齢は変わらない。
楽しい日々を過ごすケイとショウだったが、ケイはその楽しさが一時のものであることを知っているため、不安を抱えている。
不老不死であるがゆえの苦悩である。

…と思っていると、今度は銃をおもちゃのようにもてあそび、人を殺しまくるケイが登場する。
苦悩を抱いているケイからは想像できないほど垢抜けて、面白くもないユーモア精神を見せる。

このギャップが激しすぎる。
シリアスさとユーモアさを兼ね備えたキャラクターというのは、たしかに面白い。
しかし、悩んでいることと、やっていることのギャップが激しすぎて、悩みをストレートに吐露されても、一向に感情移入できない。

それに加えて、ヴァンパイアであるにもかかわらず、ケイはまったく怖くない。
明るい場所で人を噛むため、それがいわゆるヴァンパイアの食事には見えない。
日光を恐れるという設定のわりには、ケイがいる場所が明るすぎる。
ケイの姿が完全に見えた状態が続くため、怖さがうまれないのだ。
「エイリアン3」でエイリアンの全身が何度もスクリーンに登場することで、エイリアンの怖さが半減したのと同じだ。
悩みをショウに告白するシーンも、あまりに部屋が明るいため、重みが失われてしまっている。

演出上の問題だけではなく、彼には秘密やミステリアスな部分が少なすぎる。
どうせなら、ヴァンパイアであることをケイとショウ、トシだけの秘密にして、観客に明かさないような展開にするべきだった。
ミスディレクションのような大それた裏切りの必要はなかったにしても、トシが死ぬあたりまでは、なぜケイが昼間に現れないのだろう、といった「謎」が必要だった。
人は、見えない部分や人知を超えた部分に恐怖感をもつ。
また、「なぜ?」という問いは、そのままサスペンス効果を生むことになり、観客の興味を引っ張ることができる。
ヴァンパイアという設定を最初から最後までわかりやすく明かされてしまっては、興味がうせてしまう。
「謎」がないため、恐怖がなくなってしまうだけでなく、すぐに悩みを打ち明けるから、ケイの苦悩の重さも軽くなってしまう。

ケイには感情移入できない。
それならば、もう一人の主役Gacktのショウはどうか。
これも残念ながら、感情移入できるようなキャラクターではない。
ケイの致命的な欠陥が「謎」であるとすれば、ショウの致命的な欠陥は「哲学」である。

ショウは仲間想いで、面倒見がよく、人情に厚い。
トシが死んでしまった悲しみを貫くため、最後まで義心会に抵抗し続ける。
ケイとの関係も、彼を気遣って昼間には出歩かないようにするほど、強い関係で結ばれている。

一方、銃を握り、義心会の縄張りに強盗に入るときは、敵には全く容赦がない。
派手に銃を乱射し、遊んでいるかのような無邪気な殺人を繰り返す。
元々、彼が移民出身で、ダークサイトに生きてきた人間だから、仕方がないといえばそうかもしれない。
しかし、それではあまりに矛盾している。
トシが殺されると、何があっても許さないと誓う。
しかし、自分は敵の仲間を無邪気に殺しまくるのである。
そこに人間的な感情はない。
生きる金のために殺人をしているのではない。無邪気に、皆殺しにするのである。

そのギャップがやはり激しすぎる。
人の命を必要以上に大切にする一方、ほとんど蚊を殺すかのような安易な殺人をする。
こんな「哲学」のない彼に、感情移入しろというほうが無理である。

殺人を繰り返すことで、映画全体の中での、「人の死」が軽くなってしまうということもある。
彼の仲間が、数十秒という短く何の前触れもないシーンで殺されてしまったり、ほとんど伏線のない部下が敵のボスを殺してしまったりと、映画の中で「死」が氾濫する。
それは映画として何の意味もない「死」である。

終盤、ショウの妻までも死んでしまうが、それまで死が氾濫してしまっているため、「ドラマ」になりえない。
ラストで、ショウとケイが死んでしまっても、そりゃ、それだけ人殺してたら死ななきゃだめでしょ! とさえ思えてしまう。

そんなショウが、カッコつけて銃を構えられても、二丁拳銃でアクションを見せられても、カッコいいとはとうてい思えない。
そんな彼に感情移入などできるはずがない。
むしろ、銃を撃つたびに眼をつむるGacktは、素人くさくて、ビビっているようにさえ見える。
(そもそもそれだけの弾丸をどこで手に入れたのだ?)

では、そんな彼らが見せるストーリーはどうなのか。
感情移入するキャラクターのいない映画で、ストーリーだけがいいはずがない。
ストーリーの大半は、不老不死になやむケイの姿ではなく、タマをとった、とられたというマフィアの抗争である。
義心会と、日本人移民のショウたちとの争いが展開される。
しかし、これにも頭を傾げたくなるシーンのオンパレードだ。

義心会という組織の実態が説明されず、マレッパという街の全体像や雰囲気も分からない。
敵の義心会が分からないから、トシが殺される前から、常に抗争している理由がイマイチ掴めない。
街の様子が一部の通りや、交差点しか描かれないため、それがどんな街で、
ショウがその街で果たす役割がどのようなものなのか、全く掴めない。
街の様子がじゅうぶんに描かれない上に、時代がどんどん進んでいく。
しかし、主人公達以外で時間の経過が分かるものは、ショウの妻が描いた壁画くらいのものだから、
ますますショウたちを取り巻く街の様子が分からない。

時間経過がつかみにくいから、ケイの無常感というものが、ますますとらえられなくなる。
ただ両者が対立し、殺し合いを繰り広げている、ということしか分からない。
こんな状況であれば、不老不死でなくとも死にたくなるというものだ。

キャラクター、ストーリー、設定、伏線、演出、
映画に必要なものがすべてズタズタな状態である。
映画というものは、表現であるから、言葉にできるかできないかは別にして「テーマ」や「主題」というものがある。
それがないこの映画は、やはり映画かどうかを考えなければならないだろう。
顔や、音楽の才能はともかく、Gacktに映画を撮る才能、撮られる才能は、ゼロだ。

(2004/11/19執筆)

この批評は実は密かに僕のサイトを一気に有名にした文章でもある。
「MOON CHILD」を調べていると、このサイトに行き当たったという人も少なからずいたようだ。
だって、こんな駄作、真剣に議論の的にしているサイト、少ないんだもん。
いずれにせよ、僕にとって大切な作品になったことは間違いない。

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