『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

小鴨元清(をがももときよ)

2020-04-07 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小鴨元清(をがももときよ)

<現代仮名遣い>おがももときよ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


左衛門尉・南条元清。伯耆の武将で岩倉城主。

南条宗勝の庶子で、嫡系の兄が南条元続。東

伯耆の名門小鴨氏の名を継ぎ、小鴨元清と称

する。


1581年10月羽柴秀吉の元へ「吉川元春が南条

    元続の羽衣石城と小鴨元清の岩倉城

    を取り巻いた」との注進が入り、秀吉は

    亀井玆矩の城へまず参陣する。そのと

    き吉川は羽衣石城と岩倉城に向けて、

    馬の山のふもとに着陣する。次に秀吉

    は羽衣石城に7日間在陣。国中から兵糧・

    玉薬を集め、蜂須賀正勝・木下平大夫の

    両人を馬の山押さえの勢として送る。

1581年11月羽衣石・岩倉間に段々に軍勢を置き、

    兵糧・玉薬を十分持たせ「春まで動けるよ

    うに」と指示する。その後秀吉が姫路に引

    き上げると、吉川元春も軍勢を引き上げる。

1588年冬主家南条氏のために伯耆羽衣石城代と

なる。

1592年南条氏の名代として朝鮮へ出兵したが、甥

元忠の家臣の讒言により失脚。その後小西行長に

仕える。

1600年関ヶ原の戦いでは、行長の領国肥後国宇土

で加藤清正軍と戦う。しかし行長の刑死後は加藤清

正の家臣となり、清正の仲介で豊臣秀頼への仕官を

願ったが、果たせずに病死。子の宣政が豊臣秀頼に

仕えることになった。
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