『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

小川祐忠(をがはすけただ)

2020-03-31 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小川祐忠(をがはすけただ)

<現代仮名遣い>おがわすけただ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


孫一郎。滋賀県神崎郡能登川町小川の小土豪。

志村のとなり。

1571年9月信長の志村攻めを見て、小川城を開

    城・降参。

1573年7月義昭真木嶋攻めに信長方として参戦。

1581年1月の馬場入りで、爆竹(さぎちゃう)の準

    備をつとめる。

1582年1月爆竹北方東一番を、土佐定久・多賀常

    則・後藤高治・山岡景宗・蒲生賦秀・佐々

    木京極高次・山崎秀家・小川祐忠が務める。

1582年山崎の戦いの時には明智光秀に属して戦

ったが、のち柴田勝家に属し、勝家の養子勝豊の

家老を勤めた。

1583年勝豊が秀吉方についたので、祐忠も秀吉

方として賤ヶ岳で戦った。

勝豊の没後秀吉に仕える。

1584年小牧の戦いに参戦。

1590年伊予国府中城主で七万石。

1593年朝鮮に出陣し、金海で浅野長政を救援。

1600年関ヶ原の戦いでは西軍に属したが寝返り、

東軍のため戦功をあげる。

戦後改易され1601年死去。



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小河源四郎(をがはげんしらう)

2020-03-30 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小河源四郎(をがはげんしらう)

<現代仮名遣い>おがわげんしろう


不詳。

1582年6月本能寺の変で討ち死に。


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小河亀千代丸(をがはかめちよまる)

2020-03-29 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小河亀千代丸(をがはかめちよまる)

<現代仮名遣い>おがわかめちよまる


不詳。

1579年11月誠仁親王の二条御新造への移徙(わ

    たまし)で奉行をつとめる。

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小河愛平(をがはあいへい)

2020-03-28 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小河愛平(をがはあいへい)

<現代仮名遣い>おがわあいへい


不詳。信長の小姓衆。

1582年6月本能寺の御殿で小姓衆として防戦の

    上討ち死に。

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小笠原信嶺(をがさはらのぶみね)

2020-03-27 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小笠原信嶺(をがさはらのぶみね)

<現代仮名遣い>おがさわらのぶみね

※下線部は信長公記以外の記事によります。


掃部大輔・松尾掃部大輔。信濃松尾城主。深志

小笠原氏との対立から武田氏に属す。


1582年2月織田信忠の進軍に伴い、小笠原長嶺

    は信忠に忠節を尽くす旨申上。団忠直・

    森長可が妻籠→清内寺→木曾峠→梨子

    野峠と軍勢を進めると、小笠原は手を合

    わせた証拠に各方面で煙を上げる。これ

    を見て飯田城の坂西織部・保科正直は敗

    走。逃げ遅れたものが森長可に討たれる。

1582年2月大島を制圧した織田信忠が、森長可・団

    忠直・小笠原長嶺を先陣として飯島におく

    ると、民百姓は自分の家に火を懸け、参上

    してくる。

1582年3月織田信忠は飯島から貝沼原まで、小笠原

    長嶺・河尻秀隆・毛利秀頼・団忠直・森長可

    らと足軽を先陣としておくる。自身母衣衆を

    引き連れ仁科盛信の籠もる高遠城の様子を

    見計らい貝沼原に布陣する。

1582年3月小笠原長嶺・森長可・団忠直・河尻秀隆・

    毛利秀頼が川を渡り高遠の大手口につめ

    ると、保科正直は「織田方に忠節を尽くし城

    に火をかける」と申上しようとしたがその時

    間はない。織田信忠も高遠の搦め手から攻

    め付け大乱戦となる。

1582年3月小笠原長嶺は上諏訪の信長の陣に、お礼

    に参上。駮の馬を進上。信長からは本領を

    安堵する朱印状が、矢部家定・森長定を使

    いとして下される。

本能寺の変後徳川家康に属す。

1590年家康の関東入部において武蔵国児玉郡一万

石を与えられ本庄城主となる。

1598年2月死去。


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小笠原長時(をがさはらながとき)

2020-03-26 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小笠原長時(をがさはらながとき)

<現代仮名遣い>おがさわらながとき

※下線部は信長公記以外の記事によります。


信濃深志城主。長棟の長男。

1548年信濃塩尻峠で武田氏に破れ没落。一時

長尾氏に身を寄せたのち摂津芥川城に住む。

1568年織田氏に敗れて再び上杉氏を頼り、五

百貫を下される。

1578年謙信の死後、会津の蘆名氏に寄寓。


1581年2月京都での馬揃えに、公家衆として参加。

1583年2月死去。
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小笠原長忠(をがさはらながただ)

2020-03-25 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小笠原長忠(をがさはらながただ)

<現代仮名遣い>おがさわらながただ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


与八郎。高天神城主。はじめ今川氏に属したが、

氏興のときから徳川家康に属す。

1569年長忠が家督を継ぐ。

1570年姉川の戦いに参戦。

1571年武田氏の攻撃を受けるが、よく戦い撃退。


1574年6月高天神城を攻囲した武田勝頼に城中

    から呼応し、総領の小笠原氏を城から追

    い出す。長忠は駿河鸚鵡栖に一万石を下

    される。

没年諸説あり不明。





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小笠原(をがさはら)

2020-03-24 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
小笠原(をがさはら)

<現代仮名遣い>おがさわら


不詳。遠江高天神にいた小笠原氏総領。

1574年6月高天神城を守備していたところ、武田

    勝頼の攻囲を受ける。徳川家康・織田信

    長が援軍を送るも途中で小笠原長忠の

    謀叛により城外へ追放される。


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岡崎三郎大夫(をかざきさぶらうたいふ)

2020-03-23 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
岡崎三郎大夫(をかざきさぶらうたいふ)

<現代仮名遣い>おかざきさぶろうだゆう


雑賀衆。

1577年3月信長軍に攻められた雑賀衆は、土橋

    平次・鈴木孫一・岡崎三郎大夫・松田源

    三大夫・宮本兵大夫・嶋本左衛門大夫・

    栗村二郎大夫七人の連署で、「大坂攻め

    に助力する」旨誓紙を書き信長に赦免さ

    れた。


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遠藤直経(ゑんどうなほつね)

2020-03-22 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
遠藤直経(ゑんどうなほつね)

<現代仮名遣い>えんどうなおつね

※下線部は信長公記以外の記事によります。


喜右衛門。浅井長政の臣。

大依山砦をまもり勇名が高かった。

1568年信長暗殺計画を長政に進言したが却下。


1570年6月姉川の合戦で、朝倉・浅井方として

    戦い、討ち死に。


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