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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ジョジョ・ラビット

2020-01-21 19:53:14 | 映画(さ)
評価点:78点/2019年/アメリカ/108分

監督:タイカ・ワイティティ

第二次世界大戦という比喩。

第二次世界大戦、ドイツの田舎町。
ジョジョ(ローマン・グリフィン・デイビス)は気弱な少年で、10歳になりナチスの少年隊に入ることになった。
彼を勇気づけるのは、空想の友人ヒトラー(タイカ・ワイティティ)。
しかし、彼は全く訓練について行けず、「ジョジョ・ラビット」と囃されて、あげく手榴弾でケガをしてしまう。
「内勤」の形でナチスに貢献することになったジョジョは、ビラ貼りなどを担当することになった。

あまり見るつもりがなかったのだが、あまりに前評判が高かったので、急遽映画館に駆け込んだ。
日本ではディズニーが配給することもあって、第二次世界大戦とディズニーというのがどうもピンとこないことも理由だった。

あまり予備知識なしで見たい作品だ。
どのように展開するのか、冒頭から目が離せない。
おそらく最初の30分くらいは、良い印象を持たないだろう。
そしていつの間にかこの映画の世界観にどっぷりはまっていることだろう。

ただその流れに乗れる人と、冒頭からの違和感が拭えない人とで評価が分かれるかもしれない。
まあ、要するに見てみるしか前評判は当てにならないということだ。
スカーレット・ヨハンソンが大好きな私は、とうぜんそれだけでOKなのだが。

▼以下はネタバレあり▼

時代はここまできたか、という印象だ。
これまでも第二次世界大戦が比喩として利用されることはあった。
だが、この映画は完全にナチスとユダヤ人との対立を、記号として、比喩として描いている。
その部分を許せるかどうかが、賛否が分かれるところだろう。

冒頭からナチスの訓練に参加しているあたりから、この映画の不遜さ、ユーモアの不快さに違和感を覚える。
あまりにふざけているし、笑いにしていいとは思えない、妙な緩さがある。
イングロリアス・バスターズ」にあるような、ぶっ飛んだユーモアではない。
この不快さも、監督の考え通りの雰囲気なのなら、この監督は天才かもしれない。

だが、自宅の死んだ姉の部屋の、壁の裏側に、かくまわれているエルサとの出会いから映画が一気に変わってくる。
彼女とのやりとりから、この映画がナチスとユダヤ人という対立を利用した、人種差別や分断の隠喩としての物語という別の側面が浮かび上がってくる。
ジョジョという少年の目を通して描かれる物語は、ナチスドイツの史実を描いたものではない。
むしろ、史実とは異なるメルヘンの世界だ。
だから、この映画を「全く戦争の恐怖が描かれていない」「ナチスはもっと狡猾で残酷だった」というような批判は一切無効だ。

描きたかったのは、目の前にいる人間が愛すべき人間なのかどうなのか、掛け値なしに人として付き合えるかどうか、ということなのだ。
だが、それでも第二次世界大戦を比喩に用いるなんて、という発想はあるだろう。
その通りだ。
まだ比喩としても用いることが許されるほど、古い話なのかと言われると、それは難しい。
逆に、若い世代にとってはすんなり受け取ることができたのかもしれない。
しかし若い世代にとってこの映画のような世界観だけが受け入れられることで、史実と乖離した第二次世界大戦像が描かれていくかもしれない。
そういう危惧もある。

ともかく、この映画の「こんなことあり得ない」という点を批判しても何も生まれない。
例えば、サム・ロックウェル演じる、ナチス高官とジョジョの母親はどういう関係だったのか。
なぜジョジョとエルサは母親が殺されても自活することができたのか。
ジョジョの姉が死んでいたことをなぜ誰も知らなかったのか。
そういう突っ込みはきっとほかにもたくさんある。
少年兵だからといって、11歳はさすがにあり得ないのではないか、とか。

映画のテーマは、ナチスのプロパガンダによって作り出されたヒトラーの亡霊を、真の愛を知るエルサと母親との交流によって断ち切る物語、である。
彼は敗戦を迎えて、家の外に出る。
それは彼自身が、作り上げられていたナチスという亡霊を打ち破って外の世界に出たということの隠喩でもある。
だからこそ、自然と踊り出してしまう二人に大きなカタルシスを得ることができる。

あくまでもジョジョの目線から描かれる第二次世界大戦は、史実とは異なる点が多い。
だが、この映画は史実をなぞるための映画ではない。
子どもの目線から見た世界が、いかに他人から作り上げられたものであるか、そしてそれを打ち砕くのは新しいプロパガンダでも憎しみでもなく、愛であるということだ。

我々は分断されている。
かつてないほどに、あらゆる方法で、対立をあおる選挙やデモ、抗議活動、喧伝がされている。
だれがそれを始めたのかはすでにわからない。
だが、あの国が、あの人種が、あの宗教が、あの企業が……という対立をあおることよりも、目の前にいる人間を信じるかどうか。
「どうやって相手を見極めればいいの?」
「ただ、信じるのよ」

こんな台詞を吐ける人が、あの当時いたのかどうなのかは、繰り返すようだが、どうでもいい。
この台詞は私たちに向けて言われたものだから。
誰を信じれば良いのかわからないなか、クレンツェンドルフ大尉がジョジョを逃がすために命がけで芝居を打ってくれる。
この世は愛に満ちている。
誰を信じれば良いのか、という損得勘定を抜きにして、相手を信じられるかどうか。
それをどのように私たちが受け取るかどうかなのだろう。

アメリカではこの映画はそれほど高い評価を受けなかったらしい。
これらのメッセージが彼らにはそれほど突き刺さらなかった、それほどに彼らは既に分断されているのかもしれない。

もう一つ、書いておきたいことがある。
それは、この物語が引用によって成立しているということだ。
エルサの恋人の言葉を、ジョジョが引用という形で、自分の思いを伝える。
母親のロージー・ベッツラーは、父親に扮して、自分の思いを伝える。
誰かに語らせることによって、自分の立場から言えないことを、誰かに伝えてもらう。

子どもの目線で描くことで、私たちはこの映画が訴えようとしているメッセージ性を受け取る。
この構造が、この映画を支えているように思う。


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