小川祐忠(をがはすけただ)
<現代仮名遣い>おがわすけただ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
孫一郎。滋賀県神崎郡能登川町小川の小土豪。
志村のとなり。
1571年9月信長の志村攻めを見て、小川城を開
城・降参。
1573年7月義昭真木嶋攻めに信長方として参戦。
1581年1月の馬場入りで、爆竹(さぎちゃう)の準
備をつとめる。
1582年1月爆竹北方東一番を、土佐定久・多賀常
則・後藤高治・山岡景宗・蒲生賦秀・佐々
木京極高次・山崎秀家・小川祐忠が務める。
1582年山崎の戦いの時には明智光秀に属して戦
ったが、のち柴田勝家に属し、勝家の養子勝豊の
家老を勤めた。
1583年勝豊が秀吉方についたので、祐忠も秀吉
方として賤ヶ岳で戦った。
勝豊の没後秀吉に仕える。
1584年小牧の戦いに参戦。
1590年伊予国府中城主で七万石。
1593年朝鮮に出陣し、金海で浅野長政を救援。
1600年関ヶ原の戦いでは西軍に属したが寝返り、
東軍のため戦功をあげる。
戦後改易され1601年死去。
<現代仮名遣い>おがわすけただ
※下線部は信長公記以外の記事によります。
孫一郎。滋賀県神崎郡能登川町小川の小土豪。
志村のとなり。
1571年9月信長の志村攻めを見て、小川城を開
城・降参。
1573年7月義昭真木嶋攻めに信長方として参戦。
1581年1月の馬場入りで、爆竹(さぎちゃう)の準
備をつとめる。
1582年1月爆竹北方東一番を、土佐定久・多賀常
則・後藤高治・山岡景宗・蒲生賦秀・佐々
木京極高次・山崎秀家・小川祐忠が務める。
1582年山崎の戦いの時には明智光秀に属して戦
ったが、のち柴田勝家に属し、勝家の養子勝豊の
家老を勤めた。
1583年勝豊が秀吉方についたので、祐忠も秀吉
方として賤ヶ岳で戦った。
勝豊の没後秀吉に仕える。
1584年小牧の戦いに参戦。
1590年伊予国府中城主で七万石。
1593年朝鮮に出陣し、金海で浅野長政を救援。
1600年関ヶ原の戦いでは西軍に属したが寝返り、
東軍のため戦功をあげる。
戦後改易され1601年死去。