15
僕を見つめる斉藤の姿は、本当の父親のように見えた。
無言の会話で慰めてくれるような、優しさがそこにはあった。何も言わなくても良かった。一人だと、逃げ出したくなっていただろう。傍に彼がいてくれたことで、どれだけ僕は救われただろう。
帰りのバスの中で、僕は考えた。サキの存在が消えて、不安になっていく自分に負けないために、これからどうやって生きていくか。サキの言葉は、僕を幾度も励ました。でも、どうしてもサキを忘れることは出来なかった。
「年を重ねていくと気付くんだよ。特に俺ぐらいの年になるとさ。」
帰り道、斉藤は僕につぶやいた。
「いろんなものを背負って、どんどん重くなっていく、自分の命に。」
独り言のように、斉藤は続けた。
「自分のためだけに生きてきたはずなのに、いつの間にか、誰かのために生きていたりして、そんな重みが積み重なって、軽々しく生きていけなくなるんだよ。」
山道を下りながら、斉藤はしみじみと言う。
「大事な人を失ったとき、俺も思ったよ。俺も死んで、アイツのところに行くって。でも、落ち着いてよく考えた時、俺は気付いた。俺はアイツの分の命も背負っているんだと。二人分の命、いや、これから先、増えていくかも知れない・・・何人もの命を背負って、俺は生きている。そう思うと、簡単に死ねなかった。」
赤信号でバスが止まった。斉藤は僕の方に顔を向けた。
「苦しいと思うか?背負った物を投げ捨てて、楽になりたいと。」
僕は赤い目を下に向けて、黙っていた。
「だが、俺は生きなくてはならない。もし、今死んだら、自分の中のアイツを殺してしまうことになるから。背負ったものたちを裏切ってしまうことになるから。だから、俺は生きることにした。」
恐いくらい、斉藤の言っていることの意味が分かった。心に響いて、胸が苦しかった。
「でも、案外、苦しくないもんだよ。アイツのために生きてるって思えば、毎日が有意義なものに変わったから。」
景色がぼやけて、僕の目に映る。斉藤の顔もぼやけていた。
「お前は、早くも背負ってしまったようだね。」
『私のためにも、幸せになってください。』
サキの言葉がふと蘇る。
「お前はすべてを失ったと思っているかも知れないが、それは違う。お前は生きる意味をまた一つ与えられたんだよ。」
僕は顔を上げた。心の中の道は完全に途絶えてしまっていた。だから、前へ進めなかった。でも、サキの命を背負って、たとえ道がなくても、進んでいかなくてはならない。そう思った。斉藤の言葉は、過去の斉藤自身が経験した、重みのあるものだった。僕の心に深く突き刺さる。
命を授かった時、僕は一人ぼっちだった。
あの頃に戻った。
サキが死んだ時、僕はそう思ってしまった。
笑顔が見当たらない分娩台の上で、泣いてた。孤独とか、寂しいとか、そんな事さえ知らなかったあの頃に戻って、そして一人でワケもなく涙を流す。そんな生活がやってきたと思ってしまった。
だけど、あの頃の自分とは違った。出会いの中で、僕は何かを背負い、誰かと手をつないで、そして命の重さが変わっていった。サキのために生きることが、僕にできる唯一の恩返しなのだ、と気付いて僕は顔を上げた。
だから、もう、からっぽにはならない。僕は、いつだって孤独じゃない。透明で、尊い命が、僕の命と共に鼓動しているはずだから。いつまでも・・・。
涙は、きっと温かい。
涙には本音が詰まっていて、辛いことも嬉しいことも流してくれる。
そばにいるよ。今から、どんなに時が経っても、きっとそばにいる。
僕はタイムスリップする。鏡の向こう側に、あのころの僕がいた。もう、涙も枯れてしまうしまうほど泣いて、必死に生きることにしがみ付いていたころの僕が。サキという女の子の命を背負って、少しだけ大きくなった僕がいたんだ。
「死んだらいけない。」
とその鏡の向こうの僕は、ただひたすら呟いていた。死と生の間のギリギリで揺れていた僕の心は、葛藤の中で醜い叫び声を上げていた。
僕は、鏡から離れた。ぐるぐるぐるぐる・・・記憶が巡る。美鈴との別れ、サキとの出会い、そしてサキの死・・・。記憶が徐々にはっきりとしたものになっていった。どれだけサキとの思い出を思い出したても、サキはもうこの世にいないんだ。そう考えると、きっと過去にも経験したであろう悲しみが一気に襲い掛かってくる。これ以上思い出したくない、そう思っても、記憶は溢れ出すように僕の頭を支配した。
もうすぐ、すべての真実が蘇る。どんな痛みにも耐えるんだ。そう強く心に念じた。
カーテンを開けると、西日が部屋の中に入り込んでくる。
すべてが整理できたら、もう一度現実に戻ろう。学校に行って、みんなとしゃべって、またあの日々を取り戻そう。繰り返し自分に言い聞かせた。記憶を失った日から、自分が別の世界に居るような錯覚に陥っていた。みたこともない場所、知らない人たち、知らない自分。すべてが真新しく、そして不思議だった。だけど、記憶を辿っていくうちに、真新しさは懐かしさに変わり、不思議な感覚は薄れていった。
そうか、現実の世界に戻ろうとしているのか、と気付いた。
生きてしまった僕が、僕自身にかけた魔法・・・それは、自分がもう一度死のうとしないように、別の世界に僕を封じ込めるものだったのかも知れない。だが、もう時間だ。魔法が解ける時間がやってきた。
「気になることがあるんだ。」
学習机の椅子に座っていた健司に向かって、僕はポツリと呟いた。健司は不安が入り混じった笑顔を僕に向けて、小さく振り返った。
「気になること?」
手に持っていたティーカップをそっと机の上に置くと、コタツに座っていた僕を見下ろしながら健司は言った。それに、コクンと僕は頷く。
「こんなことを聞くのはおかしいんだけど・・・、最近少しずつ記憶が蘇ってきてさ、サキが死んだときのことも思い出したんだ。」
下を向きしゃべる僕を、健司は黙ってじっと見つめていた。
「僕が死のうとした理由は、本当にサキが死んだからなのかな。」
そういってすっと見上げると、健司と目が合った。健司の強い視線が、突き刺さる。
「どういうことだ?」
ティーカップを持って立ち上がりながら健司は言った。そのまま僕と向かい合うようにコタツに座る。カップに注がれた紅茶を一口飲んで、コップを置いた。
「サキが死んで、どれだけ悲しかったか。それは嫌と言うほど思い出した。でも、分かってたんだ。サキが死ぬって事。覚悟はできてたはずのなのに。」
「でも、それは・・・。」
「何か、隠してないか?」
健司の言葉に被せて、僕は言った。健司の目に驚きの光が灯る。
「俺は本当のことを知りたいんだ。どんなことでも。だから、何か僕に隠していることがあるんなら、全部言って欲しい。」
健司がごくっと唾を飲む。真剣な僕の顔を一瞥した。そして言葉を吐き出す。
「隠してること・・・?」
何かを探るように、戸惑うように、健司はぼそっと言う。
「隠してるなんて・・・。」
少しの沈黙。それを遮るように、健司が付け加える。
「知らない方がいいこともあるんだよ。死のうとしてまで、忘れようとしたことがあったんじゃないのか。」
突き放すように、彼は言い放つ。重い空気が部屋に漂った。
「それでも、知りたいんだ。」
目を開け放って、僕は健司を見た。彼の目には、まだ戸惑いの色があった。
僕は、腹を括ってしゃべり始めた。じっと、健司の表情を伺いながら。何が正しいのか分からない。ただ、正解か不正解か、その判断が欲しかった。
“それでも、知りたい”その思いが僕を突き動かす。
目を逸らして生きていくような、そんな器用な事はできない。例え、知ってしまったことで、もう一度同じ苦しみを味わうことになっても。
「思い出したんだ。僕は、中学の頃からずっと好きな人がいたってこと。でも、それはサキじゃない。サキとは塾は同じだったけど違う中学だったから。その人に、告白する勇気はなかった。僕は他のみんなと違っていたから。仕事に、勉強に必死になって、結局その人には告白どころか、声をかけることもできなかった。」
すぅ、っと息を吸う。心拍数がどんどん高くなっている。健司は俯いたまま、僕の話を聞いていた。
「僕は、その人と同じ高校に入りたくて、塾にまで入って勉強していたんだ。」
僕は遠い記憶に身を委ねるように顔を上げた。
別に、進学校に行く理由なんてなかった。生きる理由さえ、見つからなかった。いざとなったら死ねばいい。それだけが、僕の救いだった。死ぬという逃げ道はいつでも僕の隣にあって、そんな危なっかしい安心感を抱いて生活していたんだ。
コンビニでバイトして、その金でギリギリ生活していた。遊ぶこともせず、ただなんとなく生きていた。
だけど、そんな意味のない学校生活も、あの子に出会って変わった。密かに芽生えた恋心は、僕を変えた。
中沢美鈴・・・というのが彼女の名前だった。ろくに友達もいなかった僕は、自分の中にその思いを問い込めた。声もかけられない、話したいけど話せない。まともに近付くこともできなかった。
そんなある日、彼女が南山高校を目指していることを知った。僕の成績ではとうてい入ることのできない進学校。だけど、一緒な高校に行きたい。なにもなかった僕に与えられた、生きる理由。楽しいことも、嬉しいことも、何にもなかったけど、ただその目標だけが僕の生きがいとなった。
南山高校に入る。そのために、新たなバイトをして塾にも通った。朝からホテルの清掃のバイト。夜は塾。死ぬほど忙しい毎日の中で、ただ考えていたことはただ一つ。同じ高校に入りたい・・・。
その思いは叶った。高校生活の始まり。覇気のない自分に生き生きとした希望が与えられ、新しい人生のスタート地点に立った。入学式、ドキドキしながらクラス分けの掲示を見ていた。中沢美鈴・・・、願いがかなったのか、同じクラスになったのだった。
その日から、毎日が楽しかった。新しい友達もできたし、何といっても、同じクラスに憧れのあの子がいる。それだけで十分楽しかった。一日一日がこんなにも充実しているなんて、信じられなかった。彼女と目が合うたびに、胸は高鳴った。一日が始まる、そして同じ空間にあの子がいて、時間が流れる。
教室に差し込む光は、彼女の頬を照らす。その光が反射して、午後の静まり返った教室は明るく、爽やかな空気に包まれる。僕の中で生まれる世界が、頭の中で弾けた。道なき道を素足で歩く感覚。歩き心地の悪い、ふわふわした廊下に立っている錯覚。それは恋だった。僕の目に映る世界を、一気に変えてしまう魔力を持つ。それは、事件でもあり、小さな奇跡でもあった。
夢の世界と手を握ることができる権利をつかむ、この手。今まで何も掴めなかったこの両手で、不確かで曖昧な現実にふれることができたならば、僕の世界は真っ白な愛のあるものに変わるだろう。ただ、その世界の彼女はあまりにも美しすぎた。
話したい、だけどやっぱり声をかけることができなかった。そんな毎日が過ぎた。
だけど、想いは一瞬で吹き消されてしまうこともある。ある日、僕は見てしまった。高校に入学して、一ヶ月が経ったある日のことだった。
「亮輔、おはよ~。」
朝、学校に通っていると後ろから誰かに声をかけられた。声でそれが、高校に入って新しく出来た友人の健司だと分かった。
「おう、おはよう。」
そういって僕は振り返った。朝の光が眩しく目に入る。
僕の笑顔は凍った。そこには、中沢美鈴と二人仲良く寄り添う健司の姿があった。きょとんとした顔をしていると、照れながら健司は言った。
「俺ら、実は付き合ってるんだよ。クラスのみんなにはナイショなっ!」
僕はぎこちない笑顔で、そうだったんだ・・・と答えた。
ショックだった。でも、仕方ないことだ。だぶん、僕は彼女のことを何も知らない、彼女は僕のことを何も知らない。声をかけれなかった自分が悪いんだ。そういって、笑った。
僕にとっての初めての失恋は、春の終わりの小さな事件だった。
僕を見つめる斉藤の姿は、本当の父親のように見えた。
無言の会話で慰めてくれるような、優しさがそこにはあった。何も言わなくても良かった。一人だと、逃げ出したくなっていただろう。傍に彼がいてくれたことで、どれだけ僕は救われただろう。
帰りのバスの中で、僕は考えた。サキの存在が消えて、不安になっていく自分に負けないために、これからどうやって生きていくか。サキの言葉は、僕を幾度も励ました。でも、どうしてもサキを忘れることは出来なかった。
「年を重ねていくと気付くんだよ。特に俺ぐらいの年になるとさ。」
帰り道、斉藤は僕につぶやいた。
「いろんなものを背負って、どんどん重くなっていく、自分の命に。」
独り言のように、斉藤は続けた。
「自分のためだけに生きてきたはずなのに、いつの間にか、誰かのために生きていたりして、そんな重みが積み重なって、軽々しく生きていけなくなるんだよ。」
山道を下りながら、斉藤はしみじみと言う。
「大事な人を失ったとき、俺も思ったよ。俺も死んで、アイツのところに行くって。でも、落ち着いてよく考えた時、俺は気付いた。俺はアイツの分の命も背負っているんだと。二人分の命、いや、これから先、増えていくかも知れない・・・何人もの命を背負って、俺は生きている。そう思うと、簡単に死ねなかった。」
赤信号でバスが止まった。斉藤は僕の方に顔を向けた。
「苦しいと思うか?背負った物を投げ捨てて、楽になりたいと。」
僕は赤い目を下に向けて、黙っていた。
「だが、俺は生きなくてはならない。もし、今死んだら、自分の中のアイツを殺してしまうことになるから。背負ったものたちを裏切ってしまうことになるから。だから、俺は生きることにした。」
恐いくらい、斉藤の言っていることの意味が分かった。心に響いて、胸が苦しかった。
「でも、案外、苦しくないもんだよ。アイツのために生きてるって思えば、毎日が有意義なものに変わったから。」
景色がぼやけて、僕の目に映る。斉藤の顔もぼやけていた。
「お前は、早くも背負ってしまったようだね。」
『私のためにも、幸せになってください。』
サキの言葉がふと蘇る。
「お前はすべてを失ったと思っているかも知れないが、それは違う。お前は生きる意味をまた一つ与えられたんだよ。」
僕は顔を上げた。心の中の道は完全に途絶えてしまっていた。だから、前へ進めなかった。でも、サキの命を背負って、たとえ道がなくても、進んでいかなくてはならない。そう思った。斉藤の言葉は、過去の斉藤自身が経験した、重みのあるものだった。僕の心に深く突き刺さる。
命を授かった時、僕は一人ぼっちだった。
あの頃に戻った。
サキが死んだ時、僕はそう思ってしまった。
笑顔が見当たらない分娩台の上で、泣いてた。孤独とか、寂しいとか、そんな事さえ知らなかったあの頃に戻って、そして一人でワケもなく涙を流す。そんな生活がやってきたと思ってしまった。
だけど、あの頃の自分とは違った。出会いの中で、僕は何かを背負い、誰かと手をつないで、そして命の重さが変わっていった。サキのために生きることが、僕にできる唯一の恩返しなのだ、と気付いて僕は顔を上げた。
だから、もう、からっぽにはならない。僕は、いつだって孤独じゃない。透明で、尊い命が、僕の命と共に鼓動しているはずだから。いつまでも・・・。
涙は、きっと温かい。
涙には本音が詰まっていて、辛いことも嬉しいことも流してくれる。
そばにいるよ。今から、どんなに時が経っても、きっとそばにいる。
僕はタイムスリップする。鏡の向こう側に、あのころの僕がいた。もう、涙も枯れてしまうしまうほど泣いて、必死に生きることにしがみ付いていたころの僕が。サキという女の子の命を背負って、少しだけ大きくなった僕がいたんだ。
「死んだらいけない。」
とその鏡の向こうの僕は、ただひたすら呟いていた。死と生の間のギリギリで揺れていた僕の心は、葛藤の中で醜い叫び声を上げていた。
僕は、鏡から離れた。ぐるぐるぐるぐる・・・記憶が巡る。美鈴との別れ、サキとの出会い、そしてサキの死・・・。記憶が徐々にはっきりとしたものになっていった。どれだけサキとの思い出を思い出したても、サキはもうこの世にいないんだ。そう考えると、きっと過去にも経験したであろう悲しみが一気に襲い掛かってくる。これ以上思い出したくない、そう思っても、記憶は溢れ出すように僕の頭を支配した。
もうすぐ、すべての真実が蘇る。どんな痛みにも耐えるんだ。そう強く心に念じた。
カーテンを開けると、西日が部屋の中に入り込んでくる。
すべてが整理できたら、もう一度現実に戻ろう。学校に行って、みんなとしゃべって、またあの日々を取り戻そう。繰り返し自分に言い聞かせた。記憶を失った日から、自分が別の世界に居るような錯覚に陥っていた。みたこともない場所、知らない人たち、知らない自分。すべてが真新しく、そして不思議だった。だけど、記憶を辿っていくうちに、真新しさは懐かしさに変わり、不思議な感覚は薄れていった。
そうか、現実の世界に戻ろうとしているのか、と気付いた。
生きてしまった僕が、僕自身にかけた魔法・・・それは、自分がもう一度死のうとしないように、別の世界に僕を封じ込めるものだったのかも知れない。だが、もう時間だ。魔法が解ける時間がやってきた。
「気になることがあるんだ。」
学習机の椅子に座っていた健司に向かって、僕はポツリと呟いた。健司は不安が入り混じった笑顔を僕に向けて、小さく振り返った。
「気になること?」
手に持っていたティーカップをそっと机の上に置くと、コタツに座っていた僕を見下ろしながら健司は言った。それに、コクンと僕は頷く。
「こんなことを聞くのはおかしいんだけど・・・、最近少しずつ記憶が蘇ってきてさ、サキが死んだときのことも思い出したんだ。」
下を向きしゃべる僕を、健司は黙ってじっと見つめていた。
「僕が死のうとした理由は、本当にサキが死んだからなのかな。」
そういってすっと見上げると、健司と目が合った。健司の強い視線が、突き刺さる。
「どういうことだ?」
ティーカップを持って立ち上がりながら健司は言った。そのまま僕と向かい合うようにコタツに座る。カップに注がれた紅茶を一口飲んで、コップを置いた。
「サキが死んで、どれだけ悲しかったか。それは嫌と言うほど思い出した。でも、分かってたんだ。サキが死ぬって事。覚悟はできてたはずのなのに。」
「でも、それは・・・。」
「何か、隠してないか?」
健司の言葉に被せて、僕は言った。健司の目に驚きの光が灯る。
「俺は本当のことを知りたいんだ。どんなことでも。だから、何か僕に隠していることがあるんなら、全部言って欲しい。」
健司がごくっと唾を飲む。真剣な僕の顔を一瞥した。そして言葉を吐き出す。
「隠してること・・・?」
何かを探るように、戸惑うように、健司はぼそっと言う。
「隠してるなんて・・・。」
少しの沈黙。それを遮るように、健司が付け加える。
「知らない方がいいこともあるんだよ。死のうとしてまで、忘れようとしたことがあったんじゃないのか。」
突き放すように、彼は言い放つ。重い空気が部屋に漂った。
「それでも、知りたいんだ。」
目を開け放って、僕は健司を見た。彼の目には、まだ戸惑いの色があった。
僕は、腹を括ってしゃべり始めた。じっと、健司の表情を伺いながら。何が正しいのか分からない。ただ、正解か不正解か、その判断が欲しかった。
“それでも、知りたい”その思いが僕を突き動かす。
目を逸らして生きていくような、そんな器用な事はできない。例え、知ってしまったことで、もう一度同じ苦しみを味わうことになっても。
「思い出したんだ。僕は、中学の頃からずっと好きな人がいたってこと。でも、それはサキじゃない。サキとは塾は同じだったけど違う中学だったから。その人に、告白する勇気はなかった。僕は他のみんなと違っていたから。仕事に、勉強に必死になって、結局その人には告白どころか、声をかけることもできなかった。」
すぅ、っと息を吸う。心拍数がどんどん高くなっている。健司は俯いたまま、僕の話を聞いていた。
「僕は、その人と同じ高校に入りたくて、塾にまで入って勉強していたんだ。」
僕は遠い記憶に身を委ねるように顔を上げた。
別に、進学校に行く理由なんてなかった。生きる理由さえ、見つからなかった。いざとなったら死ねばいい。それだけが、僕の救いだった。死ぬという逃げ道はいつでも僕の隣にあって、そんな危なっかしい安心感を抱いて生活していたんだ。
コンビニでバイトして、その金でギリギリ生活していた。遊ぶこともせず、ただなんとなく生きていた。
だけど、そんな意味のない学校生活も、あの子に出会って変わった。密かに芽生えた恋心は、僕を変えた。
中沢美鈴・・・というのが彼女の名前だった。ろくに友達もいなかった僕は、自分の中にその思いを問い込めた。声もかけられない、話したいけど話せない。まともに近付くこともできなかった。
そんなある日、彼女が南山高校を目指していることを知った。僕の成績ではとうてい入ることのできない進学校。だけど、一緒な高校に行きたい。なにもなかった僕に与えられた、生きる理由。楽しいことも、嬉しいことも、何にもなかったけど、ただその目標だけが僕の生きがいとなった。
南山高校に入る。そのために、新たなバイトをして塾にも通った。朝からホテルの清掃のバイト。夜は塾。死ぬほど忙しい毎日の中で、ただ考えていたことはただ一つ。同じ高校に入りたい・・・。
その思いは叶った。高校生活の始まり。覇気のない自分に生き生きとした希望が与えられ、新しい人生のスタート地点に立った。入学式、ドキドキしながらクラス分けの掲示を見ていた。中沢美鈴・・・、願いがかなったのか、同じクラスになったのだった。
その日から、毎日が楽しかった。新しい友達もできたし、何といっても、同じクラスに憧れのあの子がいる。それだけで十分楽しかった。一日一日がこんなにも充実しているなんて、信じられなかった。彼女と目が合うたびに、胸は高鳴った。一日が始まる、そして同じ空間にあの子がいて、時間が流れる。
教室に差し込む光は、彼女の頬を照らす。その光が反射して、午後の静まり返った教室は明るく、爽やかな空気に包まれる。僕の中で生まれる世界が、頭の中で弾けた。道なき道を素足で歩く感覚。歩き心地の悪い、ふわふわした廊下に立っている錯覚。それは恋だった。僕の目に映る世界を、一気に変えてしまう魔力を持つ。それは、事件でもあり、小さな奇跡でもあった。
夢の世界と手を握ることができる権利をつかむ、この手。今まで何も掴めなかったこの両手で、不確かで曖昧な現実にふれることができたならば、僕の世界は真っ白な愛のあるものに変わるだろう。ただ、その世界の彼女はあまりにも美しすぎた。
話したい、だけどやっぱり声をかけることができなかった。そんな毎日が過ぎた。
だけど、想いは一瞬で吹き消されてしまうこともある。ある日、僕は見てしまった。高校に入学して、一ヶ月が経ったある日のことだった。
「亮輔、おはよ~。」
朝、学校に通っていると後ろから誰かに声をかけられた。声でそれが、高校に入って新しく出来た友人の健司だと分かった。
「おう、おはよう。」
そういって僕は振り返った。朝の光が眩しく目に入る。
僕の笑顔は凍った。そこには、中沢美鈴と二人仲良く寄り添う健司の姿があった。きょとんとした顔をしていると、照れながら健司は言った。
「俺ら、実は付き合ってるんだよ。クラスのみんなにはナイショなっ!」
僕はぎこちない笑顔で、そうだったんだ・・・と答えた。
ショックだった。でも、仕方ないことだ。だぶん、僕は彼女のことを何も知らない、彼女は僕のことを何も知らない。声をかけれなかった自分が悪いんだ。そういって、笑った。
僕にとっての初めての失恋は、春の終わりの小さな事件だった。