小鴨元清(をがももときよ)
<現代仮名遣い>おがももときよ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
左衛門尉・南条元清。伯耆の武将で岩倉城主。
南条宗勝の庶子で、嫡系の兄が南条元続。東
伯耆の名門小鴨氏の名を継ぎ、小鴨元清と称
する。
1581年10月羽柴秀吉の元へ「吉川元春が南条
元続の羽衣石城と小鴨元清の岩倉城
を取り巻いた」との注進が入り、秀吉は
亀井玆矩の城へまず参陣する。そのと
き吉川は羽衣石城と岩倉城に向けて、
馬の山のふもとに着陣する。次に秀吉
は羽衣石城に7日間在陣。国中から兵糧・
玉薬を集め、蜂須賀正勝・木下平大夫の
両人を馬の山押さえの勢として送る。
1581年11月羽衣石・岩倉間に段々に軍勢を置き、
兵糧・玉薬を十分持たせ「春まで動けるよ
うに」と指示する。その後秀吉が姫路に引
き上げると、吉川元春も軍勢を引き上げる。
1588年冬主家南条氏のために伯耆羽衣石城代と
なる。
1592年南条氏の名代として朝鮮へ出兵したが、甥
元忠の家臣の讒言により失脚。その後小西行長に
仕える。
1600年関ヶ原の戦いでは、行長の領国肥後国宇土
で加藤清正軍と戦う。しかし行長の刑死後は加藤清
正の家臣となり、清正の仲介で豊臣秀頼への仕官を
願ったが、果たせずに病死。子の宣政が豊臣秀頼に
仕えることになった。
<現代仮名遣い>おがももときよ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
左衛門尉・南条元清。伯耆の武将で岩倉城主。
南条宗勝の庶子で、嫡系の兄が南条元続。東
伯耆の名門小鴨氏の名を継ぎ、小鴨元清と称
する。
1581年10月羽柴秀吉の元へ「吉川元春が南条
元続の羽衣石城と小鴨元清の岩倉城
を取り巻いた」との注進が入り、秀吉は
亀井玆矩の城へまず参陣する。そのと
き吉川は羽衣石城と岩倉城に向けて、
馬の山のふもとに着陣する。次に秀吉
は羽衣石城に7日間在陣。国中から兵糧・
玉薬を集め、蜂須賀正勝・木下平大夫の
両人を馬の山押さえの勢として送る。
1581年11月羽衣石・岩倉間に段々に軍勢を置き、
兵糧・玉薬を十分持たせ「春まで動けるよ
うに」と指示する。その後秀吉が姫路に引
き上げると、吉川元春も軍勢を引き上げる。
1588年冬主家南条氏のために伯耆羽衣石城代と
なる。
1592年南条氏の名代として朝鮮へ出兵したが、甥
元忠の家臣の讒言により失脚。その後小西行長に
仕える。
1600年関ヶ原の戦いでは、行長の領国肥後国宇土
で加藤清正軍と戦う。しかし行長の刑死後は加藤清
正の家臣となり、清正の仲介で豊臣秀頼への仕官を
願ったが、果たせずに病死。子の宣政が豊臣秀頼に
仕えることになった。