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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

スティーヴン・キング「it」

2018-10-20 16:40:53 | 読書のススメ
全四巻、ほぼ一年かけて読んだ。
映画化されることが決まる前から読もうと思って書店を探し回り、それでも手に入らなかったのでオークションで手に入れた。
映画化されるとやたらと話題になって、平積みされるようになった。
しかも、読み終わることができず、結局流行に乗り遅れた悲しい感じになってしまった。

映画のほうは見ていない。
また見ることになるだろうが、それは次の機会にしておこう。

少年ジョージ・デンブロウが何者かに殺されて、その兄ビルが田舎町デリーに巣くうその何者かと対峙する。
それが、1958年と、1985年の27年の時を往来しながら描かれていく。

▼以下はネタバレあり▼

ホラーだといわれて、しかし私は「怖さ」よりも「不気味さ」のほうが気になっていた。
私はあまり残酷な描写をされても、それほど怖さを抱かないのかもしれない。
映像にされたとき、どうなるのかそれはわからないが。

「it」とは何者なのか。
現実なのか、ファンタジーなのか、象徴的な記号なのか、比喩なのか。
「it」よりもむしろ、私はベヴァリーの父親だったり、ヘンリーだったりの人間のほうに怖さを覚えた。
だから、私の読みは、「it」への関心に向かっていったと言っていい。

「it」とは何者なのか。
最後の最後までわからないと思いながら、最後のオードラの克服を読み終えて、はじめてすべてが腑に落ちた。
そして、もう一度読んでみたいと思った。
以下、そのことについて少し書いてみよう。

「it」はデリーに棲み着く魔物だった。
蜘蛛のような形をした、人々の闇に巣くう魔物だった。
大人には見えない。
だが、大人はitにコントロールされてしまう。
確実に存在するが、だれもがいないようなそぶりで扱う。

しかし、子どもたちは、itを見抜いてしまう。
ビルたちが対峙するとき、それが男ではなく女だというような記述があるが、性別はこの際あまり考慮する必要は無いようにおもう。
ビルたちは、itを倒したとき、そのときから急速に自分たちについて、忘れてしまう。
倒したことを忘れて、書き記した手記さえそのインクが消えていってしまう。

「it」とは何者なのか。

it、それは大人が忘れてしまった好奇心であり、欲望との対義にある存在だろう、と私は思う。
大人はそれを無かったように振る舞うことで、生きている。
本当はしかったこと、本当は見えていたこと、本当は苦しかったこと、開けてみたかったタブーの街の区域。
そういう子どもにしか見えていなかった好奇心と欲望が子どもには満ちあふれている。

「スタンド・バイ・ミー」にも似た子どもにだけ許されたあの感覚、恍惚感。
はみ出しクラブと呼ばれた、社会から、コミュニティからも排除された者たちだけが、その本質を見抜けること。
itはそれをえさにすることで生きながらえてきた。

オードラは、デリーの街を高速で移動する自転車に乗せられたとき、ふと我に返って自分を取り戻す。
itから深く傷つけられたその心は、対極にある子供じみた恍惚感によって取り戻されるのだ。

ベヴァリーと6人の仲間たちとのセックスも、同様の意味があった。
子どもだからこそ理解できる、性欲とは違う、好奇心と欲望、そして友情や愛情とは違う、別次元の愛。
その儀式によって再び自分たちの帰るべき道を見いだす。

だが、それはつかの間の出来事、感覚だ。
彼らはitと対峙することで、大人になる。
自分がかつてどんな子どもだったかを、だれもが忘れて大人になるように。

ともすれば長すぎる物語だったが、冗談を言う7人の姿も、大人も手を焼くヘンリーたちとの闘争と逃走も、この物語には必要不可欠だったのだと最後のオードラの姿を見て感じた。

私たちはもしかしたら、it=無関心、無感情、怠惰、無欲、という何者かにかすめ取られた生き方をしているのかもしれない。
そして、それらと対峙することは大人には最も難しいことに違いない。

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