姜尚中著「続・悩む力」を評判聞いて読んでのメモ。
(説明がないので、読んでない人はスルーよろしく)
ウェーバーの「プロ倫」の知の合理化と専門化による精神なき専門性としての職業という説明には学生の頃、共鳴した記憶がある。生にとっての世界の意味の復権、というテーマは、社会の要求する行動価値と自分のそれとの齟齬軋轢な彼(って誰?)にはこだわるところだけど、ナイーブで文系的なことなのかなという気分もあった。科学は相対的な言語であると仏文のインテリは語ってたが、さてどうだろう?てな。
時代は過ぎて、(ロマン主義とか甘ったるいものでなく)前出のテーマは時宜的に改めて力の入る、また入れるべきところだよなと共鳴した。例をあげればキリないが市場経済を成立させている3つの要素で「人間」「自然」「貨幣」をあげてたり、現在の市場経済至上のシステムが方丈記のごとく永遠の生命と強固さをもつものでない物言い等、(いや…例をもっとあげないと文意にならないが)読解と時間をかけた思考と再構成と鋭い感覚とセンスに、いちいち納得する。
昔、国語の先生が「ある作家の本を読んで君は感動したかもしれないが、それで君の(人格の)何が変わったのだ」と読書無意味論とも取れる送る言葉を載せていた。著者の(儚いものとしての)「人」を悼むときの心の痛みは、読んでるだけの私には同じだけの強度をとても共有できてないのだろうな。なんとなく感じた。それは何が起こっていても特に異常とも感じない感覚というか、社会を見る目にリンクしている。自分がそうであり、また多くの人がおそらくそうなのだろうなという至らなさ加減(本の中の言葉ならさしづめ「狂気も多数となれば正気」)を予想しつつ。
「悲観論は虚弱に通じる」(あとがき)と感じているのは、それだけプログラム(条件づけ)されている。
相手と自分のマスクをひたすら観察する(P.202-)のは、疑念(不信)による明晰さの欠如、どう思われてるだけが関心である最高善の欠如。自他比較のプログラムから解放され、深い自己受容がないことの反射。
(説明がないので、読んでない人はスルーよろしく)
ウェーバーの「プロ倫」の知の合理化と専門化による精神なき専門性としての職業という説明には学生の頃、共鳴した記憶がある。生にとっての世界の意味の復権、というテーマは、社会の要求する行動価値と自分のそれとの齟齬軋轢な彼(って誰?)にはこだわるところだけど、ナイーブで文系的なことなのかなという気分もあった。科学は相対的な言語であると仏文のインテリは語ってたが、さてどうだろう?てな。
時代は過ぎて、(ロマン主義とか甘ったるいものでなく)前出のテーマは時宜的に改めて力の入る、また入れるべきところだよなと共鳴した。例をあげればキリないが市場経済を成立させている3つの要素で「人間」「自然」「貨幣」をあげてたり、現在の市場経済至上のシステムが方丈記のごとく永遠の生命と強固さをもつものでない物言い等、(いや…例をもっとあげないと文意にならないが)読解と時間をかけた思考と再構成と鋭い感覚とセンスに、いちいち納得する。
昔、国語の先生が「ある作家の本を読んで君は感動したかもしれないが、それで君の(人格の)何が変わったのだ」と読書無意味論とも取れる送る言葉を載せていた。著者の(儚いものとしての)「人」を悼むときの心の痛みは、読んでるだけの私には同じだけの強度をとても共有できてないのだろうな。なんとなく感じた。それは何が起こっていても特に異常とも感じない感覚というか、社会を見る目にリンクしている。自分がそうであり、また多くの人がおそらくそうなのだろうなという至らなさ加減(本の中の言葉ならさしづめ「狂気も多数となれば正気」)を予想しつつ。
「悲観論は虚弱に通じる」(あとがき)と感じているのは、それだけプログラム(条件づけ)されている。
相手と自分のマスクをひたすら観察する(P.202-)のは、疑念(不信)による明晰さの欠如、どう思われてるだけが関心である最高善の欠如。自他比較のプログラムから解放され、深い自己受容がないことの反射。