18
「リョウスケ、こっちを向いてくれ。」
健司の言葉に、僕はゆっくりと顔を上げた。恐る恐る健司の表情を伺う。健司の目は真剣だった。僕は今、健司にどんな目を向けているのか自分でも分からなかった。健司に何を言いたかったのかを、忘れかけていた。
「美鈴が、お前と付き合っていたことは初めから知っていた。」
健司が切り出す。不意を突かれた。冷静な風を装っていたが、実際はかなり驚いていた。全部分かったような気になっていたが、まだ真実には遠いと気付いた。
「待っていたんだ、美鈴から言ってくれること。」
口調が次第に重くなっていく。
「俺は諦め切れなかった、その相手がリョウスケだと分かっても。」
健司は遠くに目をやる。僕は何も言えず、ただ健司の話を聞いていた。
「ある日、美鈴はすべてを俺に話した。決意がこもった口調だった。」
美鈴の顔が浮かぶ。僕の蘇った記憶の中の彼女は、どんな時も笑顔だった。その笑顔が少しずつ歪んでいくと同時に薄れていく。
別れよう、と僕に告げたときだけ見せた悲しげな顔。あれは最初で最後だった。
「美鈴は、隠れてお前と会っていたことを俺に話した。でも、お前とは別れるから許してくれ、と言ったんだ。」
再び僕に視線を移し、健司が言った。僕の動揺は、顔に表れていただろうか。
「はっきり言って嬉しかった。全部許してやろうと思ったんだ。」
僕は一口、紅茶を口に含む。苦々しい味が口全体に広がる。健司はゆっくりと、それでいてはっきり続ける。
「でも・・。」
少し間を空けて、再び健司はしゃべりはじめた。
「俺は気付いてしまった。美鈴の本当の気持ちに。」
どきっとした。健司の話は、重く僕に突き刺さった。健司がすべてを語る前に、僕は何かに気付いた。
「美鈴は、まだお前のことが好きだったんだよ。」
僕に訴えかけるように健司は言う。
「別れても、まだ、ずっと。」
深く深呼吸をして、健司の目を見た。その目に偽りはなかった。それは僕を慰めるためでも、説得させるためでもない。健司は、ただ純粋に僕に伝えたのだった。その思いが痛いほど伝わってきた。
「あの日、美鈴はトラックに轢かれて死んだ。」
少しの沈黙あと、健司は喋り出した。
「あれは故意に起こったことじゃない。事故だ。」
自分に言い聞かせているのかも知れないな、と思った。健司は自分を納得させるために、そう言い切っているように見えた。
「タイミングが悪くてお前は混乱していた。俺は、もっと早くお前を止めるべきだったよ。」
健司の顔には後悔がにじみ出ていた。
いや、違う。と僕は心の中で言った。声にならなかった。健司のせいじゃない。もっと前から僕は壊れていた。美鈴の幻想にすがりついて、いるはずもない美鈴の姿にほっとして。僕が死のうとしたのは、健司に真実を聞いたからじゃない。僕の作り上げてきた空想が、全部偽者だと気付いたからなんだ。それは、いつか気付くことだったんだ。
「もう、死のうとなんてするな。そんなことしても美鈴が悲しむだけだ。」
小さいけれど強い、そんな声で健司は言った。僕は強くうなずく。
「もう、大丈夫だ。死ぬだなんて馬鹿な事はしない。」
僕は、重い口を開く。大丈夫だ。それを頭の中で繰り返した。
「健司、ありがとう。」
ずっと前から言えなかったことは、ただそれだけ。
僕はいつまで健司に迷惑をかけ続けるのだろう。それでも、まだ健司は僕に微笑んでくれる。まだ僕は誰かと繋がっている。それは、自分が死んでも誰も悲しまないと思い込んでいた僕の心を責めた。
何だか一つもやもやが晴れて、すっきりした気持ちになった。僕は健司の家を後にした。空を覆っていた雲が薄れて、少しだけ青空が姿を現していた。少しだけ見上げて、そして歩き出した。
健司の家に来よう、そして思い出したこと全部話してみよう。それは、サキの手紙を読んで、そして斉藤の話を聞いて決意したことだった。
僕は死神だって、ずっとそう思って暮らしていた。でも、それが間違いだと気付いた。僕は、死んではいけない。その理由があったんだ。
「お前はすべてを失ったと思っているかも知れないが、それは違う。お前は生きる意味をまた一つ与えられたんだよ。」
不意に斉藤の言葉が蘇る。
「僕は死神だって、リョウスケ君はそう言ったね。」
斉藤は優しい声で僕に言った。強くハンドルを握って、前を向いたままで。うなずくこともせず、僕はただ揺れるバスの中で斉藤の言葉を聞いていた。
「死神なわけないじゃないか。」
急に口調を強め、斉藤は言う。
「分かったはずだ。君は彼女を死なせたんじゃない。生きる希望を彼女に与えたんだ。」
自分の中でその言葉を反芻する。その瞬間、僕は何て愚かな事をしたんだ、と気付いた。僕は死神だなんて、何で言えたんだろう。それを見て、健司はどう思ったのだろう。天国にいるサキは、どう思ったのだろう。
“何もなかった日々を、変えてくれたのはあなたでした。”
サキの手紙の文字が頭に浮かぶ。僕はその時はじめて、あの時死ななくて良かったと思った。改めて僕は足を踏み出そうと決めた。サキとの約束を僕は一生大事にしていこうと決意した。これからは、サキのために生きていくんだ。僕の幸せは、サキの幸せだから。
僕は、泣いていた。涙が溢れていることに気付かなかった。
斉藤の優しい言葉が、胸を撫でる。心地よくて、大きな優しさがそこにはあった。父親の優しさを僕は感じた。孤独で仕方なかった僕の心は、いつの間にか何かで満たされていた。不恰好で無理やりだけど、そこにあるのは確かなぬくもりだった。
もう、自分に嘘を付くことも、現実から逃げる必要もない。どんな壁も乗り越えてみせる。強く、僕は決意する。
このバスが目的地に着いたら、僕は変わる。ドアが開いて、そして斉藤に別れを告げて、そして歩き出そう。
それがきっかけだった。
健司に全部話して、そして僕は新しい一歩を踏み出すのだ。何かが動き始めた予感がする。斉藤と話して、健司と話して、次第に雨はあがって、心に虹が架かっていた。
新しい生活が始まろうとしている。スタートの合図はないけれど、僕の中で踏み出せたらそれでいい。
風がやけに冷たかった。その風は僕を通り過ぎ、そして遠くに行ってしまう。不意にここに生きているという実感が沸く。風を受けて、僕はここに立っているのだ。追い風でも向かい風でも、正面から向かっていく覚悟ができた。未来が想像の中で広がっていった。
健司の家の前の広い道路の一本道を、風を受けて歩いた。
最後に、別れを告げなくてはならない人がもう一人だけいた。
僕は足を進めた。
夕方の校舎に忍び込む。休日の学校は、生徒を失って物静かだった。いつもの放課後の教室よりも、ずっと静かだ。物音一つしない。古い木造の廊下をゆっくりと歩いた。しだいに、窓の外は暗くなっていく。廊下を歩くたびに聞こえる“ギィ、ギィ”という足音だけが辺りに響き渡った。普段なら聞こえない音。その音が、この瞬間をよりいっそう特別なものにしている。
教室の前で立ち止まった。僕の右手が、何かに躊躇していた。心臓の鼓動が高鳴っていく。ただ、何かが強く背中を押していた。いつもならば、僕に欠けている何かが後押ししていた。ドアに手を伸ばす。
教室のドアを開けると、一番奥の机に誰かが座っていた。その子は、じっと窓の外を見ていた。その背中は、どこか物悲しい。
「美鈴・・・。」
僕はぽつりとつぶやく。その子に届くか届かないかギリギリの声だった。くるりと振り向く、いつも通りの笑顔だった。美鈴は、こっちを向いて上靴のまま机に立った。
「これ、やってみたかったのよね。」
へへっと笑って、美鈴はぴょんと机と机を飛び越えて回った。僕は足を進め、教卓の上に座る。無邪気に机を踏みつけて回る美鈴の姿が微笑ましかった。
そして、自分の机の上で足を止めた。
「まだ、私の机あるんだね。」
僕に背を向けた状態で、美鈴はつぶやく。それから自分の机に座って、足を椅子にかけた。
「どうしたのこんな時間に・・・。」
美鈴は、相変わらず僕に背中を向けたまましゃべった。
「とか聞かないの?」
「えっ・・・?」
僕は伝えたいことが多すぎて、言葉が出ない。いつもそうだ。肝心な時に何もしゃべれなくなってしまうんだ。
「聞いてよ。」
美鈴は冷たい口調で僕に言った。
「・・・こんな時間にどうしたんだ?」
僕は素直に聞く。
「忘れ物を取りにきたのよ。」
いつもと同じ言葉を美鈴は返す。
「忘れ物って何・・・?」
僕は美鈴の背中に尋ねる。
「何かな・・・、忘れちゃった。」
美鈴の蹴り上げた足から上靴が脱げて、落ちる。
「記憶、戻ったんでしょ?」
今度は美鈴が僕に尋ねる。
「うん。」
冷たい返事。もっと、何か言わなくちゃと思っても、何を言うべきか分からない。
「良かったね。」
変な距離感と、後ろ向きのまま会話は進む。
「私のことも思い出した?」
僕は戸惑いながらも
「うん」
と返す。
「そっか。」
その瞬間、僕は気付いた。美鈴の肩が少し震えていた。泣いているのだ、と僕は感づく。強がった口調は、そんな震えた声を隠すためだろう。
僕は美鈴に今まで伝えられなかったことを伝えるためにここに来たのだ。でも、言葉に表すことができない。もどかしかった。どんな言葉をかけていいのか分からなかった。
沈黙が、僕らの間を埋め尽くす。薄手のシャツに冷たい空気が触れて、肌寒い。
「そっか、そうだよね。」
静かな教室に響く声で、美鈴が言う。
「もう帰らなきゃ。」
思いついたように美鈴はそう言うと、机から飛び降りた。
「待って。」
咄嗟に僕は叫ぶ。今にも逃げ出しそうな美鈴の背中に叫んだ。美鈴は振り向く。目が真っ赤だった。
「もう、お別れかも知れないね。」
美鈴は、目に涙を溜めながら僕に言った。
どうしようもなく悲しくなった。こんな最後は嫌だった。僕は喉の奥に詰まっていた言葉を吐き出す。
「ずっと前から好きだった。」
美鈴の目を見つめて僕は告白する。どうして言えなかったんだろう。単純な言葉だった。伝えるのは簡単だったはずなのに。言わなければ、伝わるはずないじゃないか。
美鈴は涙を流しながら、僕を見つめた。
「中学のときから、ずっと好きだった。」
ずっと言いたかった事、それはもっとずっと前に言わなきゃいけなかったことだ。美鈴は悲しい笑顔で僕を見る。
「もっと、早く気付けば良かったな。」
美鈴はそう言って、ちょっと笑う。
「初恋の彼だって気付いたのは、高校に入ってからだった。」
思い出すように、美鈴は言う。
「私は、もう一度恋をした。」
真っ直ぐな目で、話を続けた。
「健司に早く言わなきゃと思ってた。いけないことしてるって分かってたし。このままじゃ辛かったから。でも・・・。」
美鈴は言葉を詰まらせた。その先のことに、僕は気付いていた。
「健司と別れて、僕と付き合うことはできなかった。それはきっと、サキのことを知っていたから。」
淡々と僕は言った。美鈴は顔を伏せた。サキがあとわずかしか生きられないこと、サキがずっと僕のことを好きだったってこと、美鈴は全部知っていた。健司に秘密にしていたんじゃなかった。僕らの関係をサキが知ってしまって、サキが悲しむのを美鈴は恐れていたのだった。
「これ以上、好きになってはいけない。そう思っていても、止められなかった。」
美鈴は、顔を伏せたまま喋った。
「そばにいたかった。でも、サキの顔を見るたび、私は自分がいけないことをしてるって思いになって・・・。」
美鈴の一言一言が僕の胸を締め付ける。やりきれない気持ちで一杯になる。でも、それでサキを責めるのは間違っている。
美鈴と二人で過ごした時間。あの雨の日、越えてしまった二人のラインの向こう側。秘密の関係は、もどかしい思いを取り去ってしまうほど特別だったのだ。
「隠れて会っても、私の中の罪悪感は募るばかりで、苦しくって、だから私は終わりにしようと思った。」
別れよう、そう切り出したときの美鈴の気持ちが、痛いほど伝わってきた。僕は自分勝手にその理由を決め付けて、そして自分勝手に傷ついていた。美鈴の気持ちにも気付かず。
「ごめん。」
僕はぽつりと言う。ぱっと美鈴は目を開く。
「また、ごめんって。」
不意に悲しい表情が解け、ふふっと笑って美鈴は言う。
「僕は何も分かってなかった。」
そう言うと、美鈴はううんと顔を横に振った。
「これで良かったんだよ。それから、サキとリョウスケが出会って、付き合って。」
美鈴は無理に笑っているように見えた。僕の頭の中は伝えたい言葉で一杯だった。
「嬉しかったよ、私。」
こんなとき、気の利いた言葉をかけられない自分が情けなかった。
「私は、リョウスケに言いたいことがあった。だから、ここでずっと待ってたのよ。リョウスケの記憶が戻ったら、言おうと思ってた。」
急に、悲しみがこみ上げてきた。
僕も伝えなくちゃならない。これで、最後かも知れないから。
「私、嫌いになんてなってなかったよ。ずっとリョウスケのこと好きだったよ。本当は別れたくなかったよ。」
涙と一緒にあふれ出すような言葉が、美鈴からこぼれる。
「私は、死んでしまったけど、ずっとリョウスケのこと好きだった。罰があたったんだね。死んじゃうなんて。」
美鈴は泣き声混じりの声で、言った。
「美鈴は何も悪くないよ。」
思わず僕は叫ぶ。
「罰が当たったなんて、言うな。誰も悪くないよ。」
僕は美鈴を抱きしめた。触れられなかったけど、心はきっと強く抱きしめていた。
「好きって、まともに伝えられなかった。美鈴のこと、ずっと好きだったのに。」
僕は美鈴の目を見て、そしてはっきりと言う。
「好きだよ。」
頭の中を整理したら、それだけしか出てこなかった。
でも、それだけ伝えたら美鈴は消えてしまった。すっと、僕の前から姿を消した。
彼女が消えた後の夜の教室に残ったのは、言葉では言い表せない寂しさと、一枚の紙切れだった。僕はそれを拾い上げる。そこには、美鈴が書いたであろう短い文字が綴られていた。
もう、美鈴と会うことができない、そう思うと悲しかった。
涙が一筋流れた。
『忘れ物、やっと見つかったよ。ありがとね。』
そこにはそう記されていた。
「リョウスケ、こっちを向いてくれ。」
健司の言葉に、僕はゆっくりと顔を上げた。恐る恐る健司の表情を伺う。健司の目は真剣だった。僕は今、健司にどんな目を向けているのか自分でも分からなかった。健司に何を言いたかったのかを、忘れかけていた。
「美鈴が、お前と付き合っていたことは初めから知っていた。」
健司が切り出す。不意を突かれた。冷静な風を装っていたが、実際はかなり驚いていた。全部分かったような気になっていたが、まだ真実には遠いと気付いた。
「待っていたんだ、美鈴から言ってくれること。」
口調が次第に重くなっていく。
「俺は諦め切れなかった、その相手がリョウスケだと分かっても。」
健司は遠くに目をやる。僕は何も言えず、ただ健司の話を聞いていた。
「ある日、美鈴はすべてを俺に話した。決意がこもった口調だった。」
美鈴の顔が浮かぶ。僕の蘇った記憶の中の彼女は、どんな時も笑顔だった。その笑顔が少しずつ歪んでいくと同時に薄れていく。
別れよう、と僕に告げたときだけ見せた悲しげな顔。あれは最初で最後だった。
「美鈴は、隠れてお前と会っていたことを俺に話した。でも、お前とは別れるから許してくれ、と言ったんだ。」
再び僕に視線を移し、健司が言った。僕の動揺は、顔に表れていただろうか。
「はっきり言って嬉しかった。全部許してやろうと思ったんだ。」
僕は一口、紅茶を口に含む。苦々しい味が口全体に広がる。健司はゆっくりと、それでいてはっきり続ける。
「でも・・。」
少し間を空けて、再び健司はしゃべりはじめた。
「俺は気付いてしまった。美鈴の本当の気持ちに。」
どきっとした。健司の話は、重く僕に突き刺さった。健司がすべてを語る前に、僕は何かに気付いた。
「美鈴は、まだお前のことが好きだったんだよ。」
僕に訴えかけるように健司は言う。
「別れても、まだ、ずっと。」
深く深呼吸をして、健司の目を見た。その目に偽りはなかった。それは僕を慰めるためでも、説得させるためでもない。健司は、ただ純粋に僕に伝えたのだった。その思いが痛いほど伝わってきた。
「あの日、美鈴はトラックに轢かれて死んだ。」
少しの沈黙あと、健司は喋り出した。
「あれは故意に起こったことじゃない。事故だ。」
自分に言い聞かせているのかも知れないな、と思った。健司は自分を納得させるために、そう言い切っているように見えた。
「タイミングが悪くてお前は混乱していた。俺は、もっと早くお前を止めるべきだったよ。」
健司の顔には後悔がにじみ出ていた。
いや、違う。と僕は心の中で言った。声にならなかった。健司のせいじゃない。もっと前から僕は壊れていた。美鈴の幻想にすがりついて、いるはずもない美鈴の姿にほっとして。僕が死のうとしたのは、健司に真実を聞いたからじゃない。僕の作り上げてきた空想が、全部偽者だと気付いたからなんだ。それは、いつか気付くことだったんだ。
「もう、死のうとなんてするな。そんなことしても美鈴が悲しむだけだ。」
小さいけれど強い、そんな声で健司は言った。僕は強くうなずく。
「もう、大丈夫だ。死ぬだなんて馬鹿な事はしない。」
僕は、重い口を開く。大丈夫だ。それを頭の中で繰り返した。
「健司、ありがとう。」
ずっと前から言えなかったことは、ただそれだけ。
僕はいつまで健司に迷惑をかけ続けるのだろう。それでも、まだ健司は僕に微笑んでくれる。まだ僕は誰かと繋がっている。それは、自分が死んでも誰も悲しまないと思い込んでいた僕の心を責めた。
何だか一つもやもやが晴れて、すっきりした気持ちになった。僕は健司の家を後にした。空を覆っていた雲が薄れて、少しだけ青空が姿を現していた。少しだけ見上げて、そして歩き出した。
健司の家に来よう、そして思い出したこと全部話してみよう。それは、サキの手紙を読んで、そして斉藤の話を聞いて決意したことだった。
僕は死神だって、ずっとそう思って暮らしていた。でも、それが間違いだと気付いた。僕は、死んではいけない。その理由があったんだ。
「お前はすべてを失ったと思っているかも知れないが、それは違う。お前は生きる意味をまた一つ与えられたんだよ。」
不意に斉藤の言葉が蘇る。
「僕は死神だって、リョウスケ君はそう言ったね。」
斉藤は優しい声で僕に言った。強くハンドルを握って、前を向いたままで。うなずくこともせず、僕はただ揺れるバスの中で斉藤の言葉を聞いていた。
「死神なわけないじゃないか。」
急に口調を強め、斉藤は言う。
「分かったはずだ。君は彼女を死なせたんじゃない。生きる希望を彼女に与えたんだ。」
自分の中でその言葉を反芻する。その瞬間、僕は何て愚かな事をしたんだ、と気付いた。僕は死神だなんて、何で言えたんだろう。それを見て、健司はどう思ったのだろう。天国にいるサキは、どう思ったのだろう。
“何もなかった日々を、変えてくれたのはあなたでした。”
サキの手紙の文字が頭に浮かぶ。僕はその時はじめて、あの時死ななくて良かったと思った。改めて僕は足を踏み出そうと決めた。サキとの約束を僕は一生大事にしていこうと決意した。これからは、サキのために生きていくんだ。僕の幸せは、サキの幸せだから。
僕は、泣いていた。涙が溢れていることに気付かなかった。
斉藤の優しい言葉が、胸を撫でる。心地よくて、大きな優しさがそこにはあった。父親の優しさを僕は感じた。孤独で仕方なかった僕の心は、いつの間にか何かで満たされていた。不恰好で無理やりだけど、そこにあるのは確かなぬくもりだった。
もう、自分に嘘を付くことも、現実から逃げる必要もない。どんな壁も乗り越えてみせる。強く、僕は決意する。
このバスが目的地に着いたら、僕は変わる。ドアが開いて、そして斉藤に別れを告げて、そして歩き出そう。
それがきっかけだった。
健司に全部話して、そして僕は新しい一歩を踏み出すのだ。何かが動き始めた予感がする。斉藤と話して、健司と話して、次第に雨はあがって、心に虹が架かっていた。
新しい生活が始まろうとしている。スタートの合図はないけれど、僕の中で踏み出せたらそれでいい。
風がやけに冷たかった。その風は僕を通り過ぎ、そして遠くに行ってしまう。不意にここに生きているという実感が沸く。風を受けて、僕はここに立っているのだ。追い風でも向かい風でも、正面から向かっていく覚悟ができた。未来が想像の中で広がっていった。
健司の家の前の広い道路の一本道を、風を受けて歩いた。
最後に、別れを告げなくてはならない人がもう一人だけいた。
僕は足を進めた。
夕方の校舎に忍び込む。休日の学校は、生徒を失って物静かだった。いつもの放課後の教室よりも、ずっと静かだ。物音一つしない。古い木造の廊下をゆっくりと歩いた。しだいに、窓の外は暗くなっていく。廊下を歩くたびに聞こえる“ギィ、ギィ”という足音だけが辺りに響き渡った。普段なら聞こえない音。その音が、この瞬間をよりいっそう特別なものにしている。
教室の前で立ち止まった。僕の右手が、何かに躊躇していた。心臓の鼓動が高鳴っていく。ただ、何かが強く背中を押していた。いつもならば、僕に欠けている何かが後押ししていた。ドアに手を伸ばす。
教室のドアを開けると、一番奥の机に誰かが座っていた。その子は、じっと窓の外を見ていた。その背中は、どこか物悲しい。
「美鈴・・・。」
僕はぽつりとつぶやく。その子に届くか届かないかギリギリの声だった。くるりと振り向く、いつも通りの笑顔だった。美鈴は、こっちを向いて上靴のまま机に立った。
「これ、やってみたかったのよね。」
へへっと笑って、美鈴はぴょんと机と机を飛び越えて回った。僕は足を進め、教卓の上に座る。無邪気に机を踏みつけて回る美鈴の姿が微笑ましかった。
そして、自分の机の上で足を止めた。
「まだ、私の机あるんだね。」
僕に背を向けた状態で、美鈴はつぶやく。それから自分の机に座って、足を椅子にかけた。
「どうしたのこんな時間に・・・。」
美鈴は、相変わらず僕に背中を向けたまましゃべった。
「とか聞かないの?」
「えっ・・・?」
僕は伝えたいことが多すぎて、言葉が出ない。いつもそうだ。肝心な時に何もしゃべれなくなってしまうんだ。
「聞いてよ。」
美鈴は冷たい口調で僕に言った。
「・・・こんな時間にどうしたんだ?」
僕は素直に聞く。
「忘れ物を取りにきたのよ。」
いつもと同じ言葉を美鈴は返す。
「忘れ物って何・・・?」
僕は美鈴の背中に尋ねる。
「何かな・・・、忘れちゃった。」
美鈴の蹴り上げた足から上靴が脱げて、落ちる。
「記憶、戻ったんでしょ?」
今度は美鈴が僕に尋ねる。
「うん。」
冷たい返事。もっと、何か言わなくちゃと思っても、何を言うべきか分からない。
「良かったね。」
変な距離感と、後ろ向きのまま会話は進む。
「私のことも思い出した?」
僕は戸惑いながらも
「うん」
と返す。
「そっか。」
その瞬間、僕は気付いた。美鈴の肩が少し震えていた。泣いているのだ、と僕は感づく。強がった口調は、そんな震えた声を隠すためだろう。
僕は美鈴に今まで伝えられなかったことを伝えるためにここに来たのだ。でも、言葉に表すことができない。もどかしかった。どんな言葉をかけていいのか分からなかった。
沈黙が、僕らの間を埋め尽くす。薄手のシャツに冷たい空気が触れて、肌寒い。
「そっか、そうだよね。」
静かな教室に響く声で、美鈴が言う。
「もう帰らなきゃ。」
思いついたように美鈴はそう言うと、机から飛び降りた。
「待って。」
咄嗟に僕は叫ぶ。今にも逃げ出しそうな美鈴の背中に叫んだ。美鈴は振り向く。目が真っ赤だった。
「もう、お別れかも知れないね。」
美鈴は、目に涙を溜めながら僕に言った。
どうしようもなく悲しくなった。こんな最後は嫌だった。僕は喉の奥に詰まっていた言葉を吐き出す。
「ずっと前から好きだった。」
美鈴の目を見つめて僕は告白する。どうして言えなかったんだろう。単純な言葉だった。伝えるのは簡単だったはずなのに。言わなければ、伝わるはずないじゃないか。
美鈴は涙を流しながら、僕を見つめた。
「中学のときから、ずっと好きだった。」
ずっと言いたかった事、それはもっとずっと前に言わなきゃいけなかったことだ。美鈴は悲しい笑顔で僕を見る。
「もっと、早く気付けば良かったな。」
美鈴はそう言って、ちょっと笑う。
「初恋の彼だって気付いたのは、高校に入ってからだった。」
思い出すように、美鈴は言う。
「私は、もう一度恋をした。」
真っ直ぐな目で、話を続けた。
「健司に早く言わなきゃと思ってた。いけないことしてるって分かってたし。このままじゃ辛かったから。でも・・・。」
美鈴は言葉を詰まらせた。その先のことに、僕は気付いていた。
「健司と別れて、僕と付き合うことはできなかった。それはきっと、サキのことを知っていたから。」
淡々と僕は言った。美鈴は顔を伏せた。サキがあとわずかしか生きられないこと、サキがずっと僕のことを好きだったってこと、美鈴は全部知っていた。健司に秘密にしていたんじゃなかった。僕らの関係をサキが知ってしまって、サキが悲しむのを美鈴は恐れていたのだった。
「これ以上、好きになってはいけない。そう思っていても、止められなかった。」
美鈴は、顔を伏せたまま喋った。
「そばにいたかった。でも、サキの顔を見るたび、私は自分がいけないことをしてるって思いになって・・・。」
美鈴の一言一言が僕の胸を締め付ける。やりきれない気持ちで一杯になる。でも、それでサキを責めるのは間違っている。
美鈴と二人で過ごした時間。あの雨の日、越えてしまった二人のラインの向こう側。秘密の関係は、もどかしい思いを取り去ってしまうほど特別だったのだ。
「隠れて会っても、私の中の罪悪感は募るばかりで、苦しくって、だから私は終わりにしようと思った。」
別れよう、そう切り出したときの美鈴の気持ちが、痛いほど伝わってきた。僕は自分勝手にその理由を決め付けて、そして自分勝手に傷ついていた。美鈴の気持ちにも気付かず。
「ごめん。」
僕はぽつりと言う。ぱっと美鈴は目を開く。
「また、ごめんって。」
不意に悲しい表情が解け、ふふっと笑って美鈴は言う。
「僕は何も分かってなかった。」
そう言うと、美鈴はううんと顔を横に振った。
「これで良かったんだよ。それから、サキとリョウスケが出会って、付き合って。」
美鈴は無理に笑っているように見えた。僕の頭の中は伝えたい言葉で一杯だった。
「嬉しかったよ、私。」
こんなとき、気の利いた言葉をかけられない自分が情けなかった。
「私は、リョウスケに言いたいことがあった。だから、ここでずっと待ってたのよ。リョウスケの記憶が戻ったら、言おうと思ってた。」
急に、悲しみがこみ上げてきた。
僕も伝えなくちゃならない。これで、最後かも知れないから。
「私、嫌いになんてなってなかったよ。ずっとリョウスケのこと好きだったよ。本当は別れたくなかったよ。」
涙と一緒にあふれ出すような言葉が、美鈴からこぼれる。
「私は、死んでしまったけど、ずっとリョウスケのこと好きだった。罰があたったんだね。死んじゃうなんて。」
美鈴は泣き声混じりの声で、言った。
「美鈴は何も悪くないよ。」
思わず僕は叫ぶ。
「罰が当たったなんて、言うな。誰も悪くないよ。」
僕は美鈴を抱きしめた。触れられなかったけど、心はきっと強く抱きしめていた。
「好きって、まともに伝えられなかった。美鈴のこと、ずっと好きだったのに。」
僕は美鈴の目を見て、そしてはっきりと言う。
「好きだよ。」
頭の中を整理したら、それだけしか出てこなかった。
でも、それだけ伝えたら美鈴は消えてしまった。すっと、僕の前から姿を消した。
彼女が消えた後の夜の教室に残ったのは、言葉では言い表せない寂しさと、一枚の紙切れだった。僕はそれを拾い上げる。そこには、美鈴が書いたであろう短い文字が綴られていた。
もう、美鈴と会うことができない、そう思うと悲しかった。
涙が一筋流れた。
『忘れ物、やっと見つかったよ。ありがとね。』
そこにはそう記されていた。