secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

スポーツにあるフィクション性と、文学にあるリアリティ

2018-10-27 18:25:11 | 不定期コラム
今年の日本プロ野球ドラフトは、歴代最高の瞬間視聴率を記録したらしい。
ここ最近、スポーツに対する話題に事欠かないようになってきた。
しかし一方で、スポーツに対する風当たりはかなり厳しいものがあるような気がする。
私の息子が中学生になる頃には、クラブ活動はなくなっているかもしれない。
スポーツが加熱する一方で、実際にスポーツをする人は少なくなってきている印象がある。
これはどうしたことか。

私はネットニュースをみるたびに、スポーツに関する報道をみるたびに、「私たちはスポーツをフィクションとして楽しんでいるのだ」という印象を受けてしまう。
現実で起こっている試合を、フィクションのように楽しむ。
だからこそ、私たちはスポーツに熱狂できる。
私の父親がよく「野球を見ていたら罪がない」と言っていた。
罪がない、というのはどういうことか。
私は実利に関係がない、と解釈していた。

私は阪神タイガース・ファンだが、阪神の試合を見ていて、勝っても負けても私の実利には影響を及ぼさない。
極端な話、負けて最下位になっったからといって仕事が減ったり、優勝したからと言ってお金が入ってくるわけではない。
気分が仕事に影響するかもしれないが、優勝すればむしろグッズを買ってしまってお金は減るかもしれない。
その意味で、私たちはスポーツをフィクションとして楽しむことができる。
閉じられた現実なので、好きなように思い描くことができるのだ。

阪神ファンには、「おれが監督になったほうがいい」と公言する人は多い。
それだって、スポーツは現実でありながら、虚構であるという側面を楽しんでいるからこそ言えることだろう。
ネットニュースで、ドラフトの裏側や日本代表のこぼれ話がかき立てられるのも、そこに事実があるからではない。
むしろ、どういう物語を描こうと、フィクション(実利と無関係)であるからこそ、感嘆したり批判したりすることができるのだ。

私はだからスポーツは面白くないと言いたいのではない。
だからこそ、私たちは心から応援できるのだ。
もしこれが実利に関わることであれば、こうはいかない。
それが政治に対する憤りと、応援するチームが負けたときの憤りとの決定的な違いだ。

これとよく似たものがある。
それは、フィクションであるが故に、真実を見いだすことができる、文学だ。
文学でなくてもよい。
映画でも、ゲームでも、アニメでも、あらゆる表現は、フィクションであるからこそ私たちはそこにリアリティを見る。
胸を焼くような悲しみや、手が震えるような怒りを、小説や映画の中に見いだす。
これも私たちに実利のない、閉じられた世界であるからこそ、むしろそこに〈私〉という存在が入り込んでいく余地がある。

スポーツは筋書きのないドラマと表現される。
これは撞着語法なのだが、まさにリアルをフィクションとして楽しむことができるところが、醍醐味なのだろう。
だからこそ、〈ヒーロー〉が生まれるし、〈物語〉が紡がれるのだ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« スティーヴン・キング「it」 | トップ | VRの可能性と提言 »

コメントを投稿

不定期コラム」カテゴリの最新記事