ついに、定期小説の更新スタート!!!
いつまで、続くのやら・・・。

新・シュミのハバ

透明人間、18

18

「リョウスケ、こっちを向いてくれ。」

健司の言葉に、僕はゆっくりと顔を上げた。恐る恐る健司の表情を伺う。健司の目は真剣だった。僕は今、健司にどんな目を向けているのか自分でも分からなかった。健司に何を言いたかったのかを、忘れかけていた。
「美鈴が、お前と付き合っていたことは初めから知っていた。」
健司が切り出す。不意を突かれた。冷静な風を装っていたが、実際はかなり驚いていた。全部分かったような気になっていたが、まだ真実には遠いと気付いた。
「待っていたんだ、美鈴から言ってくれること。」
口調が次第に重くなっていく。
「俺は諦め切れなかった、その相手がリョウスケだと分かっても。」
健司は遠くに目をやる。僕は何も言えず、ただ健司の話を聞いていた。
「ある日、美鈴はすべてを俺に話した。決意がこもった口調だった。」
美鈴の顔が浮かぶ。僕の蘇った記憶の中の彼女は、どんな時も笑顔だった。その笑顔が少しずつ歪んでいくと同時に薄れていく。
別れよう、と僕に告げたときだけ見せた悲しげな顔。あれは最初で最後だった。
「美鈴は、隠れてお前と会っていたことを俺に話した。でも、お前とは別れるから許してくれ、と言ったんだ。」
再び僕に視線を移し、健司が言った。僕の動揺は、顔に表れていただろうか。
「はっきり言って嬉しかった。全部許してやろうと思ったんだ。」
僕は一口、紅茶を口に含む。苦々しい味が口全体に広がる。健司はゆっくりと、それでいてはっきり続ける。
「でも・・。」
少し間を空けて、再び健司はしゃべりはじめた。
「俺は気付いてしまった。美鈴の本当の気持ちに。」
どきっとした。健司の話は、重く僕に突き刺さった。健司がすべてを語る前に、僕は何かに気付いた。
「美鈴は、まだお前のことが好きだったんだよ。」
僕に訴えかけるように健司は言う。
「別れても、まだ、ずっと。」
深く深呼吸をして、健司の目を見た。その目に偽りはなかった。それは僕を慰めるためでも、説得させるためでもない。健司は、ただ純粋に僕に伝えたのだった。その思いが痛いほど伝わってきた。

「あの日、美鈴はトラックに轢かれて死んだ。」
少しの沈黙あと、健司は喋り出した。
「あれは故意に起こったことじゃない。事故だ。」
自分に言い聞かせているのかも知れないな、と思った。健司は自分を納得させるために、そう言い切っているように見えた。
「タイミングが悪くてお前は混乱していた。俺は、もっと早くお前を止めるべきだったよ。」
健司の顔には後悔がにじみ出ていた。
いや、違う。と僕は心の中で言った。声にならなかった。健司のせいじゃない。もっと前から僕は壊れていた。美鈴の幻想にすがりついて、いるはずもない美鈴の姿にほっとして。僕が死のうとしたのは、健司に真実を聞いたからじゃない。僕の作り上げてきた空想が、全部偽者だと気付いたからなんだ。それは、いつか気付くことだったんだ。
「もう、死のうとなんてするな。そんなことしても美鈴が悲しむだけだ。」
小さいけれど強い、そんな声で健司は言った。僕は強くうなずく。
「もう、大丈夫だ。死ぬだなんて馬鹿な事はしない。」
僕は、重い口を開く。大丈夫だ。それを頭の中で繰り返した。
「健司、ありがとう。」
ずっと前から言えなかったことは、ただそれだけ。
僕はいつまで健司に迷惑をかけ続けるのだろう。それでも、まだ健司は僕に微笑んでくれる。まだ僕は誰かと繋がっている。それは、自分が死んでも誰も悲しまないと思い込んでいた僕の心を責めた。

何だか一つもやもやが晴れて、すっきりした気持ちになった。僕は健司の家を後にした。空を覆っていた雲が薄れて、少しだけ青空が姿を現していた。少しだけ見上げて、そして歩き出した。
健司の家に来よう、そして思い出したこと全部話してみよう。それは、サキの手紙を読んで、そして斉藤の話を聞いて決意したことだった。
僕は死神だって、ずっとそう思って暮らしていた。でも、それが間違いだと気付いた。僕は、死んではいけない。その理由があったんだ。

「お前はすべてを失ったと思っているかも知れないが、それは違う。お前は生きる意味をまた一つ与えられたんだよ。」

不意に斉藤の言葉が蘇る。
「僕は死神だって、リョウスケ君はそう言ったね。」
斉藤は優しい声で僕に言った。強くハンドルを握って、前を向いたままで。うなずくこともせず、僕はただ揺れるバスの中で斉藤の言葉を聞いていた。
「死神なわけないじゃないか。」
急に口調を強め、斉藤は言う。
「分かったはずだ。君は彼女を死なせたんじゃない。生きる希望を彼女に与えたんだ。」
自分の中でその言葉を反芻する。その瞬間、僕は何て愚かな事をしたんだ、と気付いた。僕は死神だなんて、何で言えたんだろう。それを見て、健司はどう思ったのだろう。天国にいるサキは、どう思ったのだろう。

“何もなかった日々を、変えてくれたのはあなたでした。”

サキの手紙の文字が頭に浮かぶ。僕はその時はじめて、あの時死ななくて良かったと思った。改めて僕は足を踏み出そうと決めた。サキとの約束を僕は一生大事にしていこうと決意した。これからは、サキのために生きていくんだ。僕の幸せは、サキの幸せだから。
僕は、泣いていた。涙が溢れていることに気付かなかった。
斉藤の優しい言葉が、胸を撫でる。心地よくて、大きな優しさがそこにはあった。父親の優しさを僕は感じた。孤独で仕方なかった僕の心は、いつの間にか何かで満たされていた。不恰好で無理やりだけど、そこにあるのは確かなぬくもりだった。
もう、自分に嘘を付くことも、現実から逃げる必要もない。どんな壁も乗り越えてみせる。強く、僕は決意する。
このバスが目的地に着いたら、僕は変わる。ドアが開いて、そして斉藤に別れを告げて、そして歩き出そう。

それがきっかけだった。
健司に全部話して、そして僕は新しい一歩を踏み出すのだ。何かが動き始めた予感がする。斉藤と話して、健司と話して、次第に雨はあがって、心に虹が架かっていた。
新しい生活が始まろうとしている。スタートの合図はないけれど、僕の中で踏み出せたらそれでいい。
風がやけに冷たかった。その風は僕を通り過ぎ、そして遠くに行ってしまう。不意にここに生きているという実感が沸く。風を受けて、僕はここに立っているのだ。追い風でも向かい風でも、正面から向かっていく覚悟ができた。未来が想像の中で広がっていった。
健司の家の前の広い道路の一本道を、風を受けて歩いた。

最後に、別れを告げなくてはならない人がもう一人だけいた。
僕は足を進めた。
夕方の校舎に忍び込む。休日の学校は、生徒を失って物静かだった。いつもの放課後の教室よりも、ずっと静かだ。物音一つしない。古い木造の廊下をゆっくりと歩いた。しだいに、窓の外は暗くなっていく。廊下を歩くたびに聞こえる“ギィ、ギィ”という足音だけが辺りに響き渡った。普段なら聞こえない音。その音が、この瞬間をよりいっそう特別なものにしている。
教室の前で立ち止まった。僕の右手が、何かに躊躇していた。心臓の鼓動が高鳴っていく。ただ、何かが強く背中を押していた。いつもならば、僕に欠けている何かが後押ししていた。ドアに手を伸ばす。
教室のドアを開けると、一番奥の机に誰かが座っていた。その子は、じっと窓の外を見ていた。その背中は、どこか物悲しい。
「美鈴・・・。」
僕はぽつりとつぶやく。その子に届くか届かないかギリギリの声だった。くるりと振り向く、いつも通りの笑顔だった。美鈴は、こっちを向いて上靴のまま机に立った。
「これ、やってみたかったのよね。」
へへっと笑って、美鈴はぴょんと机と机を飛び越えて回った。僕は足を進め、教卓の上に座る。無邪気に机を踏みつけて回る美鈴の姿が微笑ましかった。
そして、自分の机の上で足を止めた。
「まだ、私の机あるんだね。」
僕に背を向けた状態で、美鈴はつぶやく。それから自分の机に座って、足を椅子にかけた。
「どうしたのこんな時間に・・・。」
美鈴は、相変わらず僕に背中を向けたまましゃべった。
「とか聞かないの?」
「えっ・・・?」
僕は伝えたいことが多すぎて、言葉が出ない。いつもそうだ。肝心な時に何もしゃべれなくなってしまうんだ。
「聞いてよ。」
美鈴は冷たい口調で僕に言った。
「・・・こんな時間にどうしたんだ?」
僕は素直に聞く。
「忘れ物を取りにきたのよ。」
いつもと同じ言葉を美鈴は返す。
「忘れ物って何・・・?」
僕は美鈴の背中に尋ねる。
「何かな・・・、忘れちゃった。」
美鈴の蹴り上げた足から上靴が脱げて、落ちる。
「記憶、戻ったんでしょ?」
今度は美鈴が僕に尋ねる。
「うん。」
冷たい返事。もっと、何か言わなくちゃと思っても、何を言うべきか分からない。
「良かったね。」
変な距離感と、後ろ向きのまま会話は進む。
「私のことも思い出した?」
僕は戸惑いながらも
「うん」
と返す。
「そっか。」
その瞬間、僕は気付いた。美鈴の肩が少し震えていた。泣いているのだ、と僕は感づく。強がった口調は、そんな震えた声を隠すためだろう。
僕は美鈴に今まで伝えられなかったことを伝えるためにここに来たのだ。でも、言葉に表すことができない。もどかしかった。どんな言葉をかけていいのか分からなかった。

沈黙が、僕らの間を埋め尽くす。薄手のシャツに冷たい空気が触れて、肌寒い。
「そっか、そうだよね。」
静かな教室に響く声で、美鈴が言う。
「もう帰らなきゃ。」
思いついたように美鈴はそう言うと、机から飛び降りた。
「待って。」
咄嗟に僕は叫ぶ。今にも逃げ出しそうな美鈴の背中に叫んだ。美鈴は振り向く。目が真っ赤だった。
「もう、お別れかも知れないね。」
美鈴は、目に涙を溜めながら僕に言った。
どうしようもなく悲しくなった。こんな最後は嫌だった。僕は喉の奥に詰まっていた言葉を吐き出す。
「ずっと前から好きだった。」
美鈴の目を見つめて僕は告白する。どうして言えなかったんだろう。単純な言葉だった。伝えるのは簡単だったはずなのに。言わなければ、伝わるはずないじゃないか。
美鈴は涙を流しながら、僕を見つめた。
「中学のときから、ずっと好きだった。」
ずっと言いたかった事、それはもっとずっと前に言わなきゃいけなかったことだ。美鈴は悲しい笑顔で僕を見る。
「もっと、早く気付けば良かったな。」
美鈴はそう言って、ちょっと笑う。
「初恋の彼だって気付いたのは、高校に入ってからだった。」
思い出すように、美鈴は言う。
「私は、もう一度恋をした。」
真っ直ぐな目で、話を続けた。
「健司に早く言わなきゃと思ってた。いけないことしてるって分かってたし。このままじゃ辛かったから。でも・・・。」
美鈴は言葉を詰まらせた。その先のことに、僕は気付いていた。
「健司と別れて、僕と付き合うことはできなかった。それはきっと、サキのことを知っていたから。」
淡々と僕は言った。美鈴は顔を伏せた。サキがあとわずかしか生きられないこと、サキがずっと僕のことを好きだったってこと、美鈴は全部知っていた。健司に秘密にしていたんじゃなかった。僕らの関係をサキが知ってしまって、サキが悲しむのを美鈴は恐れていたのだった。
「これ以上、好きになってはいけない。そう思っていても、止められなかった。」
美鈴は、顔を伏せたまま喋った。
「そばにいたかった。でも、サキの顔を見るたび、私は自分がいけないことをしてるって思いになって・・・。」
美鈴の一言一言が僕の胸を締め付ける。やりきれない気持ちで一杯になる。でも、それでサキを責めるのは間違っている。
美鈴と二人で過ごした時間。あの雨の日、越えてしまった二人のラインの向こう側。秘密の関係は、もどかしい思いを取り去ってしまうほど特別だったのだ。
「隠れて会っても、私の中の罪悪感は募るばかりで、苦しくって、だから私は終わりにしようと思った。」
別れよう、そう切り出したときの美鈴の気持ちが、痛いほど伝わってきた。僕は自分勝手にその理由を決め付けて、そして自分勝手に傷ついていた。美鈴の気持ちにも気付かず。
「ごめん。」
僕はぽつりと言う。ぱっと美鈴は目を開く。
「また、ごめんって。」
不意に悲しい表情が解け、ふふっと笑って美鈴は言う。
「僕は何も分かってなかった。」
そう言うと、美鈴はううんと顔を横に振った。
「これで良かったんだよ。それから、サキとリョウスケが出会って、付き合って。」
美鈴は無理に笑っているように見えた。僕の頭の中は伝えたい言葉で一杯だった。
「嬉しかったよ、私。」
こんなとき、気の利いた言葉をかけられない自分が情けなかった。
「私は、リョウスケに言いたいことがあった。だから、ここでずっと待ってたのよ。リョウスケの記憶が戻ったら、言おうと思ってた。」
急に、悲しみがこみ上げてきた。
僕も伝えなくちゃならない。これで、最後かも知れないから。
「私、嫌いになんてなってなかったよ。ずっとリョウスケのこと好きだったよ。本当は別れたくなかったよ。」
涙と一緒にあふれ出すような言葉が、美鈴からこぼれる。
「私は、死んでしまったけど、ずっとリョウスケのこと好きだった。罰があたったんだね。死んじゃうなんて。」
美鈴は泣き声混じりの声で、言った。
「美鈴は何も悪くないよ。」
思わず僕は叫ぶ。
「罰が当たったなんて、言うな。誰も悪くないよ。」
僕は美鈴を抱きしめた。触れられなかったけど、心はきっと強く抱きしめていた。
「好きって、まともに伝えられなかった。美鈴のこと、ずっと好きだったのに。」
僕は美鈴の目を見て、そしてはっきりと言う。
「好きだよ。」
頭の中を整理したら、それだけしか出てこなかった。
でも、それだけ伝えたら美鈴は消えてしまった。すっと、僕の前から姿を消した。
彼女が消えた後の夜の教室に残ったのは、言葉では言い表せない寂しさと、一枚の紙切れだった。僕はそれを拾い上げる。そこには、美鈴が書いたであろう短い文字が綴られていた。
もう、美鈴と会うことができない、そう思うと悲しかった。
涙が一筋流れた。

『忘れ物、やっと見つかったよ。ありがとね。』

そこにはそう記されていた。
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透明人間、17

17

このノートは、誰も見ないで欲しい。このノートは、単純な文字で誤魔化して、自分の気持ちを封じ込めるためのすべてだ。

僕はいつまでも僕でありたかった。だから僕は恋をした。
生きる意味が欲しかった。ありふれた幸せを手に入れたかった。人と波長を合わせながら、同じ道を歩いて行きたかった。幸せは、理想を形にしていったら、いつの間にか完成するものだと信じていた。

公園のベンチに座って、じっと景色を眺めてみる。すうっと通り過ぎる爽やかな風があって、木の葉がざわざわと音を立てて揺れる。当たり前に小鳥が空を飛び、当たり前に時間が流れる。平和な風景である。誰の目にも、きっとそんな風景が映るはずだ。
だが、僕の目にはいつもそんな風景に寄り添って、一人の女の子が映った。その子はどこにいても、じっと僕を見つめて、ふいに視界から姿を消す。その子から目を離すと同時に僕は罪悪感に蝕まれる。じっとその子を見つめると、深い悲しみが胸を痛めつける。しだいに僕の呼吸は乱れ、その場に立っていられなくなる。考えれば考えるほど苦しくなり、考えることをやめると、不安で頭の中が真っ白になる。
日々を重なるうちに、僕はどんどん現実から離れていくような錯覚に陥った。無意識のうちに僕の頭は、真実を押し隠していった。怖かった。自分が自分でなくなっていくのが怖くて仕方なかった。
だから僕は、平常心を保つためノートを綴った。
そのノートには、その女の子のことを書き記した。僕と彼女は恋人同士で、僕らは愛し合っていた。ただ、断片的な僕らの話を淡々と書き記した。それが真実か、真実でないかは不確かだった。でも、それを書くことで僕の心は落ち着いた。でたらめでいいから、僕はノートを綴った。
ストーリーを途切れさすわけにはいかなかった。そのストーリーが途切れるということは、僕の人生が終わるということだったから。僕は死に物狂いでノートを綴った。

本当に少しずつ、僕の記憶は蘇っていた。それは、ドミノ崩しのようにゴールに向かって一個一個が倒れていくような感覚だった。

「あの日もお前は、真実を知りたいと俺に言った。」
健司は、俯いた顔を上げ、呟いた。同時に僕も顔を上げる。
「あの日、お前は俺に言った。」
じっと僕を見つめながら、健司はしゃべり始めた。その日の様子が、少しずつ思い出された。
「美鈴は、なぜ死んだのか。」
僕は遠い記憶に身を委ねるようにぽつりと呟いた。
「あまりにも・・・。」
表情を曇らせながら、健司は応える。
「あまりにも、タイミングが悪かったんだ。」
すぅっと息を吸い込んで、健司は僕を見つめる。
「あれは、事故だ。」
訴えかけるように健司は言った。それは、僕を説得させるために放たれた、重苦しい言葉であった。
「事故だ。」

事故だ、その言葉に聞き覚えがある。
その言葉は、何かに追い込まれ、身動きが取れなくなったあの日の僕に健司が言った言葉だ。あの日、とはサキが死んで一ヶ月の月日が流れたある日のことだった。僕は混乱していた。

サキがいなくなって、僕はすべてを失った。そんな気持ちは僕をどん底に陥れた。
そんな僕を勇気付けてくれたのは、美鈴だった。放課後、僕はずっと教室で美鈴がやってくるのを待っていた。僕らだけの秘密の時間。
「リョウスケくん・・・?」
気が付くと、そこには美鈴がいた。暗闇の教室の中、月明かりに照らされて。
不思議な感覚と共に、僕らが付き合っていた頃に時間が戻った気がした。繋がっている気がした。美鈴も、この放課後の教室で僕が来るのを待ってくれていた。そんな一方的な気持ちが湧き出してきた。
僕はギリギリだったのかも知れない。サキが死んでぽっかり空いた隙間を、埋めるために、必死だったのかも知れない。
不安は募って、すべてを駄目にしてしまう。美鈴は確かにそこにいた。僕の目には映っていた。それはあたかも僕に会うためにそこに来たように見えたし、美鈴が来て、僕はどれだけほっとしたことだろう。
「もう一度、やり直そう。」
と僕は言った。サキへの罪悪感は確かにあった。でも、僕は少しでも早く立ち直りたかったんだ。
「うん。」
と美鈴は笑って返す。

頭の中で、僕のストーリーは繋がっていた。そこにあったのは、束の間の幸せ。矛盾とか、ずれを修正するために僕が作り出した幻だ。

そうだ、それは幻だった。

美鈴はもうこの世にいない。僕の目の前にいたのは、僕が頭の中で作り上げた幻だ。
だけど、僕は気付かなかった。気付く余裕なんて無かった。きっと、幻でも良かったのだ。ギリギリだったから、そんな幻にしがみ付いてでも平気な顔をしていたかったんだ。
放課後の教室が好きだった。僕は毎日のように美鈴と会った。美鈴が死んだことを受け入れられなかった僕は、美鈴の幻を頭の中で作り上げて、幻想の世界で彼女としゃべっていた。偽者の幸せで心を落ち着かせて、何もなくなった心を埋めようとしていた。
夜が過ぎると、その魔法は解けた。でも、夜になると美鈴に会える。夜の学校で、僕らはずっとくだらない話を続けた。
取り返しのつかないことになっていた。もう、僕は現実の世界で生きていけなくなっていた。壊れそうな心を、必死に隠そうとしていた。それは、ふとしたことで崩壊しそうで怖かった。
気付いていたのか、本当に気付いていなかったのか。今となっては分からない。あの頃の僕は、ただただ不安定で危なっかしい、そんな道の上を歩いていた。
美鈴と会ってない時間は、生きている心地がしなかった。苦しかった。誰の言葉も耳に入らない、僕に意味を与えるのは美鈴だけだった。
それが幻だと、知ってしまったら、すべてが終わってしまう。すべてが。

「何やってんだよ。」
ある日、暗闇の教室に健司が立っていた。
「健司・・・。」
僕は焦った声を上げた。美鈴と二人でいるところを見られてしまった、と僕は焦った。だが、健司の目は僕をじっと睨み付けたまま、美鈴の方に目を向けることは無かった。その時ようやく僕は現実の世界に引き戻された。気がつくと、その教室に美鈴の姿はなかった。
「美鈴はもう・・・。」
健司は泣き出しそうな顔で、僕に言った。その瞬間、僕の中の世界が壊れ始めた。終わり、が近付いてきている。これは夢の世界じゃない。現実の世界の中で、僕だけが夢を見ているのだ。
言葉が出てこなかった。うすうす僕は感じていたのだ。美鈴がこの世にいないことも、それでも僕は自分を誤魔化し続けていたことを。
いつか分かる日が来る、それに気付いていた。きっかけが必要だった。それは間違っている、と僕を一喝してくれる何かが必要だった。健司に本当の事を言われた時、僕は現実の世界に立っていた。
美鈴がいない、夜の教室に立っていた。
「美鈴は、もう死んだ。」
搾り出すような台詞が、健司からこぼれる。
「もう、やめよう。こんなこと。」
健司は優しく僕に言った。その言葉は、少しだけ僕を落ち着けた。
「もう、やめにしよう。」
落ち着いた声が僕の耳に届く。湧き出す思いはあったものの、妙にその言葉に癒された自分がいた。見失っていた自分が、ちょっとだけ姿を現した。ここは夢の世界じゃない。
「美鈴は、死んだ。」
自分に言い聞かせるように、健司に確認するように僕はぼんやりと言った。
僕は冷静に考えた。
思い返していた。美鈴に好きだと告げたこと。二人のことは秘密にしようって言われたこと。美鈴は死んだと聞いても、信じようとしなかった自分のこと。サキと付き合ってやってほしい、とサキの母親に言われたこと。サキと付き合い始めたときのこと。サキの最後の誕生日のこと。いつかやってくると分かっていたサキの死さえも、信じようとしなかった自分のこと。
そして、思い出した。美鈴から死ぬ前に告げられたこと。
「全部、知ってたのか。」
沈黙のあと、僕は健司に尋ねた。幾分、冷静な声を取り戻していた。
「ああ、知ってた。」
健司は答える。
「美鈴から聞いていた。」
夜の静けさのせいで、その声は教室に響き渡っていた。妙な緊迫感が張り詰める。
「真実を知りたい。」
僕は突発的に健司に突きつけていた。その言葉は、どんな刃物よりも鋭かったかも知れない。知ってはいけないこと、知らないほうがいいこと。そんなことの向こう側を覗き込むような、非常識な言葉だった。
健司は黙り込んでしまった。
「美鈴が死んだと聞かされた前日、僕は美鈴と会った。」
僕は静かにしゃべり始めた。健司はじっと聞いていた。
「いつも通り、この教室で。」
僕は美鈴の幻が立っていた教室の隅に目を向けながら続けた。
「何の変哲もない日だった。」
思い起こすと自然と涙が溢れた。あの日から、少しずつ何かが狂い始めていた。
「別れよう、と美鈴は言った。」
美鈴の弱々しい声が思い出される。泣きそうで居て、それでもって強がった、切ない声。
別れよう、と告げられてもそんなに僕は驚かなかった。むしろ、自分に対する失望感に包まれていた。もっと努力すべきだった。美鈴にもっと好かれるために、伝えなければならないことがたくさんあったのに。別れは、必然的に訪れたんだと僕は思ってしまった。
「うん、分かった。」
と僕は答えた。すぐにでも消えてしまいそうな秘密の関係だったから、別れても何も変わらないことは分かっていた。美鈴も僕も、これまでの生活を続けるだけだ。辛いけれど、仕方のないことだった。

「その次の日、美鈴が死んだと聞かされた。」
涙が止まらなかった。
思い出してはいけない、そんな記憶が蘇って溢れて押さえ切れなかった。
「違う。」
健司の叫び声が聞こえる。しかし、僕には届かなかった。感情が洪水のように襲い掛かってきた。苦しくて、息が出来なくなった。
健司が思いっきり僕の肩を掴む。感覚のなくなった肩は、何の痛みも感じなかった。
「あれは事故だったんだ。あれは・・・。」
叫び声が響く。届かなかった。
僕は教室を飛び出していた。後ろを振り向くこともせずに、一目散に飛び出していた。全部、思い出してしまった。美鈴が死んだ時のこと、サキが死んだ時のこと。思い出してしまった。
僕はきっと、いつまでもこんなことを続けるのだ。頭の中でぐるぐると思いが巡る。走っていた。どこまでも必死で走って、僕は自分の家に駆け込んだ。封印していたものが全部、溢れ出していた。
健司はどこまで追いかけてきただろう。辛いのは、きっと健司だって同じはずだ。

ノートを綴った。死に物狂いで、感情にまかせてノートを綴った。
このノートは、誰も見ないで欲しい。このノートは、単純な文字で誤魔化して、自分の気持ちを封じ込めるためのすべてだ。
僕はいつまでも僕でありたかった。だから、僕は恋をしたんだ。その恋は、理想的で、永遠で、美しいものであって欲しかった。でも、現実は違った。美鈴が死んで、サキが死んで、結局すべてを失ってしまった。
思い出してしまった記憶を封じ込めるのだ。もし、もう一度このノートを開くことがあったとしても、僕が思い出してしまわないために。
ノートの中の僕と彼女は、雨の日に出会い、そして付き合って、永遠を誓った。天真爛漫な彼女は時に僕を困らせ、時に僕を勇気付けた。そして死んでしまった。それは現実と理想が混ざり合った、物語だった。

夜が明けて朝が来るまで、必死に書き記した。

『教室に差し込む光は、彼女の頬を照らす。その光が反射して、午後の静まり返った教室は明るく、爽やかな空気に包まれる。僕の中で生まれる世界が、頭の中で弾けた。道なき道を素足で歩く感覚。歩き心地の悪い、ふわふわした廊下に立っている錯覚。それは恋だった。僕の目に映る世界を、一気に変えてしまう魔力を持つ。それは、事件でもあり、小さな奇跡でもあった。夢の世界と手を握ることができる権利をつかむ、この手。今まで何も掴めなかったこの両手で、不確かで曖昧な現実にふれることができたならば、僕の世界は真っ白な愛のあるものに変わるだろう。ただ、その世界の彼女はあまりにも美しすぎた。』

純粋なストーリーだった。
そのノートの中の彼女はどこまでも透明で美しい。幸せなストーリーだった。
でも読み進め、最後の一行で絶望はやってくる。
『彼女は死んだ。』
そこでストーリーは終わる。ぷつっと途切れたその一行は、僕を再び絶望のふちへと誘う。

ぴかっと外で雷が鳴った。
数時間後、健司が僕の部屋に入ってきた時見えたのは、一冊のノートと倒れ込んだ僕と、僕を発見した誰かに宛てた一枚のメモ書きだったはずだ。
そのメモ書きにはこう記した。

『僕は死神だ。これ以上、誰かを殺したくない。だから、僕は死ぬ。』

生まれた瞬間に両親が死に、初めて好きになった人も死に、本当に愛した子も死んだ。
僕は死神だ。
その言葉は冷たくて、残酷だ。
僕が死んだら、誰も死なないで済む。なぜ、それに早く気付かなかったのか。そんな思いでいっぱいになった。

雨がざあざあと降りしきっていた。
雨は時に奇跡を生み、時に悲劇を生む。
誰も悲しまない、それだけが僕の救いだった。
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透明人間、16

16

思い出していた、あの日のことを。


あの奇跡の雨の日。美鈴が自転車を盗られて、僕と一緒に帰ることになった、あの日のことを。


雫が落ちて、頬を伝った。感覚がなくなった頬に、冷たさが蘇る。

自分の気持ちを押し殺して、もうこれっきりにしよう。そう心に決めたつもりだった。美鈴の気持ちが僕に傾いているとしても、これ以上、夢を見るのはやめよう。一緒に帰り道を歩いて、一緒に電車に乗った。そんな、二人見つめ合っていた昨日は、一日だけの奇跡として僕の中に封じ込めようと心に誓ったのだ。

昨日の雨の余韻が残る僕の頬を、晴れ渡った今日の太陽が照りつける。まだ朝だというのに、今日は酷く蒸し暑い。
僕は靴箱へと足を進めた。靴を脱いで、靴箱へ入れる。
ふいに、眠気が僕を襲った。
昨日は、ぐるぐると膨大な考えが頭を駆け巡って、眠れなかった。ずっと好きで、ずっと思い続けてきた美鈴が、ほんの一時間だけだったけど、そばに居た。生きることが辛くて孤独だった頃に、唯一の希望だった美鈴と一緒に居れらる。どれだけ幸せなことだろう。
夢じゃない。確かに僕は美鈴に言った
「もっと、一緒にいたかった。」
と。
そんな僕の言葉に
「私も、一緒にいたかった。」
と、返してくれた。

嬉しかった。
あの瞬間だけは、ただ純粋に通じ合えていると思えた。


「おっ~す!」

そんな聞き覚えのある声で、僕は我に返った。片手で脱いだ靴を持った健司が、歩いてきた。健司の後ろには、自然に微笑んで僕を見る美鈴の姿があった。
僕は気まずくなって、思わず目をそらした。
「おはよ。」
健司の後に続いて、美鈴が言う。僕は、ぶっきらぼうに
「おはよ。」
と返した。
不自然に動きが止まってしまった僕を横目に、健司と美鈴は教室へと歩いて行った。胸が締め付けられる。
僕にとっては特別な時間だったけど、美鈴にとっては何でもない、平凡な時間だったのかもしれない。

憎らしいほど、健司と美鈴はお似合いのカップルだった。
「ナイショ」と言っていたけど、結局二人が付き合っているというウワサは、すぐにクラス中に広まった。誰もがお似合いのカップルだといって、納得した表情を見せた。特に目立ってはやし立てる者も居なかったし、二人が一緒に居ることが、すごく自然な光景に見えた。
健司の存在は、永遠に越えられない壁だと思った。スポーツも万能で、勉強もできて、風貌もカッコいい。どれをとっても、僕は健司よりも劣っているように思えた。だから、美鈴が僕に心変わりするなんて希望は、1%もないと言い切れたし、僕も二人の間に割り居るなんて考えもしなかった。

それでも、昨日の出来事は、僕のそんな気持ちを揺れ動かせる。
「一緒に帰ろう。」
そう言って踏み越えてしまったラインの向こうで、僕は諦めかけていた恋を、もう一度蘇らせてしまったんだ。必死に一緒な高校に入ろうと努力して、同じクラスになれた喜びを、無駄にしたくないと思ってしまう。
でも、無理に踏み入ってしまって、自らの手で健司との仲に亀裂を入れるようなことはしたくなかった。
健司は友達の少ない僕にとって、唯一、親友と呼べる存在なのだ。
健司のことが、僕の恋を押さえつける。
このまま、片思いは片思いのままで、健司とは親友のままでいればいいだけのことだ、と考え直した。何も変わらない。どうしても、僕の中で美鈴と付き合うには、リスクが大きすぎると思ってしまうのだった。

大きくため息を付いて、僕は足を踏み出そうとした。
「リョウスケくん。」
その言葉に顔を上げると、そこには僕の行く手をふさぐように美鈴が立っていた。急に心拍数が上がるのを感じながら、僕は何か言葉を発しようとした。でも、言葉が出ない。じっと美鈴の目を見つめたまま、固まってしまった。
「昨日は、、、ありがと、ね。」
そんな僕をよそ目に、美鈴は続ける。ぎこちない笑顔で僕は答える。
「いや、全然・・・。」
不自然に、片手を振る。
「盗難届け、出しに行かない?」
相変わらず、自然な笑顔で美鈴は言った。
「盗難届け・・・?」
一瞬、美鈴が言ったことの意味が分からず首をかしげ、ちょっと考えて声を上げた。
「あ、自転車の。」
「そう、自転車の。」
にこっと笑う。美鈴のそんな笑顔にドキッとする。
「リョウスケ君も盗られたんでしょ?」
「・・・えっ?」
僕は再び首をかしげる。
「ほら、・・・傘!」
そんな僕を見て、美鈴は付け加えた。
「あぁ、そういえば。」
ぼそっと僕はつぶやいた。
「一緒に盗難届け、出しに行こうよ。」
その言葉は恐ろしいほど自然な台詞に聞こえた。何かおかしいことも、美鈴が言うと、すごく普通なことのように聞こえる。
僕は、複雑な心の奥の気持ちも、もどかしい思いもふっと忘れて、自然に
「うん、いいよ。」
と返していたのだ。

昨日の延長線上に、今、二人で歩く時間がある。
教官室に入って、二人で盗難届けを書いて、傘なんてわざわざ書きに来る人居ないよ~、と笑って提出するまで、すごく自然だった。何もおかしくない、自然な流れに感じた。いつの間にか、僕の緊張も解けていたし、美鈴と喋れば喋るほど、心は落ち着いた。
心地良い時間だった。ずっと、一緒に居たいと思ってしまった。

教官室から出た後、少しだけ気まずい空気が流れた。それは、美鈴がふいに立ち止まってしまったからだ。
何か言いたげな表情のまま、美鈴は僕を見た。僕は何かを切り出さなきゃいけない、と思ってはいたものの、声にならない。
まずいなぁ、と思った。
なぜなら、その時美鈴が僕に見せた表情は、ただのクラスメイトに対するものにしては、あまりにも特別なものだったからだ。
思わず目をそらせてしまった。
「誰かに見られるとマズイよ。」
冷静に僕は言った。
「どうして・・・?」
目をまん丸にして、美鈴はおどける。
「だって、健司が嫌がるだろ、二人でいると、さ。」
それもまた、自然な台詞だったと思う。この現実を現実のままに封じ込めるための自然な台詞。
僕は何かいけないことをしている気持ちになって、無理やり思いを押し殺して呟いた。
「リョウスケ君。」
不意に真剣な顔で、美鈴は僕の目をみつめて言った。何かを決心した、真っ直ぐな視線が僕を突き刺す。
僕は、その言葉に戸惑った表情をしていたはずだ。そんな僕とは対照的に、美鈴の瞳は真っ直ぐだった。僕の本音を見透かすぐらいの真っ直ぐな瞳だった。
「私、好きよ。リョウスケ君のこと。」
その瞳のまま、美鈴は僕に言った。他の誰にでもない、紛れも無く僕に対しての言葉だった。静かに鼓動が高鳴っていくのを感じた。深く深呼吸する。心の奥から、ゆっくりとその感情は溢れ出しそうだった。
“嬉しい”という気持ちが生まれるまで、少し時間がかかった。
僕が言葉を発するまで、美鈴は何も言わずじっと僕を見つめていた。何か言わなくちゃと思っても、どう応えていいか分からなかった。
どんな言葉を期待しているのだろう。素直にその気持ちに応えるべきだった。
「でも・・・。」
分かっていても、出てきた言葉は弱々しかった。胸の鼓動が高鳴るたび、息苦しさが僕を襲う。あの時、僕は何を考えていただろう。何年も思い続けてきた人に好きと言われた喜び。健司の姿が思い浮かんで素直に喜べない気持ち。その両極端な思いに、僕は揺れた。
まだ足が地に着かない乳児のように、ゆりかごのなかで揺れて、望んでいてもその愛情に手が届かない。喩えてみるとそんな気持ちだろうか。ただ僕は、感情をコントロールできない乳児のような、生まれたての不自然さに頭がおかしくなりそうだった。正しく呼吸をして、正しい言葉を発することが困難だった。真っ直ぐに美鈴を見つめることも、自分の気持ちを押し殺すことも出来なかった。
いわばフリーズ状態だった。
だけど、そんな僕に対して美鈴はすべてを察したような、凛とした表情で僕を見ていた。その表情はどこか神秘に満ちていて、僕はそれに魅力的な危うさを感じてしまった。足を踏み入れてはいけない領域に、立ち入ってしまう、そんな危うさ。
美鈴はぽつりとつぶやく。僕はごくりと息を呑んだ。
「嘘だったの?」
相変わらず、僕の目をじっと見つめて言った。
「あの日、一緒にいたいって言ったのは嘘だったの?」
その核心を突く台詞は、僕を追い詰める。
「嘘じゃないよ。」
自分に正直になろうと一瞬で決意して僕は強く返した。
「僕も、中沢さんのこと、好きだ。」
覚悟を決めた。
そうだ・・・そうに決まってる。
そんなに簡単に諦めることのできる恋じゃなかったはずだ。
何かを犠牲にしても、僕を生かし続けてくれたのは、美鈴への思いだけだったから。もう僕は自分に嘘は付かない。そう決心したのだった。
「ずっと、好きだった。」
そこに居たのは、数秒前の自分じゃなかった。
あの時間が永遠に続いて欲しかった。二人で歩いて、二人で笑い会えるあの時間を僕は求めた。
こんなに近くにあって、こんなにも簡単に伝えることができたことを僕は心の中で奇跡と呼んだ。僕の中に振り続ける奇跡の雨は、轟々と大きな音を立てながら、今でも流れ続けている。

そして僕らは付き合い始めた。
「このことは、みんなには黙っておこう。」
美鈴はそう言って笑った。その笑顔には、少し動揺が見えた気もするが、美鈴の目はまっすぐだった。

秘密の関係

その響きに僕は不思議とすぐに溶け込んだ。それは、「いけないことをしている」
という気持ちよりも、その関係に何か特別なものを感じていたからだった。
そこには、何故か、どのカップルよりも濃密な、本当の愛があるような気がしていた。
僕らは、放課後みんなが帰ったあと、密かに会った。誰にも見つからないようこっそり学校に忍び込んで、ひっそりと二人で会う。その時間がかけがえのないものだった。

しだいに健司と話をするのが気まずくなってしまって、いつの間にか僕は自然と健司を避けるようになっていた。仲良く話すことも少なくなったし、健司と美鈴が学校の中で二人で居るところを直視できなくなった。
それでも、この秘密の関係は壊したくなかった。全部間違っていたとしても、僕のこの気持ちだけが真実だと、そう自分に言い聞かせた。

付き合い出してから、少したったある日、僕と美鈴は放課後の校舎以外で初めてデートをした。誰にも見つかることのない場所にひっそりとある公園で、僕らは会った。ここを二人の秘密の場所にしようと誓った。
一緒に居られるだけで幸せだった。それ以上、何もいらなかった。
飾られた言葉も、大袈裟な演出もないありふれた世界で、僕らは必死でお互いを見つめあった。それは限られた時間で二人の距離を縮めるための精一杯だった。
そんな時、美鈴はふと呟いた。
「一年間だけ・・・。」
人差し指を立てて、真剣な表情で美鈴は僕に言った。
「一年間だけ、みんなに黙っていよう。」
一年間という具体的な数字が、この秘密の関係の曖昧な部分を埋めてくれた。
「一年経って、お互いの嫌な所とかも分かって、完璧なカップルになれるまで、ね。」
美鈴は真剣な表情を解いて、にこっと笑う。
「じゃあ、まだ付き合うための免許を貰うための仮免許って、とこかな。」
僕も笑いながらそう返した。
「じゃ、仮カップルだ。」
くすっと静かに笑って、美鈴もつぶやく。
そうだった。僕らは、地に足の着かない場所で、必死に何かにしがみつこうとする、不自然な関係を築いていたんだ。

不器用でも、器用に生きられると信じていた、あの頃。
僕らは出会って、恋をして、それから・・・。
愛し合っていたんだ。
僕の中のシナリオは、恐ろしいほど順調に読み進められていた。
奇跡の雨の中で、どうしようもなく純粋に。

だけど、そんな奇跡も長くは続かなかった。

重いクラスの雰囲気、ざあざあと降り続ける雨、誰かの噂話。
ぽつぽつと髪の毛から滴り落ちる雨の雫。
その日は誰も私語をせず、真っ直ぐ前を向いて、先生の話を聞いていた。
急に、キーンと頭の中の線が切れるかのように、一瞬視界が揺れて、僕は耐え切れず、机の上に頭をうずめた。
遠くから、先生の声が聞こえていた。
聞こえるか、聞こえないかの小さな音が僕の耳に届く。

「今朝、中沢美鈴さんが亡くなりました。」

覚えているのは、ただその日の雨は、いつもより冷たく、激しかったということだけだ。
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透明人間、15

15

僕を見つめる斉藤の姿は、本当の父親のように見えた。
無言の会話で慰めてくれるような、優しさがそこにはあった。何も言わなくても良かった。一人だと、逃げ出したくなっていただろう。傍に彼がいてくれたことで、どれだけ僕は救われただろう。
帰りのバスの中で、僕は考えた。サキの存在が消えて、不安になっていく自分に負けないために、これからどうやって生きていくか。サキの言葉は、僕を幾度も励ました。でも、どうしてもサキを忘れることは出来なかった。

「年を重ねていくと気付くんだよ。特に俺ぐらいの年になるとさ。」
帰り道、斉藤は僕につぶやいた。
「いろんなものを背負って、どんどん重くなっていく、自分の命に。」
独り言のように、斉藤は続けた。
「自分のためだけに生きてきたはずなのに、いつの間にか、誰かのために生きていたりして、そんな重みが積み重なって、軽々しく生きていけなくなるんだよ。」
山道を下りながら、斉藤はしみじみと言う。
「大事な人を失ったとき、俺も思ったよ。俺も死んで、アイツのところに行くって。でも、落ち着いてよく考えた時、俺は気付いた。俺はアイツの分の命も背負っているんだと。二人分の命、いや、これから先、増えていくかも知れない・・・何人もの命を背負って、俺は生きている。そう思うと、簡単に死ねなかった。」

赤信号でバスが止まった。斉藤は僕の方に顔を向けた。
「苦しいと思うか?背負った物を投げ捨てて、楽になりたいと。」
僕は赤い目を下に向けて、黙っていた。
「だが、俺は生きなくてはならない。もし、今死んだら、自分の中のアイツを殺してしまうことになるから。背負ったものたちを裏切ってしまうことになるから。だから、俺は生きることにした。」
恐いくらい、斉藤の言っていることの意味が分かった。心に響いて、胸が苦しかった。
「でも、案外、苦しくないもんだよ。アイツのために生きてるって思えば、毎日が有意義なものに変わったから。」
景色がぼやけて、僕の目に映る。斉藤の顔もぼやけていた。
「お前は、早くも背負ってしまったようだね。」

『私のためにも、幸せになってください。』
サキの言葉がふと蘇る。

「お前はすべてを失ったと思っているかも知れないが、それは違う。お前は生きる意味をまた一つ与えられたんだよ。」

僕は顔を上げた。心の中の道は完全に途絶えてしまっていた。だから、前へ進めなかった。でも、サキの命を背負って、たとえ道がなくても、進んでいかなくてはならない。そう思った。斉藤の言葉は、過去の斉藤自身が経験した、重みのあるものだった。僕の心に深く突き刺さる。

命を授かった時、僕は一人ぼっちだった。

あの頃に戻った。
サキが死んだ時、僕はそう思ってしまった。
笑顔が見当たらない分娩台の上で、泣いてた。孤独とか、寂しいとか、そんな事さえ知らなかったあの頃に戻って、そして一人でワケもなく涙を流す。そんな生活がやってきたと思ってしまった。
だけど、あの頃の自分とは違った。出会いの中で、僕は何かを背負い、誰かと手をつないで、そして命の重さが変わっていった。サキのために生きることが、僕にできる唯一の恩返しなのだ、と気付いて僕は顔を上げた。
だから、もう、からっぽにはならない。僕は、いつだって孤独じゃない。透明で、尊い命が、僕の命と共に鼓動しているはずだから。いつまでも・・・。


涙は、きっと温かい。

涙には本音が詰まっていて、辛いことも嬉しいことも流してくれる。
そばにいるよ。今から、どんなに時が経っても、きっとそばにいる。

僕はタイムスリップする。鏡の向こう側に、あのころの僕がいた。もう、涙も枯れてしまうしまうほど泣いて、必死に生きることにしがみ付いていたころの僕が。サキという女の子の命を背負って、少しだけ大きくなった僕がいたんだ。
「死んだらいけない。」
とその鏡の向こうの僕は、ただひたすら呟いていた。死と生の間のギリギリで揺れていた僕の心は、葛藤の中で醜い叫び声を上げていた。
僕は、鏡から離れた。ぐるぐるぐるぐる・・・記憶が巡る。美鈴との別れ、サキとの出会い、そしてサキの死・・・。記憶が徐々にはっきりとしたものになっていった。どれだけサキとの思い出を思い出したても、サキはもうこの世にいないんだ。そう考えると、きっと過去にも経験したであろう悲しみが一気に襲い掛かってくる。これ以上思い出したくない、そう思っても、記憶は溢れ出すように僕の頭を支配した。
もうすぐ、すべての真実が蘇る。どんな痛みにも耐えるんだ。そう強く心に念じた。

カーテンを開けると、西日が部屋の中に入り込んでくる。
すべてが整理できたら、もう一度現実に戻ろう。学校に行って、みんなとしゃべって、またあの日々を取り戻そう。繰り返し自分に言い聞かせた。記憶を失った日から、自分が別の世界に居るような錯覚に陥っていた。みたこともない場所、知らない人たち、知らない自分。すべてが真新しく、そして不思議だった。だけど、記憶を辿っていくうちに、真新しさは懐かしさに変わり、不思議な感覚は薄れていった。
そうか、現実の世界に戻ろうとしているのか、と気付いた。
生きてしまった僕が、僕自身にかけた魔法・・・それは、自分がもう一度死のうとしないように、別の世界に僕を封じ込めるものだったのかも知れない。だが、もう時間だ。魔法が解ける時間がやってきた。


「気になることがあるんだ。」
学習机の椅子に座っていた健司に向かって、僕はポツリと呟いた。健司は不安が入り混じった笑顔を僕に向けて、小さく振り返った。
「気になること?」
手に持っていたティーカップをそっと机の上に置くと、コタツに座っていた僕を見下ろしながら健司は言った。それに、コクンと僕は頷く。
「こんなことを聞くのはおかしいんだけど・・・、最近少しずつ記憶が蘇ってきてさ、サキが死んだときのことも思い出したんだ。」
下を向きしゃべる僕を、健司は黙ってじっと見つめていた。
「僕が死のうとした理由は、本当にサキが死んだからなのかな。」
そういってすっと見上げると、健司と目が合った。健司の強い視線が、突き刺さる。
「どういうことだ?」
ティーカップを持って立ち上がりながら健司は言った。そのまま僕と向かい合うようにコタツに座る。カップに注がれた紅茶を一口飲んで、コップを置いた。
「サキが死んで、どれだけ悲しかったか。それは嫌と言うほど思い出した。でも、分かってたんだ。サキが死ぬって事。覚悟はできてたはずのなのに。」
「でも、それは・・・。」
「何か、隠してないか?」
健司の言葉に被せて、僕は言った。健司の目に驚きの光が灯る。
「俺は本当のことを知りたいんだ。どんなことでも。だから、何か僕に隠していることがあるんなら、全部言って欲しい。」
健司がごくっと唾を飲む。真剣な僕の顔を一瞥した。そして言葉を吐き出す。
「隠してること・・・?」
何かを探るように、戸惑うように、健司はぼそっと言う。
「隠してるなんて・・・。」
少しの沈黙。それを遮るように、健司が付け加える。
「知らない方がいいこともあるんだよ。死のうとしてまで、忘れようとしたことがあったんじゃないのか。」
突き放すように、彼は言い放つ。重い空気が部屋に漂った。
「それでも、知りたいんだ。」
目を開け放って、僕は健司を見た。彼の目には、まだ戸惑いの色があった。

僕は、腹を括ってしゃべり始めた。じっと、健司の表情を伺いながら。何が正しいのか分からない。ただ、正解か不正解か、その判断が欲しかった。
“それでも、知りたい”その思いが僕を突き動かす。
目を逸らして生きていくような、そんな器用な事はできない。例え、知ってしまったことで、もう一度同じ苦しみを味わうことになっても。
「思い出したんだ。僕は、中学の頃からずっと好きな人がいたってこと。でも、それはサキじゃない。サキとは塾は同じだったけど違う中学だったから。その人に、告白する勇気はなかった。僕は他のみんなと違っていたから。仕事に、勉強に必死になって、結局その人には告白どころか、声をかけることもできなかった。」
すぅ、っと息を吸う。心拍数がどんどん高くなっている。健司は俯いたまま、僕の話を聞いていた。
「僕は、その人と同じ高校に入りたくて、塾にまで入って勉強していたんだ。」

僕は遠い記憶に身を委ねるように顔を上げた。


別に、進学校に行く理由なんてなかった。生きる理由さえ、見つからなかった。いざとなったら死ねばいい。それだけが、僕の救いだった。死ぬという逃げ道はいつでも僕の隣にあって、そんな危なっかしい安心感を抱いて生活していたんだ。
コンビニでバイトして、その金でギリギリ生活していた。遊ぶこともせず、ただなんとなく生きていた。
だけど、そんな意味のない学校生活も、あの子に出会って変わった。密かに芽生えた恋心は、僕を変えた。
中沢美鈴・・・というのが彼女の名前だった。ろくに友達もいなかった僕は、自分の中にその思いを問い込めた。声もかけられない、話したいけど話せない。まともに近付くこともできなかった。

そんなある日、彼女が南山高校を目指していることを知った。僕の成績ではとうてい入ることのできない進学校。だけど、一緒な高校に行きたい。なにもなかった僕に与えられた、生きる理由。楽しいことも、嬉しいことも、何にもなかったけど、ただその目標だけが僕の生きがいとなった。
南山高校に入る。そのために、新たなバイトをして塾にも通った。朝からホテルの清掃のバイト。夜は塾。死ぬほど忙しい毎日の中で、ただ考えていたことはただ一つ。同じ高校に入りたい・・・。

その思いは叶った。高校生活の始まり。覇気のない自分に生き生きとした希望が与えられ、新しい人生のスタート地点に立った。入学式、ドキドキしながらクラス分けの掲示を見ていた。中沢美鈴・・・、願いがかなったのか、同じクラスになったのだった。
その日から、毎日が楽しかった。新しい友達もできたし、何といっても、同じクラスに憧れのあの子がいる。それだけで十分楽しかった。一日一日がこんなにも充実しているなんて、信じられなかった。彼女と目が合うたびに、胸は高鳴った。一日が始まる、そして同じ空間にあの子がいて、時間が流れる。
教室に差し込む光は、彼女の頬を照らす。その光が反射して、午後の静まり返った教室は明るく、爽やかな空気に包まれる。僕の中で生まれる世界が、頭の中で弾けた。道なき道を素足で歩く感覚。歩き心地の悪い、ふわふわした廊下に立っている錯覚。それは恋だった。僕の目に映る世界を、一気に変えてしまう魔力を持つ。それは、事件でもあり、小さな奇跡でもあった。
夢の世界と手を握ることができる権利をつかむ、この手。今まで何も掴めなかったこの両手で、不確かで曖昧な現実にふれることができたならば、僕の世界は真っ白な愛のあるものに変わるだろう。ただ、その世界の彼女はあまりにも美しすぎた。
話したい、だけどやっぱり声をかけることができなかった。そんな毎日が過ぎた。

だけど、想いは一瞬で吹き消されてしまうこともある。ある日、僕は見てしまった。高校に入学して、一ヶ月が経ったある日のことだった。
「亮輔、おはよ~。」
朝、学校に通っていると後ろから誰かに声をかけられた。声でそれが、高校に入って新しく出来た友人の健司だと分かった。
「おう、おはよう。」
そういって僕は振り返った。朝の光が眩しく目に入る。
僕の笑顔は凍った。そこには、中沢美鈴と二人仲良く寄り添う健司の姿があった。きょとんとした顔をしていると、照れながら健司は言った。
「俺ら、実は付き合ってるんだよ。クラスのみんなにはナイショなっ!」
僕はぎこちない笑顔で、そうだったんだ・・・と答えた。
ショックだった。でも、仕方ないことだ。だぶん、僕は彼女のことを何も知らない、彼女は僕のことを何も知らない。声をかけれなかった自分が悪いんだ。そういって、笑った。

僕にとっての初めての失恋は、春の終わりの小さな事件だった。
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透明人間、14

14

僕は一体、何をしようとしているのか。

過去の幸せにすがって生きていくなんて、醜いことだと分かっていた。このバスが向かう先が、天国じゃないと分かっていた。
絶望の泉に潜り込んでいた。
誰の声も届かない水の底に、行く手を塞がれてた。
外の世界から見たら美しく見える世界に潜む闇。そこから手を伸ばしても、涙を流しても、何の変化もなく何の意味もない世界に、きっと僕は身を潜めている。
そんな闇の中を進むバスは、大きく揺れながらいつか見た景色を通り過ぎていく。

「斉藤さん・・・。」

ぼんやりと声を漏らす。もう力ない、心も篭らない声を、自分の意思と関係なしに僕は呟いていた。

「僕とサキは、幸せそうでしたか?」

自分の声が遠くから聞こえてくるような、不可解な感覚が僕を襲う。目の前を覆う涙の粒が、引っ切り無しに僕の世界をぼかす。

サキの笑顔が、バスの窓に反射していた。はっとして振り返ってみても、そこにサキはいなかった。
記憶の世界と現実の世界が混ざり始めているんだ、と気付く。
まだ胸の奥にしまい込めない思い出が、すぐ傍で僕の目に映り込んでいる。
確かに僕らは幸せだった。
でも、第三者の確かな言葉が欲しかった。
確かめてみたかった。
あの頃の曖昧な二人を、確かな記憶に変えたかった。どんなカップルよりも、幸せそうだと言われたかった。サキの笑顔が本物だったと、証明して見せたかった。
だけど、斉藤は黙っていた。
ただ前を向いて、静かにハンドルを握っていた。僕のことを悲しい顔で見つめることもせず、沈黙を貫いていた。
それが優しさだと気付くこともなく、僕は僕から離れていった。

段々と空白になっていったこの一年間は、両手ですくった水が流れ落ちていくように、肌の冷たさを残したまま、風に吹かれてむなしさが残った。
体が宙にふわふわ浮いているような、気持ち悪い感覚に満ちていた。
気がつくと、印象深い風景が窓の外に広がっていた。はっとして、目を見開いた。ようやくあの場所に着いた。バスががたんと揺れて、止まる。
感覚のない手で、僕はドアを開けた。
斉藤は、バスから降りようとせず、無我夢中であの展望台へと走って行く僕を、心配そうに見つめていた。何か言いたげな顔をしていたものの、相変わらず黙り込んでいた。
感情が絡み合って、正しい判断が出来なくなっている中、足はがむしゃらに前に進んだ。
繋ぐ手も、サキの横顔もない現実に慣れないまま、僕はあの場所に着いた。
二人で感動し合い、二人の思い出を埋めたあの場所。
天国の入り口のように見えた。
サキと二人でいた頃は、未来が広がっているかのように見えていたこの景色も、すっかり姿を変えていた。
あの頃のように、太陽はギラギラと肌を焼き、真夏の世界を創っていた。
暑い、という感覚はなかった。
ただワケもなく胸の鼓動は高鳴って、はじけて僕のすべてを溶かした。

すうっと意識が飛んでいくのが分かった。また現実から逃げようとしているんだ、と自分で理解した。隣でサキが笑っていた。その横で僕は泣いていた。永遠に越えられない過去と今の壁が、僕らの間にはあった。
早く、自分の中のサキの存在を消し去れなければならない。
サキの手の感触も、肌の柔らかさも、まだ忘れられない自分が愛おしかった。

やっぱり、出会わなければ良かったのか。
その問いに出す答えはただ一つ。僕はすべてをサキに捧げた。サキに恋して、生きる理由を見つけたから、きっと出会えて良かったんだ、と。

深呼吸した。もやもやした気持ちを吐き出すために、大きく息を吸い込む。・・・

タイムカプセル。

ふと、サキの言った言葉を思い出して、衝動的に僕はしゃがみこんだ。まだ埋っているだろうか。サキが生きた証は、今もまだあるだろうか。
僕は土を掘り出した。手が土で真っ黒になるまで、無我夢中で土をかき出した。狂ったように、必死だった。幸せだったことの証のように思えたから、もう一度確かめてみたかった。
タイムカプセルは意外にも簡単に見つかった。小さな箱が姿を現した。それは紛れもなく、サキと二人で土の中に眠らせた、二人だけのタイムカプセルだった。
一年前に、タイムスリップする。笑顔で一杯だったあの頃に戻って、僕は箱のふたを開けた。
サキにかけられた呪いと、封印を解いた気持ちになる。
そこには下手糞な出来のミサンガと、サキが僕に見せてくれなかったノートが入っていた。
僕は高鳴る胸を押さえつつ、そのノートを手に取った。
一体何のノートだろう、とふと考えた。きっと未来の二人に向けて書いたものだろう、と自分を納得させる。たった一年後取り出されるなんて、思ってもいなかっただろう。そう思うと、また悲しくなった。
悲しみを抑えて、僕はノートを開いた。

『リョウスケへ・・・。』

見覚えのある可愛らしい文字で、そう書かれていた。
少しだけ、その先を見るのをためらったが、僕はもう一度深呼吸をした後、そのノートを開いた。

「リョウスケへ…。

リョウスケをはじめて見たのは、私が通っていた病院の横にある、図書館ででした。
リョウスケはあそこでいつも、一生懸命勉強していましたね。
あれはきっと、一目惚れでした。
あれは私が中学二年の夏のことでした。
実はずっと前から私は知っていました。
自分があとわずかしか生きられないということを。
昔から病弱だった私は、よく病院に通っていました。
ある日、私は担当の病院の先生と両親が話しているのを聞いてしまったんです。
あと5年の命・・・。
それを知った日から、私は生きる希望をなくしました。
将来の夢も何もかも、すべて無意味なものになってしまいました。
あれから、学校にも行かなくなって、家に閉じこもって、何もしない毎日を送っていました。
どうやって死のうか、ずっとそんなことばかりを考えていました。
私はどんどん衰弱していき、病院に通うことも増えました。
楽しいことなんて、何もありませんでした。
5年という歳月は、すべてを諦めてしまうには長すぎて、夢を追いかけるには短すぎました。
一体、どうやって生きたらいいか、ずっとそれを考えていました。
未来がないから勉強する必要もないし、人の優しさも、ただ煩わしいだけのものに変わってしまいました。
そんな私の唯一の楽しみは、本を読むことでした。
病院の横にある小さな図書館。
そこで、私はいつも一人で本を読んでいました。
朝から、図書館が閉まるまでずっと。
私にとって、リョウスケとの出会いは小さな革命でした。
何もなくなった私の人生に起こった、革命でした。
恋愛なんて、もうとっくに諦めていました。恋をするだけ無駄だと思っていたから。
でもリョウスケを見ると、不思議に胸が高鳴って、どうしようもありませんでした。
初めてリョウスケを見た日から、気になって仕方がありませんでした。
認めたくなかったけど、きっとこれは恋なんだと私は気付いてしまいました。
毎日、夕方になると現れる彼に、私は恋をしました。
そんなある日のことでした。
図書館が閉館の時間になって、いつも通り本を片付けて帰ろうとしていると、誰もいなくなった机の上に、一冊の本が忘れられていることに気付きました。
その席には、いつもリョウスケが座っていました。
思わず、私はその本を手に取りました。
それは参考書のようでした。
南丘予備校と書かれた下に、佐々木亮輔と名前の欄に記入されていました。
リョウスケ・・・。
いつしか、私はあなたのことばかり考えていました。
5年という短い時間の中で、人を好きになれた奇跡を私は離したくありませんでした。
すべてを失った私が新しく手に入れた夢は、リョウスケと同じ高校に入ること、ただそれだけでした。
声はかけられないけど、リョウスケの近くにいたくて、私はあなたと同じ塾に入りました。
ろくに勉強していなかった私は、その塾の中でも一番成績が下のクラスでした。
ある日、リョウスケが友達と話しているのを聞いて、あなたが南山高校を目指していることを知りました。
その時の私の成績じゃ、とうてい入れるはずもなかったけど、その日から私は必死で勉強しました。
リョウスケと同じ高校に入りたい。
その気持ちだけが、私を変えていきました。
一年間、すべてを捧げるように勉強して、そして私は南山高校に入りました。
だけど、リョウスケと同じクラスになれなかった・・・。
がっかりしました。
リョウスケの背中を見つめて、声も掛けられない日々は、もどかしくて切なかった。
あと一歩が踏み出せない自分が、情けなかった。
日々が流れても、私の気持ちは大きくなっていく一方でした。
恋をしている、それが私の生きる証でした。
何もなかった過去の自分と、随分私は変わっていました。
恋が私を変えたのです。
想いが届いたのか、運が良かったのか、二年になってリョウスケと同じクラスになることができました。
嬉しかった。
涙が出るくらい、私は喜びに包まれていました。
それから、毎日が楽しかった。
相変わらず、まともに話せなかったけど、でも傍にいれることが嬉しかった。
死が近付いているなんて、忘れてしまうぐらい、楽しい毎日でした。
近くにいるだけでよかったけど、私は最後の賭けをしました。
告白なんて、できるはずないと思っていたけど、友達に背中を押されて、私は勇気を振り絞りました。
想いが伝わればそれでいい。
そんな気持ちで、リョウスケに告白しました。
あの日・・・人生で一番幸せだった日。
夢のまま終わってしまうと思っていた私は、その奇跡が信じられませんでした。
リョウスケの最高の彼女になれるか不安でした。
だけど、そんな私の想い以上に、あなたは私を愛してくれましたね。
幸せな日々が、私のすべてを埋め尽くしていきました。

長くなってしまいましたね。
リョウスケがこのノートを読んでいる頃には、きっと私はもうこの世にいないでしょう。
ずっと隠していて、ごめんなさい。
あなたに大きな秘密事をしていた、それだけが心残りでした。
どうか、悲しまないで下さい。
私はとても幸せでした。
何もなかった日々を、変えてくれたのはあなたでした。
リョウスケは、私の最後の5年間のすべてでした。
リョウスケ、私のために笑ってくれて、ありがとう。
私のために待っていてくれて、ありがとう。
私のために走ってくれて、ありがとう。
そして・・・私のために泣いてくれて、ありがとう。
リョウスケは、どうしようもないくらいお人よしだから、私のことを忘れないでいてくれているでしょうね。
でも、それも今日までにして、リョウスケは新しい恋愛をしてください。
これが、私の最後の願いです。
あんなことを言ってしまったけど、やっぱり私は透明人間にはなれません。
私はもう、リョウスケの傍には居れません。
でも、私は悲しくありません。
リョウスケが、一生分の幸せをくれたから、もう、それで十分です。
あとは、リョウスケが他の誰かと幸せになってくれたら、それ以上の喜びはありません。
私のためにも、幸せになって下さい。
そして、最後にもう一度言うね。
リョウスケ、本当にありがとう。

山城沙希」



僕は泣いた。サキの想像以上の想いに、そして自分の不甲斐なさに。
もっと愛してあげたかった。もっと、一緒にいればよかった。
後悔は次々に僕を襲う。
サキは全部知っていたんだ。自分だけが知ってるなんて思って、サキの苦しみに気付かなかった。
「実は、透明人間になれるんだよ・・・。」
サキは一体どんな気持ちで言ったんだろう。
自分が消えてしまうのが怖かったのだろう。
あれは僕に言ってたんじゃない、自分に言い聞かせていたんだ。
サキは苦しんでいたに違いない。死が近付いて、恐怖に襲われて。それでも、笑った顔を僕に見せた。
昔の自分が憎らしくて仕方なかった。自分が傷つくのが怖くて、サキを素直に愛せなかった自分が。
お礼を言わなきゃならないのは、僕の方だ。
サキと出会えて、サキのために生きて、本当に幸せだったから。
僕は叫ぶ。

サキ、ありがとう。
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透明人間、13

13

サキの居場所は意外にも簡単に見つかった。

南ヶ丘病院という文字を見つけたのは、無造作に教官室の担任の机の上に置いてあった一枚のプリントだった。
担任の先生が、何度か病院に見舞いに行っていることは知っていた。だが、そのことは生徒には教えないで欲しいとサキの両親が頼んだらしい。僕にさえも、どこにサキが入院しているのか教えてくれなかった。

居場所を知った次の日、僕は学校を休んだ。それはもちろん、サキに会いに行くためだ。
きっと、サキは喜んでくれる、そんな気持ちが僕を突き動かせた。
僕は学校とは正反対の道を、いつもなら授業を受けている時間に早足で歩いた。
気持ちは怖ろしいほど焦っていた。
急がないと・・・。
心臓の鼓動はみるみるうちに早くなっていった。

「リョウスケ。」
僕の足を止めたのは、背後から聞こえてきた僕を呼ぶ声だった。ドキッとして振り返ってみると、そこにはクラスメイトの健司の姿があった。
「ケンジ・・・?」
思わず僕は声を漏らす。
「何やってんだよ、学校があるだろ。」
僕は健司の目を見ずにつぶやく。
「それは、こっちのセリフだよ。」
すぐに健司の言葉が返ってきた。彼の目は鋭く、僕の顔をキッと睨んでいた。
「どこに行くつもりだ?」
健司は僕に尋ねる。
「どこだって、いいだろ。」
投げ捨てるように僕は言う。無視して僕は後ろを向いた。そして足を進めた。
「行ったって無駄だぞ。」
大きな声で健司は叫んだ。僕はそれでも足を進める。
「リョウスケ!!」
健司が叫ぶ。だが、健司の言葉も聞こえないくらい、僕はサキの事で頭が一杯だった。
早く会いたい、それが約束だから。
健司の言葉はそんな僕には届かなかった。

「サキは死んだんだ。」

僕に届くような大声が響いた。僕と健司の距離は、その言葉がギリギリ届くほどだった。僕は足を止めた。
「死んだんだよ。」
僕は振り返る、そして健司に近付く。
「何だと。」
僕は声にならない声を絞り出した。
「サキが死んだって、今、連絡があった。」
真剣な表情で、健司は言った。
「嘘だ。」
咄嗟に出ていた言葉は、僕を落ち着かせるためのギリギリの言葉だった。健司の目が少し悲しく光って、それでもしっかり見開いて僕を見る。
「嘘じゃない。」
健司は苦しそうに言葉を吐き出した。
「今、校長がクラスに説明しに来た。」
冷静に健司は説明する。
「サキの親も、今学校に来てる。」
僕は、自分の体が震え出していることに気付いた。
「サキの母さんが、リョウスケに会いたいって言ってる。」
淡々と健司は話した。
「行こう。」
健司が手を差し出した。だけど僕は、体が動かなかった。
「嘘だ。」
それしか、僕の口からは出てこなかった。
「しっかりしろ、リョウスケ。」
健司が僕の肩を掴んだ。でも、僕はリョウスケの手を突き放した。

きっと、健司は知ってたんだろう。僕がサキと付き合い始めて、健司と遊ぶことは全くなくなったから。どれだけ僕がサキに夢中で、どれだけ大事だったのかを。
あれから僕は健司の遊びの誘いを断り続け、学校以外で会うこともなくなった。
それでも健司は何も言わなかった。
きっと、健司は変わってしまった僕のことを嫌いになってしまっただろう、とずっと思っていた。友達じゃなくなったとばかり思っていた。だけど、きっと健司は一番僕を心配してくれていたんだ。
だけど、その優しさも、今の僕には届かなかった。

「放って置いてくれ。」
僕は叫んだ。健司の言葉を理解しても、それを信じたくなかった。僕はもう一度走り出そうとしたが、僕の手を健司が掴んで前に進めなかった。
「放せよ。」
健司の目を見ずに言う。
「落ち着け、リョウスケ。」
必死に叫ぶ健司の言葉も、僕には何の意味も持たない。
「どこに行くんだよ。」
健司が僕の手を放して言う。
「サキに会いに行く。」
何のためらいもなく、僕は答える。そして、健司から目をそらした。
「そんなことしても、きっとサキは喜ばないよ。」
健司の言葉に、僕の足は止まる。
「サ・・・、、、」
声が震える。喋りたくても、うまく言葉が出ない。健司は伸ばした手を下ろして、僕を見た。
「サキとさ、約束したんだよ。」
どんどん震えが酷くなって、情けない声が僕の口から溢れた。
「サキがいなくなったら、すぐに探しに行くって。」
目が涙で潤む。
「分かってた。」
すうっと息を吸い込んで、震える声を落ち着かせてしゃべった。
「こんな日が来るって分かってた、ずっと前から。」
また僕は逃げようとしている。そのことに気付いたから、僕の頭は少しだけ状況を理解した。
「サキとの約束、守れなかったな。」
自然と溢れ出る涙を拭うこともせずに、僕はぼんやりとつぶやく。
健司はかける言葉が見つからないのか、ただ黙り込んでしまった。
不意に襲ってきた後悔と悲しみ。息をすることが精一杯になるくらい、僕は苦しくなった。
「大丈夫か?リョウスケ。」
健司が僕に言う。
「ああ、大丈夫だ。」
大丈夫なわけなかったけど、僕は裏腹な言葉を吐き出した。
「ごめん、一人にさせてくれ。」
僕は健司に言った。健司は心配そうな顔をしながら、僕を見つめる。
「分かった・・・だけど。」
健司はちょっと俯いて、そして再び僕を見た。
「これからは何かあったら、すぐに俺に相談しろよ。」
そう言って、ゆっくり健司は僕から遠ざかって行った。それ以上、何も言わずに。


中学生の頃、僕には気軽に話し合える友達がいなかった。遊んでいる時間がなかったし、友達を作っている余裕なんてなかった。学校にいる間も塾でもずっと勉強して、そして朝は仕事に没頭する。
だから、高校に入って出来た友達にも、僕は素直な気持ちを打ち明けれなかった。
だけど、今考えたら、僕はたくさんの人に恵まれていた。美鈴やサキだけじゃない。もっと、友達にすがって生きてけば良かった。
誰にも何も相談せずに、自分で抱え込むよりも先に。
健司の優しさが、ちょっとだけ僕の痛みを和らげた。それでも、真実を知ることが怖くて、学校に行けなかった。
僕はそれから、家に篭ってしまった。

数日後。サキの葬式は行われた。
だけど、僕は出席しなかった。
サキの死を理解できてないわけではなかった。でも、ほんの少しの何かが、それを拒否していた。だからこそ、葬式に出ることはできなかった。
いつか、後悔することは分かっていても、サキの最期を見届けることはできなかった。
何故だろう。あんなに覚悟していて、あんなに分かっていたのに。初めから、サキが死ぬってこと、分かっていたのに。それなのに、涙は止まらなかったし、ずっと眠れない日々が続いた。
何もする気に、ならなかった。
暗闇の中の生活は続く。
誰も入り込むことができない世界に、埋もれる。死んだように生きた。
無意味という色に毎日は染まっていく。
ただ何の引っかかりも、救いもないまま僕は不登校になってしまった。
逃げて逃げて、それでも心の変化はなく。苦しみを飲み込んで、また今日も泣いている。
壁に頭をぶつけても、痛みが跳ね返ってこない。
何かを吐き出しても、全部をからっぽにしても、また悲しみで埋まっていった。
繰り返しの日々、それでも生きた。
明日世界が終わってしまうことを願って、硬直して自分を殴れない手で今を生き延びた。

サキの夢ばっかり見るから、僕は眠るのをやめた。頭が割れるように痛くなったら、意識を飛ばすように僕は眠った。目覚めて体を起こそうとすると、体をうまくコントロールできずにその場に倒れ込んだ。
こんな生活がいつまで続くんだろうと、僕は何度か考えた。
でも、立ち上がることはしなかった。
カーテンを開けて、外を見ても、この部屋の世界となんら変わることがない。そこに、サキがいないから、どこにいたって同じだ。
何も起こらない、不気味な生活は続く。

夏がやってきた。陽の光で、ちょっとだけ僕の中の世界が明るくなった。
夏が終わると、長い夜がやってくる。それが分かりきっていた今年の夏は、恐ろしいほど凍り付いていて、暑さもまるで感じなかった。
太陽は心の奥までは照らしてくれなかったし、暇な長い夏は、この胸の孤独を無情に膨らますばかりだった。通り雨が降った日は、遠くで揺れる陽炎を眺め、晴天の日は、遠くでぼやける蜃気楼をぼんやり眺めた。
不規則に通り過ぎる人の流れは、まだこの世界が回っている紛れもない証拠になっていて、止まりきっている自分の世界との矛盾に頭を痛めつけられる。
ただ、意味も無く進み続ける時計の針と、カレンダーの日付だけが、僕を狂わせた。

誰もいない部屋の中で、僕は見上げた。今日は何日なのか、何曜日なのか、そんなことは今の自分には何の意味も持たないことだったが、ただ一つだけ心に引っかかることがあった。
僕は思い出した。
明日が、サキの誕生日だということに。
もう何も考えられなくなった頭で僕は考えた。遠い過去のことのように思い出される去年の夏のこと、あの日に誓った約束・・・そして変わってしまった自分のことを。
サキに会いたい、だけど会えない。
おかしくなっていく自分を、しだいに僕は見失っていく。もうすぐサキの誕生日がやって来る。

日が暮れて、翌日。
「何も聞かずに、僕をもう一度あの場所へ連れて行ってください。」
それは、僕が斉藤に言う、最後のワガママだった。
「お願いします。」
僕の気持ちが斉藤に届いたのか、はたまた斉藤がすべてを悟ったのか、すぐに彼は駆けつけてくれた。
僕は車に飛び乗った。
デカイ音を立てて、バスのエンジンがかかる。
去年はサキと二人だったバスの席は、寂しく広かった。僕は助手席から後ろを振り返った。サキの姿なんてあるはずないのに、僕はそこに誰かを探していた。
あの日の思い出は、幻のようにフラッシュバックされていた。
「真実を受け止めるのは、辛いだろう。」
ハンドルを握りながら、斉藤は僕に言った。僕は何も答えられなかった。
「俺は、お前が心配だ。」
ぼそっと彼はつぶやく。僕が何かに追われ、そして何かから逃げようとしていること、斉藤にはすべてバレていたんだと気付く。
山道を砂利を踏みながら進んでいくバスは、ガタガタ大きく揺れた。
「今なら、まだ引き返せるぞ。」
説得するかのように、斉藤は僕に言った。

結局、全部自分のためだった。辿ってきた道をもう一度確かめようとしていることも、自分の後姿の幻を必死で追いかけようとしていることも。
真実を受け止めるのが怖くて、まだ僕は過去にすがっている。
サキはもうこの世にいないというのに。
僕は「お願いします。」を繰り返した。
「連れて行って下さい。」
頭を大きく下げる。
もう、僕が普通じゃなくなっていること、斉藤は気付いている。だけど、引き返すことなく、バスはどんどん進んでいった。
サキと一緒だったあの日はあっという間だった時間が、無限に長く感じる。

「あそこにキジがいたんですよ。」
僕は指差して言った。
「それが、すごく綺麗で。」
無理に僕は微笑む。チクリと胸が痛む。
「斉藤さんも見ていましたか?」
僕の声は、バスの中にむなしく響いた。斉藤は何も答えずに、悲しそうな顔を浮かべながら、ハンドルを切った。
無意識に自分が涙を流していたことも、笑顔が引きつっていた事も、斉藤に見られてしまっていた。

バスは僕を乗せて、あの場所へと進んでいく・・・。
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透明人間、12

12

夕日が落ちる前に、タイムカプセルを彫ろう。
サキは思いついたように笑って、そして言った。
「何十年か後に、またここに来よう。」
僕は心臓をぎゅっと掴まれたように苦しくなった。
またここに来よう、と言う無邪気な言葉が心に刺さった。
僕の不安が、彼女に伝わったのだろうか。
「ずっと、一緒だよね?」
そう不安そうにサキは僕に尋ねた。
「ずっと、一緒だ。」
サキの不安を取り除くように、僕は強く言った。彼女の笑顔が蘇る。

「じゃあ、これを入れよう。」
僕は財布の中から、下手に編み込まれたミサンガを取り出した。
「なに、それ?」
とサキが聞いた。
「誕生日プレゼントに編もうとしてたミサンガ。いくらやってもうまくできなかったから諦めた。」
そう言って、僕は頭を掻いた。
「リョウスケらしいね。」
くすくすと笑って、サキが言う。
「じゃぁ、私は・・・。」
鞄に手を入れながら、サキが言う。
「これを・・・。」
サキが鞄から取り出したのは、表紙に大きく日記帳と書かれた一冊のノートだった。
「なに、それ?」
僕もサキと同じ言葉で尋ねる。
「内緒。」
でも、反応は違った。
「また掘り出した時の、お楽しみってコト。」
サキはそう言って、ふふ、と笑った。
「えぇ~、気になるな。」
僕はノートを見つめながら言った。
「そうだ。」
急にサキは叫んだ。僕の言葉を遮るようなタイミングだった。
「これも入れよう。」
サキは僕があげた一輪のひまわりを手に取った。
「これを最後の一ページに。」
サキはノートの最後の白いページにひまわりを挟んだ。そして、それを押さえつける。
「押し花か。」
僕はそれを見て言う。
「リョウスケも手伝って。」
とサキが言ったので、僕も一緒になって押さえた。
小さなタイムカプセルが完成した。何重にもノートとミサンガを包んで、分かりやすい場所に埋めた。
誰にも掘り返されないような場所に、二人だけの秘密を作った。そんな秘密があるってだけで、どこか特別でそれだけで十分だった気がする。
「楽しみが増えたね。」
サキは無垢な笑顔を浮かべる。
複雑な気持ちながら、僕も思いっきり笑った。
そして、山道を降りていく。二人の秘密を置いて、綺麗な絶景に別れを告げて・・・。
遠くなっていく二人の思い出が夕日に照らされていた。

夜が来る前に、僕らは旅館に辿りついた。
頂上から一時間ほど離れた場所にその旅館はあった。
気品漂う入り口を通って、僕は受付を済ませ、足を進める。
「すごい、かっこいい。」
その雰囲気にひるむことなく、手続きをしていく僕を見て、サキは言った。でも、予約してくれたのも女将に伝えといてくれたのも、斉藤なのであんまり威張れなかった。
でも、思いっきり自分がすべてやったかのように、僕はサキの手を引きながら、部屋へと向かった。計画通りだった。サキの手を引いて、僕は歩く。
「惚れ直しちゃった。」
と言って、サキは僕を見た。
「まあね。」
と頬を掻きながら、僕は笑う。
斉藤に心の中でまた感謝した。

部屋は窓から綺麗な景色が見える立派な和室だった。サキはキラキラした目で、その景色を見つめていた。
僕はサキに近付き、そして後ろからギュッと彼女を抱きしめた。

どこにも行かないでくれ、サキ・・・。

必死に笑って、心で泣いた。
涙を堪えるために、彼女をぎゅっと抱きしめる。
もう、何十年も寄り添って生きてきた妻を抱く、夫のような気持ちだった。

サキ・・・。

時間が止まったのを感じましたか?

僕らのために、世界が少しだけ回るのを止めたことに気付きましたか?

世界は僕らを祝福してくれてる、そう信じている。
遠くまで来たね。
不条理で残酷な現実から離れ、二人だけの特別な時間の中に潜り込んだね。

傍にいれることが、奇跡のように感じる。
ずっと、こんな時間が続けばいいのに。
何度思ったことだろう。
サキは今、どんな気持ちなんだろう。
僕と同じ気持ちでいてくれているだろうか。
どれくらい、君の気持ちに近づけただろうか。僕はどれくらい理解してやれるだろうか。

「もしも、私がいなくなったらどうする?」
ぼそっとサキが呟いた。ドキッとした。心を見透かされているかのようだった。その不安は、ずっと僕の胸の中にあった筈だから。
「探しに行くよ。」
心から、僕は叫ぶ。
「すぐに、探しに行く。」
僕のその言葉に、サキはぱっと笑顔になる。抱きしめた僕の腕を掴んで、サキは振り返った。僕の両腕をぎゅっと握って、サキは僕を見上げる。
目が潤んでいた。今日はあまりにも特別だったから、感情をうまく整理できてなかった。
ようやく、僕は肩の荷を降ろしてサキを見つめる。
もしかしたら、僕の目も潤んでいたかも知れない。
感情が高鳴って、僕らは無意識に泣いていた。嬉しくて、切なくて、僕は泣いた。
始めてサキは自分から僕に唇を寄せた。言葉のない会話は、そして繋がる。
僕が祝える、サキの最初で最後の誕生日が終わる。夜の空に星が散って、ファンタジックな世界が生まれる。サキと二人で見る星は、いつもより輝いていた。
不思議だった。
何もかもが新鮮な二人の時間は、熟年夫婦のように濃厚で、それでいて初恋のようにドキドキした。
一緒に空を見上げて、そして思う。
奇跡はきっと、いつまでも続く。サキは僕の隣にいて、僕はサキを抱きしめている。ずっと、永遠に・・・。


・・・探しに行くよ。

いつかの言葉が僕の頭の中で響いた。はっきりとしてて、力強い言葉。
僕の足は腐ってしまったのだろうか。
何をやってるんだ、自分は。
今すぐ、サキを探しに行くべきだろう。それが、サキとの約束だから。

振り返ってみたら、何もかもが幸せだった。
サキとの時間、埋まっていくピース、目の前の景色。全部、好きだった。
僕は間違ってなんかいなかった。サキと一緒にいれて、僕は本当に幸せだったから。
「もしも、私がいなくなったらどうする?」
未だにサキは、僕に尋ねる。遠くから、僕を呼んでる。

愛している、も今なら嘘っぽく聞こえてしまうかも知れないね。サキ・・・。
あの日、僕が泣いたのは、こんな日がやってくるって分かってたからなんだよ。
何もかも受け入れて、そしてすべてを信じようと決心したけど。僕はまだ大人になりきれない馬鹿な子供だから・・・。うまくいかないことを、受け止められない子供だから。だから、息ができなくなるくらい悲しくなってしまう。
あの日の言葉は、嘘じゃなかった。あの時、サキが消えたら、すぐに僕はサキを探しに走ってただろう。
でも、時間は残酷で、僕の気持ちを変えてしまった。僕の足は完全に止まってしまって、君を追いかけることができなくなってしまった。
おかしいくらい、僕の頭は何も考えられなくなっていたし、体は金縛りにあったみたいに動かなかった。
言い訳ばかりを繰り返す僕は、情けない小さな男だ。サキに嫌われても仕方がない。
僕の隣はぽっかり空いた。ついに来てしまった。覚悟はしていた。でも、やっぱり無理だった。
強くはなれない。正義のヒーローにもなれない。残るのは後悔と、楽しかった思い出だけ。
ただ、それだけだった。

あれから、一年の月日が流れていた。
騒がしい教室の中で、ぽっかりと空いた空席をぼんやり眺めていた。
サキが急に学校に来なくなって、一週間が過ぎようとしていた。
昼休みが終わって、僕は教官室に行った。でも、教師に何を聞いても、生徒のどんな噂を聞いても、本当の事は分かっていた。
覚悟はしていた。ただ、こんな終わりが来るなんて思ってもいなかった。
サキは自分の家から、近くの病院から、いや・・・この街から姿を消した。何も言わずに、サキは消えた。

一緒に歩いた通学路を一人で歩いていると、サキの姿をつい探してしまう。サキの後姿を追いかける日々が、もう来ない。
あんなに夢中だった日々を失って、僕はこれからどう生きていけばいいんだろう。
肩を落として歩いた。サキを最後まで追いかけられなかった自分に、僕は絶望した。サキとの約束を、こんなにも簡単に破ってしまう自分を責めた。
でも、僕には追いかけられなかった。
サキはいつも笑っていた。そんなサキと対等な笑顔を見せられない自分が情けなかった。くるりと振り返って見せる、サキの笑顔。
いつも話のきっかけはサキだった。サキが夢中になってしゃべって、僕がそれに相槌を打つ。
「ねぇ、聞いてる?」
「えっ、あぁ、聞いてるよ。」
「ホント?」
「うん、ホント。」
終着駅の見えない会話。噛み合っているようで、噛み合っていない微妙な会話。
どうでもいい話ばかりだった。
それでも最後は寂しくて、バイバイを言うのが嫌で、僕が話を切ろうとすると、慌ててサキは僕の声を遮った。
「それでね、それでね。」
二度言う、それが時間を延長するおまじない。
結局日は暮れて、真っ暗になって・・・。

サキの言葉を思い出していた。きっとずっと魔法の言葉。
「実はね、私、透明人間になれるんだよ。」
僕も思わず口に出す、
「透明人間になれるんだよ。」

一人暮らしの部屋は、よりいっそう寂しく狭かった。
サキを探しに行きたかった。だけど、それが無駄なことだってことくらい分かっていた。それに、探す当てが全く無かった。
僕は、ネジが外れてぐらぐらになった椅子に力なく腰掛ける。きいっという怪しい音が鳴って、椅子は揺れた。
机の上は綺麗に片付いていて、隅っこに小さな紙が置いてあった。僕はゆっくりとその紙を手に取り、開いた。
「話したいことがあります。」
それはサキの字だった。僕とサキが付き合うことになった日にサキからもらった、呼び出しの手紙。
想いが巡って、同じところをぐるぐると回った。好きだといってくれたサキ、ありがとうと言って泣いたサキ、透明人間になれるんだよ、と笑って言ったサキ・・・。
紙に書かれた文字が、みるみるうちに涙で滲んでいった。
まだまだ、思い出が足りないと思っていた。僕は、単純にサキといることしかできなかったから。でも、悲しくなるには十分だった。悲しみに暮れて、涙を流すには十分すぎた。
僕は、泣いた。
まだ死んだわけじゃないだろ、と自分を叱って、涙は流さずにいたのに。だけど、止まらなかった。
不意打ちだった。
こんなに悲しくなって、息が詰まって、全部消したくなるくらい苦しいなんて、僕には耐えられなかった。

サキにもう一度会いたい。
このまま、さよならだなんて辛すぎる。
サキが僕にかけた魔法が解け始めていた。僕を惑わしたのは、あの言葉だった。
「実はね、私、透明人間になれるんだよ。」
サキはいなくなったんじゃない、どこかに行ったんじゃない。透明人間になっただけだ。ずっと、傍にいる。隣にいる。そんな幻想にすがっていた自分に気付いた。

僕は精一杯、弱々しい手で涙を拭った。
僕は心を落ち着けて、そして深呼吸した。
サキが透明人間になってしまって、本当に消え去ってしまう前に、僕は走り出す。
「探しに行くよ。」
僕は大声で言った。

「すぐに、探しに行く。」
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透明人間、11

11

誰かに話すと楽になる、そんな引っかかりが心のどこかにあったんだろう。

包帯で包み込むような優しい言葉に、僕は我が身を委ねる。サキと付き合ったきっかけ、僕の心境の変化、そしてサキがあとわずかしか生きられないこと。すべてを話した。次第に真剣になっていく斉藤の表情に、僕の心は安心しきっていた。

誕生日になにか、思い出に残ることをしてやりたい。それが僕の願いだった。最高の思い出作りを手伝って欲しいと。そんなことを頼めるのは、斉藤だけだった。
真剣に話を聞いて、そしてちょっと悲しそうな顔をした後、斉藤は力強く頷いた。精一杯の努力はしよう。彼はそういってくれた。
サキの誕生日の計画は、その日から着々と進められていった。

できうる限りの努力はした。
すべての願いと祈りを込めて、サキとバスに乗り込む。
仕事を休んでまで、斉藤はバスを手配してくれた。運転手はもちろん斉藤本人だ。願いを込めた貸し切りバスは、発進した。
サキの楽しそうな笑顔がいっそう際立つように、そして何よりも素敵な旅になりますように、と。不器用でどうしようもない僕だけど、サキを喜ばせるために全力を尽くして愛せますようにと、両手に力を込めた。

流れる景色を見ながら、僕とサキの旅は始まった。
昔に行った旅の話とか、あまり関係のない話まで、いつもにも増して夢中でサキはしゃべっていた。僕も時間を忘れるくらい話し込んで、時々斉藤が話に加わった。広いバスの中で三人だけの空間は、修学旅行のバスの中みたいに盛り上がっていた。何気ないことで、サキは満面の笑みを浮かべた。
ほんの少しの幸せで、僕らは十分なのかも知れない。サキが傍にいるというたったそれだけの明日が来るだけで、僕はどうしようもなく幸せなのだから。
ただ、サキには最上級の幸せを与えてあげたい。一生離れたくなくなるくらいの愛を生むために、僕は彼女の手を握る。想いを伝えて二人が通じ合うように・・・バスに揺られながら。

晴れ渡った空の下の、広大な台地が目に飛び込んできた。わぁ~、とサキは声を上げる。それにつられて僕も「すげ~。」と思わず声を出す。
ふふ、と斉藤はハンドルを握り締めて笑う。
街を外れて、随分遠くまでやって来た。雲に隠れた太陽が姿を現して、バスの窓の外はいっそう明るく光り輝いた。
「すごいよ、リョウスケ。ほら、ほら。」
きゃっきゃとはしゃいで、サキは窓の外を指差した。山道の端に、大きなキジが羽を休めて歩いていた。迫力のある巨大な体が、自然のパノラマに溶け込んでいた。
「野生のキジなんて、始めてみたな。」
と思わず僕も漏らす。

どこら辺まで来たのだろう、とふと思った。サキは自然を見たことのない大都会のお嬢様みたいに、夢中で窓の外を眺めていた。無邪気な少女みたいだった。
僕の緊張もすっかり解け、サキの笑顔に癒されながら素直に旅を楽しんでいた。しだいになぞられて行く、初めての旅の思い出のルートが、形になっていった。
サキの笑顔は耐えなかった。もう、感情に押し潰されるくらい笑い、時々流れる風景にうっとりした。
「それでね、それでね。」
風景から目を離すと、僕に思いつきの話をしゃべった。どんな話も、僕は夢中で聞いた。多少大袈裟に驚いたり、意地悪に微笑んだりしながら。ずっと、ずっと話していた。
斉藤は、終始笑顔でハンドルを切った。

曲がりくねった事ばかりで、素直になれない時もあったけど、今が幸せだよ。
言葉にならない言葉で綴った、確かな思い出。
今日はいくつ増やせるだろう。記録に挑戦してみても、いいよね。サキの思い出の箱をパンパンに埋め尽くして膨らましてあげるからね。
いつもなら恥ずかしくて言えなかった事も、隠してた事も、今日なら言える気がした。本当に、僕の気持ちが恋になって、恋が愛に変わったことを。今日は言うよ。僕らはただのカップルじゃない。完璧なカップルなんだよ、と。
きっかけなんてどうだっていい、今が好きだから。今を明日を生きる理由にして、明日も生きていくから。だから、明日も一緒にいようね。
空を見上げて僕は言う。
バカップルだとサキは笑った。それの何が悪いんだよ、僕はわざとツンとした顔で言う。
「何も、悪くないよ。」
サキは真剣な顔つきで僕に言う。
まだ、早いけど、サキは僕に言った。
「最高だよ。ありがとう。」
まだ、早いけど僕も泣きそうになった。でも、堪えた。サキにばれない様に、そっぽを向いて、僕は堪えた。まだ、早いけど、いっぱいいっぱいになった。

バスから降りると、絶景が姿を現した。見たこともない、広大な滝と、綺麗な山の大パノラマがそこにはあった。一瞬、言葉を失って、僕とサキは目を見合す。
「すっごいね。」
サキが最初につぶやいて、僕ははっとして
「すごい、すごい。」
と二度繰り返した。
二人が景色に見とれてる間に、斉藤はバスを出発させた。あっという間に、バスは僕らの前から姿を消した。
「あっ、」とサキは声を上げたが,「大丈夫。」という僕の言葉に安心した表情を見せた。
これも、斉藤と話して決めたことだった。
ここからは、二人で歩きたい、と斉藤に言っておいた。ルートは何度も確認したから、大丈夫だ。

ようやく、本番がやってきた。
僕はしっかりとサキの手を握り締めて、そしてゆっくりと一歩を踏み出す。僕らの旅が始まった。夏なのに涼しい風が吹いていた。轟々と流れる滝が、僕らの言葉を掻き消しても、それでもサキの言葉はちゃんと聞き逃さないように、僕はしっかりと耳をすませた。
そのコースは、デートコースでも有名らしく、そんなに険しくない道だった。街中とは比べ物にならないほど気持ちのいい空気が、心の中を洗浄した。
「静かだね、誰もいなくなったみたい。」
微笑みながら、サキは呟いた。
「何だか、この世界に二人だけになったみたいだね。」
そう言って、くすくす笑った。自分の言葉が恥ずかしかったのか、サキは頬を赤らめながら歩いていた。
幻想の中の世界にいるみたいだった。サキの言う通り、二人だけの世界にいるみたいだった。
待ち望んだ今日と言う日を、大事に大事に踏みしめていった。サキの歩幅は、二人がゆっくりと歩いていられるのにちょうど良かった。
木々が生い茂って暗くなっている道は、二人の距離を縮め、太陽が道を明るく照らす場所は、走るサキを追いかけながら進んだ。

はしゃいで走り回るサキは、病気だということが信じられないほど元気で、光り輝いていた。
くるっと振り返って、僕を手招きする。その先には、見たことのない花だったり、綺麗な色をした鳥なんかがいた。一つ一つに僕らは素直に感動した。
時間を忘れるまで二人で歩いて、そして時々立ち止まって空を見た。ここがどこなのか、今、何時なのか。そんなすべての縛りを解き放って、自由な世界で僕らは息をした。
夢の国のアーチをくぐって、どこまで行こうか。
「サキ。」
僕はちょっと前を歩くサキを呼ぶ。
「な~に?」
サキはまた勢いよく、くるっと振り返る。僕はサキを見つめた。
立ち止まって、サキの目を見る。彼女の目は淡く透き通っていた。サキにはこの場所が似合ってるね、と僕は言う。でも、都会も似合ってるよね、とも言う。何それ、とサキは笑って、でもリョウスケは都会より田舎の方が似合ってるね、ともう一度笑った。

どこまで登っただろうか、頂上に到着した。絶景というのに相応しい、町全体を見渡せる展望台がそこにはあった。
遠くを見つめて、そしてサキの笑顔を見る。きてよかった、と安堵感に包まれる。
斉藤に頼んでよかったな、と改めて感謝する。
この場所を教えてくれたのは、斉藤だった。斉藤が奥さんと付き合っていた頃に訪れた場所だったらしい。世界のどこよりも美しい場所だ、と彼は言っていた。それもそうかも知れない。こんなに綺麗な風景は見たこと無い。もしかしたら、世界一かも知れない。
「すごい。」
「うん、すごいね。」
そんな言葉しか出てこなかった。
今、自分が生きている世界はこんなにも美しい場所なのだ、と感動した。きっと彼女もそう思っているに違いない。いつもにも増して、サキの目は輝いていたから。静かに、僕らは景色を眺めた。今まではしゃいでいた分、静けさが何だか厳かな雰囲気を漂わせていた。
少し早いけど、僕はサキにキスをした。少し早いけど、サキは僕に感謝の気持ちを述べる。もう、このまま世界が終わってしまってもいい、ってほどに僕は彼女を抱きしめた。
「もう一度、ちゃんと言うよ。」
と僕はサキに言った。
「告白の返事、ちゃんと言うね。」
と、言って深呼吸する。サキは一歩僕から離れて、そして手を後ろに組んで僕の目を見た。
「僕も山城さんのことが好きです。」
初々しい口調で、緊張交じりに言う。
「だから、こちらこそ僕と付き合ってくれませんか?」
はっきりとサキへと投げかける。
「はい、喜んで。」
顔を真っ赤にして、サキは言う。あの時よりも、赤い顔で。
「サキ。好きになってくれて、ありがとう。」
涙は、流さない。サキとはこれから先もずっと一緒に生きていくのだから。
悲しくなんて、なかったんだ。
「これからも、よろしく。」
僕は一歩前に出る。
胸が詰まって、想いが溢れてた。
サキの手を取って、僕は指輪を彼女の指にはめた。ちょっとした手品に驚く観客みたいに、サキはきょとんとした顔をした。
「これで、サキは僕のものだ。」
僕は笑う。サキは目を見開いて、そしてつられて笑う。
「この指輪で呪いをかけた。もう、離さない。」
僕は悪魔のような台詞を天使に送る。
こんな小さな証が、サキと僕を繋いでいる。
「ありがとう。」
声にならない声がサキから溢れる。今日は、特別だから。僕はいつもよりも気取っていて、ちょっと背伸びした思いでサキに言葉を告げた。何千本の花束もいい、何万回の愛してるでもいい。でも、それよりも純粋な、そして単純な気持ちをサキに伝える。

僕は不安になって、サキの前を歩けない。振り向いて、サキがいなくなっていたら悲しいから。
サキを追いかけてばかりで、リードできない僕だけど、今日は僕が君の手を引く。手を繋いでいたら安心だ。今日は一歩前を、僕が歩くよ。
サキに会えて、どうしようもないほど、僕は幸せだった。

カバンの中から、小さな箱を取り出す。ポケットに忍ばせていた指輪とは別の小さな箱。その中には一輪の花が入っていた。
花束を彼女に贈るのは嫌だった。きっと花は枯れてしまうから。何十本の花たちが、枯れてしまったら悲しいから。
だから、一輪の小さな花をサキに贈った。
一輪のひまわりの花。ひまわりのように元気で前向きなサキへ。サキへ・・・あなただけを見つめている。

ずっと。

もうすぐ日が暮れようとしていた。夕日が僕らを染める。綺麗だった。
サキは泣いていた。笑いながら、涙を流していた。僕はずっと涙を堪えて、そして真っ直ぐに彼女を見て言った。

「誕生日、おめでとう。」
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透明人間、10

10

サキは何も知らない。
無邪気に笑って、怒って、泣いて。

素直に笑顔を作れない自分を僕は責め続けた。

いつもは大人しかったサキは、夏の日のひまわりのような元気な笑顔を僕に見せた。付き合ってなかった頃には、見せたことの無かった笑顔がそこにはあった。

いつまで経っても僕は、自分にはサキの隣にいることが不似合いだという気持ちを抱いていた。サキはいつも僕に歩み寄ってくれているのに、それに素直に応えられない自分がもどかしかった。
痛いほどの罪悪感と埋まらない二人のピースは、未完成の僕の愛の輪郭を描く。
学校帰り、休みの日、ずっと二人でいたから、どれだけサキが僕のことを好きでいてくれているのかが痛いほど伝わってきた。
手を繋いで距離を縮めても、あとわずかの隙間は埋まらない。何故厚いフィルター越しに、彼女を見てしまうのだろう。サキはこんなにも傍で、何の隔たりもない視線を送ってくれているのに。

相変わらずの生活を、僕らは繰り返していた。
サキは最近読んだ漫画の話や、おもしろかったテレビの話をいつも嬉しそうな顔でしていた。僕はこれからの将来の話や、くだらない男友達の話を繰り返した。
夢中で僕に話しかけてくるサキの顔は幸せで満ち溢れていた。その顔を見て、僕も幸せな気分になる。サキはさらりと魔法をかけて、僕の気持ちを晴れに変える。

付き合いだして一ヶ月が過ぎようとしていた頃、変わらず純粋な笑顔を見せてくれる彼女に、僕は癒され続けていた。
サキを見つけるたび、幸せな気分になる。サキの不思議なパワーに、僕は救われていた。
サキが自分の家に帰って、部屋に独りになった時、僕は何度もサキに感謝した。サキがいなければ、見えなかった世界が溢れている。好きにならない理由がないじゃないか。僕はしだいにフィルターを外して、純粋な目で彼女を見るようになっていた。それは自らの手でじゃなく、サキが密かに外してくれていたに違いない。
僕はその日も、夜、心の中でサキに感謝の言葉を述べた。
ありがとう。
単純な言葉を純粋な気持ちで。

サキがよく熱で学校を休むようになったのは、付き合いだしてからちょうど二ヶ月が経つ頃だった。
そんな日は、いつも二人で食べる昼食を一人寂しく教室の隅で食べた。
いつの間にだろうか。僕は本当にサキを好きになっていた。サキがいないと、僕は孤独を感じるようになっていた。一人には慣れていると思っていた自分が、少しずつ変わっていった。どんなときでも、傍にいて欲しい。傍にいないと不安になってしまう。サキは僕の原動力のようなものだった。彼女のおかげで僕は生かされて、彼女のために僕は生きていた。
一度好きになってしまったら、もう止められない。
これで良かったんだ、と僕の不安を振り払う。
加速度は急速にゲージを上げ、誰にも止められない。

サキの傍にいたかったのに、彼女が家にいるときは僕は会うことができなかった。
サキの病状を心配する時だけ、彼女があと半年とちょっとの命であることを思い出す。その日だけは、深い闇に突き落とされたような気持ちに襲われる。頭を抱えて、僕は眠った。
情けないけど、そんな気持ちから僕を救ってくれるのはサキ本人だった。
熱が下がって、学校に登校するときサキは誰よりも元気な笑顔で、僕に話しかけてくる。余計な迷いや不安を打破する、サキの笑顔。僕にはそれが必要不可欠だった。

サキからの愛を受け止めてばかりの毎日。それは、遊園地に行っても、食事に連れて行っても、一向に対等な恩返しにならないほど大きすぎるものだった。
それでも、サキは文句一つ言わず、好きだと言ってくれた。どれだけ素敵な言葉でそれに応じても、彼女の好きには勝てそうになかった。
僕は自分の気持ちが本物になったことを、サキを好きでしょうがないことをどんなカタチで伝えていいのか分からなかった。
自分の不甲斐なさならいつも感じている。それでも、僕の前の道を照らし続けてくれるサキの存在に、ずっとすがって生きていた。

夢中で二人で走った時間は、苦しいほど早く過ぎていく。今まで行ったことのない場所、やったことの無い事、いろんなことをサキに経験してもらいたかった。僕は、必死で探した。
普通に学校で過ごす毎日は、それはそれで楽しかったけど、僕はサキのめいいっぱいの笑顔が見たくて、ちょっとだけ背伸びした。

夏休み真っ最中の8月。
その月には、サキの誕生日が待ち受けていた。
密かに僕は計画を練った。中学時代に貯めた貯金を引き出して、自分ができうる最大級のデートコースをシミュレーションした。

夏の太陽がギラギラと街を照らし、肌を刺激する8月の中旬。僕はサキの手を握って、家を出た。少しだけ大きな荷物を背負って。最大級の期待も背負って。ワクワクした気持ちが顔に出て、ちょっとだけ顔がにやけた。サキは繋いだ手を思いっきり振って、きっきゃと分かり易くはしゃぎながら、鼻歌交じりで歩いていた。
「どこに連れてってくれるの?」
には
「ナイショ。」
「何をするの?」
には
「ヒミツ。」
と答える。
サキはふふふ、と笑いながら抑えきれない気持ちを表情で表した。
小学生の遠足みたいにワクワクして、長年連れ添った夫婦みたいに濃密な、そんな旅行だった。

しばらく歩くと、バスが見えてきた。
バスに向かって大きく手を振ると、運転席に座っていた男がバスから降りてきた。見覚えのある顔だ。その慣れ親しんだような笑顔で駆け寄ってくる様子を見て、サキも男が僕の知り合いであることに勘付いたようだった。
「久しぶりだね。亮輔君。」
陽気な笑顔で彼は言った。
相変わらず、ハイテンションだった。

男は、僕が昔働いていたバイト先の先輩だった。
僕はホテルの清掃員のバイトをしていた。朝早く、学校に行く前にホテルに出向いて清掃をし、学校帰りに最終の清掃をして家に帰っていた。
思っていたよりもハードな仕事で、短時間で何箇所もの清掃をしなければならなかった。
そのホテルは県内でも有名な高級ホテルで、従業員に対しての教育はかなり厳しかった。バイトに対してもそれは同じで、こと細かく仕事について文句を言われる。ちょっとでも手を抜くと、厳しく注意された。

早朝、眠気眼のまま掃除していると、決まって同じ時間に送迎バスがやって来た。朝から出かける客を送っていくためだ。僕の朝の担当は、駐車場の清掃だったから、早朝の静かな駐車場をひたすら掃除していた。
よっしゃ~、と僕が掃除しているといつも聞こえてくる声。そこにはいつもバスから降りて、体を伸ばしている運転手の姿があった。
毎日、そんな男の姿を見かけた。
初めは必死で掃除していたから、あんまり気にならなかったが、ある日男が声を掛けてきた。
「朝から頑張ってるな。」
そう言って、男は缶コーヒーを僕に手渡してきた。ちょうど、掃除が終わって帰ろうとする時間だった。僕は多少遠慮しながらも、男から缶ジュースを受け取った。寒くてかじかんだ手が、缶コーヒーの熱で温まった。
その日から、男はバイト中に頻繁に声を掛けてくるようになった。早朝からバスの中で待機しているのが、相当暇らしい。
男は斉藤という名前だった。それはネームプレートから知ったことだった。学校の登校前にバイトをしていることに対して、斉藤は何度も感心した表情を見せた。
「若いのによく頑張っているね~。」
と、分かりやすい台詞を吐いた。

ずっと、バイトを続けていくにつれて、斉藤ともどんどん仲良くなっていった。僕がバイト代を稼いでいる理由。将来大学に行きたいこと。いろんな話をする度に、斉藤は僕のことを立派だ、しっかりしてる、と繰り返し言った。
あまりにも感心したらしく、何度か夜ご飯をおごってもらったりもした。
そんなこんなで、同年代のバイト仲間もできない清掃員のバイトで、唯一できた知り合いが斉藤だった。

斉藤の話もいろいろ聞いた。いつも、陽気で楽しげな斉藤だったが、彼の話は重いものだった。
斉藤は容姿はまだ若そうに見え、本人が言うまでは35歳だとは思えなかった。
斉藤は一度、結婚していた。
というのも、彼は事故で妻を亡くしていた。
僕の両親が事故で死んだことを話した時、彼は静かに話し出した。
買い物から帰る途中、トラックに轢かれて死んだ。無力感と恨み。妻を失ってどれだけ辛かったか。僕はすべてが分かるはずもないけど、少しだけなら分かる気がした。
両親の事故は僕が生まれる前だったから、自分とは状況は違う。だけど、その悔しさ苛立ちそれには通じるものがあるように思えた。

だけど、斉藤は陽気にポジティブに生きていた。
斉藤は僕に勇気を与えてくれた。彼の生き方は、見習うべきものだった。
朝、斉藤と話す時間は、どこかホッとできる安らげるものだった。思えば、忙しい毎日で僕が頑張れたのは、斉藤のおかげかも知れない。
斉藤は、子供好きらしい。だけど、子供ができる前に彼の妻は死んでしまった。
もどかしかった。

年下の面倒を見るのが好きだという斉藤は、僕のことをずっと応援してくれていた。受験期には、いろいろと差し入れをしてくれたり、気分転換に食事に連れて行ってくれたりした。
「息子ができたみたいだ。」
と、彼はよく僕に言った。
嬉しそうな笑顔で、彼は僕につぶやく。
「頑張れ。」
その声は、どこまでも前向きに僕の背中を押してくれた。
だからこそ、僕が高校に受かった時、斉藤は誰よりも喜んでくれたし、お祝いだと言って、食事へ連れて行ってくれた。
優しく息子を見る、父親の顔がそこにあった。
バイトを辞めてからも斉藤とはよく会っていたが、高校に入ってからはあまり会わなくなった。

巡り合いというものは不思議なものだ。どんな出会いの中にも、素敵な奇跡は溢れているのかも知れない。
同じ痛みを共有したり、絶対会うはずもなかった人と分かり合ったり、人生何があるか分からないな、とちょっと思った。だから、まだ人生は捨てたものなじゃない。
地の果てまで落ち込んでいた僕に、勇気を与えてくれた斉藤という男。僕にとって、どれだけ感謝してもしきれない人だった。

斉藤に再会したのは、サキと付き合ってすぐの頃だった。
サキとのデートの帰り道、サキを家まで送って、帰っている途中斉藤と会った。
「さっきの、彼女?」
にやにやしながら、彼は言った。サキに手を振っているところを見られたらしい。
全く変わっていない笑顔がそこにあった。実家の親と再会した感じだった。
斉藤のテンションについて行く様に、その日は彼の家にお邪魔して、いろんな話をした。美鈴のことも、斉藤にだけ話した。斉藤は微笑ましそうな顔で、話を聞いてくれた。

昔のことを思い出していた。必死にバイトをしてた、そして斉藤に助けられていた日々を。
僕は彼なら聞いてくれるだろうと、願いを込めた。
僕はぐっと身を乗り出す。

「一つだけ、無理な頼みごとを聞いてもらってもいいですか?」
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透明人間、09

09

ぴたっと時間が止まったかのようだった。

僕はただただ唖然としていた。その言葉があまりにも僕の想像からかけ離れていたからだ。というか、初めは彼女が何を言っているのか分からなかった。黙って、頭の中でその言葉を繰り返す。
「沙希と、付き合ってやってくれ・・・?」
確かに彼女はそう言った。不可解だった。
「えっ・・・?」
思わず声が漏れた。僕は目を見開く。
「どういう事ですか・・・?」
僕は改めて聞き返す。
「沙希はあなたのことが好きみたいなんです。中学校の頃からずっと・・・。だから、どうか沙希と付き合ってやってきれませんか・・・?」
淡々と、頼み込むように彼女は話した。

中学の頃、サキと塾は同じだったが、そんなに話したことはなかった。サキも僕も同じレベルのコースのクラスにいた。僕は勉強に集中していたから、サキに恋愛感情を抱いたことは一度もなかった。

中学の頃からずっと好きだった、という言葉が意外でならなかった。驚きを隠しきれない顔で、僕は彼女を見た。
「でも・・・、それは・・・。」
明らかに動揺した様子で、僕は返答に困った。

「沙希は、あと一年しか生きられないんです。」

必死な口調で、彼女はそう言った。
僕は、開こうとしていた口を閉じた。何も言い返せなかった。
サキが病弱で、よく病院に通っていることは知っていた。サキはよく学校を休んでいたから。でも、あと一年しか生きられないという重みは安易に想像できるものでなかった。
返す言葉が見つからなかった。
「私が言っていることがおかしなことだってことも、無理な願いだってことも分かっているんです。でも、沙希には幸せな人生を送って欲しいんです。これが、私にできる精一杯のことなんです。」
とにかく、彼女は必死だった。
そうかも知れないな、とちょっとだけ思った。気持ちを理解しただなんて言うと嘘になるけれど、自分の娘が死んでいく前の、最後の恋愛が失恋だなんて、それは心残りかも知れない。余計なお世話だとしても、娘を想う母親の気持ちは痛いほど伝わった。
ふと僕は思った。こんな気持ちにさせたくない、と。それは美鈴と別れて、苦しい気持ちに苛まれた僕自身のことだった。こんな気持ちのまま死んでいくなんて・・・。

僕に彼女の幸せを奪えるハズがない。中学の時から想ってくれていただけで、十分だ。僕は幸せ者だな、と思った。僕にはサキと一緒にいる資格はないかも知れないけど、サキを悲しませるなんて、できるはずがない。
僕はサキの母親の気持ちに応えたくて、サキの気持ちに応えたくて、力強く頷いた。
「僕でよければ・・・。」
と。
僕が抱えている悩みが、凄く小さなことに思えた。

サキの母親が僕の家から去った後、僕は急に不安になった。こんな人間に、その重みを支えることができるだろうか。自分の価値観さえも分からない、こんな自分に。
美鈴と別れて、一ヶ月が経っていた。僕はようやく立ち直り、普通に学校生活を送れるようになったところだった。
サキの気持ちを知ってから、クラスで彼女を見る目が一気に変わった。ふとした仕草や視線に戸惑ってしまう。目が合うと、あからさまに僕は慌てた。
サキは女の子だけで固まっていて、滅多に僕に話しかけてくることはなかった。
わざわざ家にまで言いに来るくらいだから、サキの気持ちは確信的なんだろうな、と思った。僕は、どう切り出すべきかを迷った。やはり、僕から告白すべきなのだろうか。でも、好きという気持ちもないまま、告白なんてしていいのだろうか。僕は悩んだ。サキの気持ちに一番いい形で応えるにはどうすればいいのか。授業中も、休み時間中も、ずっと考えていた。時折サキと目が合いながら、もどかしい視線の投げあいをしながら。
時計の針が、いつもより早く進んだ。
「あと一年しか生きられない。」
その言葉が僕を焦らせていた。
刻々と過ぎる日々の中で、何も進展のない僕らの関係に不安は募った。僕なんかと付き合うよりも、このままがサキにとっていいんじゃないか、とも思った。両想いの振りをして、微妙な付き合いをするよりも。

サキは大人しいから、きっと告白もしてこないだろうなと思い込んでいた。だが、しばらくして事態は急変した。不意打ちだった。
「話したいことがあります。」
達筆な字で書かれた手紙は、サキの名前とどこへ来て欲しいかが書かれていた。
僕は靴箱から、その手紙を取り出した。
全く予期せぬことだった。一気に鼓動が早くなっていく。落ち着こうとしても、無理だった。頭の中を様々な思いが駆け巡った。
サキの気持ちを痛いほどに感じながら。僕は複雑にこんがらがった気持ちを抱えたまま、サキから指定された場所に向かった。
「頑張れ、サキ。」
小さな声で、サキの友達の智子が拳を握る。遠くにいたけど、彼女の声は聞こえていた。距離を置いて僕に背を向けていたサキは、ゆっくり振り返った。そして、僕と目が合う。こんなにもしっかりサキと向かい合ったことはなかった。
僕は緊張で足がすくんだ。告白を決心したサキの顔は、いつもより綺麗だった。すらっとしたサキの足が、ゆっくりと前進する。いつもの大人しいサキとは違っていた。映画のスクリーンの女優のような風格が漂っていた。僕には不似合いじゃないのか、とちょっとだけ怯える。
「何の話・・・?」
しらじらしく、僕はサキに尋ねる。サキが話を切り出すための合図のようなものだ。僕はサキの瞳の奥の感情を眺めて、そして息を呑んだ。
何だか、小さな声でざわざわ言っているな、と思って見ると、どこで嗅ぎ付けたのか知らないが、物陰に隠れて野次馬たちが覗き込んでいた。僕は視線をサキに戻す。
しばしの沈黙。僕はもう一度、落ち着きを取り戻すために息を吸い込む。
「リョウスケ君は・・・。」
ちょっと目線を下にずらしながら、頬を真っ赤に染めてサキは喋り始めた。ちょっとだけ声が震えていた。
「同じ塾だったよね。中学生の頃。」
強張った表情を解いて、少し微笑んで僕を見た。僕は静かに頷く。
「私は・・・、最後まで何も言えなかったけど、、、」
途切れ途切れの言葉は続く。言葉を選びながら、口に出しているようだった。
「ずっと、好きだったんだよ、リョウスケ君のこと。」
急に早口になって、恥ずかしそうに俯きながらサキは言う。好き、という言葉が胸に響く。
「リョウスケ君がここの高校を狙ってるって知って、一緒な高校に入るために勉強して。それでね。」
少し間を空けて息を吸い込む。
「それで・・・。一緒な高校に入れて、入れたけどでも、一緒なクラスになれなくて・・・。それで・・・。それで、なかなか声、掛けられなくて。でも、ずっと好きで。」
顔を赤らめて、サキは早口でちょっと焦ったように話した。
「で、二年になって、一緒なクラスになれて、すっごく嬉しくて、嬉しくって。うん、凄い嬉しかったんだよ、ね。」
僕はずっとサキの目を見つめていた。どんどん胸が一杯になっていく。どこまでも透明で美しい気持ちがそこにはあった。
「・・・ね。」
一旦落ち着こうとしたのか、僕の目をしっかり見てサキは言う。
「何だか・・・、何だろ。私・・・、ちゃんとしゃべれてる?」
口に手を当てて、苦笑いを浮かべながらサキは僕に尋ねた。僕は反射的に強く頷く。
「それで・・・、それで。えっ、と。」
一度、彼女は大きく深呼吸した。離れた場所で、応援団たちが拳を握っている。僕も思わず身構えた。
「もしよければ、付き合ってください。」
しっかりした声で言って、サキは頭をぺこっと下げた。

時間が止まって、風の音も校外を走る車の音もぴたっと消えた。
早く応えなければ、と思えば思うほど声は出なかった。ぴりりと張り詰めた空気は僕を追い詰め、それでも純粋な心で応えようと僕は言葉を探した。目の前で頭を下げるサキの姿が、切なくて、それでもって少し格好良かった。
サキの気持ちが嬉しかった。でも、何か大きな抵抗力に僕は押さえ込まれていた。それに対抗して、僕は口を開く。きっと、大丈夫。大丈夫だよね、とサキに心で尋ねる。赤い糸を辿ろうとする。彼女から伸びる赤い糸を、自分の指に括り付けた。
「こんな、僕でよければ。」
震える声で、僕は言った。彼女にはどんな声となって聞こえたのか。僕はサキとの距離を縮めて、そして彼女の手を握った。
きっと、大丈夫だ。
しっかりと握って、離れないように。僕の決意と、そして彼女の思いが、きっと繋がっていますように。そう願いを込めて、僕はサキの目を見る。
「ありがと。」
サキはか細い声でそう言った。
僕は安堵感とともに、少しの罪悪感を感じていた。好きという確かな気持ちがないまま、僕はサキを愛せるだろうか。
でも、距離を縮めて、これから・・・完璧なカップルになってけばいい。そう自分に言い聞かす。どうか、彼女を悲しませないように。どうか、幸せになってくれますように。僕は祈った。
そんな光景を見て、応援団たちと野次馬たちは一気に駆け寄ってきた。
「おめでと~。」
という声が飛び交った。サキはその勢いに押されながら、それでも純粋に笑った。美しい笑顔だった。
僕は、きっと何人かのサキを好きな男たちに恨まれているだろうな、と頭を掻いた。クラスメイトの男の目は、いくつか祝福のものでないものが含まれていた。そんな視線を交わしながら、僕は野次馬に飲まれた。めでたいな~、と頭を叩いてくる奴らや、このやろ~、と背中を押してくる奴らなんかでごった返した。

チャイムが鳴って、騒ぎは幕を閉じた。男友達に冷やかされながら、僕は教室に向かった。
ふと視線を感じて、僕は遠くを眺めた。そこには一人の女生徒の背中があった。ゆっくりと遠ざかっていく。
美鈴・・・。
それは確かに美鈴の背中だった。ドキッとした。もう、ふっきれたハズだった。
どんな気持ちで美鈴は今さっきの光景を見ていたんだろう。考えてたら頭が痛くなって、頭を振って気持ちを振り払った。今は、そんなことを考えている時じゃないだろ。自分を叱った。
心は無理に入れ替わって、上書きするように過去の悲しみを消去した。今、僕は愛されているんだ。それだけで、十分だろう。それ以上、何を求めるって言うんだ。
僕は精一杯、サキを愛したかった。でも、その先にある悲しみが怖かった。サキがいなくなって、怖ろしく何もなくなった自分を想像した。いや、想像もできない絶望がそこにはあった。どうしても無理だった。

サキを愛することはできない。

それは自分だけのためで、サキの気持ちを考えていない酷いものだったが、僕はズルイ人間だった。
サキを深く愛さないように、サキを幸せにできるなんて、そんな甘い気持ちにすがった。
サキの笑顔が消えないように、そっと包み込んで。でも、僕自身は傷つきたくない。
そう考えてまた頭を振る。それは、サキの気持ちを裏切ることになる。

愛するか、愛さないか、その狭間で心は揺れた。
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